ホクトきのこ栽培資材の供給から自社量産への転換と、消費地への生産センター開設
資材を売り続けるか、自ら作るか──売り先である農家が細るなかでの選択
- 概要
- 1989年、きのこ栽培用の資材を農家へ売ってきたホクト産業が、長野市の柳原きのこセンターと福岡県広川町の広川きのこセンターを相次いで開き、水野正幸社長の判断で自らきのこを量産する側へ回った経営判断。
- 背景
- 農地の宅地化で野菜の作付面積は60万ヘクタール割れ寸前まで減り、農家の高齢化と後継者不足で新規の栽培者も出てこなくなっていた。資材の売り先である農家の小規模な栽培をあてにしたままでは、売上を安定して伸ばせない状況にあった。
- 内容
- 1989年4月に柳原きのこセンター(エノキタケ)、5月に広川きのこセンターを開設。以後は新潟、富山、北海道、香川へ消費地立地を進め、長野から遠く鮮度で不利だった地域の需要を掘り起こした。研究所を増強して品種開発も自前で抱えた。
- 含意
- 資材の顧客であった農家と同じ売り場に並ぶ選択でもあった。1997年度にブナシメジで国内シェア26%のトップとなり、きのこ生産が売上の7割近くを占める主力へ入れ替わった。
資材の売り先と、同じ売り場に並ぶまで
栽培ビンを買っていた農家と、きのこそのものを並べる売り場で競う──1989年の量産着手は、ホクト産業をその位置へ動かした。水野正幸社長が量産の理由に挙げたのは農家の経営安定の手助けであり、顧客と競うという言葉は当時の記録に残っていない。それでも1997年度に26%のシェアを取った相手は、長野県を中心とした農協傘下のきのこ農家であった。資材を売る側が技術と資本を先に蓄え、売り先が細ったときにその技術を自分で使い始めた──後知恵で振り返れば、そう読める形になっている。
ただ、この移行を農家を押しのけた結果とだけみるのは正確ではない。野菜の作付面積が60万ヘクタールを割ろうとし、農林水産省が2000年に176万トンの野菜不足を見通していたなかで、後継者不足と高齢化はホクト産業の判断とは別に進んでいた。一方で、単品の量産で全国一に立った強さは、ブナシメジの需要が伸び続ける前提の上にあった。1998年に採算の悪化したエノキタケをエリンギへ切り替え、第二の柱の育成へ動いたことは、その危うさを同社自身が見ていたことを示している。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
資材を売る相手としての農家
ホクト産業は1964年7月に長野市で設立され、食品の包装資材を扱うかたわら、きのこ栽培用のポリプロピレン製ビンやコンテナ、収納棚といった資材を農家へ売ることで伸びた会社であった。人工栽培ビンによる生産農家は地元長野をはじめ新潟、九州、北海道へと年ごとに増え、同社はきのこ資材のトップメーカーとなった。1971年8月には試験的な栽培工場を開設し、翌年2月には北海道にナメコの栽培工場を設けた[1]。
自ら栽培に手を出したのは、きのこを売るためではなく資材を売るためであった。水野正幸社長は、開発した生産技術を農家へ提供して普及させれば、栽培用資材の売上増に結びつくと考えていた。1976年に「ホクトきのこの会」を設けたのも、1983年12月に本社近くへきのこ総合研究所を置いたのも、同じ狙いの延長にあった。技術は自社で蓄えるが、それを使ってきのこを作る主体はあくまで農家であるという分業が、この時期の前提であった[2]。
売り先である農家が細っていく
しかし、農家の小規模な栽培をあてにしていては、栽培用資材の売上を安定して伸ばせない。全国で農地の宅地化が進み、野菜の作付面積は60万ヘクタール割れ寸前まで減っていた。農林水産省の見通しでは、2000年には56万3000ヘクタールまで縮み、176万トンの野菜が不足するとされた。農業の人手不足も深刻さを増し、冷夏や長雨がなくとも10年足らずのうちに野菜不足が常態になる恐れがあった[3]。
資材部門そのものの伸びしろも限られていた。水野正幸社長は後年、きのこ生産用機器や栽培用ビン、コンテナ、収納棚などを扱う農業資材部門を年商20億円ほどと見積もり、農家の後継者不足と高齢化で新規の栽培者が出てこないため、このまま横ばいに推移するとみていた。売り先の戸数が増えないまま資材だけを売る形では、きのこの消費が伸びてもその伸びを取りにいく手立てが同社の側になかった[4]。
決断
天候に左右されない量産へ
きのこは空調設備のある部室で温度と湿度を管理しながらビンで育てるため、天候と無関係に大量生産ができる。水野正幸社長は、量産に踏み切れば農家の経営安定の手助けができ、将来性の高い事業になると判断し、きのこの量産に踏みきった。資材を拡販するための栽培から、きのこそのものを売るための栽培へ、試験工場以来蓄えてきた技術の使い道を変えたことになる。売る相手も、農家から市場や量販店へ移った[5]。
消費地に工場を置く
1989年4月、ホクト産業は長野市に柳原きのこセンターを設け、エノキタケの生産を始めた。同月には福岡県八女郡広川町へ九州営業所を新築移転し、翌5月、同じ広川町に広川きのこセンターを開設した。広川が当初手がけたのはエノキタケで、のちにブナシメジへ移った。1990年4月には長野県の更埴きのこセンターを栽培部門ごと譲り受け、同年6月には広川きのこセンターを増設した[7][8]。
工場の置き場所には理屈があった。ブナシメジは長野県の農家が生産の大半を占めて全国へ出荷していたため、長野から遠い地域ほど鮮度が落ち、需要も小さかった。ホクト産業は地元長野に加え、1989年の福岡を皮切りに新潟、富山、北海道、香川へと消費地立地を進めた。1991年4月に新潟県紫雲寺町、同6月に富山県八尾町へブナシメジ中心の工場を開き、新潟の工場は敷地約2万平方メートルの国内最大級であった。全工場がフル稼働すれば年間7000トン、長野県の生産量の1割近い能力になる計算であった[9][10]。
結果
生産量全国一と、それを支えた品種
量産の成果は数年で数字に出た。変則決算の1990年9月期と1991年3月期を合わせて年度換算した売上高85億8400万円のうち、きのこは2割弱にあたる16億円を占めた。工場の増設は続き、1993年4月には福岡県八女市に八女きのこセンターを開いた。1994年3月期にはエノキタケ、ブナシメジ、ナメコなどを8,178トン生産して全国一となり、1994年5月に新潟きのこセンター第二工場が完成すると、生産能力は日産35トンに達した[11][12]。
量産を支えたのは自前の品種であった。1986年4月に開発した純白系エノキタケ「ホクトM-50」は、光が当たっても根元から傘まで白いまま育つため暗い栽培室を要らなくし、1994年時点で年間500億円ほど栽培されるエノキタケのうち約8割が同社の菌によるものとなった。1991年3月には、日本のきのこ栽培研究で五指に入るとされた農学博士の山中勝次氏を奈良県林業試験場から招いて研究所長に据え、用地代を除く研究所への総投資額は6億5000万円に達した[13][14]。
シェア26%と、主力の入れ替わり
1997年度のブナシメジ生産量は年間1.8万トン、国内生産シェアは26%に達し、トップに立った。競合は長野県を中心とした農協傘下のきのこ農家であり、生産力でも資金力でも差は歴然としていた。きのこ生産は一種の装置産業で大量生産ほど効率がよく、水野正幸社長はコスト的に追随できるライバルはいないと述べている。1998年は秋から宮城の新工場が動き、生産量は約2.3万トン、シェアは30%以上へ広がる見通しであった[15]。
単品の量産は会社の主力を入れ替えた。単体売上高は1995年3月期の113億5700万円から1999年3月期の223億1200万円へ伸び、1999年3月期の販売実績はきのこ生産が152億2000万円で構成比68.2%を占めた。1994年11月に日本証券業協会へ株式を店頭登録し、1999年11月には東京証券取引所市場第一部へ上場した。ブナシメジ一品への依存を薄めるため、1998年からは採算の悪化したエノキタケをすべてエリンギへ切り替え、年産2200トンで首位を固めにかかった[16][17][18]。
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- 週刊東洋経済 1998年4月4日号
- 証券 2000年
- ホクト 有価証券報告書【沿革】