ホクト:デラップス商事の設立ときのこ栽培用ビンの製造
1964年〜新潟地震が生んだ割れないポリプロピレン製栽培ビン
1964年7月、長野県長野市大字箱清水にデラップス商事株式会社が設立され、一般包装資材の販売を開始した。扱ったのは食品包装資材、容器、包装機械で、これを量販店と食品工場へ売った。水野正幸氏は設立と同時に専務取締役に就任した。1968年には水野正幸氏が米国から持ち込んだ食品トレーの企画と開発に成功し、これを売り出した。フィルムやラップなどの包装資材とあわせ、長野県と新潟県の量販店と食品工場を売り先にした。得意先が食品業界であるため、この商いは景気の波を受けにくかった。デラップス商事は包装材を製造販売するかたわら、きのこ栽培に使うガラスビンも手がけた。
- ホクト 有価証券報告書【沿革】
- [1]1964年7月に長野県長野市大字箱清水においてデラップス商事株式会社を設立し一般包装資材の販売を開始した
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [2]発足当初は食品包装資材、容器、包装機械などを量販店・食品工場に販売していた
- [4]1968年に水野正幸がアメリカから持ち込んだ食品トレーの企画・開発に成功し販売を開始した
- [5]食品トレーはフィルムやラップなどの包装資材とともに長野県と新潟県の量販店・食品工場を対象として販売した
- [6]包装資材部門は得意先が食品業界なので景気の波を受けにくい
- ホクト 有価証券報告書【役員の状況】
- [3]水野正幸は1964年7月のデラップス商事株式会社設立時に専務取締役に就任した
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- [7]1964年の創業後、食品用包装材を製造販売しながらキノコ栽培用のガラスビンを手がけた
デラップス商事は包装材で身につけた成型技術を、ビンの生産に振り向けた。設立の前月にあたる1964年6月には新潟地震が起き、きのこ栽培農家のビンが大半割れていた。これを機に、同社は他社より早くポリプロピレン製の割れない栽培ビンを開発した。軽く割れないこのビンはきのこ業界に広く普及し、注文が急に増えたため、1968年4月に本社工場を置いてポリプロピレンビンを製造し始めた。同年6月には本社を長野県長野市南堀へ移し、10月に長野県松本市へ松本営業所を開設した。1970年6月には新潟県新潟市に新潟営業所を開設した。ビンの生産に続けて、各種の栽培用資材の販売へ扱いを広げた。
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- [8]包装材の成型技術を生かしてプラスチックビンを生産した
- [16]プラスチックビンの生産から各種栽培用資材の販売へと事業を拡大した
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [9]1964年6月に発生した新潟地震により、きのこ栽培農家のビンがほとんど破損した
- [10]新潟地震を契機に割れないポリプロピレン製のきのこ栽培ビンを他社に先駆けて開発した
- 証券 2000年1月号
- [11]1964年6月の新潟地震がきっかけで軽くて割れないプラスチックのきのこ用栽培ビンを開発し、きのこ業界に大きく貢献した
- ホクト 有価証券報告書【沿革】
- [12]1968年4月にきのこ栽培用のP.P.(ポリプロピレン)ビンの製造を開始した。受注の急増に伴い本社工場を設立した
- [13]1968年6月に長野県長野市大字南堀に本社を移転した
- [14]1968年10月に長野県松本市に松本営業所を設置した
- [15]1970年6月に新潟県新潟市に新潟営業所を設置した
1969年11月、設立時に専務取締役だった水野正幸氏が代表取締役社長に就任した。ビンに加え、デラップス商事はコンテナやキャップなど、栽培きのこの生産性と品質を高める資材を独自の発想で農家へ届け、きのこの生産効率を引き上げた。きのこは空調のきいた部屋で温度と湿度を管理し、ビンに詰めた培地で育てる方法で栽培され、長野県にはこの栽培を行う農家が多かった。人工栽培ビンを使う生産農家は地元の長野から新潟、九州、北海道へと毎年増えていった。それにつれてデラップス商事はきのこ資材のトップメーカーの座に就いた。
- ホクト 有価証券報告書【役員の状況】
- [17]水野正幸は1969年11月に当社代表取締役社長に就任した
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [18]コンテナやキャップなど独自の発想から栽培きのこの生産性・品質を向上させるための生産資材を農家に送り出したことにより、栽培きのこの生産効率が高まった
- [20]地元長野をはじめ新潟、九州、北海道と人工栽培ビンによる生産農家が年ごとに増加し、きのこ資材のトップメーカーとして発展した
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- [19]長野県にはキノコを栽培する農家が約4800戸あり、キノコは空調設備がある部屋で温度・湿度を管理しながらビンに入れて育てる
参考文献[1]-[20]
- ホクト 有価証券報告書【沿革】
- [1]1964年7月に長野県長野市大字箱清水においてデラップス商事株式会社を設立し一般包装資材の販売を開始した
- [12]1968年4月にきのこ栽培用のP.P.(ポリプロピレン)ビンの製造を開始した。受注の急増に伴い本社工場を設立した
- [13]1968年6月に長野県長野市大字南堀に本社を移転した
- [14]1968年10月に長野県松本市に松本営業所を設置した
- [15]1970年6月に新潟県新潟市に新潟営業所を設置した
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [2]発足当初は食品包装資材、容器、包装機械などを量販店・食品工場に販売していた
- [4]1968年に水野正幸がアメリカから持ち込んだ食品トレーの企画・開発に成功し販売を開始した
- [5]食品トレーはフィルムやラップなどの包装資材とともに長野県と新潟県の量販店・食品工場を対象として販売した
- [6]包装資材部門は得意先が食品業界なので景気の波を受けにくい
- [9]1964年6月に発生した新潟地震により、きのこ栽培農家のビンがほとんど破損した
- [10]新潟地震を契機に割れないポリプロピレン製のきのこ栽培ビンを他社に先駆けて開発した
- [18]コンテナやキャップなど独自の発想から栽培きのこの生産性・品質を向上させるための生産資材を農家に送り出したことにより、栽培きのこの生産効率が高まった
- [20]地元長野をはじめ新潟、九州、北海道と人工栽培ビンによる生産農家が年ごとに増加し、きのこ資材のトップメーカーとして発展した
- ホクト 有価証券報告書【役員の状況】
- [3]水野正幸は1964年7月のデラップス商事株式会社設立時に専務取締役に就任した
- [17]水野正幸は1969年11月に当社代表取締役社長に就任した
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- [7]1964年の創業後、食品用包装材を製造販売しながらキノコ栽培用のガラスビンを手がけた
- [8]包装材の成型技術を生かしてプラスチックビンを生産した
- [16]プラスチックビンの生産から各種栽培用資材の販売へと事業を拡大した
- [19]長野県にはキノコを栽培する農家が約4800戸あり、キノコは空調設備がある部屋で温度・湿度を管理しながらビンに入れて育てる
- 証券 2000年1月号
- [11]1964年6月の新潟地震がきっかけで軽くて割れないプラスチックのきのこ用栽培ビンを開発し、きのこ業界に大きく貢献した
1971年〜資材を販売するために自ら踏み出した試験栽培とホクト産業への改称
デラップス商事は1971年8月に試験的な栽培工場を開設し、自らきのこを育て始めた。翌1972年には長野県の本社工場でも栽培を始めた。売り先は栽培農家で、長野県にはきのこを育てる農家が約4800戸あった。きのこは空調設備のある部屋で温度と湿度を管理しながらビンに入れて育てるため、資材の出来がそのまま収量を左右した。水野正幸社長は、開発した生産技術を農家へ提供して普及させれば、栽培用資材の売上増に結びつくと考えていた。自ら育てることは製品を売るための事業ではなく、売り先の生産力を引き上げるための投資だった。
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [21]1971年8月に試験的栽培工場を開設した
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- [22]1972年に試験的に長野県の本社工場でキノコの栽培を開始した
- [23]長野県にはキノコを栽培する農家が約4800戸ある
- [24]キノコは空調設備がある部屋で温度・湿度をコントロールしながらビンに入れて育てる
- [25]開発した生産技術を農家に提供し普及させれば、栽培用資材の売り上げ増に結びつくと考えた
1972年2月、デラップス商事は商号をホクト産業へ変更した。同じ月には北海道にナメコの栽培工場を新設し、寒冷地での栽培にも手を伸ばした。設立から8年で、一般包装資材の販売を目的として付けた社名は消えた。もっとも包装資材の商いを畳んだわけではない。水野正幸社長が1968年にアメリカから持ち込んで開発した食品トレーは、フィルムやラップとともに長野県と新潟県の量販店と食品工場へ売られ続けた。得意先が食品業界であるため景気の波を受けにくく、この部門は年率5%から8%の伸びを保って、1994年の時点でも総売上高の3割ほどを占めた。
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [26]1972年2月に社名をデラップス商事からホクト産業株式会社に変更した
- [27]1972年2月に北海道にナメコ栽培工場を新設した
- [29]食品トレーはフィルムやラップなどの包装資材とともに長野県と新潟県の量販店・食品工場を対象として販売した
- [30]包装資材部門は得意先が食品業界なので景気の波を受けにくく、年率5%から8%の伸びを続けて総売上高の3割ほどを占めている
- ホクト 有価証券報告書【沿革】
- [28]1964年7月に一般包装資材の販売を目的としてデラップス商事株式会社を設立した
農業資材部門が担ったのは、きのこの種類ごとに違う資材を最適な形で揃えることだった。ブナシメジにはブナシメジに最も適したビンを、エノキダケやナメコにはそれぞれ違うビンを使う必要があり、ビンの大きさと幅が変われば、収容する棚も変わる。ホクト産業はきのこ生産用機器、栽培用ビン、コンテナ、収納棚、ユニットのほか、果実用コンテナまでを品目に並べた。自社製品を売るだけでなく、低コストと効率的な生産をどう実現するかまで栽培者へ指導した。1994年の時点で、この部門の年商は20億円ほどだった。種類ごとに資材を作り分ける手間は、指導する立場を得ることで回収された。
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [31]栽培に必要な最適の資材を供給するのが農業資材部門である
- [32]ブナシメジにはブナシメジに最も適したビンを、エノキダケ、ナメコには各々違うビンを使用する必要があり、ビンの大きさ・幅が違えばそれを収容する棚も違ってくる
- [33]農業資材部門はきのこ生産用機器、栽培用ビン、コンテナ、収納棚、ユニットのほか果実用コンテナなどを取り扱っている
- [34]自社製品を販売するだけでなく低コストと効率的生産の実現について指導的な役割を担っている
- [35]農業資材部門は1994年時点で年商20億円ぐらいである
参考文献[21]-[35]
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [21]1971年8月に試験的栽培工場を開設した
- [26]1972年2月に社名をデラップス商事からホクト産業株式会社に変更した
- [27]1972年2月に北海道にナメコ栽培工場を新設した
- [29]食品トレーはフィルムやラップなどの包装資材とともに長野県と新潟県の量販店・食品工場を対象として販売した
- [30]包装資材部門は得意先が食品業界なので景気の波を受けにくく、年率5%から8%の伸びを続けて総売上高の3割ほどを占めている
- [31]栽培に必要な最適の資材を供給するのが農業資材部門である
- [32]ブナシメジにはブナシメジに最も適したビンを、エノキダケ、ナメコには各々違うビンを使用する必要があり、ビンの大きさ・幅が違えばそれを収容する棚も違ってくる
- [33]農業資材部門はきのこ生産用機器、栽培用ビン、コンテナ、収納棚、ユニットのほか果実用コンテナなどを取り扱っている
- [34]自社製品を販売するだけでなく低コストと効率的生産の実現について指導的な役割を担っている
- [35]農業資材部門は1994年時点で年商20億円ぐらいである
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- [22]1972年に試験的に長野県の本社工場でキノコの栽培を開始した
- [23]長野県にはキノコを栽培する農家が約4800戸ある
- [24]キノコは空調設備がある部屋で温度・湿度をコントロールしながらビンに入れて育てる
- [25]開発した生産技術を農家に提供し普及させれば、栽培用資材の売り上げ増に結びつくと考えた
- ホクト 有価証券報告書【沿革】
- [28]1964年7月に一般包装資材の販売を目的としてデラップス商事株式会社を設立した
1983年〜民間初のきのこ総合研究所と、純白のエノキタケが変えた菌の販売方法
新品種の開発と品種の改良、それに生産技術の確立を、研究所はバイオテクノロジーの技術を用いて進めた。ホクト産業がこの研究所を置いたのは1983年12月で、場所は長野市の本社の近くである。きのこ総合研究所としては、民間のきのこ企業で初めての例だった。開発した生産技術を農家に提供して広めるという方針は、1976年に設けたホクトきのこの会と共通しており、研究所はその延長線上にあった。きのこの菌は技術で支えなければ老化し、活力を失って収量が落ち、形も悪くなる。それまで農家へ売っていたのはビンやコンテナといった器具であって、栽培の中身そのものではなかった。研究所は以後、数多くの実用品種を世に出していく。菌を自ら作るという選択は、資材の売り手が栽培の成否まで引き受ける立場へ移ることだった。
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [36]きのこ総合研究所ではバイオテクノロジーの技術を活用して新品種の開発、品種の改良、生産技術の確立に努めた
- [37]1983年12月に民間きのこ企業では最初の「きのこ総合研究所」を長野市に設置した
- [41]バイオテクノロジーの技術がなければきのこの菌は老化し、活力がなくなって収量が下がり形も悪くなる
- [42]農業資材部門はきのこ生産用機器、栽培用ビン、コンテナ、収納棚、ユニットなどを取り扱っている
- [43]きのこ総合研究所では1994年までに数多くの実用品種等を開発している
- ホクト 有価証券報告書【沿革】
- [38]1983年12月にきのこ総合研究所を長野県長野市に設置した
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- [39]1983年に本社近くに「きのこ総合研究所」を設置した
- [40]1976年に「ホクトきのこの会」を設立した
1986年4月、ホクト産業はエノキタケの新品種ホクトM-50を開発した。それまでのエノキタケは薄いクリーム色か黄色がかっており、光に当たると色がさらに深まった。そのため農家は暗い栽培室を欠かせなかったが、新品種は明るい所で育てても株全体が白いまま保たれ、暗室が要らなくなった。実用化された純白色の品種として日本で最初の第1号、純白系エノキダケでは世界初の開発にあたり、栽培設備に課す条件が一つ減ったことで、農家の投資額を左右する要素は菌そのものに移った。翌1987年には、サラダ用の純白エノキタケであるホクトM-70も開発されている。
- ホクト 有価証券報告書【沿革】
- [44]1986年4月にえのきたけ新品種「ホクトM-50」を開発した
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [45]従来のエノキタケは淡いクリーム色から黄色に着色し、光があたるとさらに色が濃くなった
- [47]「ホクトM-50」は純白色の実用品種の第1号で日本で最初に開発されたエノキタケである
- [49]1987年に開発した「ホクトM-70」はサラダ用の純白エノキタケである
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- [46]「ホクトM-50」は明るい場所でも全体が真っ白なまま育つので暗い栽培室が不要という利点がある
- [48]1986年に世界初の純白系エノキダケ「ホクトM-50」を開発した
1994年当時、エノキタケの栽培額は年に500億円ほどに上り、うち約8割でホクト産業の菌が使われていた。背景には、業界の目を引いたホクトM-50の農家への普及があった。農家は同社から菌を受け取り、あわせてビンと棚も同社から購入したが、この仕組みでは顧客となる農家の規模がそのまま売上の上限になった。長野県には約4800戸の栽培農家があったものの、一戸ごとの規模は小さく、資材販売を安定的に拡大させるには不足していた。県全体のきのこ生産量は1990年に9万1270トンと全国のおよそ3割を占め、エノキダケでは6割強に達したが、それを担っていたのは小規模な農家の集まりである。全国的に農地の宅地化が進み、野菜の作付面積も年々減っていた。菌という最上流を握っても、需要の大きさを決めるのは農家の設備投資だった。
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [50]エノキタケは1994年時点で年間500億円ほど栽培されており、その約8割がホクト産業の菌を使ったものである
- [52]独自の発想から栽培きのこの生産性・品質を向上させるための生産資材を農家に送り出した
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- [51]「ホクトM-50」は業界の注目を集めた
- [53]農家の小規模な栽培をあてにしていたのでは栽培用資材の売り上げを安定的に伸ばせない
- [54]長野県にはキノコを栽培する農家が約4800戸ある
- [55]長野県の1990年のきのこ生産量は9万1270トンで全国シェアの約3割を占めた
- [56]長野県のエノキダケの生産は全国の6割強を占める
- [57]全国的に農地の宅地化が進んで野菜の作付面積は年々減少している
参考文献[36]-[57]
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- [36]きのこ総合研究所ではバイオテクノロジーの技術を活用して新品種の開発、品種の改良、生産技術の確立に努めた
- [37]1983年12月に民間きのこ企業では最初の「きのこ総合研究所」を長野市に設置した
- [41]バイオテクノロジーの技術がなければきのこの菌は老化し、活力がなくなって収量が下がり形も悪くなる
- [42]農業資材部門はきのこ生産用機器、栽培用ビン、コンテナ、収納棚、ユニットなどを取り扱っている
- [43]きのこ総合研究所では1994年までに数多くの実用品種等を開発している
- [45]従来のエノキタケは淡いクリーム色から黄色に着色し、光があたるとさらに色が濃くなった
- [47]「ホクトM-50」は純白色の実用品種の第1号で日本で最初に開発されたエノキタケである
- [49]1987年に開発した「ホクトM-70」はサラダ用の純白エノキタケである
- [50]エノキタケは1994年時点で年間500億円ほど栽培されており、その約8割がホクト産業の菌を使ったものである
- [52]独自の発想から栽培きのこの生産性・品質を向上させるための生産資材を農家に送り出した
- ホクト 有価証券報告書【沿革】
- [38]1983年12月にきのこ総合研究所を長野県長野市に設置した
- [44]1986年4月にえのきたけ新品種「ホクトM-50」を開発した
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- [39]1983年に本社近くに「きのこ総合研究所」を設置した
- [40]1976年に「ホクトきのこの会」を設立した
- [46]「ホクトM-50」は明るい場所でも全体が真っ白なまま育つので暗い栽培室が不要という利点がある
- [48]1986年に世界初の純白系エノキダケ「ホクトM-50」を開発した
- [51]「ホクトM-50」は業界の注目を集めた
- [53]農家の小規模な栽培をあてにしていたのでは栽培用資材の売り上げを安定的に伸ばせない
- [54]長野県にはキノコを栽培する農家が約4800戸ある
- [55]長野県の1990年のきのこ生産量は9万1270トンで全国シェアの約3割を占めた
- [56]長野県のエノキダケの生産は全国の6割強を占める
- [57]全国的に農地の宅地化が進んで野菜の作付面積は年々減少している
筆者考察
デラップス商事にとって、自分できのこを育てることは事業の多角化ではなく、資材を売るための投資だった。1964年の新潟地震で栽培農家のガラスビンが割れたあと、包装材の成型技術を転用して作ったポリプロピレン製の栽培ビンは、農家の設備を握る商品になった。だがビンも、コンテナも、収納棚も、買い手である農家が増産しなければ売れない。長野県に約4800戸あった栽培農家の収量が上がらなければ、資材の需要はそこで止まる。1971年に試験栽培へ踏み出した理由は、売り先の生産力そのものを引き上げることにあった。
品種の開発も同じ線の上にある。1983年に民間のきのこ企業として最初のきのこ総合研究所を置き、1986年に純白のエノキタケ、ホクトM-50を実用化したとき、ホクト産業が農家へ渡したのは種菌という資材だった。光が当たっても白いまま育つ菌は、暗い栽培室という設備条件を農家から取り除き、栽培に要る投資を軽くした。菌が良くなれば収量が増え、収量が増えればビンも棚も売れる。資材と菌を同じ農家へ売るこの構造は、しかし一戸あたりの規模が小さいままでは伸びしろも小さいという弱点を、初めから抱えていた。
出典・参考
5件
- ホクト 有価証券報告書【沿革】
- ホクト 有価証券報告書【役員の状況】
- 日経ビジネス 1991年11月11日号
- 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
- 証券 2000年1月号