ABCマート韓国での生産委託とライセンス取得によるカジュアルシューズのSPA化
欧米ブランドの販売権を売り歩く輸入卸のままでいるか、企画と生産まで自社で握るか
- 概要
- 1990年2月、欧米カジュアルブランドの輸入卸だったインターナショナル・トレーディング・コーポレーション(ITC)が、韓国での靴の生産委託を始めた。翌1991年6月には英G.T.HAWKINS LIMITED社からライセンス生産の権利を取得し、企画・生産・販売を自社で握る製造小売(SPA)の体制へ移した経営判断。
- 背景
- 創業から数年で「ホーキンス」「コスビー」など複数の欧米ブランドの国内独占販売権を集めたものの、卸売の利益は仕入れ値と為替に規定される。1990年3月期の経常利益は1億円にとどまり、販売権を束ねるだけでは利益が積み上がらなかった。
- 内容
- 日本に近く工賃の安い韓国の工場へ生産を委託し、ブランド側からは商標使用権に加えてライセンス生産の権利を得た。1995年3月には「G.T.HAWKINS」の商標権そのものを買収し、代理店からブランド所有者へ移った。
- 含意
- 中間の商社機能を自社に取り込んだ結果、1993年にはホーキンスの店頭価格を3割下げながら利益率24%を保った。輸入卸で培った商品調達の技術は、のちの小売専業への転換後もプライベートブランドの土台として残った。
権利を借りる側から、作る側へ
この決断の中心にあるのは、輸入卸という商売の利益がどこで決まっているのかという問いである。海外で無名のブランドを見つけて独占販売権を押さえる商法は、見つけた者の目利きが利益になる。しかし権利を握っても、作る場所と原価を決めているのは相手側であり、円高が来れば粗利は削られる。三木氏が韓国の工場へ発注を移し、ライセンス生産の権利を買い、最後には商標そのものを取得したのは、他社に預けたままの部分を一つずつ手元へ引き取っていく作業であったとみられる。
もっとも、垂直統合は万能ではなかった。作る力と売る力が一つのブランドへ集中した結果、ホーキンスのブームが去ると業績は同じだけ落ちた。会社はその後、売場を自社で持つ小売業へ転じ、複数のブランドと自社企画を並べる構えへ移っていく。1990年の判断が残したものは特定ブランドの成功ではなく、どこで誰にいくらで作らせるかを自社で決められる会社になったという条件であった。40年近く経った今も、その条件が同社の粗利率を支えているとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
独占販売権を束ねる輸入卸として出発した
1985年6月、三木正浩氏は靴と衣料の輸入販売を目的に株式会社国際貿易商事を設立した。資本金は20百万円、本社は東京都新宿区早稲田に置いた。翌1986年にはロンドンで流行していた革靴「ホーキンス」の国内独占販売権を取得し、1987年7月には商号をインターナショナル・トレーディング・コーポレーション(ITC)へ改め、米GERRY COSBY & CO.,INC.社と「COSBY」の国内商標使用権・独占販売権契約を結んだ。海外で売れているが日本では無名という段階のブランドを、権利ごと押さえる商法であった[1][2]。
権利の集積は売上に直結した。全社売上高はFY1987の25億円からFY1990の47億円へ、4年で約1.9倍に伸びた。1991年1月には米VANS,INC.社と「VANS」の国内独占販売権契約も結び、扱うブランドの数はさらに増えた。競合が同じ商品を仕入れられないという排他性が、この時期のITCの商売を支えていた[3][4]。
販売権を持っていても価格は決められない
ところが、売上の伸びに比べて利益の積み上がりは鈍かった。1990年3月期の単体売上高は34億円、経常利益は1億円にとどまる。輸入卸の粗利は仕入れ値と為替相場に規定され、値付けの自由度は乏しい。ブランドの権利を握っていても、その靴をどこでいくらで作るかを決めているのは海外のメーカーであり、円高や現地の工賃の変動がそのまま原価に跳ね返る構造にあった[5]。
商材の構成にも偏りがあった。FY1991の内訳では、コスビーが9億円、ホーキンスが10億円、その他の靴が14億円に対し、衣料品・雑貨が41億円を占める。靴の専業とは言いがたい構成で、しかもどのブランドも流行が去れば入れ替わる。複数の権利を束ねる仕組みは流行の変動には強かったものの、一つひとつの商品で稼ぐ厚みには欠けていた[6]。
決断
韓国の工場へ生産を委託する
1990年2月、三木氏は韓国での靴の生産委託に着手した。欧米ブランドの本来の生産地を離れ、日本に近く工賃の安い韓国へ発注先を移す選択であった。同じ月に上野アメ横と渋谷で小売4店舗を開いており、川上の生産と川下の売場に同時に手を伸ばした時期にあたる。輸入した完成品を問屋へ流すだけの商売から、どこで何足作るかを自社で決める商売への切り替えであった[7][8]。
生産の受け皿だけでは足りない。作る権利がなければ、委託工場に発注できるのは部材の調達や梱包までにとどまる。1991年6月、ITCは英G.T.HAWKINS LIMITED社から「G.T.HAWKINS」のライセンス生産の権利を取得した。国内での独占販売権に生産権が重なり、企画・生産・販売の三つを自社の管理下に置く条件が揃った。1994年6月には米VANS,INC.社とも国内商標使用権契約を結び、同じ形を二つ目の主力ブランドへ広げた[9]。
三割下げても利益率は落とさない
生産を自社の管理下へ移した効果は、値付けに現れた。1993年、ITCはホーキンスの販売価格を30%下げながら、利益率24%を保った。輸入商社と国内問屋の取り分が消え、その分を価格の引き下げと自社の粗利へ振り向けられたためであった。安く売るために品質を落とすのでも、ブランドの格を下げるのでもなく、流通の途中にあった費用を自社に取り込んで両立させる算段であった[10]。
1995年3月には、ライセンスを借りる立場からもう一歩進み、G.T.HAWKINS LIMITED社から「G.T.HAWKINS」の商標権そのものを買収した。国内総代理店、ライセンス生産権、商標権と、9年をかけて権利の段を上がり、他社から借りた看板を自社の資産へ変えた。カジュアルシューズで企画から生産、値付けまでを一社で完結させる会社は、当時の日本の靴業界では例が少なかった[11]。
結果
売上は6年で5.7倍、そして頭を打つ
数字の伸び方は転換の前後で変わった。単体売上高はFY1990の47億円からFY1992に130億円、FY1996には268億円へと6年で5.7倍に膨らんだ。1992年3月期の経常利益は18億円で、2年前の1億円から一桁上がっている。従業員も57名から150名へ増えた。生産と価格を自社で握った効果は、卸売業のままでは届かなかった水準の利益として表に出た[12][13]。
もっとも、SPA化はホーキンス一本への依存を深めもした。1995年11月に木村拓哉氏を起用したテレビ広告へ40億円を投じるとブームは頂点に達し、その後の需要は急速にしぼんだ。単体売上はFY1998に177億円まで縮んでいる。作る力と売る力を自社に集めたことが、一つのブランドの寿命に会社全体の業績が連動する構造も同時に作り出した。この経験が、売場を自社で持って需要を平準化する小売業への転換を促す材料となった[14][15]。
輸入商社であった時代の技術が残った
2017年、社長の野口実氏は仕入れについて「輸入商社だった頃のノウハウを生かし、自社調達による中間コスト削減や、生産効率化によるリーズナブルな商品開発を意識している」と語っている。1990年代に韓国の工場と向き合って覚えた発注と原価の技術は、小売専業になった後もプライベートブランドの商品開発として残った。転換の産物は、店舗網でも売上高でもなく、この調達の技術であったとみることができる[16]。
この技術は、2020年代に入って別の意味を帯びた。米ナイキや独アディダスが消費者への直接販売を強め、卸す小売店を選別し始めたためである。ナイキの直販比率は2013年の18.9%から2022年5月期に42.1%へ上がり、仕入れの品揃えだけで戦ってきた靴小売各社は打撃を受けた。エービーシー・マートは大手ブランドとの取引を保ちつつ、ヴァンズやホーキンスといった自社ブランドで大手が埋めない需要を補う構えを取った。1990年代に生産の権利まで取りにいった判断が、30年後の仕入れ環境の変化に対する備えとして働いたとみられる[17][18]。
- 矢野経済研究所 ヤノ・ニュース 1993年9月
- 戦略経営者 2000年7月号
- エービーシー・マート 有価証券報告書【沿革】
- エービーシー・マート DATA BOOK 2001
- 週刊東洋経済 2017年1月14日号「この人に聞く エービーシー・マート 社長 野口 実 新規客獲得が増益の秘訣 売れ筋は現場で見極める」
- 週刊東洋経済 2022年7月23日号「ナイキの「選別」で激震 靴小売りを揺さぶる地殻変動」