製造物流小売(SPA)への転換と海外自社生産
1994年実施部品輸入から完成品生産へ——インドネシア・ベトナムに自社工場を持ち、円高メリットで低価格と粗利改善を両立させた判断
- 概要
- 1994年10月、ニトリはインドネシアに現地生産法人を設け、翌1995年夏から箱物家具を一貫生産して直接輸入した。部品輸入から完成品の自社生産へ進み、2004年にはベトナムへ生産を集約した。製造・物流・小売を自社で握る製造物流小売(SPA)への転換により、円高メリットを取り込んで低価格と粗利改善を両立させた。
- 背景
- メーカーからの直接仕入れで低価格を実現してきたニトリも、国内の製造コスト高と円高の進行に直面した。1985年のプラザ合意後の円高は海外調達を有利にし、ニトリは家具の部品を東南アジアで作って国内で組み立てる段階的な海外生産をすでに進めていた。次の課題は、完成品そのものを海外の自社工場で作ることだった。
- 内容
- 売上100億円規模の家具小売が自社工場を持つのは当時としては異例だった。インドネシア工場は無断欠勤やストライキで難航し、ニトリは出資比率を100%へ引き上げて直接管理へ切り替えた。この教訓から2004年のベトナム工場は当初から完全子会社とし、東南アジアの生産をベトナムに集約した。似鳥は事業の実態を「製造5割・物流2割・小売3割」と語った。
- 含意
- 自社の海外工場から直接仕入れる体制は、商社や卸を介さずに価格を自在に決める余地を生んだ。円高に振れるほど円建てコストが下がるこの構造が、2008年の値下げ宣言や36期連続増収増益を支えた。半面、円安に転じれば仕入れコストが膨らむ弱点も抱え、2020年代の円安期に重荷となった。
円高が磨いた強みと、円安という裏面
この判断の核心は、小売業でありながら「作る」領域まで自社で抱え込んだ点にある。売上100億〜200億円規模で家具工場を持つのは当時の常識では過大な投資であり、インドネシアでの無断欠勤やストライキという授業料も払った。それでもニトリは撤退せず、完全子会社による直接管理へ切り替え、ベトナムへ集約して製造・物流・小売を一本の流れにまとめ上げた。商社や卸を通さずに完成品を調達できる体制が、値下げを続けても利益を確保できる価格競争力を生んだ。
もっとも、この強みは円高という為替環境と表裏の関係にあった。海外で作って円建てで売るモデルは、円高のときは仕入れコストが下がって競争力の源泉となるが、円安のときは同じ経路が逆に働き、仕入れコストの増大がそのまま利益を圧迫する。2020年代の円安で会社計画の前提が外れると、SPAの低コスト構造は逆回転し、36期続いた連続増収増益は途絶えた。円高が磨いた強みは、為替の追い風をどこまで自力の強みへ変えられるかという課題を、同時に抱えている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
直接仕入れの次に見据えた「作る」領域
ニトリの低価格は、問屋を通さずメーカーへ直接発注し、買い取りを前提に独自仕様の商品を作らせる仕入れ手法から生まれた。1990年代前半のニトリは百貨店のほぼ半値、家具専門チェーンの通常価格より3〜5割安い価格を掲げ、北海道で売上首位、全国でも8位まで伸びていた。だが国内メーカーへの発注だけでは、価格を下げる余地に限りがあった[1]。
円高が背中を押した。1985年のプラザ合意後に進んだ円高は、海外での部品調達や完成品の輸入を価格面で有利にした。ニトリは1986年にマルミツ木工と提携して東南アジアで家具部品を作らせ、国内で組み立てる段階的な海外生産を進め、1989年にはシンガポールに検品拠点を設けて品質管理の体制を整えた。似鳥は円高を一時的な変動ではなく構造的なものと見ていた[2]。
決断
部品から「完成品」へ——インドネシアの一貫生産
1994年10月、ニトリはインドネシアに生産現地法人を設立した。それまでの海外生産は部品レベルにとどまり、国内で組み立てていたが、この夏から箱物家具はすべてインドネシアでの一貫生産に切り替えた。1995年9月中旬から、より低価格の完成品を国内で売り出した。当初は月産3000点、11月から2交代制で生産量を2倍に上げる計画で、販売価格を少なくとも1割以上安くする狙いだった。「箱物の家具はいずれなくなる」と社員に説く似鳥は、完成品の自社生産で商品と価格の両方を握ろうとした[3]。
完成品の海外生産は、値段のつけ方を根本から変える試みだった。似鳥は「2割下げても客数4割増になれば利益が出る」という考えで値下げを繰り返し、実際に前年は客単価が7%下がっても客数は14%伸びた。自社工場から直接仕入れれば、この値下げ余力をさらに広げられる。売上200億円台の家具小売が自前の海外工場を持つ判断は、当時の業界の常識から外れていた[4]。
だが海外の自社生産は容易ではなかった。旭川近郊の家具メーカー、マルミツ木工を通じて設けたインドネシア工場は、無断欠勤やストライキで計画通りに動かず、品質も安定しなかった。似鳥は工場を回して信賞必罰の管理を敷き、向上できなければ工場は閉鎖・撤退だと迫った。間接運営では品質も生産性も維持できないと見たニトリは、出資比率を100%へ引き上げて直接管理に切り替えた[5]。
結果
ベトナム集約とSPAの完成
インドネシアの教訓は次の拠点の設計に反映された。2004年9月、ニトリは完全子会社を通じてベトナムでの現地生産を始め、当初から直接管理の体制を敷いた。ベトナム工場は人員の大量採用で拡大し、2020年度末には従業員約9000名を抱える主力生産拠点へ育った。2017年にはインドネシア工場の操業を止め、東南アジアの家具生産をベトナムへ集約した。海外工場で作り、海外の物流拠点で集約し、国内店舗へ運ぶ流れが整い、製造から物流、販売までを自社で一貫管理するSPAが形になった[6]。
似鳥はニトリの本質を製造業と物流業に置いた。事業の割合を「製造5割・物流2割・小売3割」と語り、自社で製造と物流を握るからこそ仕入れコストを抑え、価格をニトリ主導で決められると説いた。この体制が、2008年12月に始めた値下げ宣言と、翌2009年のリーマンショック下での値下げを可能にした。円高に振れるほど海外生産品の円建てコストが下がる構造は、36期連続増収増益を支える価格競争力の根幹となった[7]。
SPAへの転換は数字にも表れた。連結売上高は2004年2月期の1087億円から2020年2月期の6422億円、2022年2月期の8115億円へと伸び、営業利益率も1割を超える水準を保った。海外自社生産と独自物流によるコスト構造は、家具・インテリア市場で国内最大手の地位を固める原動力となった[8]。
- 日経ビジネス 1995年9月11日号「ニトリ 家具安売り多店舗展開 インドネシアに生産拠点」(日経BP社)
- 日経流通新聞(1994年6月18日)「ニトリ社長似鳥昭雄氏(下)」
- 日本経済新聞「私の履歴書」(2015年4月25日)似鳥昭雄「インドネシア」
- SC Japan Today(2009年9月)似鳥昭雄 講演
- ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
- ニトリ 有価証券報告書(連結)