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アメリカ流チェーンストア構想と「ロマン」の設定

1972年実施

渡米で見た「価格3分の1」の衝撃を、60年がかりの長期目標に変えた出発点

時期 1972年3月
意思決定者 似鳥昭雄(社長)
論点 低価格と多店舗を両立させる長期ビジョンの設定
概要
1972年3月に株式会社似鳥家具卸センターを設立した似鳥昭雄社長は、同年の渡米視察でアメリカの家具が日本の3分の1の価格で並ぶ現実を見た。安売りを徹底するには多店舗のチェーンストアしかないと確信し、日本の住まいをアメリカ並みに豊かにするという長期目標を掲げた。この構想が、のちの札幌ドミナント出店・海外生産・製造物流小売(SPA)へと連なる判断を方向づけた。
背景
1967年に札幌で創業した似鳥家具店は、問屋に取引を断られ零細メーカーを回って仕入れる小規模な家具店だった。1971年に開いた大型2号店の近くに競合が進出して銀行融資が凍結し、資金繰りに追われた。単独の仕入れ力では価格も規模も広げられないという壁に直面していた。
内容
1972年春の渡米で、似鳥社長は500店・1000店という規模のチェーンが大量仕入れと海外調達で日本の3分の1以下の価格を実現する姿を見た。帰国後、チェーンストア理論を説く渥美俊一氏に学び、「3年で100店・1000億円」という数値目標と「アメリカに追いつく」というロマンを掲げて、多店舗化と低価格の両立を事業の目標に据えた。
含意
この長期目標は、札幌でのドミナント出店、東南アジアでの生産、SPAへの転換という以後の判断を貫く指針となった。売上1億円台の零細家具店が掲げた構想は、のちに売上1兆円に迫る企業へ育つ設計図となった。半面、円高とアジアの低賃金という前提に依存する成長モデルも同時に抱え込み、その前提は2020年代の円安で崩れた。
筆者の見解

「ロマン」が敷いた線路と、その前提

この判断の核心は、目の前の資金繰りに追われる零細家具店が、渡米で得た着想を「60年でアメリカに追いつく」という半世紀単位の目標へ翻訳した点にある。多店舗化・低価格・海外調達という三つの要素は、いずれも1972年の渡米視察で一度に目にした光景から導かれ、以後のニトリはその線路の上を走り続けた。数値目標を額に入れて掲げ、そこから逆算して手を打つ経営手法は、後任へも受け継がれた。

もっとも、「アメリカに追いつく」という構想は、円高とアジアの低賃金という為替・コストの前提の上に成り立っていた。日本の3分の1の価格は、海外で安く作って円高で安く運び込む条件がそろって初めて実現する目標である。2020年代の円安でその前提が崩れると、36期続いた連続増収増益は途絶えた。半世紀を貫いたロマンは、時代の追い風をどこまで自力の強みに変えられるかという問いを、次の世代に残している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

問屋に断られた零細家具店の壁

1967年、似鳥昭雄は札幌で家具店を創業した。多くの家具店が問屋から商品を仕入れるなか、新参の似鳥家具店は問屋に取引を断られ、零細メーカーを一軒ずつ回って頭を下げ、直接仕入れる道を選んだ。買い取りを前提に独自仕様の商品をメーカーへ直接発注する手法で破格の売値を実現したが、家具店や問屋からの妨害は激しかった[1]

1971年6月、似鳥社長は札幌市東区に売り場面積250坪の大型2号店を開いた。ところが近くに1000坪の大型店が進出して打撃を受け、資金繰りのために銀行を渡り歩く危機に陥った。単独の仕入れ力と一店舗ずつの拡大では、価格でも規模でも競合に飲み込まれかねないという壁が、目の前にあった[2]

決断

渡米で見た「500店・1000店」の低価格

転機は2号店開業の翌年、1972年春に訪れた。米国視察の話が舞い込み、似鳥社長は1週間ほど滞在して現地の大規模家具・インテリアチェーンを訪れた。500店・1000店という規模のチェーンが、メーカーからの大量仕入れや海外調達によって日本の3分の1以下の価格を実現していた。安売りを徹底するには多店舗のチェーンストアしかない——似鳥社長はそう確信した。帰国後、1973年6月に3号店の麻生店を開き、毎年1店のペースで店を増やしていった[3]

渡米で得た着想は、チェーンストア理論との出会いで方法論へ変わった。似鳥社長は旭川のメーカーを回るなかで、ある会社の応接室に1冊だけ置かれていた渥美俊一氏の著作に出合った。「5店舗以上になると社長の目が届かなくなって倒産する」という当時の常識に対し、渥美氏は「最低11店舗なきゃチェーンストアじゃない」と説いた。似鳥社長は1978年に渥美氏が主宰するペガサスクラブに入り、標準化した多店舗経営を学んだ[4]

似鳥社長は数値目標をロマンと結びつけて掲げた。アメリカの豊かな暮らしを日本で実現するには、所得を3倍にはできないが価格を3分の1にはできる、と考え、「アメリカに追いつき、追い越す」ことを60年がかりの目標に据えた。多店舗化と低価格は、単なる商売の手段ではなく、日本人の暮らしを豊かにするという使命の手段だった[5]

結果

構想が規定した半世紀の成長

1972年の構想は、以後の判断を貫く目標として機能した。ニトリは1978年に札幌市内へ集中出店するドミナント戦略を採り、物流センターを先行整備して配送効率を高めた。北海道で地盤を固めたのち1993年に本州へ出店し、低価格・大量出店のモデルを全国へ広げた。渡米で見た「日本の3分の1」という水準は、以後の商品づくりと価格設定の到達目標であり続けた[6]

到達目標は数字として現れた。零細家具店から出発したニトリは、海外生産と独自物流に支えられて長期の増収増益を重ね、1988年以降36期にわたって連続増収増益を記録した。日本の上場企業でも際立つ成長記録であり、渡米視察で掲げた「アメリカに追いつく」という構想は、家具・インテリア市場で国内最大手となる形で実を結んだ[7]

出典・参考