竹内製作所OEM供給依存から竹内ブランドでの直接販売への転換

他社の名で売るか、自らの名で売るか——販売網を持たない世界初のメーカーが選んだ道

時期 1978年1月
意思決定者(推定) 竹内明雄 社長
論点 販路とブランド
概要
世界で初めてミニショベルを製品化しながら自前の販売網を持たなかった竹内製作所が、ヤンマーディーゼル・石川島播磨重工業・トーメンなどへの相手先ブランド供給への依存をやめ、竹内ブランドでの直接販売へ転じた判断。国内で名が通らないため、1978年1月に輸出を始めて主軸を海外へ移した。
背景
1971年9月にミニショベルを世界で初めて製品化したが、販売網がなく量産の受け皿をOEM供給に求めた。供給先は順に自社生産へ回り、取引は先細った。相手先の名で出る限り竹内の名は市場に残らず、生産計画の主導権も取引先が握っていた。
内容
竹内ブランドでの自力販売に転じたものの、国内では「竹内なんて聞いたこともない」と後発扱いされた。そこで販売の主軸を輸出へ移し、1978年1月に輸出を開始。信用状決済で代金の焦げ付きを避け、1国1ディーラーの原則で販売店と深く組んだ。
含意
竹内ブランドは国内より先に欧州で通った。狭い現場向けの小型機は古い建物を改装する欧州の工事に合い、輸出比率は1998年に約85%へ達した。他社の名で量を稼ぐ会社から、自らの名で売る会社への転換であった。
筆者の見解

売る力を持たない技術は、誰の名で世に出るか

この判断の核心は、技術で先んじた会社が、売る力を他社から借り続けるかどうかにあったとみることができる。世界で初めて作った製品を、相手先の名で出している限り、量は稼げても市場での評価は他社に積み上がる。供給先が自ら作り始めればその量も消える。竹内製作所が受けた「竹内なんて聞いたこともない」という反応は、開発の先行と市場での認知が別のものであることを、当事者にもっとも痛い形で示したといえる。

もっとも、選ばれた道は正面突破ではなかった。国内でブランドを育てる代わりに、名の通用しない市場そのものを外し、狭い現場の工事が多い欧州へ主軸を移した。自社の製品が生きる使われ方を探して市場のほうを選び直した判断であり、これが後年の高い輸出比率と、その裏返しとしての海外景気への感応度を同時に用意したとみられる。技術を持つ中小企業が、誰の名で世に出るかをどこで決めるか——竹内製作所の選択は、その問いに一つの答えを残している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

世界初の製品と、持たなかった販売網

竹内製作所は1971年9月、小型の油圧ショベルであるミニショベルを世界で初めて製品化し、生産を始めた。20トン級以上の大型機が主流であった建設機械に、トラック1台で運べる小型機を持ち込む試みで、世の中にない機械であったために「おもちゃだ」と言われ、よく壊れては直す試行錯誤が続いた。住宅地や農地、側溝、水道の工事といった狭い現場の掘削はそれまで人力に頼っており、ミニショベルはそこを機械で置き換える市場を開いた。1972年1月には坂城町に村上工場(現・本社工場)を新設し、主力の生産拠点を整えた[1][2]

ただし同社は、自前の販売網を持たなかった。量産の受け皿は相手先ブランドによる供給に求め、1975年5月にエンジンを採っていた縁からヤンマーディーゼルへ供給を始め、同年11月には石川島播磨重工業へ「IHI」の名で供給した。商社のトーメンには「トーメン・ジョブ」の名で納め、1988年3月には神戸製鋼所への供給も加えた。井戸から水道への切替え工事が各地で盛んになると、水道業者や造園業者がミニショベルをスコップとツルハシの代わりに買い、注文は生産が追いつかないほど集まった。8月決算であった当時、1978年8月期の売上高は45億円、1980年8月期には81億円に達した[3][4][5]

供給先が自社生産へ回り、取引が細る

ところが供給先は、順に自社生産へ回った。ヤンマーがミニバックホーを自ら生産に乗り出し、取引の先細りが見えると、同社は商社のトーメンへ供給先を移した。アフターサービスの体制に問題が生じると石川島播磨重工業へ移ったが、その石川島播磨も大型機が売れない時期に入るとミニバックホーを自社で生産した。設計はいずれも竹内製作所が担い、品質と性能は海外でも評価されていたが、機械は他社の名で市場に出た[6][7]

相手先ブランドでの供給を続ける限り、竹内の名は買い手の手元に残らない。生産計画などの主導権も取引先が握ったままで、供給先が自製へ転じれば量産の受け皿はそのつど失われた。1980年前後になると国内の競合大手が相次いで小型機の市場へ参入し、競争は激しさを増していた。世界で最初にこの製品を作った会社が、自らの名を市場に持たないまま、他社の生産計画に売上を委ねる状態が続いていた[8]

決断

竹内ブランドでの自力販売へ

供給先が自社での生産と販売に回り、取引は先細る一方だと判断した竹内明雄社長は、竹内ブランドで自ら販売する道を選んだ。しかし市場の反応は冷たかった。「竹内なんて聞いたこともない」と言われて相手にされず、最初に開発した当事者でありながら、世間ではメーカーとして後発と見なされた。ブランド志向の強い日本では、名が浸透していなければ市場に入れてもらえない。竹内明雄社長は後年、この時期を一番苦しかったと振り返っている[9]

国内で名を通すには時間と費用がかかる。1978年8月期の売上高は45億円で、全国に販売店と修理の体制を敷ける規模ではなかった。加えて国内販売は代金の回収が重く、据置期間を置いたうえで24回、長いものでは36回に及ぶ分割払いが常であった。売った機械の代金が手元に戻るまで数年を要する取引を、後発と見なされたブランドで積み増していくのは容易でなかった[10][11]

国内で通らないなら、全部を輸出に切り換える

そこで同社は、国内で名が通らないなら輸出に賭ける、という判断に傾いた。竹内明雄社長は全部を輸出に切り換えると決め、1978年1月にミニショベルの輸出を始めた。国内販売は細々と続けながら、主軸を海外へ移す転換であった。輸出は信用状(L/C)による決済としたため代金の焦げ付きを避けられ、据置と長期の分割に縛られる国内販売とは資金の回り方が異なった[12][13]

販売の組み方にも独自の原則を置いた。同社は1国につき販売店1社と決め、地域を細かく割って複数の販売店を並べる方式をとらなかった。1社に任せる分だけ手の回らない面はあるが、付き合いは深くなる。地域の広いフランスだけは競争を働かせるために例外として2社を置いた。世界初の製品を持ちながら国内で名を得られなかった会社は、こうして海外の販売店に自社ブランドの浸透を託した[14]

結果

国内より先に、海外で通った名

竹内ブランドは、国内より先に海外で通った。欧州では古い建物を残したまま内部を改造する工事が多く、部屋へはドアからしか入れず、階段も小型でなければ通れない。狭い現場を前提とした小型機はその使い方に合い、欧州の利用者は年に1600時間ほど機械を使い込んだ。掘る作業と配管の作業を別々の職人が受け持つ分業が定着しているためで、年600時間から1000時間程度という日本の使われ方とは差があった。中古市場でも「竹内の中古はないか」と指名で問い合わせが入るまでになった[15][16]

輸出の比重は上がり、1998年には売上のおよそ85%を輸出が占めた。海外の足場も拠点として形になり、1979年2月に米国、1996年10月に英国、2000年5月にフランスへ現地法人を置いた。2021年には重量の軽いミニショベルの販売でクボタに次ぐ欧州2位と位置を評され、2025年2月期の連結売上高2,132億円のうち米国が1,201億円、英国が145億円、フランスが113億円を占めた。他社の名で量を稼いでいた会社は、自らの名で売る会社に変わった[17][18][19][20]

出典・参考

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