コーセーホールディングスCI導入による販路別ブランド開発への転換と、小林コーセーからコーセーへの商号変更
どの売り場にも同じ商品を渡すか、売り場ごとに別のブランドを立てるか——外資台頭下の流通対応
- 概要
- 1991年、小林コーセーがCI(コーポレートアイデンティティ)を導入し、各種の調査を経てブランドマーケティングの本格実施に踏み切った経営判断。社内では「選択的流通システム」とも呼ばれ、百貨店・化粧品専門店・総合量販店・ドラッグストアという販路ごとに専用のブランドを開発する方式へ切り替えた。同年8月、商号を株式会社小林コーセーから株式会社コーセーへ変更している。
- 背景
- 外資系ブランドの台頭で国産ブランドが厳しい環境に置かれる一方、従来の日本の商売では各販路に同じ商品を充てる方式が一般的であった。同社は1988年に対面販売のコーセー化粧品販売と一般品ルートのコーセーコスメポートを設立し、売る組織だけは先に分けていた。
- 内容
- 企業イメージから見直してトータルマーケティング戦略とビジュアルアイデンティティを確立し、企業理念体系を刷新した。あわせて百貨店にコスメデコルテ、専門店・総合量販店にプレディア、セルフ販売にマリ・クレールなどを置き、販路と商品を一対一で結びつけた。提携先である仏ロレアルの売り方が参照先の一つとなった。
- 含意
- 1997年の再販売価格維持制度の撤廃と乱売のなかでも値崩れを抑え、1999年3月期には連結売上高1,378億円・業界シェア8.4%で3位を保った。2005年には業界最大手の資生堂がこの方式を追う形をとった一方、ブランド増加による在庫負荷とドラッグストアへの対応の遅れという負債も残した。
売り場を細かく読むということ
降りたのは、どの売り場にも同じ商品を渡すという当時の商慣行であった。百貨店にコスメデコルテ、専門店と総合量販店にプレディア、ドラッグストアにマリ・クレールと売り先ごとに別の名前を立てれば、開発も広告も在庫もその数だけ要る。それでも1991年に踏み切れたのは、1988年に対面販売と一般品ルートの販社を分け、商品を分ける前に売る組織を分け終えていたからだとみられる。小林保清社長が資生堂との違いを問われて挙げた答えも、ブランドマーケティングとグループ経営の二つであった。
ただし、販路ごとにブランドを立てる方式は、販路そのものが入れ替わる速さには弱かった。小林保清社長自身が1999年に在庫の負荷と非効率なブランドの統廃合を課題に挙げ、2006年度にはドラッグストアの利益志向への対応が出遅れて減収減益に沈んでいる。売り場を細かく読むほど、読んだ相手が変わったときの手直しは重くなる。値崩れを防ぐ設計と、新しい販路へ乗り換える速さは、同じ方式のなかでは両立しにくかったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
「どの販路にも同じ商品」という商慣行
化粧品の売り場は百貨店、化粧品専門店、総合量販店、ドラッグチェーンへと分かれていたが、そこへ流す商品は同じであった。従来の日本の商売では、各販路に同じ商品を充てる方式が一般的だったからである。1990年前後の国内市場では外資系ブランドが台頭し、国産ブランドは厳しい環境に置かれていた。客層も接客も違う売り場に、渡す商品だけが一律という状態が残っていた[1][2]。
外資への対応は、戦後の資本自由化までさかのぼる。小林保清氏は後年、化粧品業界でも門戸が開放されて外資メーカーが続々と参入したため、売り場を取られないよう百貨店だけでなく化粧品専門店にも売り場を確保し、美容部員を専門店へ派遣し始めたと振り返っている。それが結果として生き延びる策になったという。販路ごとの事情に立ち入る経験は、この時期に積まれていた[3]。
売る会社を先に分けていた
販売する会社を分ける作業は、CI導入の3年前に終わっていた。小林コーセーは1988年4月に対面販売を担うコーセー化粧品販売を、同年7月に一般品ルートの化粧品販売会社コーセーコスメポートを設立している。さかのぼれば1956年に高級化粧品の製造会社アルビオンを、1985年にサロンルート向けのクリエを設けており、売り先の性格ごとに別会社を立てる手法は繰り返し使われていた[4]。
会社を分けただけでは、販路別の商売は成り立たない。同じブランドを二つの販社が別の売り場で売れば、安く出す店へ客が流れて価格が崩れる。小林保清社長は後年、流通戦略上は親会社と関係会社が役割を分担し、グループ全体として効率的な事業展開を図ってきたと説明し、その成果が売上高の連単倍率1.8倍に表れていると述べた。販社を割る判断は、商品を割る判断と対になって初めて働くものであった[5]。
決断
CI導入と、調査が出した答え
1991年、小林コーセーはCIを導入した。企業の存在意義を高め、わかりやすくメッセージを発信することが狙いであった。企業イメージから見直してトータルマーケティング戦略とビジュアルアイデンティティを確立し、企業理念体系も刷新している。同年8月、商号を株式会社小林コーセーから株式会社コーセーへ改めた。当時の社長は小林禮次郎氏で、小林保清氏は同年6月に代表取締役専務へ就いている[6][7]。
CIの作業は、社名と表示の統一だけで終わらなかった。小林保清社長は1999年12月の講演で、8年前にCIを導入した折、各種の調査の結果、ブランドマーケティングの採用が望ましいということで本格的な実施に踏み切ったと述べている。社内ではこれを「選択的流通システム」とも呼んだ。企業名の整理と販売方式の切り替えが、同じ作業の表と裏として動いた[8]。
販路ごとに別のブランドを立てる
ブランドマーケティングの中身は、それぞれの販路に対して最適のブランドを開発するという方式であった。小林保清社長は、各販路に同じ商品を充てる従来の方式に対し、コーセーはいち早く流通チャネルごとにブランドを分けたと説明している。カウンセリング販売では百貨店にコスメデコルテ、専門店・総合量販店にプレディアを置き、セルフ販売のドラッグストアやバラエティストアにはマリ・クレールやプライベート・レーベルを充てた[9]。
参照先の一つはロレアルであった。小林保清氏は後年、チャネルに沿ってブランドを分け始めた経緯について、コーセーが提携していた仏ロレアルがその形を取っていて刺激を受けた部分もあると語っている。1963年の技術提携から続く関係が、販路と商品を一対一で結びつける売り方を近くで見る機会を与えていた。国内の商慣行ではなく、提携先の売り方に範を求めていた[10]。
結果
再販制度撤廃と乱売のなかで
1997年、化粧品の再販売価格維持制度が撤廃された。小林保清氏は、欧米では高級化粧品が乱売されることはなかったが当時の日本では乱売されたと振り返り、チャネルに沿ってブランドを分け始めたのもこの頃だと述べている。1991年のCI導入時に決めた方式が、価格の崩れる環境のなかで実務として固まったとみられる。売り場ごとに商品が違えば、隣の店との単純な値比べは成り立たなくなる[11]。
数字は1990年代の終わりに現れた。1999年3月期の連結売上高は1,378億円、経常利益97億円で、業界シェアは8.4%と資生堂・カネボウに次ぐ3位であった。1998年度の販路別売上構成は化粧品専門店28.8%、ドラッグストア20.5%、総合量販18.3%、百貨店11.7%、薬局・薬店9.8%と、どれか一つに寄っていない。同年12月に株式を店頭登録し、2000年12月には東京証券取引所市場第一部へ上場した[12][13]。
最大手が追い、負荷が残る
小林保清社長は1999年の講演で、資生堂と近い流通形態を採っているため両社の違いをよく問われるとし、その答えはブランドマーケティングとグループ経営にあると述べていた。6年後、その最大手が同じ方式へ寄ってきた。週刊東洋経済は2005年、むやみにブランドを増やさず価格帯ごとに販売チャネルと商品コンセプトの位置付けを明確にしたコーセーが高い利益率を得ていると書き、同年6月に資生堂社長へ就いた前田新造氏がコーセーを踏襲する作戦に出たと伝えた[14][15]。
一方で、方式の負荷も見えていた。小林保清社長は1999年の時点で、ブランドが多岐にわたることが在庫に及ぼす影響は看過できないとして、非効率なブランドの統廃合を課題に挙げている。2006年3月期の連結売上高は1,778億円、営業利益196億円と伸びたが、翌期の中間決算でコーセーは大幅な減収減益となった。小林社長はドラッグストアが利益志向になり売り場の取り合いも激しくなったとして、対応が出遅れたと語っている[16][17][18]。
- 証券アナリストジャーナル 2000年1月号「コーセー」(小林保清社長講演・1999年12月24日)
- 週刊東洋経済 2018年12月29日号「化粧品 平成の教訓 小売りが大きく変化した30年 コーセー名誉会長 小林保清」
- 週刊東洋経済 2005年11月12日号「化粧品「地殻変動」国産vs外資バトルはGMSへ飛び火?」
- 週刊東洋経済 2007年1月13日号「「ひそかな値上げ」にメーカー、流通は大喜びだが…化粧品の救世主になれるか ただ今「NPP」流行中」
- コーセー 統合報告書2024
- コーセーホールディングス 有価証券報告書【沿革】(2025年3月期)
- コーセー 有価証券報告書(2006年3月期・連結)