日本アイ・ビー・エム外資の現地法人を「日本の企業」として売る日本化路線
国産勢に抜かれつつあった日本IBMで、椎名武雄社長は何を日本の側へ寄せたのか
- 概要
- 1975年2月に45歳で社長へ就いた椎名武雄氏が、日本市場に合う製品とサービスを通じて「日本の企業」として認められることを目標に掲げ、特約店制度・日本語対応製品・国内開発拠点を整えた経営判断。
- 背景
- 貸借方式の変更に伴う値引きで売上高利益率は1970年の23.2%から1975年に9.7%へ落ち、政府の保護育成を受けた国産各社が伸びていた。1979年には富士通が売上高で日本IBMを抜く。
- 内容
- 1982年にIBM特約店制度を発足させて販路を広げ、1979年に漢字情報システム、1980年に日本語文書処理システム、1983年に日本語処理を組み込んだマルチステーション5550を投入。1985年には大和研究所を完成させた。
- 含意
- 製品・販路・開発拠点を日本側へ寄せることで、外資系というより国内企業に近い存在として扱われるに至った。1987年には売上高1兆円を超え、総資本経常利益率は1988年に29.5%と国内大手を上回った。
現地化はどこまで可能だったか
この路線の評価は、何が日本側へ移り、何が移らなかったかで分かれる。移ったのは製品仕様と販路、開発拠点である。日本語処理を組み込んだ製品を国内で開発し、特約店を通じて売る体制は、外資の現地法人としては踏み込んだ現地化にあたる。日本IBMの取締役が米本社の会長補佐を務め、社員が本社のグローバル・サービス部門の要職に就くという逆方向の人事も現れた。
移らなかったのは資本と利益の配分である。製品開発・製造・営業・人事・財務の各面で本社の制約は残り、配当とロイヤリティによって利益は継続的に本国へ送られた。1988年の利益剰余金1761億円は、同年の富士通6581億円や日立製作所1兆8382億円と桁が違う。稼ぐ力では国内大手を上回りながら、蓄積では及ばない。日本の企業として認められることと、日本の企業として資本を蓄えることは別だった。この路線が届いた範囲と、届かなかった範囲は、そこで線を引かれている。そして路線自体も、椎名社長の退任から2年後に本社の世界戦略へ組み込まれる形で修正された。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
値引きが削った利益率
1971年7月、IBMは周辺装置の貸借方式の変更を発表し、日本IBMも米国とカナダに続いてこの方式を採った。一定期間使用方式と呼ばれ、顧客が12カ月の契約使用期間を選べば従来の月額料金より約8%、24カ月なら約16%安い料金で使える。周辺装置をめぐる競争が激しくなったことに加え、この値引きと価格の引き下げが利益率を押し下げた。1975年の売上高は2455億円まで増えたにもかかわらず、純利益は237億円にとどまり、売上高利益率は9.7%へ落ちた[1]。
競合の側には政府の後押しがあった。1961年に設立された日本電子計算機は政府資金の融資を受け、国産メーカーのリース資金の負担を肩代わりしている[2]。1974年には技術導入の自由化に続いて資本の100%自由化が実施され、1976年にはソフトウェアの自由化が行われた。政府は同時に国産各社の再編と補助金による育成に力を入れた。日本IBMのシェアは1970年代はじめの33%を頂点として下がり続けた。
決断
「日本の企業」として認められること
実行はまず販路から始まった。コンピュータの大衆化に対応するため、日本IBMは特約店制度の導入と製品開発、子会社・関連会社の設立を進める。1982年にIBM特約店制度を発足させ、直販に頼らない販路を国内に広げた[5]。1977年には製品センターを開設している。1981年には子会社・関連会社の設立を経営革新の一環として掲げ、100%出資会社だけでなく他企業との共同出資による関連会社も設けた。
日本語を前提にした製品と、国内の開発拠点
製品も日本語を前提に作り替えられた。1979年に漢字情報システム、1980年に日本語文書処理システムと3380磁気ディスク装置を発表し[6]、1983年には日本語処理を組み込んだマルチステーション5550を投入した。同じ年にシステム/36も出している。日本語を扱えることは、事務処理の機械化を進める国内の顧客にとって前提条件であり、ここを外れれば製品はそもそも検討の対象にならない。
開発拠点も国内へ置いた。1985年には神奈川県に大和研究所を完成させ、同年の科学万博にも参加している[7]。1987年にはパーソナルシステム/55と日本IBM科学賞を、1988年には点字翻訳ネットワークのてんやく広場と野洲研究所、AS/400を、1990年にはRISCシステム/6000とシステム/390を発表した。日本IBMはアジア・太平洋地域における開発拠点として、各国市場向けの特殊仕様の製品群を一手に引き受ける立場になった。
結果
一兆円企業と、国内大手を上回る収益力
業績は1980年代を通じて伸びた。1981年から1986年にかけて売上は二桁の伸びを続け、大型機種を中心とする買取需要と、米国向けを中心とした製造用部品の輸出が支えた。1987年の売上高は1兆606億円、税引後利益は742億円、従業員は2万210名で、売上高で1兆円企業となった[8]。1981年と1990年を比べると売上高は3倍、税引利益は2倍である。総資本経常利益率は1988年に29.5%へ達し、同年の富士通・日立製作所・NECのいずれをも大きく上回った。
もっとも、売上高の順位は戻らなかった。1979年に富士通が売上高で日本IBMを抜き、設置金額のシェアでも1985年に首位を明け渡している[9]。日本化路線が支えたのは順位ではなく収益力であった。1987年12月期は税引利益742億円に対して594億円が配当としてIBMへ支払われ、配当性向は80%に達している。稼いだ利益の多くは国内に残らなかった。路線そのものも1995年1月に軌道修正された。営業体制は米IBMとアジア太平洋統括会社に合わせて業種別の12事業部へ細分化され[10]、日本市場だけに向いていた組織はアジアへ商圏を広げる体制へ組み替えられた。
- 日経ビジネス 1975年7月21日号「人間中心経営に国境なし。椎名武雄氏(日本アイ・ビー・エム社長)が語るIBMイズム」
- 日経ビジネス 1995年4月17日号「日本IBM、外資へ回帰。日本化路線を大転換、アジアへ商圏拡大」
- 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
- 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- 週刊東洋経済 2015年5月8日号