日本アイ・ビー・エム 特許公開で千鳥町工場生産へ 特許の公開と引き換えに国内生産の認可を得た三者合意
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何をなぜ決めたか
- 概要
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1960年夏、通商産業省・IBMワールド・トレード社・日本IBMの三者が、日本IBMへの技術援助契約の認可と、日本のコンピュータ・メーカーへのIBM特許の公開を一括して解決することで合意した経営判断。日本IBMは1963年から千鳥町工場で現地生産を開始した。
- 背景
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通産省は日本IBMが100%外資子会社であることを理由に技術導入申請の認可を渋り、国内メーカーはIBMが日本で持つ特許の壁にぶつかってコンピュータの商品生産ができずにいた。双方が動けない状態が続いていた。
- 内容
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通産省は認可の条件として日本メーカーへの特許公開を求め、IBM側はこれを受け入れた。ただし国内メーカーが得たのは製造特許権にとどまり、製造とサービスのノウハウは含まれない。日本IBMへの技術援助契約には製造・サービス全般の特許とノウハウが含まれた。
- 含意
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最大の参入障壁だった特許を自ら開くことで、閉じられていた国内生産の扉を開けた。公開の範囲を製造特許権に限ったため、ノウハウの差は残り、1960年代の急成長を支えた。同時にこの合意は国産コンピュータ産業の出発点にもなった。
いつ何が起きたか 6件
筆者の見解
開いた特許が育てた競合
この判断の核心は、参入規制を外すために自社の最大の資産を差し出した点にある。特許はIBMが日本市場で持つ最大の防壁であり、それを開けば国産メーカーが立ち上がることは見えていた。それでも合意したのは、特許を抱えたまま市場の外に立ち続けるより、開いてでも中で作るほうが得だという計算が働いたためだろう。公開の範囲を製造特許権に限り、ノウハウを渡さなかったところに、その計算の輪郭が表れている。
結果は両面に出た。1960年代の日本IBMはノウハウの差を活かして首位を保ったが、開かれた特許を足がかりに国産各社は力をつけ、政府の育成策もこれを後押しした。1970年代はじめに33%だったシェアは下がり続け、1979年には富士通が売上高で日本IBMを抜く。合意から19年後の逆転である。参入のために競合を育てるという取引は、短期では日本IBMの成長を、長期では国産コンピュータ産業の成立をもたらした。どちらの結果もこの一つの合意から出ている。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
業績の推移
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参考文献
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』