「内需頼み」からの脱却——米国市場への本格参入と1兆円企業構想

ウォシュレットを武器に、古賀義根社長は輸出比率1.5%の会社をどう海外へ向けたか

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時期 1991年1月
意思決定者 古賀義根 社長
論点 海外進出と長期成長構想
概要
1989年に米国の販売子会社「TOTO Kiki USA」を設立し、1990年4月の営業開始とともに米国市場の開拓に本腰を入れた東陶機器の経営判断。ウォシュレットなどのハイテク商品を武器に、輸出比率1.5%前後の「内需頼み」の体質から脱し、2001年に海外子会社を含むグループ売上高1兆円を目指す長期ビジョンの中核に米国進出を据えた。
背景
衛生陶器は重い割に単価が低く輸送費で競争力を欠くうえ、消費者が使い慣れた国内ブランドを選ぶため、メーカーは輸出に消極的だった。東陶機器の売上高輸出比率はこの10年間1.5%前後で、業界2位のINAXも0.8%と、内需に依存する「内弁慶」の業界であった。
内容
東陶は1977年のインドネシアを皮切りにアジアと欧州に生産会社を設けてきたが、海外売上高は1990年度で総額110億円程度にとどまっていた。1989年1月にアトランタの国際住宅建築業協会(NAHB)展示会でウォシュレットが大きな反響を得たのを機に、カリフォルニア州の販売子会社を設立して米国参入に踏み込み、将来の現地生産やM&Aも視野に入れた。
含意
電子制御まで網羅する約1500人の技術陣とウォシュレットという独自商品を突破口に、内需で完結してきた会社が大市場の欧米へ向かう判断であった。ただしトイレに対する文化の違い、州・市ごとの水量規格、代理店依存の流通など「非関税障壁」は根深く、米国事業は長い時間軸の賭けとなった。
筆者の見解

独自商品を突破口にした、長い賭け

この決断の核心は、内需で完結してきた衛生陶器メーカーが、何を武器に海外の大市場へ出るのかという問いにあった。東陶が選んだ突破口は、価格でも量でもなく、ウォシュレットに象徴される独自のハイテク商品と、電子制御まで抱える技術陣であった。重くて単価が低い旧来型の衛生陶器では輸送費に負けても、他国に例のない「究極のトイレ」であれば、文化の壁を越えて認知を得られるかもしれない——単品トップの技術力を海外の成長へ振り向ける発想は、内需依存の限界を先取りした選択であったとみることができる。

もっとも、トイレへの考え方の違い、州ごとの規格、代理店依存の流通という非関税の壁は根深く、初年度の販売目標さえ届かなかった。米国での商売が「まだ始まったばかり」であったように、この進出は短期の収益ではなく、認知が積み上がるのを待つ長い時間軸の賭けであった。2001年グループ売上高1兆円という構想も、既存事業で7割、残り3割を新市場でという古賀社長の見立てのうえに置かれていた。海外の新市場をどこまで自らの成長に取り込めるかは、この後の東陶機器が数十年をかけて答えを出していく課題として残ったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

輸出比率1.5%の「内弁慶」業界

衛生陶器のメーカーは、長く海外展開が遅れていた。トイレなどの衛生陶器は重い割に単価が低く、輸送費がかさむため現地メーカーより割高になる。消費者や施工者も、身近で使い慣れた国内ブランドを選ぶ。この二つの事情から、メーカーは輸出に消極的であった。東陶機器の売上高輸出比率はこの10年間、1.5%前後を行ったり来たりし、輸出額は1990年3月期で49億円、比率1.42%にすぎなかった[1]

業界2位のINAXも、米国と香港に販売拠点を置く程度で、1989年度の輸出比率は0.8%にとどまっていた。ほとんど付き合い程度の数字であり、衛生陶器は内需に頼る「内弁慶」の業界であった。国内シェア7割前後を握る東陶機器にとっても、成熟に向かう国内市場だけでは次の大きな成長を描きにくくなっていた[2]

アジア中心の生産網と、厚い技術陣

東陶は内需一辺倒だったわけではない。他社に先駆けて1977年にインドネシアで生産会社(合弁)を設立したのを皮切りに、韓国・タイ・台湾に同様の生産会社を設け、欧州にも1985年に仏、翌年に西独(当時)に生産会社を置いた。もっとも、これらを単純合計した海外売上高は1990年度で総額110億円程度の見込みにすぎず、しかもアジア向けが9割を占めていた。大市場である欧米は、ほとんど手つかずのまま残っていた[3]

海外へ攻め込む足場になると同社が見ていたのは、技術陣の厚みであった。技術本部と商品開発本部を合わせて約1500人の技術スタッフを擁し、衛生陶器・金具の製造技術から電子制御、バイオ技術までを網羅していた。米国にも衛生陶器の大手はあるが、これほど幅広い技術を持つメーカーはなく、最大手でも研究スタッフは数十人といわれた。古賀義根社長は「海外企業と技術力で20〜30年の差がある」と語った[4]

決断

アトランタでの手ごたえと販売会社の設立

東陶が米国進出に手ごたえを感じたのは、1989年1月にアトランタで開かれた国際住宅建築業協会(NAHB)の展示会に初めて製品を出品したときであった。世界中の住宅機器メーカーの製品が並ぶなか、東陶のウォシュレットや、手を動かすだけで水が出たり止まったりする自動水栓に大きな反響が集まった。米3大ネットワークの一つABCテレビはウォシュレットを「究極のトイレ」と紹介し、古賀社長は自動制御のノンタッチ製品がパブリックスペースで受け入れられる可能性を確信したという[5]

この反響を受けて、東陶は1989年に販売子会社「TOTO Kiki USA」をカリフォルニア州に設立し、1990年4月に営業を開始した。自社技術への自信を背景に、ウォシュレットなどのハイテク商品を米国市場へ売り込む構えである。海外事業本部長の重渕雅敏常務は「市場開拓は難しいと見ていたが、いざ始めると想像以上だった」と、手ごたえと難しさの両方を語った[6]

「1兆円企業」構想と現地生産への布石

米国進出は、1988年12月に策定した長期ビジョン「TOTOヒューマン21」の中核に位置していた。2001年に海外子会社を含むグループ売上高で1兆円企業を目指す構想で、1990年度見込みの4000億円弱を10年で2.5倍にする計画である。古賀社長は「既存の事業で7割は達成できるメドはある。残り3割は新しい市場、商品を開発していかないと駄目だ」と述べ、その新市場の筆頭に米国など海外市場を据えた[7]

米国でまず設けたのは販売拠点だが、本当の狙いは現地にハイテク商品の生産拠点を築くことにあった。輸出と現地生産では、コスト、ひいては競争力に大きな違いが出るためである。重渕常務は「2〜3年内にいい相手があれば現地企業のM&Aや合弁を考えたい」と明かした。内需中心だったために海外要員は不足しており、同社は1985年度の新入社員から英語検定2級の取得を必須とするなど、人材の育成にも本気で取り組んでいた[8]

結果

非関税障壁と、始まったばかりの商売

米国市場への売り込みは、思惑どおりには進まなかった。最大の障害は文化の違い、突き詰めればトイレに対する考え方の違いで、後ろ姿の男性を配した日本式の広告は米国では使えなかった。州や市ごとに細分化された衛生陶器の規格も壁となり、1回に流す水の量を6リットルに抑えるなどの基準を満たす必要があった。流通も現地の代理店に依存せざるを得ず、初年度にあたる1991年3月期の販売目標10億円は、7割程度の達成率にとどまる見込みであった[9]

現地生産の構えは、翌年に形になった。販売会社の設立が1990年、衛生陶器の現地工場が稼働するのが1992年秋で、米国での商売はまだ始まったばかりの段階にあった。1992年6月に社長へ就いた江副茂氏は、輸出比率は2%程度ながらアジア・米国・欧州で数十億円単位の投資を続けており、現地生産分まで含めれば海外の比重は10%を超えるくらいになると語った[10]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1991年1月28日号「脱・内弁慶 米国を攻め、1兆円企業目指す」
  • 日経ビジネス 1992年8月24日号「江副茂氏 心の琴線に触れる物がヒット 最後は人間の研究に行き着く」
  • 東陶機器 会社年鑑(連結業績)