森村組の大倉和親は明治45年1月、父孫兵衛とともに名古屋[1]の日本陶器合名会社(現日本陶器)内に製陶研究所を新設し、私財を投じて洋風建築の便器を国産化する道を探った。研究開発の末に工業化へ成功し、1914年8月に初めて製品を販売したが[2]、これが国産衛生陶器の嚆矢となった。兄弟会社の日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)が米国食器市場を主戦場にしたのに対し、[3]大倉は中国大陸・東南アジアの『東洋市場』を狙うと社名に込め、[4]1917年5月、門司港と筑豊炭田に近い小倉に資本金100万円で東洋陶器を設立した。初代社長は大倉和親が就任、主力商品は衛生陶器と食器で、製陶研究所の技術をそのまま企業化した形だった。[5]
しかし生産は数年軌道に乗らず、第一次大戦後の不況下で赤字が続き、1923年には減資に踏み切った。同年9月の関東大震災が状況を変える。復興のため衛生陶器の需要が伸び、同社の業績は好転した。[6]1920年5月に資本金を150万円へ増資して導入した日本初のドレスラー式トンネル窯(連続焼成窯)が量産体制を支え、[7]品質改良を重ねて最高級品の評価を得ると、1935年から37年ごろが戦前期の業績ピークとなった。[8]1936年にオリンピックの東京招致が決まって大都市の下水道工事が活発化すると、[9]1937年10月には神奈川県に茅ヶ崎工場を建設した。[10]水回り産業の国産化は、震災と都市インフラ整備という外部ショックを触媒にして初めて成立した。
太平洋戦争下の1943年、同社は食器製造を全面停止し、翌44年には陸海軍の監督工場に指定されて兵器用碍子・碍管を生産した[11]。小倉工場と茅ヶ崎工場は戦災を免れ、1946年11月には早くも水栓金具の自社生産を開始、[12]1949年5月には東京・名古屋・大阪・福岡の各証券取引所に上場した。[13]戦後復興期の資本市場から資金を得たことで、本格的な設備投資の原資を得た。
1950年代後半以降、日本住宅公団の団地建設、下水道整備、東京オリンピックに向けたホテル・高層ビル建設ラッシュが衛生陶器需要を急拡大させた。同社は茅ヶ崎に衛生陶器工場を新設し、一般向け給水栓市場を開拓し、1962年に滋賀工場を建設した。[14]並行して1956年にはわが国初のFRP浴槽を開発、[15]1964年竣工のホテルニューオータニ向けユニットバスルームを商品化した。[16]衛生陶器単品の会社が、住宅まるごとの水回りを扱う下地を作った時期である。
創業時の『衛生陶器国産化』は、当時の日本では未踏領域だった。ドレスラー式トンネル窯は欧州の最新技術で、これを入れても赤字が続いたことは、市場そのものが存在しなかった事実を示す。1917年の設立から1923年の減資まで6年、[17]そこから1935年ごろの戦前期のピークまで12年、通算すると市場を作るのに要した時間は約20年である。最大の需要創出要因は震災と戦後復興、そして下水道と団地という都市インフラの整備であり、需要創出のイニシアチブは同社ではなく国家の都市政策の側にあった。
1964年度に売上高100億円を突破し[18]、小倉に新本社ビル、東京に東洋陶器ビルを建てた。同年の東京オリンピックに向けたホテル建設・高層ビルラッシュが衛生陶器需要を押し上げ、滋賀工場(1962)の新設もこの波に応じた投資だった。[19]ただしこのとき同社はまだ『陶器メーカー』を名乗っていた。一方で浴槽・給湯機・温水洗浄便座・ユニットバスの扱いを開始しており、商品ラインナップは陶器をはみ出していた。企業像と事業実態のズレが、次の時代の社名変更と事業ドメイン再定義の圧力として溜まった。
1968年、同社は事業本部制を発足させ、ホーローバス・洗面化粧台の製造を本格開始した[20]。翌1969年には商標を『TOTO』に統一し、[21]1970年3月には社名を東陶機器株式会社に変更、同時に食器部門を廃止した。[22]陶器メーカーから住宅設備機器総合メーカーへの転換を、商品・組織・社名・事業ポートフォリオの4点で同時に宣言した動きである。食器は創業時からの主要商品の一つで、1947年に生産再開、1970年に廃止[23]という経緯を考えると、23年かけて育てた事業を切り捨てた判断となる。
背景には高度成長の終盤で住宅市場が質的に変化していた事情がある。新築時に水回り一式を取り替える需要が生まれ、衛生陶器だけを売る業態では機会を逃していた。大分工場(1971年、水栓金具)、行橋工場(1972年、洗面化粧台)と続く工場新設はこの戦略の実行で、[24]1978年度には売上高1000億円に到達した。[25]第一次石油危機後の減速経済の中でこの水準に届いたのは、減収減益を受けてデザイン・カラーの刷新と高付加価値化に転じた結果でもある。市場停滞期の体質強化が、次の1980年代の積極化期への助走となった。
社名変更の翌1971年1月の時点で、同社は衛生陶器の首位企業と目され、独自の経営手法によって他社を引き離した会社として業界の外にも紹介されていた[26]。衛生陶器の全国シェアは1963年の62%から1967年には66%へ上がっており[27]、業界内の地位は社名を書き換える前から固まっていた。それでも陶器の看板を下ろしたのは、衛生陶器のシェアを守る競争から、浴槽・水栓・洗面化粧台まで束ねて売る競争へ主力を移すためである。首位の座を持ったまま自社の定義を引き直した点に、この社名変更の重さがある。国内の同業との差ではなく、住まいの作られ方そのものの変化に次の成長を求めた転換だった。
1980年6月、同社は温水洗浄便座『ウォシュレット』を発売した[28]。もともとアメリカの医療福祉用具を源流とする温水洗浄便座を、一般家庭の便器と一体化して売るという提案は当時の日本で類例がなく、普及には時間を要した。しかし1980年代後半、住設機器のエレクトロニクス化・多機能化の波に乗り、ヒット商品へと育った。1991年11月には小倉第三工場をウォシュレット専用に竣工させ、[29]1992年4月には中津第二工場でニューセラミックの生産も開始している。[30]
ウォシュレットの意味は販売台数だけでは測れない。衛生陶器メーカーが電子機器を内蔵した家電的製品を自社開発・自社量産したこと、それ自体が業態の拡張を意味した。セラミック技術と電子制御を組み合わせるノウハウは、後に半導体製造装置向けの静電チャック事業につながる。トイレの中で起きた技術革新が、半導体工場の装置部材にまで系譜を伸ばした原点である。
ウォシュレットが世に出た1980年、住宅市場では新築の勢いに陰りが見え、関心が増改築へ移り始めていた。同年3月には、新築から10年ほど経った住まいで子供部屋を作りたい、台所を直したいという希望が噴き出し、小さな増改築ブームと呼べる状況が生まれていた[31]。手を入れたくなるのは風呂や台所といった設備類で、流し台をシステムキッチンへ、プラスチック製の浴槽をステンレス浴槽へ替える動きが挙がったものの、設備の改修は手間がかかると指摘された[32]。既存の便器へ後から載せられるウォシュレットは、この手間の壁を越えられる数少ない商品であり、後年のリモデル需要を先取りする位置にあった。
1989年11月に米国販売会社TOTO Kiki U.S.A.を設立し、[33]1991年9月にはアトランタで衛生陶器の現地生産を開始した。[34]1994年には中国大陸で5月に北京東陶(衛生陶器)、6月に南京東陶(ホーロー浴槽)、7月に東陶機器(大連)(水栓金具)と立て続けに製造会社を設立、[35]翌1995年3月には東陶機器(北京)を追加し、[36]同年11月には販売・持株会社の東陶機器(中国)を作った。[37]商品ごとに最適地を選んで分散配置する方式で、わずか2年で中国拠点網の骨格が組み上がった。1995年9月にはマレーシアにウォシュレット製造会社[38]も立ち上げている。
戦後の事業拡大は一貫して内需中心で、輸出は補完的な位置づけだった。バブル崩壊で国内住宅市場の伸びが鈍ると、同社は米国と中国という二つの大市場で現地生産・現地販売の体制を並行して整えた。米国は既存の衛生陶器市場に乗せて展開でき、中国は日本型の水回り文化を持ち込む新市場だった。性質の異なる二つの市場に同時に賭けた意思決定が、2000年代以降の海外事業の骨格を決めた。
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|---|---|---|---|---|
| 1912〜1964年衛生陶器国産化と戦後復興 | 東洋陶器を設立 | ★★ | ||
| 日本初の連続焼成窯を導入 | ★ | |||
| 茅ヶ崎工場竣工(衛生陶器) | ★ | |||
| 水栓金具の生産開始 | ★ | |||
| 東京・名古屋・大阪・福岡の各証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| FRP浴槽をわが国で初めて開発 | ★ | |||
| 茅ヶ崎工場でプラスチック製品生産開始 | ★ | |||
| 滋賀工場竣工(衛生陶器) | ★ | |||
| ホテルニューオータニ向けユニットバスルームを開発 | ★★ | |||
| 1965〜2000年住設機器総合メーカーへの脱皮とウォシュレット | 小倉第二工場竣工(水栓金具) | ★ | ||
| 事業本部制を発足、住設機器事業に参入 | ★★ | |||
| 商標を「TOTO」に統一 | ★ | |||
| 社名を東陶機器に変更 | ★ | |||
| 大分工場竣工(水栓金具) | ★ | |||
| 行橋工場竣工、洗面化粧台生産開始 | ★ | |||
| 売上高1000億円突破 | ★ | |||
| 温水洗浄便座「ウォシュレット」発売 | ★★ | |||
| 滋賀工場で給湯機の生産開始 | ★ | |||
| 衛生陶器の単品トップから住設機器総合メーカーへの転換 1980年(昭和55年)、衛生陶器と水栓金具で国内シェア65%超を占める東陶機器が、第1次石油ショック後に続けた設備投資抑制の守りの経営を解き、攻めの経営へ転じた経営判断。給湯機参入など住宅設備機器の総合化を進め、1984年11月期(59年11月期)に売上高2000億円企業となることを目標に据えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 決算期を11月30日から3月31日に変更 | ★ | |||
| 販売会社TOTO Kiki U.S.A. Inc.を設立 | ★ | |||
| 「内需頼み」からの脱却——米国市場への本格参入と1兆円企業構想 1989年に米国の販売子会社『TOTO Kiki USA』を設立し、1990年4月の営業開始とともに米国市場の開拓に本腰を入れた東陶機器の経営判断。ウォシュレットなどのハイテク商品を武器に、輸出比率1.5%前後の『内需頼み』の体質から脱し、2001年に海外子会社を含むグループ売上高1兆円を目指す長期ビジョンの中核に米国進出を据えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 衛生陶器製造会社を設立(アトランタ) | ★ | |||
| 小倉第三工場竣工(ウォシュレット専用工場) | ★ | |||
| 中国大陸に衛生陶器・浴槽・水栓の製造会社を設立 | ★★ | |||
| 中国大陸に販売・持株会社(東陶機器)を設立 | ★ | |||
| 2001〜2019年グローバルブランド化と海外事業の拡大 | 販売・製造会社を統合しTOTO U.S.A., Inc.を設立 | ★ | ||
| 衛生陶器製造会社TOTO Vietnam Co., Ltd.を設立 | ★ | |||
| 木瀬照雄 | 社名をTOTOに変更 | ★ | ||
| 木瀬照雄 | 張本邦雄が代表取締役社長執行役員に就任 | ★ | ||
| 木瀬照雄 | 親会社株主に帰属する当期純損失▲262億円を計上 | ★★ | ||
| 張本邦雄 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 張本邦雄 | 喜多村円が代表取締役社長執行役員に就任 | ★ | ||
| 喜多村円 | 創立100周年記念事業としてTOTOミュージアムを開設 | ★ | ||
| 喜多村円 | 創立100周年 | ★ | ||
| 喜多村円 | 清田徳明が代表取締役社長執行役員に就任 | ★ | ||
| 清田徳明 | 田村信也が代表取締役社長執行役員に就任 | ★ | ||
| 清田徳明 | 中国大陸事業で減損損失341億円を計上 | ★ | ||
| 田村信也 | 中国大陸事業の構造改革を発表 | ★★ | ||
| 田村信也 | ウォシュレット累計出荷台数が7000万台突破 | ★ |
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事実根拠:出所(TOTO)