衛生陶器の単品トップから住設機器総合メーカーへの転換

石油ショック後の「隠忍自重」を解き、山田勝次社長は攻めの経営へどう転じたか

更新:

時期 1981年2月
意思決定者 山田勝次 社長
論点 事業ドメインの再定義と多角化
概要
1980年(昭和55年)、衛生陶器と水栓金具で国内シェア65%超を占める東陶機器が、第1次石油ショック後に続けた設備投資抑制の守りの経営を解き、攻めの経営へ転じた経営判断。給湯機参入など住宅設備機器の総合化を進め、1984年11月期(59年11月期)に売上高2000億円企業となることを目標に据えた。
背景
衛生陶器・水栓金具は国内シェアが極めて高い一方、市場の成長には限りがあった。第1次石油ショック後は設備投資を控え、売上高は昭和51〜52年11月期に900億円台で足踏みしていた。単品で高いシェアを持つがゆえに、次の成長をどこに求めるかが問われていた。
内容
昭和55年から設備投資を本格再開し、千葉物流センターの建設や滋賀・中津両工場の衛生陶器設備を増強した。第4次5カ年計画で自己資本比率60%以上・経常利益率10%以上を掲げ、同年6月に洗浄・乾燥・暖房・消臭機能を備えた便器、秋に給湯機「ユプロ」を発売して「水」を共通項に住宅設備を総合化した。
含意
トイレを皮切りにプラスチック浴槽・ユニットバス・洗面化粧台・給湯機へと「水まわり」の多角化を積み上げ、単品メーカーから住設機器総合メーカーへの脱皮を図った判断であった。ただし売上高は新設住宅着工に左右され、1980年半ば以降の着工戸数の落ち込みが前途に影を落とした。
筆者の見解

単品トップが背負った、需要変動という宿命

この転換の核心は、単品で高いシェアを取り切った会社が、次の成長をどこに置くのかという問いにあった。衛生陶器と水栓金具で国内の3分の2を握れば、市場そのものが伸びない限り売上高は頭打ちになる。東陶機器が選んだのは、浴室・洗面・給湯へと「水まわり」で事業を広げ、住宅一軒の水回り全体から取り分を増やす道であった。守りに徹した石油ショック後の投資抑制を解き、攻めへ切り替えた判断は、成長の限界を先取りした動きであったとみることができる。

ただし、住宅設備という事業が新設住宅着工の増減に強く縛られる構造は、総合化を進めてもなお残った。攻めへ転じた1980年、着工戸数はすでに前年割れへ向かっていた。外部需要の波に売上げを委ねる限り、多角化は振れ幅を薄める工夫ではあっても、需要そのものを生む力にはならない。この後の東陶機器が、増改築(リモデル)需要の開拓やウォシュレットのような別カテゴリーの創出へ向かったのは、単品トップが背負った需要変動という宿命への、長い応答であったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

シェア65%超の単品トップという強みと限界

東陶機器は、トイレや洗面所などの衛生陶器と水栓金具で国内シェアの65%以上を握るトップメーカーであった。第2位の伊奈製陶のシェアは10数%にとどまり、市場占有率の極めて高い、いわゆるガリバー型の事業構造を持っていた。しかし単品でこれだけの地位を占めると、市場そのものの成長がなければ売上高の伸びも頭打ちになる。既存製品の高級化・高付加価値化を進めても、成長には限りがあった[1]

第1次石油ショック後、同社は設備投資を控え、守りの経営を続けた。売上高は昭和48年11月期に762億円、49年11月期に914億円と伸びたのち、着工戸数の激減による反動で50年11月期は810億円へ減収に転じ、経常利益も145億円から61億円へ大きく落ち込んだ。以後の売上高は51年・52年11月期の2年間、900億円台で足踏みし、次の成長の糸口を欠いていた[2]

「水まわり」で積み上げた多角化の芽

一方で同社は、昭和30年代から住宅設備機器を少しずつ手がけていた。プラスチック浴槽(33年)、ユニットバス(38年)、洗面化粧台(41年)、ホーロー浴槽(45年)と、いずれも住宅の「水」に関わる「水まわり商品」を積み上げてきた。大分工場(1971年、水栓金具)、行橋工場(1972年、洗面化粧台)と続く工場新設もこの多角化を支え、1978年度には売上高1000億円へ到達した[3][4]

この水まわり商品の売上高は、45年11月期には30億円で全売上高の8%にすぎなかったが、55年11月期には360億円、全売上高の25.3%にまで伸びた。売上高の4分の1が、衛生陶器・水栓金具以外の多角化の成果で占められるようになっていた。単品トップの会社の内側で、住宅設備の総合化に向かう事業構成が育っていた[5]

決断

守りから攻めへ——設備投資の本格再開

昭和55年(1980年)、東陶機器は石油ショック後の隠忍自重を解き、攻めの経営へ転じた。まず設備投資を本格的に再開し、千葉物流センターの建設、滋賀・中津両工場の衛生陶器製造設備の増強に着手した。55年11月期の設備投資額は91億円、56年11月期は110億円を予定し、49年11月期の88億円を久しぶりに上回る投資額となった。守りに徹してきた投資方針を、明確に転換する判断であった[6]

投資の再開は、59年11月期を最終年度とする「第4次5カ年計画」に裏づけられていた。計画は自己資本比率60%以上・経常利益率10%以上を掲げ、最終年度に売上高2000億円の達成を目論んでいた。無借金・自己資本比率58.2%という堅い財務を保ちながら、成長目標を高く据えた点に、守りの体質のうえに攻めを重ねる構えがうかがえる[7]

給湯機参入と「水」を軸にした総合化

攻めの経営は製品面にも及んだ。昭和55年6月、洗浄・乾燥・暖房・消臭の機能を備えた便器を発売し、秋には太陽熱・ガス・石油をエネルギー源とする給湯機「ユプロ」を市場へ投入した。給湯機は、浴室や洗面所に「お湯」を供給するもので、トイレから浴室・洗面所へと広げてきた多角化の延長線上にあった。「水」を共通項に住宅の各設備をひとつの会社で扱う、住設機器総合メーカーへの構えである[8]

総合化の狙いを、山田勝次社長は成長の限界に結びつけて語った。既存製品の高級化・高付加価値化を進めても伸びには限りがあり、売上高を増やすには新しい製品が要るという判断である。給湯機部門は最終年度の59年11月期に200億円を見込み、2000億円構想の一角を担わせた。単品の会社が住宅一軒の水まわり全体へ商圏を広げる、事業ドメインの組み替えであった[9]

結果

2000億円構想と住宅着工の逆風

攻めへの転換は業績に表れ、53年11月期以降は2ケタの伸びを取り戻し、経常利益も55年11月期に過去のピークを上回った。下水道普及によるトイレの水洗化、和風便器に比べ50%高い洋風便器への切り替え、消費者の高級品志向が増収を支えていた。もっとも、55年6月以降は新設住宅着工戸数が毎月のように前年同月を20%前後下回り、55年は石油ショック直後の132万戸を割る恐れもあった。山田勝次社長も「着工戸数の減少が売り上げには一番大きく影響する」と述べ、前途を楽観できないとした[10]

転換の象徴となったのは、1980年6月に発売した温水洗浄便座「ウォシュレット」であった。米国の医療福祉用具を源流とする温水洗浄便座を家庭の便器と一体化して売る提案は当時類例がなく、普及には時間を要した。しかし1980年代後半、住設機器のエレクトロニクス化・多機能化の波に乗ってヒット商品へ育ち、1991年11月には小倉第三工場をウォシュレット専用工場として竣工させた。売上高は58年11月期に1597億円、59年11月期に1760億円へ伸び、住設機器総合メーカーへの転換は数字のうえで定着した[11][12]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1981年2月9日号「住設機器総合化で攻撃経営に転じる」
  • TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 東陶機器 会社年鑑(単体業績)