伊奈家は1766年以来、愛知県知多郡常滑で代々陶磁器を製造し[1]、五代前の初代伊奈長三郎氏が長三と号して陶芸に名をなして以後、四代まで長三郎と長三の名を襲名して常滑の陶芸界で重きをなした[2]。その家業の陶芸を捨てたのが、のちに伊奈製陶を設立する伊奈長三郎氏の父、伊奈初之丞氏である[3]。伊奈初之丞氏は大量生産を目標とする近代工場の経営を志し、伊奈製陶所を名乗って陶管とタイルの製造を始めると[4]、1912年に土管機を考案し、1916年には乾式タイルの製法を完成させた[5]。伊奈製陶が1956年に編んだ30年史は、株式会社の設立に先立つこの期間を伊奈製陶所時代と匿名組合伊奈製陶所の2節に分けて記す[6]。
伊奈長三郎氏は1890年に愛知県で生まれ、窯業の研究を志して1912年に東京高等工業学校を卒業し、家業を継いだ[7]。しかし個人経営の伊奈製陶所に満足しなかった伊奈長三郎氏が大資本の援助者を求めたとき[8]、日本陶器と日本碍子の社長を務めていた大倉和親氏が、この求めに応じた[9]。伊奈長三郎氏は大倉和親氏と提携して1924年2月、資本金100万円で伊奈製陶株式会社を設立し[10]、自身は設立と同時に常務へ就いた[11]。大倉和親氏の援助は資本にとどまらず、日本陶器出身の臼井芳一氏が設立と同じ年に伊奈製陶へ入社し、1933年には取締役へ加わった[12]。
伊奈製陶は設立時に、米国式製管方法による高級陶管の大量生産を目標へ掲げた[13]。米国からスチームプレス式陶管製造設備一式を買い入れ、愛知県知多郡常滑町の扇面新田に工場を建設して操業に入ると[14]、この扇面新田が以後の伊奈製陶の本社工場となった[15]。資本金100万円のうち払い込まれたのは75万円[16]。創業当初の製造品目はタイルと陶管の2つだけで、翌1925年に建築外装用の陶刻であるテラコッタを加えると[17]、陶管は本社工場、タイルとテラコッタは分工場が受け持った[18]。伊奈製陶は30年史に伊奈家の祖先と陶業の節を置き、そこへ並べて大倉和親氏一家の節も立てた[19]。
伊奈製陶が設立時に企てた米国式の高級陶管の大量生産は、需要家に認識されないまま売行き不振に終わった[20]。米国から一式で買い入れた設備は動いても、その製品を買う相手が国内に育っておらず[21]、設立からわずか2年後の1926年2月[22]、伊奈製陶は資本金を85万円へ減らした[23]。伊奈製陶は1956年に編んだ30年史で、設立から終戦までの沿革を創業苦難時代・基礎確立時代・発展雄飛時代・戦時統制時代の4期に区切り、戦後を復興躍進時代と名づけた[24]。減資と同じ1926年には、のちに取締役となる小笠原長勝氏が入社した[25]。
減資の後、伊奈製陶の陶管は需要家に品質を認められて販路が広がり[26]、設立以来工場に積み上がっていた在庫品も、この時期に一掃した[27]。陶管の中身は一様ではなく、伊奈製陶はマンガン釉薬と食塩釉薬を用途で使い分けたうえ、上水管・シンターパイプ・農耕土管といった特質管を品目に持った[28]。30年史は過去の製品を並べた章で、陶管とは別に電燈管の節も立てた[29]。伊奈製陶はさらに、地下送電線の保護管路である陶製電纜管の製造に成功して大量生産に入り[30]、上下水道と農地の土管として始まった陶管が電力会社の地下配線にも収まった[31]。
分工場で製造していたタイルとテラコッタは、大正末期からの西洋建築の勃興を受けて需要が増え[32]、1934年、伊奈製陶はテラコッタ製造設備を分工場から本社工場へ移して増設した[33]。同じ年に本社工場の一部を割いて始めた化学工業用の耐酸炻器は[34]、当時急速に進歩していた化学工業が装置に組み込む部材で、建築と土木の材料だった陶管・タイル・テラコッタとは買い手が異なる[35]。伊奈製陶は建築材料の外側にある需要を、この年から工場の一角で受け始めた[36]。30年史は耐酸炻器の節に耐酸セメントを併記しており、伊奈製陶は器材とあわせて接合材も手がけた[37]。
1937年、伊奈製陶は新製品の半磁器タイルの製造に成功し、生産設備を新設して量産へ移った[38]。伊奈製陶のタイルは半磁器タイルだけではなく、陶器タイル、タペストリー・スクラッチ・粗面といった湿式無釉外装タイル、クリンカータイル、ブルノーズタイルが品目に並んだ[39]。生産設備は設立以来年を追って充実し、1937年までに1955年時点とほぼ変わらない規模へ達し[40]、販売網も国内にとどまらず、朝鮮・満州・中国、さらに米国まで広がった[41]。伊奈製陶は輸出係を設けて出張員を派遣し、続いて海外出張所を置いて円ブロック向けの輸出を扱い[42]、技術者は欧米へ送り出した[43]。
1924年の設立時から常務を務めた伊奈長三郎氏が[44]、15年を経た1939年に伊奈製陶の社長へ就いた[45]。化学工業の発展につれて耐酸炻器の需要は年を追って増え、伊奈製陶は陶管とテラコッタの製造を廃止して耐酸炻器へ切り替えると[46]、1942年にはタイルの製造も止め、全工場を挙げて耐酸炻器の生産に傾注した[47]。設立の目的だった米国式の高級陶管も、大正末期に需要をつかんだテラコッタも、1937年に量産へ入ったばかりの半磁器タイルも、この整理で工場から消えた[48]。建築と土木に納める会社として始めた伊奈製陶は、設立から18年で化学工業へ納める会社に入れ替わった[49]。
戦時中、伊奈製陶は全工場で軍用の耐酸炻器を生産し[50]、この期間を30年史では戦時統制時代と名づけた[51]。常滑の工場は戦災を受けずに設備をそのまま残して終戦を迎え[52]、生産は本社工場と分工場だけでまかない、設立時に据えた米国式の陶管設備も、1934年に加えた耐酸炻器の設備も、この2工場に収まっていた[53]。販売を担う人材も戦前に加わり、佐藤商会出身の大岩和雄氏が1935年に入社した[54]。資本金は終戦時に135万円[55]、1924年の設立時に払い込んだ75万円から21年で1.8倍にとどまり、伊奈製陶は大規模な資本調達を経ないまま終戦の日を越えた[56]。
伊奈製陶は戦時中に全工場を軍用の耐酸炻器の生産へ振り向け、1942年にはタイルの製造も止めた[57]。それでも工場は空襲による被災を免れ、生産設備を保ったまま終戦を迎えたため[58]、耐酸炻器の生産を順次縮小して廃止しながら、1945年10月にはタイルの製造へ戻った[59]。同年11月には地下送電線の保護管路である陶製電纜管の製造をやめ[60]、代わりに衛生陶器の製造を始めて[61]、当初は進駐軍の住宅設営用をおもな出荷先とした[62]。戦後は耐酸炻器の需要が減退したまま回復せず、伊奈製陶はタイルと衛生陶器の2品目を事業の柱に据えた[63]。
1947年8月の貿易再開に際し、伊奈製陶はシンガポールへ初めてタイルを輸出した[64]。タイルと衛生陶器は進駐軍向けとして、また貿易再開後は輸出向けとして繁忙をきわめ、輸出が総生産高の70%を占めた[65]。その後は住宅とビル建築の復活により生産量の大部分が内需へ向かい[66]、予想を超えて進んだ国内復興工事の資材としても需要が伸び、伊奈製陶は戦後の混乱期を通じて生産を絶やさなかった[67]。国内向けの販売は各地の卸売り特約店を通じ、輸出は北米、中南米、東南アジアをおもな仕向け地とし[68]、国内の貿易商社と外国商社との直接取引によった[69]。
伊奈製陶は1946年8月に特別経理会社の指定を受け[70]、1948年9月30日には解除の条件となっていた増資を完了して、終戦時に135万円だった資本金を1,000万円へ引き上げた[71]。増資はその後も続き、1949年1月31日の縁故公募で2,500万円、1950年1月26日の払い込みで5,000万円へ資本金が増えた[72]。この間の1949年5月16日には、伊奈製陶の株式が名古屋証券取引所に上場した[73]。1951年8月8日には全国の取引所に上場する銘柄のトップを切って1対1の無償増資を実施して資本金1億円とし[74]、1956年8月にも1対1の有償増資で2億円へ倍増させた[75]。
1950年の朝鮮動乱によって建築業界が一段と好況に転じ、伊奈製陶のタイルと衛生陶器にも一般需要の増加が及んだ[76]。伊奈製陶は生産設備の刷新に着手し、単独窯の重油焼成を採用し、高能率のトンネル窯へ切り替え、自動成形機を導入した[77]。タイルと衛生陶器は愛知県産と岐阜県産の粘土、石川産の陶石、岡山産と兵庫産の蝋石、福島地方と新潟地方の長石と珪石を原料とし、成型・素焼・施釉・本焼の工程を経て作られる[78]。この工程に各種の自動機械やコンベアーを採り入れて高能率の大量生産へ移し[79]、1958年12月には衛生陶器工場が日本工業規格表示許可工場となった[80]。
決算は4月期と10月期の半期制で、1955年10月期には売上高5億2,149万円、税込利益5,308万円を計上し、売上利益率は10.6%に達した[81]。1955年の時点でタイルは全生産高の75%を占めて対全国比25%で業界第1位、衛生陶器は全生産高の25%を占めて対全国比15%で第2位につけた[82]。1962年10月期には売上高19億8,025万円、税込利益2億3,259万円、税引後の差引純益1億4,550万円まで伸び、7年で売上高は3.8倍になった[83]。同じ期の販売実績はタイルが13億9,146万円、衛生陶器が5億8,879万円で、タイルが売上高のおよそ7割を占めた[84]。
伊奈製陶は1959年7月に樹脂浴槽『ポリバス』の研究開発に成功し[85]、続いて塩化ビニール樹脂床タイル、いわゆるFFタイルの分野へ進出した[86]。1960年5月には米国のグレーディング・マクビーン社とタイルの製造販売に関する長期協定を結び[87]、両社が製造技術や経営諸問題についての知識と経験を交換して長期にわたり提携すると定めた[88]。伊奈製陶はマクビーン社のマークを付けてタイルを製造し、マクビーン社がこれを米国市場で売り出す[89]。1962年10月期の輸出金額は2億7,781万円、総売上に対する比率は14.0%にのぼった[90]。
1959年9月、伊奈製陶はタイル工場と衛生陶器工場について、それぞれ新工場の建設に着手した[91]。増設工事はタイル工場が1961年1月、衛生陶器工場が同年11月に完成し[92]、資本金も1960年7月21日の1対1の増資で4億円、1961年の公募増資で6億4,000万円へ増えた[93]。1961年8月には三重県上野市で上野工場の建設に入り、1963年6月から生産を始めた[94]。1964年9月には上野市緑ケ丘のポリバス工場が操業を開始し、タイル工場、外装タイル工場、ポリバス工場からなる上野事業所が加わった[95]。
1963年6月、伊奈製陶は愛知県半田市で半田工場の建設に着手し、1964年1月からそれまで仕入れに頼っていた水栓金具の製造を始めた[96]。1963年の伊奈製陶はタイルで業界第1位、衛生陶器で第2位を占め、タイルと衛生陶器の生産割合は金額で7対3、常滑と上野の各工場を合わせた生産能力は月間4億円余に達した[97]。従業員は1962年10月末で2,236名、うち工員が1,839名を占めた。平均年齢は25.9歳、平均勤続年数は8.1年[98]。大株主の上位には伊奈長三郎社長が668,000株で5.2%、伊奈輝三氏が336,000株で2.6%、伊奈安一氏が303,000株で2.4%と、伊奈家の3氏が並んだ[99]。これに三菱銀行の2.3%、東海銀行の2.0%、常滑市の1.6%が続いた[100]。
1966年から1967年にかけて、伊奈製陶はホウロウ浴槽の需要増に応えて常滑市大谷に生産一貫工場を建設し[101]、関東の拠点としては茨城県新治郡千代田村に壁タイルとユニットバスルームの工場を工費4億円で建て始めた[102]。1967年3月には全額出資で資本金5000万円の九州伊奈製陶を設立し、佐賀県鹿島市で工場建設に入った[103]。労働力の確保と原料産地への近さが狙いで、当面の主力製品は外装用タイルに置いた[104]。こうした増設と並行して、建築陶器の総合メーカーを掲げる伊奈製陶の年間売上高は、この時期に100億円を超えた[105]。1968年時点の社長は田辺三郎氏、従業員は3754名、資本金は16億円であった[106]。
紙を使わない便器を国産化する構想には、清潔好きの日本人が温水と温風だけで満足するかという疑問がつきまとい、社内には反対するスタッフもいた[107]。開発陣が輸入品を調べ直すと、医療用の製品は日本人の体格に対して大きすぎ、温水や温風の当たる位置も違っていて参考にならなかった[108]。日本人の肛門の位置を示すデータは国内のどこにも無く、開発陣は社員の尻型を粘土に押して採る方法をとり[109]、男子社員は下半身裸で、女子社員は水着より薄い布をまとった姿で型取りに応じた[110]。湯の温度も、故障による火傷を万が一にも起こさないよう二重三重の対策を凝らした[111]。試作を数え切れないほど重ねて初出荷にこぎつけたときには、開発着手から2年が経っていた[112]。
1967年10月、伊奈製陶は国産初の温水洗浄機能付便器『サニタリイナ61』を発売した[113]。上下水道の整備がようやく進み始め、東京オリンピックの選手宿舎に洋式便器が置かれたのを皮切りに便器の洋風化も始まっていた[114]。それまで国内で手に入るシャワートイレは海外で医療機器として使われた輸入品に限られ、新車が1台買えるほど高価だった[115]。1976年には普及モデルとして便座タイプの『サニタリーナF1』を発売した[116]。それでも普及率が50%を超えるのは2000年代に入ってからで、一般世帯の普及率が約8割に届いたのは2017年である[117]。
戦後の伊奈製陶は衛生陶器など水まわり製品へ品目を広げ、新素材として注目されていたFRPに着目して浴槽のポリバスを開発し[118]、1970年代には軽さと施工のしやすさを住宅向けに生かしたFRP製の浴槽ポリセットを世に出した[119]。黒川紀章氏が設計し1972年に東京・銀座で竣工した中銀カプセルタワービルでは、140基の着脱可能なカプセルユニットに納めるユニットバスの開発を伊奈製陶が手がけた[120]。FRPの軽くて錆びない特性と浴槽づくりで培った技術は、パラボラアンテナの開発にも向けられ、国内外の注目を集めた[121]。ただし、この事業が続くことはなかった[122]。
1980年1月、伊奈輝三氏が大岩和雄前社長から社長職を引き継いだ[123]。就任までの20年で、伊奈輝三氏は生産技術の習得と販売部門の指揮を交互に経験した。1937年10月15日に愛知県で生まれた伊奈輝三氏は、1960年3月に東京工業大学を卒業すると同時に伊奈製陶へ入社して統制部に配属され[124]、1961年秋から1962年秋まで米国のタイルメーカー、インターペース社に派遣されて主に生産面を学んだ[125]。帰国後は1963年12月に取締役企画室長、1967年に常務、1971年に専務販売企画部長兼名古屋支店長と昇進し[126]、1973年12月から営業本部長、1978年1月から副社長を務めた[127]。創業者の伊奈長三郎氏の三男という直系の就任だけに、周囲では伊奈家への大政奉還という見方が強かった[128]。
社長の役割は創業者の経営理念を守り、それを実行できる人を作り出すことにあるとし、事業の細かい内容は社内の専門家に任せる考えを示したうえで[129]、後継については子供に跡を継がせることは考えておらず、伊奈家の会社とも思っていないと明言した[130]。就任時は42歳で、タイルやバスなど自社製品を納入した建築現場を回り、利用者の意見を直接聞く時間も多くとった[131]。趣味には健康のためのゴルフと、当時始めたばかりの土いじりを挙げた[132]。
1982年、住宅関連業界が不況にあるなかで、タイルと衛生陶器の大手である伊奈製陶は積極経営を続けた[133]。内装用タイルのトップメーカーとして、日本タイルが事実上倒産するなど業界各社が四苦八苦するのをしり目に、ショールームを相次いで開設した[134]。本社工場内にはニューセラミックスを素材とする新製品ラインを設置し、1983年中に生産能力を増強する計画を立てた[135]。伊奈製陶が属する森村グループにはノリタケ、日本碍子、日本特殊陶業が並び[136]、各社がニューセラミックスの実用化分野として自動車エンジンに焦点を合わせたのに対し、伊奈製陶は住宅関連製品へ的を絞った[137]。
海外での生産にも乗り出し、1984年6月にはマレーシアで衛生陶器の製造販売会社を設立し[138]、伊奈製陶が20%を出資したこの1社が以後に続く海外拠点の第一号となった[139]。国内では1985年、商号を伊奈製陶からイナックスへ改め、統一ブランドのINAXを名乗った[140]。機械加工ができるようやきものの孔の形状と量を制御した機能素材、マシナブルセラミックスも開発し、1989年に名古屋で開かれた世界デザイン博覧会でセラミックス楽器へ応用した[141]。1982年に本社工場へ据えたニューセラミックスの製品ラインが、この素材開発につながった[142]。
1989年のINAXの売上構成比は建材商品が52%、住設商品が48%[143]。内装用タイルで首位を保ちながら[144]、1964年に仕入れから自製へ切り替えた水栓金具までを一つの品揃えに収めた[145]。1967年に国産初の温水洗浄機能付便器を出してからの20年あまりで[146]、タイルと陶管から始まった会社は水まわり設備を一括して供給する会社へ変わった[147]。新築住宅が年間150万戸を超えて建ち続ける前提は置けないと見て、INAXは既存住宅の改修にも販路を向け[148]、1989年からは増改築専門店のLIFA(ライファ)を始めて1997年10月20日の時点で全国210店舗まで広げた[149]。
INAXの売上構成比は1989年に建材商品52%、住設商品48%で建材が過半を占めていたが[150]、建材市場の縮小によって建材の比率は下がり、1997年には建材39%、住設61%へ入れ替わった[151]。1997年10月期に伸びた商品はシステムキッチンが28.9%増、住宅用乾式壁材が23.6%増、シャワートイレが15.1%増で、抗菌仕様の設備機器も9%増えた[152]。半面、内装タイルは7.2%、単体浴槽は11.7%それぞれ減らした[153]。組織は事業部制をとり、建材事業本部がタイルを中心とする建材商品を、住空間事業本部が衛生陶器とバス、洗面、キッチン、給湯機を扱い、19支社18工場を持った[154]。1997年10月20日時点の社員数は6,598名を数えた[155]。
1997年10月期の売上高は2,845億43百万円と過去最高を記録したが、経常利益は78億86百万円で22.6%減、当期利益は24億93百万円で46.4%減にとどまった[156]。経常減益は、売価の下落によって売上が約2%にあたる53億円減り、貸倒損失が7億円、引当金が6億円それぞれ増えたことによる[157]。当期利益の減益幅がより大きいのは、貸倒引当金の有税引当で税金が増え、債務保証損失引当金を繰り入れたためだった[158]。1998年1月16日の定時株主総会では定款を変更し、発行済株式数の10%にあたる2,400万株の消却を決めた[159]。利益処分で別途積立金113億円を取り崩して株式消却積立金120億円を計上したうえで[160]、1998年以降は毎年15億円ずつ消却を続けた[161]。
国内市場の伸び悩みに備え、INAXは製造販売会社を海外へ相次いで置いた[162]。1984年6月にマレーシアで衛生陶器を出資比率20%、1991年9月にスペインでシャワートイレを50%、1996年2月に韓国でユニットバスを33%、同年5月にベトナムで衛生陶器を55%、同年8月に中国蘇州で水栓金具を90%の比率で手がける各社を順に設立した[163]。国内では1989年から増改築専門店LIFAを出店し、1997年10月20日時点で全国210店舗まで広げた[164]。1997年4月11日には愛知県常滑市に『世界のタイル博物館』を開館し、特約店オーナーの山本正之氏が集めたタイル6,000点のうち約1,000点を常設展示した[165]。
1998年10月期にINAXは39億円の赤字を計上したが、1999年10月期には51億円の黒字へ転じた[166]。黒字転換を支えたのは、販管費の節減44億円、製品のコストダウン76億円、商品構成の変化6億円、輸送費の低減10億円、特別損失の減少58億円である[167]。反対に、売上減に伴う粗利の減少52億円、工場の操業低下による原価悪化18億円、製品の評価損と廃棄17億円、税金の増加16億円が利益を押し下げた[168]。1999年10月期の売上高は前期比7.5%、189億円減ったが、売上原価は10.2%、183億円下がって原価率は2.1ポイント低い69.0%となった[169]。
水谷千加古社長は、INAXの原価と経費の両面に踏み込み、3年間で実質190億円のコストダウンを実現した[170]。1998年から1999年の1年間の低減額120億円の内訳は、製造コストが45%、販管費が22%、人件費が22%、物流費が12%を占める[171]。人員は1998年10月から1999年10月までの1年で744名減り、その効果は26億円とみられる[172]。1998年末の早期退職支援制度では363名が退職し、1999年10月時点の在籍正社員は前年同月から612人減った[173]。こうした削減によって損益分岐点となる売上高は、1996年10月期の2,400億円から1999年10月期には2,050億円へ低下した[174]。
1999年10月、INAXは『ビジョン2005』に基づく第7次中期3カ年計画を策定した[175]。計画が掲げたのは、新築というフローから増改築とメンテナンスというストックへの対応を確立してサービス業型製造業へ進むこと、全社にサプライチェーン・マネジメントを入れて競争力を高めること、アジア事業の拡大、人と環境に優しい21世紀事業の創出、企業価値重視の経営の5点だった[176]。2000年には、年会費を払う会員へ水回りトラブルのサポートや保証期間の延長、修理費の値引きを提供するエンドユーザー向けサービス事業i-mateを始め[177]、同年6月には工務店や地場のホームビルダーへ配管設計を請け負う新会社プラムサイトを設けた[178]。室内の湿度を調整する健康建材『エコカラット』は従来のタイル販路以外に内装建材店が扱い、過去のヒット商品の3倍の速さで売上を伸ばした[179]。建材と住設機器の構成比は2000年に34対66となった[180]。
2000年12月、INAXの伊奈輝三会長がトステムの潮田健次郎会長へ電話を入れ、その持株会社構想を評価したうえで連携を打診した[181]。オーナー系企業のトップ同士で潮田健次郎会長と普段から懇意にしていた伊奈輝三会長は、成長戦略を描けないまま、1996年1月に社長を譲った水谷千加古社長とともに、経営体力のあるうちに将来を託せる相手と組む道をかねて模索していた[182]。両会長の間で方向性が固まると、1998年10月に潮田健次郎氏の後を継いだトステムの飛田英一社長とINAXの水谷千加古社長が、2001年2月下旬から交渉を詰めた[183]。交渉の本格開始から1カ月余りの2001年4月3日、両社は経営統合で合意した[184]。
統合の狙いは、両社で偏っていた販売ルートを補い合うことにあった[185]。INAXは水道工事店ルートのみで営業力が弱く、トステムが持つ工務店ルートを使えば収益拡大の道が開けるとみられた[186]。一方のトステムは新設住宅工事市場の約8割を占める地場工務店の取り込みを進めたが、リフォーム需要はキッチンやトイレなど水回りから生じることが多く、この分野のブランド力が弱いままリフォーム事業で出遅れていた[187]。新設住宅着工戸数は、消費税率引き上げ前の駆け込み需要で1996年度に163万戸まで伸びたあと、翌年からの反動と金融危機で急減し、2001年には120万戸程度へ落ちた[188]。
統合は2段階に分けて進めた[189]。2001年10月1日にトステムが純粋持株会社を設立して既存事業と子会社群をその管轄下へ移し、10月21日にはINAXと株式交換方式で共同持株会社を立ち上げた[190]。INAXはブランド名を残したまま事業会社として共同持株会社の傘下に入り、両社の連結売上高の合計は1兆円に迫った[191]。サッシ、ドア、便器、タイル、システムキッチン、ユニットバスまで揃える建材・住宅設備機器の総合メーカーが誕生した[192]。共同持株会社の会長には潮田健次郎氏、社長には水谷千加古氏が就き、副会長に伊奈輝三氏と飛田英一氏が並んだ[193]。
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|---|---|---|---|---|
| 1921〜1945年大倉和親氏と組んだ陶管製造から耐酸炻器一本への転換 | 匿名組合伊奈製陶所を創業 | ★★ | ||
| 伊奈製陶を設立 | ★★ | |||
| テラコッタの製造を開始 | ★ | |||
| 化学用耐酸炻器の製造を開始 | ★★ | |||
| 伊奈長三郎 | 伊奈長三郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 伊奈長三郎 | 衛生陶器の製造を開始 | ★★★ | ||
| 1946〜1966年タイル業界首位と衛生陶器第2位、米マクビーン社との長期協定 | 伊奈長三郎 | 名古屋証券取引所に上場 | ★ | |
| 伊奈長三郎 | 樹脂浴槽「ポリバス」の開発に成功 | ★★ | ||
| 伊奈長三郎 | グレーディング・マクビーン社と業務提携 | ★★ | ||
| 伊奈長三郎 | 公募増資により資本金を6億4000万円に増資 | ★ | ||
| 伊奈長三郎 | 上野工場を新設 | ★ | ||
| 1967〜1988年サニタリイナ61から住宅設備の総合メーカーへ | 臼井芳一 | 温水洗浄便座「サニタリーナ61」を発売 | ★★ | |
| 臼井芳一 | ユニットバスの製造を開始 | ★★ | ||
| 田辺三郎 | 節水便器「カスカディーナ」を発売 | ★ | ||
| 田辺三郎 | システムキッチンの製造を開始 | ★★ | ||
| 伊奈輝三 | 伊奈輝三氏が社長に就任 | ★ | ||
| 伊奈輝三 | イナックスに商号変更 | ★★★ | ||
| 1989〜2001年建材から住設への構成比逆転とトステムとの経営統合 | 伊奈輝三 | ジャニス工業と業務提携 | ★ | |
| 杉野正博 | 温水洗浄便座一体型便器「サティス」を発売 | ★★ | ||
| 杉野正博 | 株式移転によりINAXトステム・ホールディングスを設立 | ★★★ | ||
| 杉野正博 | 東京証券取引所市場第一部の上場を廃止 | ★ | ||
| INAXに商号変更 | ★ | |||
| アメリカンスタンダードのアジア太平洋事業を買収 | ★★ | |||
| LIXILに吸収合併され解散 | ★★★ |
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事実根拠:出所(INAX)