INAX:伊奈製陶の設立と耐酸炻器一本への転換
1924年〜伊奈初之丞氏の伊奈製陶所と大倉和親氏との提携
伊奈家は1766年以来、愛知県知多郡常滑で代々陶磁器を製造し、五代前の初代伊奈長三郎氏が長三と号して陶芸に名をなして以後、四代まで長三郎と長三の名を襲名して常滑の陶芸界で重きをなした。その家業の陶芸を捨てたのが、のちに伊奈製陶を設立する伊奈長三郎氏の父、伊奈初之丞氏である。伊奈初之丞氏は大量生産を目標とする近代工場の経営を志し、伊奈製陶所を名乗って陶管とタイルの製造を開始すると、1912年に土管機を考案し、1916年には乾式タイルの製法を完成させた。伊奈製陶が1956年に編んだ30年史は、株式会社の設立に先立つこの期間を伊奈製陶所時代と匿名組合伊奈製陶所の2節に分けて記す。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [1]伊奈長三郎氏の祖先は明和3年以来、代々陶磁器の製造を営んできた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊奈製陶」
- [2]五代前の初代伊奈長三郎が号を長三と称して陶芸に名をえて以来、四代まで代々長三郎および長三を襲名し、常滑陶芸界で重きをなした
- [3]伊奈長三郎氏の先代である伊奈初之丞に至って家業の陶芸を捨てた
- [4]伊奈初之丞は大量生産を目標とする近代工場の経営を志し、伊奈製陶所と称して陶管やタイルの製造を始めた
- [5]大正元年に土管機を考案し、大正5年に乾式タイルの製法を完成した
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- [6]30年史の第2篇沿革第1章は、伊奈製陶所時代・匿名組合伊奈製陶所・株式会社の設立の3節で構成される
伊奈長三郎氏は1890年に愛知県で生まれ、窯業の研究を志して1912年に東京高等工業学校を卒業し、家業を承継した。しかし個人経営の伊奈製陶所に満足しなかった伊奈長三郎氏が大資本の援助者を求めたとき、日本陶器と日本碍子の社長を務めていた大倉和親氏が、この求めに応じた。伊奈製陶の創立時の株主は、伊奈家、大倉家とその系統、一部の上級職員を合わせた18名だけで、株を他へ渡すには会社の同意が要ると定款に書き、譲渡を縛った。伊奈製陶株式会社の設立は1924年2月で、資本金は100万円、伊奈長三郎氏が大倉和親氏と手を組んでの創業だった。伊奈氏自身は設立と同時に常務となった。大倉氏の後押しは資金だけでなく人にも及び、日本陶器から来た臼井芳一氏が同じ年に入社し、1933年には取締役に名を連ねた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「伊奈製陶」
- [7]伊奈長三郎は明治23年愛知県生まれ、明治45年東京高等工業学校卒。窯業の研究を志し、卒業後に家業を継いだ
- [11]大正13年2月、伊奈長三郎が大倉和親と提携して資本金100万円で伊奈製陶株式会社を設立
- [12]伊奈長三郎は大正13年に常務、昭和14年に社長
- [13]専務臼井芳一は日本陶器出身、大正13年入社、昭和8年取締役
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊奈製陶」
- [8]個人経営の伊奈製陶所に満足せず、大資本の援助者を求めていた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [9]大倉和親は日本陶器・日本碍子の社長であり、伊奈長三郎と結ばれた
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第3篇 経営 第1章 株主と株式
- [10]創立当時の株主構成は伊奈家・大倉和親氏及びその系統に一部上級職員を加えた僅かに18名で、株式を譲渡するときは会社の承諾を要する旨を定款に定めて譲渡を制限した
伊奈製陶は設立時に、米国式製管方法による高級陶管の大量生産を目標へ掲げた。米国からスチームプレス式陶管製造設備一式を買い入れ、愛知県知多郡常滑町の扇面新田に工場を建設して操業に入ると、この扇面新田が以後の伊奈製陶の本社工場となった。資本金100万円のうち払い込まれたのは75万円。創業当初の製造品目はタイルと陶管の2つだけで、翌1925年に建築外装用の陶刻であるテラコッタを加えると、陶管は本社工場、タイルとテラコッタは分工場が受け持った。創立当時の従業員数は約170名前後で、販売の拠点は伊奈製陶所時代の1921年に東京へ設けた出張所に始まった。伊奈製陶は30年史に伊奈家の祖先と陶業の節を置き、そこへ並べて大倉和親氏一家の節も立てた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [14]会社設立の数年前から米国式製管方法による高級陶管の大量生産を企図していた
- [15]大倉和親の資本的援助を得て、米国よりスチームプレス式陶管製造設備一式を購入、現在地に工場を建設して発足した
- [19]タイルとテラコッタは分工場で製造していた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「伊奈製陶」
- [16]本社所在地は愛知県常滑市字扇面新田中300(本社工場)
- [17]大正13年2月5日払込の設立時資本金は750千円、公称1,000千円
- [18]創業当初の製造品目はタイルと陶管のみ。大正14年にテラコッタ(陶刻)の製造を開始
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第6篇 労務・厚生 第1章 労務状況
- [20]創立当時の従業員数は約170名前後であった
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第5篇 販売 第1章 販売の沿革
- [21]販売の拠点である出張所は、大正10年伊奈製陶所時代に東京に設けられたのに始まる
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- [22]30年史の第2篇沿革第2章は、第6節に伊奈家の祖先と陶業、第7節に大倉和親氏一家を置く
参考文献[1]-[22]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [1]伊奈長三郎氏の祖先は明和3年以来、代々陶磁器の製造を営んできた
- [9]大倉和親は日本陶器・日本碍子の社長であり、伊奈長三郎と結ばれた
- [14]会社設立の数年前から米国式製管方法による高級陶管の大量生産を企図していた
- [15]大倉和親の資本的援助を得て、米国よりスチームプレス式陶管製造設備一式を購入、現在地に工場を建設して発足した
- [19]タイルとテラコッタは分工場で製造していた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊奈製陶」
- [2]五代前の初代伊奈長三郎が号を長三と称して陶芸に名をえて以来、四代まで代々長三郎および長三を襲名し、常滑陶芸界で重きをなした
- [3]伊奈長三郎氏の先代である伊奈初之丞に至って家業の陶芸を捨てた
- [4]伊奈初之丞は大量生産を目標とする近代工場の経営を志し、伊奈製陶所と称して陶管やタイルの製造を始めた
- [5]大正元年に土管機を考案し、大正5年に乾式タイルの製法を完成した
- [8]個人経営の伊奈製陶所に満足せず、大資本の援助者を求めていた
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- [6]30年史の第2篇沿革第1章は、伊奈製陶所時代・匿名組合伊奈製陶所・株式会社の設立の3節で構成される
- [22]30年史の第2篇沿革第2章は、第6節に伊奈家の祖先と陶業、第7節に大倉和親氏一家を置く
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「伊奈製陶」
- [7]伊奈長三郎は明治23年愛知県生まれ、明治45年東京高等工業学校卒。窯業の研究を志し、卒業後に家業を継いだ
- [11]大正13年2月、伊奈長三郎が大倉和親と提携して資本金100万円で伊奈製陶株式会社を設立
- [12]伊奈長三郎は大正13年に常務、昭和14年に社長
- [13]専務臼井芳一は日本陶器出身、大正13年入社、昭和8年取締役
- [16]本社所在地は愛知県常滑市字扇面新田中300(本社工場)
- [17]大正13年2月5日払込の設立時資本金は750千円、公称1,000千円
- [18]創業当初の製造品目はタイルと陶管のみ。大正14年にテラコッタ(陶刻)の製造を開始
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第3篇 経営 第1章 株主と株式
- [10]創立当時の株主構成は伊奈家・大倉和親氏及びその系統に一部上級職員を加えた僅かに18名で、株式を譲渡するときは会社の承諾を要する旨を定款に定めて譲渡を制限した
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第6篇 労務・厚生 第1章 労務状況
- [20]創立当時の従業員数は約170名前後であった
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第5篇 販売 第1章 販売の沿革
- [21]販売の拠点である出張所は、大正10年伊奈製陶所時代に東京に設けられたのに始まる
1926年〜高級陶管の売行不振と85万円への減資
伊奈製陶が設立時に企てた米国式の高級陶管の大量生産は、需要家に認識されないまま売行き不振に終わった。米国から一式で買い入れた設備は動いても、その製品を買う相手が国内に育っておらず、売れなかった理由は認識不足だけでなく、コスト高も重なって伊奈製陶は在庫に悩まされた。会社設立の眼目がこの陶管の製造にあった以上、その成績は会社の運命にかかわり、販売活動は社運を賭したものになった。設立からわずか2年後の1926年2月、伊奈製陶は資本金を85万円へ減らした。伊奈製陶は1956年に編んだ30年史で、設立から終戦までの沿革を創業苦難時代・基礎確立時代・発展雄飛時代・戦時統制時代の4期に区切り、戦後を復興躍進時代と名づけた。減資と同じ1926年には、のちに取締役となる小笠原長勝氏が入社した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [23]当初、米国式の高級陶管は需要家に認識されず売行不振だった
- [24]米国よりスチームプレス式陶管製造設備一式を購入して工場を建設したが、高級陶管は需要家に認識されなかった
- [27]設立は大正13年2月、減資は大正15年2月
- [28]大正15年2月、85万円に減資した
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第5篇 販売 第1章 販売の沿革
- [25]需要家の認識不足とコスト高のため予期の成績が上らずストックに悩まされた
- [26]会社設立の眼目が米国製スチームプレス式陶管の製造にあったので、その成績如何は会社の運命にかかわり、その販売活動は正に社運を賭しての懸命なものであった
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- [29]30年史の第2篇沿革第2章は、創業苦難時代・基礎確立時代・発展雄飛時代・戦時統制時代・復興躍進時代の各節からなる
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「伊奈製陶」
- [30]常務小笠原長勝は大正15年入社、昭和23年取締役、昭和36年常務
減資の後、伊奈製陶の陶管は需要家に品質を認められて販路が広がり、設立以来工場に積み上がっていた在庫品も、この時期に一掃した。滞貨を引き取ったのは東京市で、伊奈製陶は1928年の東京市の入札に成功して在庫を売り切り、これを機に需要を掘り起こした。陶管の大口需要者は官公庁が主で、陶管と電纜管は特約店を通す販売が少なかった。陶管の中身は一様ではなく、伊奈製陶はマンガン釉薬と食塩釉薬を用途で使い分けたうえ、上水管・シンターパイプ・農耕土管といった特質管を品目に持った。30年史は過去の製品を並べた章で、陶管とは別に電燈管の節も立てた。伊奈製陶はさらに、地下送電線の保護管路である陶製電纜管の製造に成功して大量生産に入り、上下水道と農地の土管として始まった陶管が電力会社の地下配線にも収まった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [31]その後逐次品質が認められ、販路も拡張された
- [32]長年の在庫品を一掃した
- [37]新たに地下送電線保護管路である陶製電纜管の製造に成功し、大量生産を開始した
- [38]陶管の品目に上水管・農耕土管が含まれ、別に地下送電線保護管路の陶製電纜管を量産した
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第5篇 販売 第1章 販売の沿革
- [33]昭和3年に至って東京市の入札に成功して在庫品を一掃し、これを機会に需要を喚起し、以後は順調な発展を遂げた
- [34]陶管の大口需要者は主に官公庁であり、陶管・電纜管は特約店販売が少なかった
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- [35]30年史の陶管の節は、マンガン釉薬と食塩釉薬、および特質管(上水管・シンターパイプ・農耕土管)を項目に持つ
- [36]30年史の第4篇生産第4章「当社過去の製品」は、第3節に陶管、第4節に電燈管を置く
分工場で製造していたタイルとテラコッタは、大正末期からの西洋建築の勃興を受けて需要が増え、1934年、伊奈製陶はテラコッタ製造設備を分工場から本社工場へ移して増設した。同じ年に本社工場の一部を割いて始めた化学工業用の耐酸炻器は、当時急速に進歩していた化学工業が装置に組み込む部材で、建築と土木の材料だった陶管・タイル・テラコッタとは買い手が異なる。伊奈製陶は建築材料の外側にある需要を、この年から工場の一角で受け始めた。30年史は耐酸炻器の節に耐酸セメントを併記しており、伊奈製陶は器材とあわせて接合材も手がけた。耐酸炻器の需要家は化学工業会社で、製品の性質上メーカーと需要家が直結する形が望まれ、販売は販売店を経由しない直接契約が主となった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [39]分工場で製造していたタイルとテラコッタは、大正末期よりの西洋建築勃興に伴い需要が増大した
- [40]昭和9年、テラコッタ製造設備を本社工場に移転・増設した
- [41]工場の一部をさいて、化学工業用耐酸炻器の製造も開始した
- [42]耐酸炻器は当時急速に進歩してきた化学工業向けの製品である
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「伊奈製陶」
- [43]昭和9年に化学用耐酸炻器の製造を開始した
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- [44]30年史の第4篇生産第4章第5節は耐酸炻器で、耐酸セメントを併記する
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第5篇 販売 第1章 販売の沿革
- [45]耐酸炻器の需要家は化学工業会社が主体で、製品の性質上メーカーと需要家との直結が望ましく、販売店を経由せず直接契約が主であった
参考文献[23]-[45]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [23]当初、米国式の高級陶管は需要家に認識されず売行不振だった
- [24]米国よりスチームプレス式陶管製造設備一式を購入して工場を建設したが、高級陶管は需要家に認識されなかった
- [27]設立は大正13年2月、減資は大正15年2月
- [28]大正15年2月、85万円に減資した
- [31]その後逐次品質が認められ、販路も拡張された
- [32]長年の在庫品を一掃した
- [37]新たに地下送電線保護管路である陶製電纜管の製造に成功し、大量生産を開始した
- [38]陶管の品目に上水管・農耕土管が含まれ、別に地下送電線保護管路の陶製電纜管を量産した
- [39]分工場で製造していたタイルとテラコッタは、大正末期よりの西洋建築勃興に伴い需要が増大した
- [40]昭和9年、テラコッタ製造設備を本社工場に移転・増設した
- [41]工場の一部をさいて、化学工業用耐酸炻器の製造も開始した
- [42]耐酸炻器は当時急速に進歩してきた化学工業向けの製品である
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第5篇 販売 第1章 販売の沿革
- [25]需要家の認識不足とコスト高のため予期の成績が上らずストックに悩まされた
- [26]会社設立の眼目が米国製スチームプレス式陶管の製造にあったので、その成績如何は会社の運命にかかわり、その販売活動は正に社運を賭しての懸命なものであった
- [33]昭和3年に至って東京市の入札に成功して在庫品を一掃し、これを機会に需要を喚起し、以後は順調な発展を遂げた
- [34]陶管の大口需要者は主に官公庁であり、陶管・電纜管は特約店販売が少なかった
- [45]耐酸炻器の需要家は化学工業会社が主体で、製品の性質上メーカーと需要家との直結が望ましく、販売店を経由せず直接契約が主であった
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- [29]30年史の第2篇沿革第2章は、創業苦難時代・基礎確立時代・発展雄飛時代・戦時統制時代・復興躍進時代の各節からなる
- [35]30年史の陶管の節は、マンガン釉薬と食塩釉薬、および特質管(上水管・シンターパイプ・農耕土管)を項目に持つ
- [36]30年史の第4篇生産第4章「当社過去の製品」は、第3節に陶管、第4節に電燈管を置く
- [44]30年史の第4篇生産第4章第5節は耐酸炻器で、耐酸セメントを併記する
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「伊奈製陶」
- [30]常務小笠原長勝は大正15年入社、昭和23年取締役、昭和36年常務
- [43]昭和9年に化学用耐酸炻器の製造を開始した
1937年〜半磁器タイルの量産と全工場の耐酸炻器への集約
品目は半磁器タイルに限らず、陶器タイル、タペストリー・スクラッチ・粗面の湿式無釉外装タイル、クリンカータイル、ブルノーズタイルまで揃っていた。1937年には新製品の半磁器タイルの製造に成功し、設備を新たに設けて量産に入った。ただ製法と品質の関係で、一般の白タイルを約2割上回る値でなければ採算に乗らない。そこで営業部に宣伝専任の係を置き、全国の都市で特約店を111店新たに設けて売り込んだ。設備は設立からの年月とともに厚みを増し、1937年の時点で早くも1955年とほとんど同じ規模に届いていた。売り先は国内から朝鮮・満州・中国へ、さらに米国にまで及んだ。伊奈製陶は輸出係を設けて出張員を派遣し、続いて海外出張所を開設して円ブロック向けの輸出を扱い、技術者は欧米へ送り出した。
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- [46]30年史は、当社過去の製品のタイルの節に陶器タイル・湿式無釉外装タイル(タペストリー・スクラッチ・粗面タイル)・クリンカータイル・ブルノーズタイル等を挙げる
- [51]30年史の輸出の章は、輸出係の設置と出張員派遣時代・海外出張所時代(円ブロック輸出)・戦後の輸出の3節からなる
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [47]昭和12年、新製品半磁器タイルの製造に成功し、生産設備を新設して大量生産を開始した
- [49]生産設備は年とともに充実整備され、昭和12年にはほぼ現在(1955年時点)の規模となった
- [50]販売網も国内はもちろん、朝鮮・満州・中国、さらに米国に拡張した
- [52]技術者を欧米に派遣して技術の向上を図った
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第5篇 販売 第1章 販売の沿革
- [48]半磁器タイルは製造方法と品質の上から一般白タイルより約2割方高く売らねば採算がとれず、営業部内に専任の宣伝係を設け、全国の都市に111店の特約店を設けて販売網を充実させた
1924年の設立時から常務を務めた伊奈長三郎氏が、15年を経た1939年に伊奈製陶の社長へ就任した。化学工業の発展につれて耐酸炻器の需要は年を追って増え、伊奈製陶は陶管とテラコッタの製造を廃止して耐酸炻器へ切り替えると、1942年にはタイルの製造も止め、全工場を挙げて耐酸炻器の生産に傾注した。設立の目的だった米国式の高級陶管も、大正末期に需要をつかんだテラコッタも、1937年に量産へ入ったばかりの半磁器タイルも、この整理で工場から消えた。建築と土木に納める会社として始めた伊奈製陶は、設立から18年で化学工業へ納める会社に入れ替わった。日華事変の後に出された物価統制令は伊奈製陶の製品価格を釘付けにし、原料資材と賃金の高騰で採算が合わなくなったため、数次の改訂を経てようやく採算が取れた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「伊奈製陶」
- [53]伊奈長三郎は大正13年に常務、昭和14年に社長
- [54]伊奈長三郎は昭和14年に社長へ就任した
- [55]化学工業の発展につれ逐年耐酸炻器の需要が増加し、陶管・テラコッタの製造を廃止して耐酸炻器の生産に全力をあげた
- [58]創業当初は陶管も生産したが、戦時中に製造を廃止し、かわって耐酸炻器を増産した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊奈製陶」
- [56]昭和17年にはタイルも止め、全工場あげて耐酸炻器の生産に傾注し終戦を迎えた
- [57]陶管・テラコッタの製造を廃止し、昭和17年にはタイルの製造も止めた
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第5篇 販売 第1章 販売の沿革
- [59]日華事変勃発間もなく物価統制令により当社製品は価格が釘付けとなったが、原料資材並びに賃金の昂騰により採算が合わなくなったので改訂促進に努力し、数次の改訂を見て漸く採算がとれた
戦時中、伊奈製陶は全工場で軍用の耐酸炻器を生産し、この期間を30年史では戦時統制時代と名づけた。常滑の工場は戦災を受けずに設備をそのまま残して終戦を迎え、生産は本社工場と分工場だけでまかない、設立時に据えた米国式の陶管設備も、1934年に加えた耐酸炻器の設備も、この2工場に収まっていた。終戦の時点で資本金は135万円だった。1924年の設立時に払い込まれた75万円と比べると21年で1.8倍にすぎず、大きな資金集めをしないまま伊奈製陶は終戦を迎えたことになる。戦前には販売の担い手も加わっていた。1935年に入社した佐藤商会出身の大岩和雄氏である。1945年12月30日付、終戦から4か月後に、伊奈製陶は職員147名と工員562名、合わせて709名の全員に解雇を言い渡し、積み立ててきた退職手当金を払った。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [60]戦時中はあげて軍用耐酸炻器の生産を行った
- [62]戦災を受けずに終戦を迎えた
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- [61]30年史の第2篇沿革第2章第4節は戦時統制時代である
- [63]30年史の第4篇生産第5章工場の設備沿革は、創立当時の規模・分工場の設備沿革・本社工場の設備沿革からなる
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「伊奈製陶」
- [64]終戦時の資本金は1,350千円(公称1,350千円)
- [65]設立時の払込資本金750千円に対し、終戦時は1,350千円。次の増資は昭和23年9月30日の10,000千円
- [66]取締役大岩和雄は佐藤商会出身、昭和10年入社、昭和33年取締役
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第6篇 労務・厚生 第1章 労務状況
- [67]昭和20年8月の終戦により産業界将来の見透しも立たないので、昭和20年12月30日附を以て職員147名、工員562名、計709名の全員を解雇し、それまで蓄積した退職手当金を支給した
参考文献[46]-[67]
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- [46]30年史は、当社過去の製品のタイルの節に陶器タイル・湿式無釉外装タイル(タペストリー・スクラッチ・粗面タイル)・クリンカータイル・ブルノーズタイル等を挙げる
- [51]30年史の輸出の章は、輸出係の設置と出張員派遣時代・海外出張所時代(円ブロック輸出)・戦後の輸出の3節からなる
- [61]30年史の第2篇沿革第2章第4節は戦時統制時代である
- [63]30年史の第4篇生産第5章工場の設備沿革は、創立当時の規模・分工場の設備沿革・本社工場の設備沿革からなる
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- [47]昭和12年、新製品半磁器タイルの製造に成功し、生産設備を新設して大量生産を開始した
- [49]生産設備は年とともに充実整備され、昭和12年にはほぼ現在(1955年時点)の規模となった
- [50]販売網も国内はもちろん、朝鮮・満州・中国、さらに米国に拡張した
- [52]技術者を欧米に派遣して技術の向上を図った
- [60]戦時中はあげて軍用耐酸炻器の生産を行った
- [62]戦災を受けずに終戦を迎えた
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第5篇 販売 第1章 販売の沿革
- [48]半磁器タイルは製造方法と品質の上から一般白タイルより約2割方高く売らねば採算がとれず、営業部内に専任の宣伝係を設け、全国の都市に111店の特約店を設けて販売網を充実させた
- [59]日華事変勃発間もなく物価統制令により当社製品は価格が釘付けとなったが、原料資材並びに賃金の昂騰により採算が合わなくなったので改訂促進に努力し、数次の改訂を見て漸く採算がとれた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「伊奈製陶」
- [53]伊奈長三郎は大正13年に常務、昭和14年に社長
- [54]伊奈長三郎は昭和14年に社長へ就任した
- [55]化学工業の発展につれ逐年耐酸炻器の需要が増加し、陶管・テラコッタの製造を廃止して耐酸炻器の生産に全力をあげた
- [58]創業当初は陶管も生産したが、戦時中に製造を廃止し、かわって耐酸炻器を増産した
- [64]終戦時の資本金は1,350千円(公称1,350千円)
- [65]設立時の払込資本金750千円に対し、終戦時は1,350千円。次の増資は昭和23年9月30日の10,000千円
- [66]取締役大岩和雄は佐藤商会出身、昭和10年入社、昭和33年取締役
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊奈製陶」
- [56]昭和17年にはタイルも止め、全工場あげて耐酸炻器の生産に傾注し終戦を迎えた
- [57]陶管・テラコッタの製造を廃止し、昭和17年にはタイルの製造も止めた
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第6篇 労務・厚生 第1章 労務状況
- [67]昭和20年8月の終戦により産業界将来の見透しも立たないので、昭和20年12月30日附を以て職員147名、工員562名、計709名の全員を解雇し、それまで蓄積した退職手当金を支給した
筆者考察
伊奈製陶が設立から21年でやったのは、工場を増やすことではなく、窯で焼く品目を買い手ごと入れ替えることだった。1924年に大倉和親氏の資本で据えた米国式のスチームプレス式陶管は、買う相手が国内に育っておらず、2年で資本金を85万円へ減らすところまで会社を追い込んだ。これを救ったのは新しい設備ではなく、1928年の東京市の入札という新しい買い手である。以後も同じことが続いた。陶管は上下水道と農地から電力会社の地下配線へ、タイルとテラコッタは西洋建築へ、1934年に工場の一角で始めた耐酸炻器は化学工業へ。常滑の本社工場と分工場は動かないまま、そこから出ていく先だけが替わった。
差し替えには代価があった。1937年に量産へ入った半磁器タイルは、一般の白タイルより2割方高く売らなければ採算が取れない製品で、伊奈製陶は専任の宣伝係と111店の特約店を置いてその市場を自分で作った。それを1942年に自ら止めている。設立の目的だった高級陶管も、大正末期に需要をつかんだテラコッタも同じ順で消え、全工場が軍納の耐酸炻器へ向いた。建築と土木に納める会社は、設立から18年で化学工業に納める会社へ入れ替わった。終戦の日に残っていたのは、戦災を免れた2つの工場と、設立時の1.8倍にすぎない資本金135万円である。その4か月後、709名の従業員は全員が解雇された。
出典・参考
7件
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)目次
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第3篇 経営 第1章 株主と株式
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第6篇 労務・厚生 第1章 労務状況
- 伊奈製陶株式会社30年史(伊奈製陶、1956年)第5篇 販売 第1章 販売の沿革
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 28_陶磁器「伊奈製陶」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊奈製陶」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「伊奈製陶」