1904年に森村市左衞門氏ら森村組の首脳が愛知県鷹羽村則武に創立した日本陶器合名会社が起源。
1914年にわが国初のディナーセットを完成させ、衛生陶器と碍子の部門を後のTOTOと日本碍子として分離した。現在は研削砥石と電子部品向けセラミック材料を主力とする窯業メーカーである。
1904年1月1日、森村組の首脳は愛知県愛知郡鷹羽村大字則武の水田地帯に日本陶器合名会社を創立した。発起には森村市左衞門氏・大倉孫兵衞氏・廣瀬實榮氏らが加わり、資本金は10万円だった。社名は名古屋製陶会社の案を退け、海外進出を見据えて地名を冠さない日本陶器とした。設立の動機は、品質の粗い国産陶磁器では海外への輸出を拡大できないという認識にあった。当時の国内陶業は家内工業の域を出ず、1879年ごろから有田・瀬戸・京都で試みた製陶機械の導入もすべて失敗に終わった。日本陶器は欧式二階丸窯を中心に据え、トロンメルやフィルタープレスをドイツから輸入して工場を組み立てた。米国へ陶磁器を輸出していた森村組が製造まで自社で抱えたのは、窯元からの仕入れでは輸出品の質と量を揃えられないと判断したためだろう。
創立前年の1903年8月、大倉孫兵衞氏の一行はベルリンの粘土工業化学研究所に日本産原料の分析と生地調合の研究を依頼した。研究所が勧めた調合から1つを採り、日本陶器は三・三生地と呼んでディナーウェア向けの改良を重ねた。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の設計図を改良した倒炎式の二階丸窯で、国内で初めて石炭で焼成する窯だった。成形では原型からケースを経て型を作る四段法で石膏型を量産し、機械ロクロと流し込みを活かした。試験調合は5年間で約940点に上り、1906年には焼成成績が平均68.9%に上がった。それでも森村組の米英向け白生地に占める日本陶器製は1907年に15%にとどまり、90%を超えたのは1915年だった。
ディナーセットの要となる8寸皿(25cmのディナー皿)は、従来の生地ではどうしても焼き上がらなかった。蛙目粘土を増やせば白さが損なわれ、減らせば焼成中に形が崩れた。1912年に窯を11基まで増やした時点でも、主力はペン皿や置物で純白の硬質磁器は生産できていなかった。1909年7月に加わった技師の江副孫右衞門氏はリモージュの生地を分析し、その成分を目標に調合を重ねた。1910年10月に技師長の飛鳥井孝太郎氏が退社し、研究は江副孫右衞門氏が率いた。米国市場の要望に応えるため、1912年3月に大倉和親氏が渡欧し、江副孫右衞門氏らが続いた。一行はベルリンのクラーマー博士とカールスバットの製陶工場で生地の製法を学んだ。
クラーマー博士は、原料の純度と坏土の粒子の細かさ、坏土をねかせる期間の3点を重く見るよう説いた。江副孫右衞門氏らは天草陶石54%のうち18%をドイツ産のチェットリッツカオリンに置き換え、トロンメルの回転を18時間から25時間に延ばした。1913年7月に8寸皿の試作に成功したが、工場で焼くと皿の中心が凹んだ。フランス製の皿が中心ほど厚いことを知って肉の付け方を改め、1914年6月にディナーセットを完成させた。受注は1916年の1万組から1918年の4万組へ増え、米国向け受渡額に占めるディナーセットの割合は1921年に60.7%となった。揃いの食器の完成は、森村組の対米輸出を単品の装飾品から食卓の一式へ移す転機になったと思われる。
1914年に第一次世界大戦が始まると欧州からの輸出が途絶え、日本陶器の製品に米国などから注文が集まった。窯は1915年からの3年間で17基を新設し、1917年末に合計28基となった。転写紙や石膏、水金も輸入が止まったため、自社での製造に着手した。販路は北米のほか南米・豪州・インド・南アフリカへ広がった。事業の拡大に備えて、1917年7月20日に資本金10万円で日本陶器株式会社を創立し、大倉和親氏が社長に就任した。同年9月の臨時株主総会で合名会社の合併と資本金200万円への増資を決め、12月に合名会社の事業一切を引き継いだ。合名会社のままでは増産に見合う資本を外から調達しにくかったと推察される。
日本陶器は1912年1月に製陶研究所を設け、西山貞氏を主任に据えて衛生陶器の基礎実験を始めた。1914年8月には大阪の浜田商店へ便器や洗面器を出荷し、国産の衛生陶器の第一号となった。1915年7月に欧米を視察した社長の大倉和親氏は事業の将来性を確信し、福岡県小倉市に約3万坪の用地を取得した。小倉市を選んだのは、筑豊の石炭と天草陶石を得やすく、門司港から輸出できる立地だったためである。1916年6月に小倉工場が操業を始め、鉄道や病院、学校から衛生陶器の注文が増えた。1917年5月15日、日本陶器は小倉工場を分離し、資本金100万円の東洋陶器株式会社を創立した。同年10月には、名古屋にあった製陶研究所も小倉市への移転を終えた。
日本陶器は1905年に特別高圧碍子の国産化研究に着手し、芝浦製作所の技師である岸敬二郎氏の勧めと指導を受けた。1907年11月に芝浦製作所向けの1万5,000V用碍子を初めて出荷し、宇治川・鬼怒川・桂川の電力会社からも受注した。1909年ごろには芝浦製作所の比較試験で、輸入品より生地が緻密で強度も高いと確かめられた。第一次世界大戦後も各地で発電所の建設が続き、碍子部には技術の刷新と生産力の増強が求められた。1919年5月5日、日本陶器は碍子部門を分離し、名古屋市南区熱田東町に新工場を計画する資本金200万円の日本碍子株式会社を創立した。社長には大倉和親氏が就任し、碍子に関する権利義務はすべて新会社へ移した。
大戦後の反動不況で、日本陶器は生産原価の引き下げと事務の効率化を迫られた。1925年9月に国内で初めてIBMの計算機を導入し、1930年には二頭式の自動ロクロを自社で開発した。欧州品との競争で優位を保つため、1931年1月にドイツのケラ式トンネル窯の特許権を10万マルクで取得した。1933年4月には、このトンネル窯を中心に工場の大改造に着手した。単独丸窯28基を廃してトンネル窯7基を築き、同じ1933年にはボーンチャイナの製造に成功した。1936年10月には東洋陶器・日本碍子と共同で資本金50万円の共立原料株式会社を設立し、社長に百木三郎氏が就任した。連続焼成の窯と自動成形の設備を揃えた経験が、次の時代の研削砥石の量産を支える土台になったとみられる。
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事実根拠:出所(ノリタケ)