ノリタケ の歴史

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沿革

1904〜2024年 1904年に森村市左衞門氏ら森村組の首脳が愛知県鷹羽村則武に創立した日本陶器合名会社が起源。1914年にわが国初のディナーセットを完成させ、衛生陶器と碍子の部門を後のTOTOと日本碍子として分離した。現在は研削砥石と電子部品向けセラミック材料を主力とする窯業メーカーである。

沿革

1904年に森村市左衞門氏ら森村組の首脳が愛知県鷹羽村則武に創立した日本陶器合名会社が起源。

1914年にわが国初のディナーセットを完成させ、衛生陶器と碍子の部門を後のTOTOと日本碍子として分離した。現在は研削砥石と電子部品向けセラミック材料を主力とする窯業メーカーである。

1904年〜創業期日本陶器合名会社の創立とディナーセットの完成

  1. 森村市左衛門・大倉孫兵衛・廣瀬實榮らが日本陶器合名会社を創立
  2. 自家用研削砥石の製造開始
  3. 衛生陶器の製造研究のため製陶研究所を設置
  4. わが国初のディナーセットを完成
  5. 米国ラーキン社から食器を大量受注
  6. 衛生陶器部門を東洋陶器として分離
  7. 合名会社から株式会社に改組
  8. 大倉陶園を設立
  9. 碍子部門を日本碍子として分離
  10. ボーンチャイナの製造開始
  11. 原料部門を共立原料として分離
ノリタケ売上高

1939年〜転換期工業用研削砥石への全面転換と東証一部上場

  1. 工業用研削砥石の本格的製造開始
  2. 研削砥石に全面転換
  3. 磁器製造再開
  4. 東京・大阪・名古屋証券取引所の市場第一部に上場
  5. 神守工場操業開始
  6. 三好工場操業開始
ノリタケ売上高1970年11月期211億円

1971年〜安定成長期ビトリファイドCBNホイールの完成と電子材料への多角化

  1. 世界初のビトリファイドCBNホイールを完成
  2. スリランカに食器製造会社Lanka Porcelainを設立
  3. ダイヤモンド工具のノリタケダイヤを設立
  4. 蛍光表示管の伊勢電子工業に経営参加
  5. 世界初の厚膜型サーマルペンを開発
  6. 電子材料のノリタケ機材を設立
  7. ノリタケカンパニーリミテドに商号変更
  8. 日東石膏を吸収合併
  9. ファインセラミックスの三好セラミックスを設立
  10. 研磨布紙の日本コーテッドアブレーシブを子会社化
  11. 本社敷地にノリタケの森を開設
  12. セラミック原料・電子部材の共立マテリアルを子会社化
ノリタケ売上高1984年11月期666億円

2002年〜転換期事業持株会社制への移行と日本レヂボンの買収

  1. 事業持株会社制度に移行
  2. 東芝セラミックスファーネスを子会社化
  3. 太陽電池用電極ペーストMAXSUNNYの販売開始
  4. 本社工場を三好事業所に移転
  5. 日本レヂボンを公開買付けにより連結子会社化
  6. 日本フレキ産業を完全子会社化
  7. 東京証券取引所プライム市場、名古屋証券取引所プレミア市場に移行
  8. ノリタケに商号変更
ノリタケ売上高2026年3月期1,429億円
長期業績の推移 1950〜2026年

業績

ノリタケ:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年11月期〜2026年3月期

第1章 1904年〜 日本陶器合名会社の創立とディナーセットの完成

1904年〜鷹羽村則武の水田に建てた森村組の欧式製陶工場と、白色硬質磁器の調合研究

1904年1月1日、森村組の首脳は愛知県愛知郡鷹羽村大字則武の水田地帯に日本陶器合名会社を創立した。発起には森村市左衞門氏・大倉孫兵衞氏・廣瀬實榮氏らが加わり、資本金は10万円だった。社名は名古屋製陶会社の案を退け、海外進出を見据えて地名を冠さない日本陶器とした。設立の動機は、品質の粗い国産陶磁器では海外への輸出を拡大できないという認識にあった。当時の国内陶業は家内工業の域を出ず、1879年ごろから有田・瀬戸・京都で試みた製陶機械の導入もすべて失敗に終わった。日本陶器は欧式二階丸窯を中心に据え、トロンメルやフィルタープレスをドイツから輸入して工場を組み立てた。米国へ陶磁器を輸出していた森村組が製造まで自社で抱えたのは、窯元からの仕入れでは輸出品の質と量を揃えられないと判断したためだろう。

  • 日本陶器七十年史(1974)「一章 日本陶器合名会社の設立」
    • [1]1904年1月1日、森村組首脳が愛知県愛知郡鷹羽村大字則武に日本陶器合名会社を創立。当時の陶業は家内工業の域を出ず、1879年頃の有田・瀬戸、1886年の京都での製陶機械導入はいずれも挫折。工場は欧式二階丸窯とドイツ製トロンメル・フィルタープレス等を備えた。社名は名古屋製陶会社でほぼ決まっていたが地方名を避けて日本陶器合名会社とした
    • [3]1904年1月1日、森村組首脳が愛知県愛知郡鷹羽村大字則武に日本陶器合名会社を創立。当時の陶業は家内工業の域を出ず、1879年頃の有田・瀬戸、1886年の京都での製陶機械導入はいずれも挫折。工場は欧式二階丸窯とドイツ製トロンメル・フィルタープレス等を備えた。社名は名古屋製陶会社でほぼ決まっていたが地方名を避けて日本陶器合名会社とした
    • [5]1904年1月1日、森村組首脳が愛知県愛知郡鷹羽村大字則武に日本陶器合名会社を創立。当時の陶業は家内工業の域を出ず、1879年頃の有田・瀬戸、1886年の京都での製陶機械導入はいずれも挫折。工場は欧式二階丸窯とドイツ製トロンメル・フィルタープレス等を備えた。社名は名古屋製陶会社でほぼ決まっていたが地方名を避けて日本陶器合名会社とした
    • [6]1904年1月1日、森村組首脳が愛知県愛知郡鷹羽村大字則武に日本陶器合名会社を創立。当時の陶業は家内工業の域を出ず、1879年頃の有田・瀬戸、1886年の京都での製陶機械導入はいずれも挫折。工場は欧式二階丸窯とドイツ製トロンメル・フィルタープレス等を備えた。社名は名古屋製陶会社でほぼ決まっていたが地方名を避けて日本陶器合名会社とした
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本陶器」
    • [2]日本陶器合名は1904年、森村市左衞門・大倉孫兵衞・広瀬実栄らが資本金10万円で設立。動機は国産陶磁器の品質粗悪で海外市場に発展しがたい状態の改良
    • [4]日本陶器合名は1904年、森村市左衞門・大倉孫兵衞・広瀬実栄らが資本金10万円で設立。動機は国産陶磁器の品質粗悪で海外市場に発展しがたい状態の改良

創立前年の1903年8月、大倉孫兵衞氏の一行はベルリンの粘土工業化学研究所に日本産原料の分析と生地調合の研究を依頼した。研究所が勧めた調合から1つを採り、日本陶器は三・三生地と呼んでディナーウェア向けの改良を重ねた。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の設計図を改良した倒炎式の二階丸窯で、国内で初めて石炭で焼成する窯だった。成形では原型からケースを経て型を作る四段法で石膏型を量産し、機械ロクロと流し込みを活かした。試験調合は5年間で約940点に上り、1906年には焼成成績が平均68.9%に上がった。それでも森村組の米英向け白生地に占める日本陶器製は1907年に15%にとどまり、90%を超えたのは1915年だった。

  • 日本陶器七十年史(1974)「二章 技術の進展」
    • [7]1903年8月大倉孫兵衞一行がベルリンの粘土工業化学研究所に原料分析と生地調合研究を依頼、採用した調合が「三・三生地」。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の窯の設計図を改良した倒炎式二階丸窯。5年間で約940点の試験調合、1906年焼成成績平均68.9%。森村組の米英向け白生地に占める日陶製は1907年15%、90%超は1915年
    • [8]1903年8月大倉孫兵衞一行がベルリンの粘土工業化学研究所に原料分析と生地調合研究を依頼、採用した調合が「三・三生地」。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の窯の設計図を改良した倒炎式二階丸窯。5年間で約940点の試験調合、1906年焼成成績平均68.9%。森村組の米英向け白生地に占める日陶製は1907年15%、90%超は1915年
    • [9]1903年8月大倉孫兵衞一行がベルリンの粘土工業化学研究所に原料分析と生地調合研究を依頼、採用した調合が「三・三生地」。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の窯の設計図を改良した倒炎式二階丸窯。5年間で約940点の試験調合、1906年焼成成績平均68.9%。森村組の米英向け白生地に占める日陶製は1907年15%、90%超は1915年
    • [12]1903年8月大倉孫兵衞一行がベルリンの粘土工業化学研究所に原料分析と生地調合研究を依頼、採用した調合が「三・三生地」。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の窯の設計図を改良した倒炎式二階丸窯。5年間で約940点の試験調合、1906年焼成成績平均68.9%。森村組の米英向け白生地に占める日陶製は1907年15%、90%超は1915年
    • [13]1903年8月大倉孫兵衞一行がベルリンの粘土工業化学研究所に原料分析と生地調合研究を依頼、採用した調合が「三・三生地」。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の窯の設計図を改良した倒炎式二階丸窯。5年間で約940点の試験調合、1906年焼成成績平均68.9%。森村組の米英向け白生地に占める日陶製は1907年15%、90%超は1915年
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本陶器」
    • [10]則武に近代的欧式工場を建設し、わが国最初の石炭による焼成窯を構築して生産を開始
  • 日本陶器七十年史(1974)「一章 日本陶器合名会社の設立」
    • [11]創立当時から石膏型で成形。原型・原型雌型・ケース・成形型の四段法で石膏型を量産し、機械ロクロ・流し込み成形を活用
参考文献[1]-[13]
  • 日本陶器七十年史(1974)「一章 日本陶器合名会社の設立」
    • [1]1904年1月1日、森村組首脳が愛知県愛知郡鷹羽村大字則武に日本陶器合名会社を創立。当時の陶業は家内工業の域を出ず、1879年頃の有田・瀬戸、1886年の京都での製陶機械導入はいずれも挫折。工場は欧式二階丸窯とドイツ製トロンメル・フィルタープレス等を備えた。社名は名古屋製陶会社でほぼ決まっていたが地方名を避けて日本陶器合名会社とした
    • [3]1904年1月1日、森村組首脳が愛知県愛知郡鷹羽村大字則武に日本陶器合名会社を創立。当時の陶業は家内工業の域を出ず、1879年頃の有田・瀬戸、1886年の京都での製陶機械導入はいずれも挫折。工場は欧式二階丸窯とドイツ製トロンメル・フィルタープレス等を備えた。社名は名古屋製陶会社でほぼ決まっていたが地方名を避けて日本陶器合名会社とした
    • [5]1904年1月1日、森村組首脳が愛知県愛知郡鷹羽村大字則武に日本陶器合名会社を創立。当時の陶業は家内工業の域を出ず、1879年頃の有田・瀬戸、1886年の京都での製陶機械導入はいずれも挫折。工場は欧式二階丸窯とドイツ製トロンメル・フィルタープレス等を備えた。社名は名古屋製陶会社でほぼ決まっていたが地方名を避けて日本陶器合名会社とした
    • [6]1904年1月1日、森村組首脳が愛知県愛知郡鷹羽村大字則武に日本陶器合名会社を創立。当時の陶業は家内工業の域を出ず、1879年頃の有田・瀬戸、1886年の京都での製陶機械導入はいずれも挫折。工場は欧式二階丸窯とドイツ製トロンメル・フィルタープレス等を備えた。社名は名古屋製陶会社でほぼ決まっていたが地方名を避けて日本陶器合名会社とした
    • [11]創立当時から石膏型で成形。原型・原型雌型・ケース・成形型の四段法で石膏型を量産し、機械ロクロ・流し込み成形を活用
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本陶器」
    • [2]日本陶器合名は1904年、森村市左衞門・大倉孫兵衞・広瀬実栄らが資本金10万円で設立。動機は国産陶磁器の品質粗悪で海外市場に発展しがたい状態の改良
    • [4]日本陶器合名は1904年、森村市左衞門・大倉孫兵衞・広瀬実栄らが資本金10万円で設立。動機は国産陶磁器の品質粗悪で海外市場に発展しがたい状態の改良
    • [10]則武に近代的欧式工場を建設し、わが国最初の石炭による焼成窯を構築して生産を開始
  • 日本陶器七十年史(1974)「二章 技術の進展」
    • [7]1903年8月大倉孫兵衞一行がベルリンの粘土工業化学研究所に原料分析と生地調合研究を依頼、採用した調合が「三・三生地」。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の窯の設計図を改良した倒炎式二階丸窯。5年間で約940点の試験調合、1906年焼成成績平均68.9%。森村組の米英向け白生地に占める日陶製は1907年15%、90%超は1915年
    • [8]1903年8月大倉孫兵衞一行がベルリンの粘土工業化学研究所に原料分析と生地調合研究を依頼、採用した調合が「三・三生地」。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の窯の設計図を改良した倒炎式二階丸窯。5年間で約940点の試験調合、1906年焼成成績平均68.9%。森村組の米英向け白生地に占める日陶製は1907年15%、90%超は1915年
    • [9]1903年8月大倉孫兵衞一行がベルリンの粘土工業化学研究所に原料分析と生地調合研究を依頼、採用した調合が「三・三生地」。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の窯の設計図を改良した倒炎式二階丸窯。5年間で約940点の試験調合、1906年焼成成績平均68.9%。森村組の米英向け白生地に占める日陶製は1907年15%、90%超は1915年
    • [12]1903年8月大倉孫兵衞一行がベルリンの粘土工業化学研究所に原料分析と生地調合研究を依頼、採用した調合が「三・三生地」。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の窯の設計図を改良した倒炎式二階丸窯。5年間で約940点の試験調合、1906年焼成成績平均68.9%。森村組の米英向け白生地に占める日陶製は1907年15%、90%超は1915年
    • [13]1903年8月大倉孫兵衞一行がベルリンの粘土工業化学研究所に原料分析と生地調合研究を依頼、採用した調合が「三・三生地」。第1号窯はカールスバットのビクトリア工場の窯の設計図を改良した倒炎式二階丸窯。5年間で約940点の試験調合、1906年焼成成績平均68.9%。森村組の米英向け白生地に占める日陶製は1907年15%、90%超は1915年

1909年〜リモージュの素地を目標にしたディナーセットの完成と、大戦下の株式会社への改組

ディナーセットの要となる8寸皿(25cmのディナー皿)は、従来の生地ではどうしても焼き上がらなかった。蛙目粘土を増やせば白さが損なわれ、減らせば焼成中に形が崩れた。1912年に窯を11基まで増やした時点でも、主力はペン皿や置物で純白の硬質磁器は生産できていなかった。1909年7月に加わった技師の江副孫右衞門氏はリモージュの生地を分析し、その成分を目標に調合を重ねた。1910年10月に技師長の飛鳥井孝太郎氏が退社し、研究は江副孫右衞門氏が率いた。米国市場の要望に応えるため、1912年3月に大倉和親氏が渡欧し、江副孫右衞門氏らが続いた。一行はベルリンのクラーマー博士とカールスバットの製陶工場で生地の製法を学んだ。

  • 日本陶器七十年史(1974)「四章 ディナーセットの完成」
    • [14]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [15]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [17]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [18]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [19]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [20]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「日本陶器」
    • [16]1912年には焼成窯11基を持つまでになったが、純白の硬質磁器は生産できず、ペン皿・置物などが主力。本格的なテーブルウェアの製造開始は1914年

クラーマー博士は、原料の純度と坏土の粒子の細かさ、坏土をねかせる期間の3点を重く見るよう説いた。江副孫右衞門氏らは天草陶石54%のうち18%をドイツ産のチェットリッツカオリンに置き換え、トロンメルの回転を18時間から25時間に延ばした。1913年7月に8寸皿の試作に成功したが、工場で焼くと皿の中心が凹んだ。フランス製の皿が中心ほど厚いことを知って肉の付け方を改め、1914年6月にディナーセットを完成させた。受注は1916年の1万組から1918年の4万組へ増え、米国向け受渡額に占めるディナーセットの割合は1921年に60.7%となった。揃いの食器の完成は、森村組の対米輸出を単品の装飾品から食卓の一式へ移す転機になったと思われる。

  • 日本陶器七十年史(1974)「四章 ディナーセットの完成」
    • [21]クラーマー博士は原料の純粋さ・坏土粒子の細かさ・坏土をねかすことの3点を強調。天草陶石54%のうち18%をチェットリッツカオリンに置換、トロンメル回転を18時間から25時間に延長。1913年7月8寸皿の試作に成功したが工場生産では焼成中に中心が凹んだ
    • [22]クラーマー博士は原料の純粋さ・坏土粒子の細かさ・坏土をねかすことの3点を強調。天草陶石54%のうち18%をチェットリッツカオリンに置換、トロンメル回転を18時間から25時間に延長。1913年7月8寸皿の試作に成功したが工場生産では焼成中に中心が凹んだ
    • [23]クラーマー博士は原料の純粋さ・坏土粒子の細かさ・坏土をねかすことの3点を強調。天草陶石54%のうち18%をチェットリッツカオリンに置換、トロンメル回転を18時間から25時間に延長。1913年7月8寸皿の試作に成功したが工場生産では焼成中に中心が凹んだ
  • 日本陶器七十年史(1974)「五章 新製品の開発」
    • [24]フランス製の皿が中心ほど厚いことを参考に改良し1914年6月ディナーセット完成。1916年1万組、1917年3万組、1918年4万組。米国向け受渡額のディナーセット割合は1921年60.7%
    • [26]フランス製の皿が中心ほど厚いことを参考に改良し1914年6月ディナーセット完成。1916年1万組、1917年3万組、1918年4万組。米国向け受渡額のディナーセット割合は1921年60.7%
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本陶器」
    • [25]1914年6月、長年の研究の結果ディナーセットの製造に成功

1914年に第一次世界大戦が始まると欧州からの輸出が途絶え、日本陶器の製品に米国などから注文が集まった。窯は1915年からの3年間で17基を新設し、1917年末に合計28基となった。転写紙や石膏、水金も輸入が止まったため、自社での製造に着手した。販路は北米のほか南米・豪州・インド・南アフリカへ広がった。事業の拡大に備えて、1917年7月20日に資本金10万円で日本陶器株式会社を創立し、大倉和親氏が社長に就任した。同年9月の臨時株主総会で合名会社の合併と資本金200万円への増資を決め、12月に合名会社の事業一切を引き継いだ。合名会社のままでは増産に見合う資本を外から調達しにくかったと推察される。

  • 日本陶器七十年史(1974)「六章 第一次世界大戦とわが社」
    • [27]1914年の大戦勃発で先進国の輸出余力が失われ、日本陶器製品への需要が急増。窯は1915年以降3年で17基新設、1917年末に計28基。輸入途絶で転写紙印刷・石膏・水金の自給に着手。販路は北米・南米・英国・豪州・インド・南アフリカ・東洋各地へ拡張
    • [28]1914年の大戦勃発で先進国の輸出余力が失われ、日本陶器製品への需要が急増。窯は1915年以降3年で17基新設、1917年末に計28基。輸入途絶で転写紙印刷・石膏・水金の自給に着手。販路は北米・南米・英国・豪州・インド・南アフリカ・東洋各地へ拡張
    • [29]1914年の大戦勃発で先進国の輸出余力が失われ、日本陶器製品への需要が急増。窯は1915年以降3年で17基新設、1917年末に計28基。輸入途絶で転写紙印刷・石膏・水金の自給に着手。販路は北米・南米・英国・豪州・インド・南アフリカ・東洋各地へ拡張
    • [30]1914年の大戦勃発で先進国の輸出余力が失われ、日本陶器製品への需要が急増。窯は1915年以降3年で17基新設、1917年末に計28基。輸入途絶で転写紙印刷・石膏・水金の自給に着手。販路は北米・南米・英国・豪州・インド・南アフリカ・東洋各地へ拡張
  • 日本陶器七十年史(1974)「一章 株式会社への改組」
    • [31]大戦で注文が相次ぎ、事業拡充のため合名会社を株式会社に改組。1917年7月20日資本金10万円の日本陶器株式会社創立総会、社長大倉和親。同年9月29日臨時株主総会で12月4日の合名会社合併と資本金200万円への増資を決議
    • [32]大戦で注文が相次ぎ、事業拡充のため合名会社を株式会社に改組。1917年7月20日資本金10万円の日本陶器株式会社創立総会、社長大倉和親。同年9月29日臨時株主総会で12月4日の合名会社合併と資本金200万円への増資を決議
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「日本陶器」
    • [33]1917年7月大倉和親ら発起人が日本陶器株式会社を設立し、同年12月に日本陶器合名会社を合併して事業一切を継承
参考文献[14]-[33]
  • 日本陶器七十年史(1974)「四章 ディナーセットの完成」
    • [14]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [15]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [17]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [18]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [19]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [20]従来の生地土では8寸皿(25cmディナー皿)が完成せず、蛙目を増やせば色が悪く、減らせば形が崩れた。1909年7月江副孫右衞門が技術陣に加わりリモージュの生地を分析。1910年10月飛鳥井技師長退社。米国市場の要求で1912年3月大倉和親が渡欧、江副らがクラーマー博士とカールスバットのビクトリア製陶工場で2週間研究
    • [21]クラーマー博士は原料の純粋さ・坏土粒子の細かさ・坏土をねかすことの3点を強調。天草陶石54%のうち18%をチェットリッツカオリンに置換、トロンメル回転を18時間から25時間に延長。1913年7月8寸皿の試作に成功したが工場生産では焼成中に中心が凹んだ
    • [22]クラーマー博士は原料の純粋さ・坏土粒子の細かさ・坏土をねかすことの3点を強調。天草陶石54%のうち18%をチェットリッツカオリンに置換、トロンメル回転を18時間から25時間に延長。1913年7月8寸皿の試作に成功したが工場生産では焼成中に中心が凹んだ
    • [23]クラーマー博士は原料の純粋さ・坏土粒子の細かさ・坏土をねかすことの3点を強調。天草陶石54%のうち18%をチェットリッツカオリンに置換、トロンメル回転を18時間から25時間に延長。1913年7月8寸皿の試作に成功したが工場生産では焼成中に中心が凹んだ
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「日本陶器」
    • [16]1912年には焼成窯11基を持つまでになったが、純白の硬質磁器は生産できず、ペン皿・置物などが主力。本格的なテーブルウェアの製造開始は1914年
    • [33]1917年7月大倉和親ら発起人が日本陶器株式会社を設立し、同年12月に日本陶器合名会社を合併して事業一切を継承
  • 日本陶器七十年史(1974)「五章 新製品の開発」
    • [24]フランス製の皿が中心ほど厚いことを参考に改良し1914年6月ディナーセット完成。1916年1万組、1917年3万組、1918年4万組。米国向け受渡額のディナーセット割合は1921年60.7%
    • [26]フランス製の皿が中心ほど厚いことを参考に改良し1914年6月ディナーセット完成。1916年1万組、1917年3万組、1918年4万組。米国向け受渡額のディナーセット割合は1921年60.7%
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本陶器」
    • [25]1914年6月、長年の研究の結果ディナーセットの製造に成功
  • 日本陶器七十年史(1974)「六章 第一次世界大戦とわが社」
    • [27]1914年の大戦勃発で先進国の輸出余力が失われ、日本陶器製品への需要が急増。窯は1915年以降3年で17基新設、1917年末に計28基。輸入途絶で転写紙印刷・石膏・水金の自給に着手。販路は北米・南米・英国・豪州・インド・南アフリカ・東洋各地へ拡張
    • [28]1914年の大戦勃発で先進国の輸出余力が失われ、日本陶器製品への需要が急増。窯は1915年以降3年で17基新設、1917年末に計28基。輸入途絶で転写紙印刷・石膏・水金の自給に着手。販路は北米・南米・英国・豪州・インド・南アフリカ・東洋各地へ拡張
    • [29]1914年の大戦勃発で先進国の輸出余力が失われ、日本陶器製品への需要が急増。窯は1915年以降3年で17基新設、1917年末に計28基。輸入途絶で転写紙印刷・石膏・水金の自給に着手。販路は北米・南米・英国・豪州・インド・南アフリカ・東洋各地へ拡張
    • [30]1914年の大戦勃発で先進国の輸出余力が失われ、日本陶器製品への需要が急増。窯は1915年以降3年で17基新設、1917年末に計28基。輸入途絶で転写紙印刷・石膏・水金の自給に着手。販路は北米・南米・英国・豪州・インド・南アフリカ・東洋各地へ拡張
  • 日本陶器七十年史(1974)「一章 株式会社への改組」
    • [31]大戦で注文が相次ぎ、事業拡充のため合名会社を株式会社に改組。1917年7月20日資本金10万円の日本陶器株式会社創立総会、社長大倉和親。同年9月29日臨時株主総会で12月4日の合名会社合併と資本金200万円への増資を決議
    • [32]大戦で注文が相次ぎ、事業拡充のため合名会社を株式会社に改組。1917年7月20日資本金10万円の日本陶器株式会社創立総会、社長大倉和親。同年9月29日臨時株主総会で12月4日の合名会社合併と資本金200万円への増資を決議

1917年〜衛生陶器の東洋陶器と資本金200万円の日本碍子の分離と、ボーンチャイナへの合理化

日本陶器は1912年1月に製陶研究所を設け、西山貞氏を主任に据えて衛生陶器の基礎実験を始めた。1914年8月には大阪の浜田商店へ便器や洗面器を出荷し、国産の衛生陶器の第一号となった。1915年7月に欧米を視察した社長の大倉和親氏は事業の将来性を確信し、福岡県小倉市に約3万坪の用地を取得した。小倉市を選んだのは、筑豊の石炭と天草陶石を得やすく、門司港から輸出できる立地だったためである。1916年6月に小倉工場が操業を始め、鉄道や病院、学校から衛生陶器の注文が増えた。1917年5月15日、日本陶器は小倉工場を分離し、資本金100万円の東洋陶器株式会社を創立した。同年10月には、名古屋にあった製陶研究所も小倉市への移転を終えた。

  • 日本陶器七十年史(1974)「五章 新製品の開発」
    • [34]1912年1月製陶研究所を設け西山貞を主任に衛生陶器の基礎実験。1914年8月大阪の浜田商店へ便器・洗面器等を出荷(国内衛生陶器の最初)。1915年7月大倉社長が欧米視察で衛生陶器の有望性を確信、小倉に約3万坪の用地を得て工場計画。小倉選定の理由は筑豊の石炭・天草陶石の入手の便と門司港
    • [35]1912年1月製陶研究所を設け西山貞を主任に衛生陶器の基礎実験。1914年8月大阪の浜田商店へ便器・洗面器等を出荷(国内衛生陶器の最初)。1915年7月大倉社長が欧米視察で衛生陶器の有望性を確信、小倉に約3万坪の用地を得て工場計画。小倉選定の理由は筑豊の石炭・天草陶石の入手の便と門司港
    • [36]1912年1月製陶研究所を設け西山貞を主任に衛生陶器の基礎実験。1914年8月大阪の浜田商店へ便器・洗面器等を出荷(国内衛生陶器の最初)。1915年7月大倉社長が欧米視察で衛生陶器の有望性を確信、小倉に約3万坪の用地を得て工場計画。小倉選定の理由は筑豊の石炭・天草陶石の入手の便と門司港
    • [37]1912年1月製陶研究所を設け西山貞を主任に衛生陶器の基礎実験。1914年8月大阪の浜田商店へ便器・洗面器等を出荷(国内衛生陶器の最初)。1915年7月大倉社長が欧米視察で衛生陶器の有望性を確信、小倉に約3万坪の用地を得て工場計画。小倉選定の理由は筑豊の石炭・天草陶石の入手の便と門司港
  • 日本陶器七十年史(1974)「六章 第一次世界大戦とわが社」
    • [38]1916年6月小倉工場の衛生陶器設備が操業、鉄道・病院・学校等の需要が増加。各事業に専念させるため1917年5月15日資本金100万円で東洋陶器株式会社を創立、社長大倉和親。製陶研究所は同年10月小倉へ移転
    • [39]1916年6月小倉工場の衛生陶器設備が操業、鉄道・病院・学校等の需要が増加。各事業に専念させるため1917年5月15日資本金100万円で東洋陶器株式会社を創立、社長大倉和親。製陶研究所は同年10月小倉へ移転
    • [41]1916年6月小倉工場の衛生陶器設備が操業、鉄道・病院・学校等の需要が増加。各事業に専念させるため1917年5月15日資本金100万円で東洋陶器株式会社を創立、社長大倉和親。製陶研究所は同年10月小倉へ移転
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本陶器」
    • [40]1917年、衛生陶器の専門工場として東洋陶器を分離設立

日本陶器は1905年に特別高圧碍子の国産化研究に着手し、芝浦製作所の技師である岸敬二郎氏の勧めと指導を受けた。1907年11月に芝浦製作所向けの1万5,000V用碍子を初めて出荷し、宇治川・鬼怒川・桂川の電力会社からも受注した。1909年ごろには芝浦製作所の比較試験で、輸入品より生地が緻密で強度も高いと確かめられた。第一次世界大戦後も各地で発電所の建設が続き、碍子部には技術の刷新と生産力の増強が求められた。1919年5月5日、日本陶器は碍子部門を分離し、名古屋市南区熱田東町に新工場を計画する資本金200万円の日本碍子株式会社を創立した。社長には大倉和親氏が就任し、碍子に関する権利義務はすべて新会社へ移した。

  • 日本陶器七十年史(1974)「五章 新製品の開発」
    • [42]1905年特別高圧碍子国産化の研究開始、芝浦製作所の岸敬二郎技師の勧奨と指導。1907年11月芝浦製作所向け1万5,000V用特別高圧碍子を初出荷、宇治川・鬼怒川・桂川等の電力会社から受注増。1909年頃、芝浦製作所の比較試験で輸入品より生地が緻密で強度が高いと判明
    • [43]1905年特別高圧碍子国産化の研究開始、芝浦製作所の岸敬二郎技師の勧奨と指導。1907年11月芝浦製作所向け1万5,000V用特別高圧碍子を初出荷、宇治川・鬼怒川・桂川等の電力会社から受注増。1909年頃、芝浦製作所の比較試験で輸入品より生地が緻密で強度が高いと判明
    • [44]1905年特別高圧碍子国産化の研究開始、芝浦製作所の岸敬二郎技師の勧奨と指導。1907年11月芝浦製作所向け1万5,000V用特別高圧碍子を初出荷、宇治川・鬼怒川・桂川等の電力会社から受注増。1909年頃、芝浦製作所の比較試験で輸入品より生地が緻密で強度が高いと判明
  • 日本陶器七十年史(1974)「六章 第一次世界大戦とわが社」
    • [45]発電所建設で碍子需要が増え、技術革新と生産力増強が必要に。碍子部門を分離し1919年5月5日資本金200万円の日本碍子株式会社創立、熱田東町に新工場計画、社長大倉和親、碍子の権利義務一切を移管
    • [46]発電所建設で碍子需要が増え、技術革新と生産力増強が必要に。碍子部門を分離し1919年5月5日資本金200万円の日本碍子株式会社創立、熱田東町に新工場計画、社長大倉和親、碍子の権利義務一切を移管
    • [48]発電所建設で碍子需要が増え、技術革新と生産力増強が必要に。碍子部門を分離し1919年5月5日資本金200万円の日本碍子株式会社創立、熱田東町に新工場計画、社長大倉和親、碍子の権利義務一切を移管
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「日本陶器」
    • [47]1919年、ガイシ部門を分離して日本碍子を設立

大戦後の反動不況で、日本陶器は生産原価の引き下げと事務の効率化を迫られた。1925年9月に国内で初めてIBMの計算機を導入し、1930年には二頭式の自動ロクロを自社で開発した。欧州品との競争で優位を保つため、1931年1月にドイツのケラ式トンネル窯の特許権を10万マルクで取得した。1933年4月には、このトンネル窯を中心に工場の大改造に着手した。単独丸窯28基を廃してトンネル窯7基を築き、同じ1933年にはボーンチャイナの製造に成功した。1936年10月には東洋陶器・日本碍子と共同で資本金50万円の共立原料株式会社を設立し、社長に百木三郎氏が就任した。連続焼成の窯と自動成形の設備を揃えた経験が、次の時代の研削砥石の量産を支える土台になったとみられる。

  • 日本陶器七十年史(1974)「二章 経営合理化の推進」
    • [49]大戦後の反動不況で生産コスト引き下げと事務合理化が要望され、1925年9月全国に先駆けIBM計算機を導入。1930年二頭式の自動ロクロを自家開発
    • [50]大戦後の反動不況で生産コスト引き下げと事務合理化が要望され、1925年9月全国に先駆けIBM計算機を導入。1930年二頭式の自動ロクロを自家開発
  • 日本陶器七十年史(1974)「三章 近代化への前進」
    • [51]欧州品との競争で優位を保つため設備近代化が必要とし、1931年1月ケラ式トンネル窯特許権を10万マルクで譲受、1933年4月トンネル窯中心の工場大改造に着手。1936年10月3社共同出資で資本金50万円の共立原料株式会社設立、社長百木三郎
    • [52]欧州品との競争で優位を保つため設備近代化が必要とし、1931年1月ケラ式トンネル窯特許権を10万マルクで譲受、1933年4月トンネル窯中心の工場大改造に着手。1936年10月3社共同出資で資本金50万円の共立原料株式会社設立、社長百木三郎
    • [54]欧州品との競争で優位を保つため設備近代化が必要とし、1931年1月ケラ式トンネル窯特許権を10万マルクで譲受、1933年4月トンネル窯中心の工場大改造に着手。1936年10月3社共同出資で資本金50万円の共立原料株式会社設立、社長百木三郎
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本陶器」
    • [53]単独丸窯28基を廃し新たにトンネル窯7基を構築。1933年ボーンチャイナの製出に成功
参考文献[34]-[54]
  • 日本陶器七十年史(1974)「五章 新製品の開発」
    • [34]1912年1月製陶研究所を設け西山貞を主任に衛生陶器の基礎実験。1914年8月大阪の浜田商店へ便器・洗面器等を出荷(国内衛生陶器の最初)。1915年7月大倉社長が欧米視察で衛生陶器の有望性を確信、小倉に約3万坪の用地を得て工場計画。小倉選定の理由は筑豊の石炭・天草陶石の入手の便と門司港
    • [35]1912年1月製陶研究所を設け西山貞を主任に衛生陶器の基礎実験。1914年8月大阪の浜田商店へ便器・洗面器等を出荷(国内衛生陶器の最初)。1915年7月大倉社長が欧米視察で衛生陶器の有望性を確信、小倉に約3万坪の用地を得て工場計画。小倉選定の理由は筑豊の石炭・天草陶石の入手の便と門司港
    • [36]1912年1月製陶研究所を設け西山貞を主任に衛生陶器の基礎実験。1914年8月大阪の浜田商店へ便器・洗面器等を出荷(国内衛生陶器の最初)。1915年7月大倉社長が欧米視察で衛生陶器の有望性を確信、小倉に約3万坪の用地を得て工場計画。小倉選定の理由は筑豊の石炭・天草陶石の入手の便と門司港
    • [37]1912年1月製陶研究所を設け西山貞を主任に衛生陶器の基礎実験。1914年8月大阪の浜田商店へ便器・洗面器等を出荷(国内衛生陶器の最初)。1915年7月大倉社長が欧米視察で衛生陶器の有望性を確信、小倉に約3万坪の用地を得て工場計画。小倉選定の理由は筑豊の石炭・天草陶石の入手の便と門司港
    • [42]1905年特別高圧碍子国産化の研究開始、芝浦製作所の岸敬二郎技師の勧奨と指導。1907年11月芝浦製作所向け1万5,000V用特別高圧碍子を初出荷、宇治川・鬼怒川・桂川等の電力会社から受注増。1909年頃、芝浦製作所の比較試験で輸入品より生地が緻密で強度が高いと判明
    • [43]1905年特別高圧碍子国産化の研究開始、芝浦製作所の岸敬二郎技師の勧奨と指導。1907年11月芝浦製作所向け1万5,000V用特別高圧碍子を初出荷、宇治川・鬼怒川・桂川等の電力会社から受注増。1909年頃、芝浦製作所の比較試験で輸入品より生地が緻密で強度が高いと判明
    • [44]1905年特別高圧碍子国産化の研究開始、芝浦製作所の岸敬二郎技師の勧奨と指導。1907年11月芝浦製作所向け1万5,000V用特別高圧碍子を初出荷、宇治川・鬼怒川・桂川等の電力会社から受注増。1909年頃、芝浦製作所の比較試験で輸入品より生地が緻密で強度が高いと判明
  • 日本陶器七十年史(1974)「六章 第一次世界大戦とわが社」
    • [38]1916年6月小倉工場の衛生陶器設備が操業、鉄道・病院・学校等の需要が増加。各事業に専念させるため1917年5月15日資本金100万円で東洋陶器株式会社を創立、社長大倉和親。製陶研究所は同年10月小倉へ移転
    • [39]1916年6月小倉工場の衛生陶器設備が操業、鉄道・病院・学校等の需要が増加。各事業に専念させるため1917年5月15日資本金100万円で東洋陶器株式会社を創立、社長大倉和親。製陶研究所は同年10月小倉へ移転
    • [41]1916年6月小倉工場の衛生陶器設備が操業、鉄道・病院・学校等の需要が増加。各事業に専念させるため1917年5月15日資本金100万円で東洋陶器株式会社を創立、社長大倉和親。製陶研究所は同年10月小倉へ移転
    • [45]発電所建設で碍子需要が増え、技術革新と生産力増強が必要に。碍子部門を分離し1919年5月5日資本金200万円の日本碍子株式会社創立、熱田東町に新工場計画、社長大倉和親、碍子の権利義務一切を移管
    • [46]発電所建設で碍子需要が増え、技術革新と生産力増強が必要に。碍子部門を分離し1919年5月5日資本金200万円の日本碍子株式会社創立、熱田東町に新工場計画、社長大倉和親、碍子の権利義務一切を移管
    • [48]発電所建設で碍子需要が増え、技術革新と生産力増強が必要に。碍子部門を分離し1919年5月5日資本金200万円の日本碍子株式会社創立、熱田東町に新工場計画、社長大倉和親、碍子の権利義務一切を移管
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本陶器」
    • [40]1917年、衛生陶器の専門工場として東洋陶器を分離設立
    • [53]単独丸窯28基を廃し新たにトンネル窯7基を構築。1933年ボーンチャイナの製出に成功
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「日本陶器」
    • [47]1919年、ガイシ部門を分離して日本碍子を設立
  • 日本陶器七十年史(1974)「二章 経営合理化の推進」
    • [49]大戦後の反動不況で生産コスト引き下げと事務合理化が要望され、1925年9月全国に先駆けIBM計算機を導入。1930年二頭式の自動ロクロを自家開発
    • [50]大戦後の反動不況で生産コスト引き下げと事務合理化が要望され、1925年9月全国に先駆けIBM計算機を導入。1930年二頭式の自動ロクロを自家開発
  • 日本陶器七十年史(1974)「三章 近代化への前進」
    • [51]欧州品との競争で優位を保つため設備近代化が必要とし、1931年1月ケラ式トンネル窯特許権を10万マルクで譲受、1933年4月トンネル窯中心の工場大改造に着手。1936年10月3社共同出資で資本金50万円の共立原料株式会社設立、社長百木三郎
    • [52]欧州品との競争で優位を保つため設備近代化が必要とし、1931年1月ケラ式トンネル窯特許権を10万マルクで譲受、1933年4月トンネル窯中心の工場大改造に着手。1936年10月3社共同出資で資本金50万円の共立原料株式会社設立、社長百木三郎
    • [54]欧州品との競争で優位を保つため設備近代化が必要とし、1931年1月ケラ式トンネル窯特許権を10万マルクで譲受、1933年4月トンネル窯中心の工場大改造に着手。1936年10月3社共同出資で資本金50万円の共立原料株式会社設立、社長百木三郎

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出典・参考 10件
出典・参考
  • 日本陶器七十年史(1974)「一章 日本陶器合名会社の設立」
  • 日本陶器七十年史(1974)「二章 技術の進展」
  • 日本陶器七十年史(1974)「四章 ディナーセットの完成」
  • 日本陶器七十年史(1974)「五章 新製品の開発」
  • 日本陶器七十年史(1974)「六章 第一次世界大戦とわが社」
  • 日本陶器七十年史(1974)「一章 株式会社への改組」
  • 日本陶器七十年史(1974)「二章 経営合理化の推進」
  • 日本陶器七十年史(1974)「三章 近代化への前進」
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本陶器」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「日本陶器」

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