曙ブレーキ工業ベンディックスとの技術提携を解消しGM合弁アムブレーキで米国生産に乗り出した決断
四半世紀の技術提携を守るか、対米進出をとるか——筆頭株主に隠して進めた合弁交渉
- 概要
- 1985年から1988年にかけて、曙ブレーキ工業が1960年以来の米ベンディックス社との技術提携を解消し、提携相手を米GM(ゼネラル・モーターズ)へ替えて合弁会社Ambrake Corporationを設立、ケンタッキー州で米国生産を始めた経営判断。
- 背景
- ベンディックスと技術提携を続ける限り、曙ブレーキは米国で単独にブレーキを生産・販売できず、ロイヤリティは売上高に比例する計算式で年間6億円ともいわれた。ベンディックスは発行済株式の15.2%を握る筆頭株主でもあり、親会社アライドの下で自動車部品からの撤退説も繰り返し浮上していた。
- 内容
- 神保哲雄副社長を団長とする米国進出プロジェクトチームが立地を選び、シカゴ駐在の信元久隆専務がGMの情報を集めた。交渉は筆頭株主に伏せたまま進み、ベンディックスの親会社アライドには曙ブレーキ51%出資という受け入れ難い合弁案を提示して決別の形を整えた。1986年10月にAmbrake Corporationを設立し、1988年5月に生産を始めた。
- 含意
- 投資額は100億円近くに達し、信元安貞社長は「これは大きな賭け」と語った。米国生産はその後グラスゴー工場の増設、デルファイからの合弁持分の買い取りへと続き、GMは2020年3月期でも売上高の19%を占める最大の取引先であり続けている。
賭けの相手が、最大の取引先になった
この判断は、対米進出という表向きの目的よりも、提携の解消を先に置いた点に性格がよく表れている。米国進出を果たせなくとも当面の経営に支障はないが、技術提携を続けたままでは、提携先の都合ひとつで事業が揺らぐ。曙ブレーキは、その不確実な相手から離れるために、より大きなGMという相手を選んだ。筆頭株主に伏せて交渉を進め、呑めない条件をあえて提示して物別れの形を作る手順には、四半世紀にわたって技術を借りてきた側が主導権を握り直そうとする意図がうかがえる。
賭けの相手はやがて最大の顧客になった。GMは2019年3月期に曙ブレーキの売上高の26%、2020年3月期にも19%を占める。一方で、合弁のために建てたエリザベスタウン工場は2025年12月に閉鎖され、米国に残る生産拠点は1994年に設けたグラスゴーの摩擦材工場ひとつとなる。1985年に信元安貞社長が「大きな賭け」と呼んだ工場は、40年近く稼働して役目を終える。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
四半世紀の技術提携が生んだ制約
1960年に結んだベンディックスとの技術提携は、1980年代に入ると曙ブレーキの行動を縛る条件へ変わっていた。提携を続ける限り、曙ブレーキは米国でブレーキを単独に生産・販売できない。ロイヤリティは売上高に比例する計算式で、自社開発品の比率を高めてもベンディックスの特許料収入は増える仕組みになっており、支払額は年間6億円ともいわれた。日経ビジネスはこの関係を、明治期の日本が抱えた不平等条約になぞらえて報じている[1]。
提携先の側にも不安定さがあった。ベンディックスは曙ブレーキ発行済株式の15.2%を握る筆頭株主であり、信元安貞社長は「ベンディックスはウチの会社にとって親にもあたる」と評してきた。しかし1980年ごろ、ベンディックスの副社長だったメアリー・カニンガム氏が自動車部品事業からの撤退を勧告するリポートをまとめ、以後も撤退説は折に触れて浮上する。総合化学品メーカーのアライド傘下に入ってからは現実味を増した。提携先が部品部門を身売りすれば曙ブレーキの経営にも影響が及ぶため、資本関係はともかく技術提携は早く解いておく必要があった[2]。
提携を解ける水準まで届いた自社技術
提携解消の前提には、借りた技術に頼らずに製品を作れる状態が要る。曙ブレーキは1979年に岩槻製造所でAD型ディスクブレーキの量産を始め、1982年ごろには主力のディスクブレーキを全面的に自社開発品へ切り替えた。ベンディックス特許によらない自社技術の確立には総額50億円以上を投じたとされる。AD型は1982年に日本機械学会賞を受け、曙ブレーキは1961年の二部上場から22年を経た1983年9月、東京証券取引所市場第一部へ上場した[3][4]。
規模の面でも、曙ブレーキは提携相手と肩を並べていた。1984年度の推定で、曙ブレーキグループは生産個数ベースの世界シェア13%を占め、17%のGMデルコ・モレーン事業部に次ぐ世界第2位にあった。ベンディックスも同じ13%で並ぶ。国内ではドラムブレーキ50%、ディスクブレーキ42%を握る。それでも、ドラムやディスクという部品単体を作っている限り、性能向上の要として自ら研究を始めた完成車メーカーの下請けに落ちる懸念があり、サスペンションまで含めたブレーキシステムを手掛ける総合メーカーへの脱却が課題として残っていた[5][6]。
決断
筆頭株主に伏せたまま進んだGM交渉
好機は米国側の政策転換から生まれた。GMは国際競争力を高めるため1980年代に入って実質的にバイアメリカン政策を放棄し、日本から積極的に部品を調達する方針へ改めた。大型の調査団が日本の主要部品メーカーを回り、曙ブレーキにも訪れる。曙ブレーキは女子従業員の教育や多品種少量生産に対応した生産体制など、会社全体を売り込む説明を行った。信元安貞社長はGMの関心をその場限りにしないため、シカゴに駐在していた信元久隆専務をGMの情報収集にあてた。最初の成果は、米国内で公害問題の元凶とされて調達が難しくなっていたアスベスト部品の納入契約で、取引額は小さくともGMの品質認定基準や購買情報をつかむ足がかりになった[7]。
1985年6月、米オハイオ州に日本人6人の一行が立ち寄り、州政府の役人の案内で工場用地を探して歩いた。神保哲雄副社長を団長とする米国進出プロジェクトチームで、同行した米国人はGMのブレーキ部門であるデルコモレーン事業部のスタッフであった。合弁交渉は立地選定の最終段階に入っており、基本合意はその1カ月以上前に済んでいた。曙ブレーキはこの交渉を細心の注意で隠し通す。提携先であり筆頭株主でもあるベンディックスに事前に漏れることを、極度に警戒したためであった[8]。
物別れを前提にした51%案
ベンディックスとの技術提携契約は、形式的には1986年11月に失効する。ただし相手から契約延長を求める圧力がかかることは当然に予想され、それをはね返すには対抗できる新しいパートナーが要った。信元安貞社長はGMとの合弁構想を進めながら、ベンディックスの親会社アライドに対して米国での合弁事業案を提案する。関係者が「とてもベンディックス側が呑めない提案だった」と証言した内容で、曙ブレーキが51%の出資比率を握る日本企業主導の合弁会社案であった。信元安貞社長は交渉でこの案を一歩も譲らなかった[9]。
信元安貞社長はかなり以前から技術提携の解消を決断し、行動に移すまで時を稼いだうえで「事は性急に進めてはならない。流れをよく読み込むことが大事だ」と語っている。GMとの提携に懸けたのは二つで、一つは対米進出、もう一つは単体部品の供給者から総合ブレーキメーカーへ移るためのシステムのノウハウ取得であった。日本車の米国現地生産は小型トラックを含め1980年代末に年産140万台へ届く見通しで、現地に供給体制を持つかどうかは国内の取引にも影響しかねない。合弁には100億円近い投資が必要で、信元安貞社長は「これは大きな賭け。まかりまちがえば、大きなしっぺ返しが来る」と述べた[10]。
結果
ケンタッキーに置いた2つの工場
1986年10月、曙ブレーキはGMとの合弁会社Ambrake Corporationを設立し、ケンタッキー州エリザベスタウンに工場を建設して1988年5月に生産を始めた。ベンディックスとの技術提携契約は1986年11月に失効し、1960年以来の関係は資本を残して技術の面から解かれた。1994年にはケンタッキー州グラスゴーに摩擦材工場のAmak Brakeを設立し、米国内の生産をブレーキ組立と摩擦材の2拠点に広げている[11][12]。
合弁相手はその後入れ替わった。GMから分離した米デルファイ・オートモーティブ・システムズが1999年8月、第2位株主だった日産自動車の保有する曙ブレーキ株の一部を約1,500万ドル(約18億円)で取得し、出資比率5.9%の第4位株主となる。日本の自動車部品メーカー本体への資本参加はデルファイにとって初めてで、日産のリストラによる持ち合い解消がそれを可能にした。曙ブレーキは2005年8月、デルファイへ引き継がれていた折半出資の合弁会社アムブレーキを完全子会社とし、米国事業の決定権を自社へ集めた[13][14]。
米国生産を足場にした拡大と、その到達点
米国での生産は、その後の海外展開の型になった。1988年にはテストコース「曙ブレーキ・プルービング・グラウンド」を完成させ、1996年にインドネシアのPT. Tri Dharma Wisesaへ資本参加、2004年には中国の広州・蘇州とドイツ、2006年にタイへ生産・販売の拠点を設けた。2005年4月に始まる中期経営計画「Global 30」では世界シェア30%を目標に掲げ、ABS事業や不動産事業からの撤退といった国内事業の再編と財務体質の改善を同時に進めている[15][16]。
数字の頂点は2008年3月期に訪れた。連結売上高1,847億円、経常利益126億円で、いずれもその後の曙ブレーキが超えていない水準にあたる。2007年9月にはF1のマクラーレンチームのオフィシャルサプライヤーとなり、高性能ブレーキの技術を世界に示した。1985年に「単なる下請けになり下がる恐れ」として語られた懸念に対して、独立系のブレーキ専業メーカーが到達した一つの答えが、この時期の業績と製品の並びであった[17][18]。
- 日経ビジネス 1985年9月30日号「曙ブレーキの複合提携 GM合弁で切り拓く総合ブレーキメーカーの道」
- 週刊東洋経済 1999年8月7日号「再編米デルファイが初上陸 国内部品メーカー狙う外資メジャーの虎視眈々」
- 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
- 曙ブレーキ工業 アニュアルレポート2006
- 曙ブレーキ工業 2020年3月期 決算説明会資料
- 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)