1929年 日本初のブレーキライニングから始まった創業とブレーキ専業化の決断
- 1929年曙石綿工業所を創業し、ウーブンブレーキライニング、クラッチフェーシングの製造を開始
- 1936年曙石綿工業株式会社を設立
- 1939年羽生製造所を建設し、稼動開始
曙ブレーキ工業の業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
米国帰りの納三治氏が興した日本初のブレーキライニング製造
曙ブレーキ工業の源流は、1929年に納三治氏が東京で興した曙石綿工業所にさかのぼる。米国留学の経験を持つ納氏は自動車用ブレーキライニングの将来性に着目し、織布に石綿を使うウーブンブレーキライニングとクラッチフェーシングの製造を始めた。国産自動車工業の黎明期に、摩擦材という一点へ絞った創業である。同社は1929年について「日本最初のブレーキライニングを世に送り出した」年と説明してきた。事業は1936年に株式会社へ改組して曙石綿工業となり、1939年には埼玉県羽生市に羽生製造所を建設して稼働させた。羽生はのちに本社新社屋も置かれる、曙ブレーキグループの中核拠点となる土地である。 [1][2][3][4]
- 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1929年に曙石綿工業所を創業し、ウーブンブレーキライニング・クラッチフェーシングの製造を開始
- 曙ブレーキ工業『半世紀の歩み』(1979年5月)
- [2]創業者の納三治氏は米国留学後にブレーキライニング製造の将来性に着目し、1929年に東京で曙石綿工業所を設立
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号「曙ブレーキ工業の現状と将来」
- [3]昭和4年(1929年)に日本最初のブレーキライニングを世に送り出したと信元安貞社長が講演で説明
- 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
- [4]1936年に曙石綿工業株式会社へ改組、1939年に羽生製造所を建設・稼働。2001年に羽生市で本社新社屋が完成
社名は1946年に曙産業へ変わった。戦後に事業の幅を広げたのは鉄道向けである。1952年に鉄道車両用の耐摩レジンの生産を始め、1958年には国鉄の新特急「こだま」にレジン制輪子とディスクブレーキライニングが採用された。自動車用摩擦材で培った配合技術の鉄道車両への転用はその後も続き、1968年時点では自社開発のメタリックライニングが新幹線「こだま」「ひかり」のディスクブレーキに全面採用されている。株式は1957年に公開し、東京証券業協会の店頭売買承認銘柄となった。自動車向けに加えて鉄道向けにも摩擦材を納める事業構造は、この時期に形を成した。 [5][6][7]
- 曙ブレーキ工業 公式サイト「沿革 1920〜1969年」
- [5]1946年に曙産業株式会社へ改称、1957年に株式公開(東京証券業協会の店頭売買承認銘柄)
- 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
- [6]1952年に鉄道車両用耐摩レジンの生産開始、1958年に国鉄新特急「こだま」へレジン制輪子・ディスクブレーキライニングが採用
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号「曙ブレーキ工業の現状と将来」
- [7]自社開発のメタリックライニングが新幹線「こだま」「ひかり」のディスクブレーキに全面採用(1968年講演)
- 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1929年に曙石綿工業所を創業し、ウーブンブレーキライニング・クラッチフェーシングの製造を開始
- 曙ブレーキ工業『半世紀の歩み』(1979年5月)
- [2]創業者の納三治氏は米国留学後にブレーキライニング製造の将来性に着目し、1929年に東京で曙石綿工業所を設立
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号「曙ブレーキ工業の現状と将来」
- [3]昭和4年(1929年)に日本最初のブレーキライニングを世に送り出したと信元安貞社長が講演で説明
- [7]自社開発のメタリックライニングが新幹線「こだま」「ひかり」のディスクブレーキに全面採用(1968年講演)
- 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
- [4]1936年に曙石綿工業株式会社へ改組、1939年に羽生製造所を建設・稼働。2001年に羽生市で本社新社屋が完成
- [6]1952年に鉄道車両用耐摩レジンの生産開始、1958年に国鉄新特急「こだま」へレジン制輪子・ディスクブレーキライニングが採用
- 曙ブレーキ工業 公式サイト「沿革 1920〜1969年」
- [5]1946年に曙産業株式会社へ改称、1957年に株式公開(東京証券業協会の店頭売買承認銘柄)
追放と復帰を経た信元安貞氏のブレーキ専業化
朝鮮戦争の特需でブレーキ用部品が利益を上げていた1950年代半ば、常務だった信元安貞氏は「ブレーキ全体を手掛けなければ生き残れない」と考え、部品供給からブレーキ総合メーカーへの転換を社長に進言した。だが、遅れていた合理化への着手と膨大な投資を要するこの構想は他の経営陣に受け入れられず、米国視察から帰国した1956年、羽田空港で出社無用を告げられて事実上追放された。36歳のときである。約1年の浪人生活ののち、病床の社長に呼び出され「君に任せる」と実質的に経営を託された。社長派と専務派による激しい社内抗争の収拾役として指名された復帰だった。 [8][9]
- 日経ビジネス 1993年5月3日号 有訓無訓「こだわりが活路を開く」
- [8]信元安貞氏は常務時代の1956年、米国出張からの帰国時に羽田空港で出社無用を宣告され(36歳)、約1年後に病床の社長から実質的に経営を託された
- [9]「ブレーキ全体を手掛けなければ生き残れない」との考えから社長に進言して米国を視察した
経営を引き継いだ信元安貞氏を待っていたのは、社内抗争で低下した対外信用である。金融機関は合理化に必要な資金を貸さず、同氏は取引先のトヨタ自動車と日産自動車に頭を下げて回り、当時の金額で5,000万円の合理化資金を工面した。合理化投資を終えたところに神武景気が重なり、設備投資は一気に償却できた。信元安貞氏はのちにこの経験を「こだわりが運を呼んだのかもしれない」と振り返っている。小規模な下請け企業に終わらないためにブレーキ全体を手掛けるという積年の主張は、1960年代の海外提携と大型投資で実現に向かう。 [10][11]
- 日経ビジネス 1993年5月3日号 有訓無訓「こだわりが活路を開く」
- [10]金融機関の融資を得られず、トヨタ自動車・日産自動車から当時の金額で5,000万円の合理化資金を調達。合理化投資後に神武景気で設備投資を償却
- [11]「小規模な下請け企業に終わらないためには、絶対にブレーキ全体を手掛けるべきだとの強い信念を持っていました」という信元安貞氏の回顧
- 日経ビジネス 1993年5月3日号 有訓無訓「こだわりが活路を開く」
- [8]信元安貞氏は常務時代の1956年、米国出張からの帰国時に羽田空港で出社無用を宣告され(36歳)、約1年後に病床の社長から実質的に経営を託された
- [9]「ブレーキ全体を手掛けなければ生き残れない」との考えから社長に進言して米国を視察した
- [10]金融機関の融資を得られず、トヨタ自動車・日産自動車から当時の金額で5,000万円の合理化資金を調達。合理化投資後に神武景気で設備投資を償却
- [11]「小規模な下請け企業に終わらないためには、絶対にブレーキ全体を手掛けるべきだとの強い信念を持っていました」という信元安貞氏の回顧