この判断の特徴は、技術と設備で異なる調達の仕方を選んだところにある。ブレーキ装置そのものの技術は、世界の専門メーカー3社から契約で借りた。一方で、量産の工場とテストコースは、資本金の数倍という無理をしてでも自前で建てた。技術は買えば数年で手に入るが、工場と顧客との取引関係は買えないという読みが、この非対称な資金配分に表れているだろう。1950年代半ばに追放の理由となった主張を、10年足らずで市場占有率65%という数字に変えた実行力も、あわせて記録に値する。
ただし、技術を借りた代償の支払いは長く尾を引いた。ロイヤリティの額は曙ブレーキの売上高に連動して決まるため、同社が独自に開発した製品の比率を高めても、ベンディックスが受け取る特許料は減らなかった。1980年代半ばには、その額が年に6億円に上ったとも伝えられた。しかも提携関係にある間は、米国でブレーキを自前で作り、自ら売ることもできなかった。岩槻への12億円の投資が数年で回収のめどを得たのと対照的に、1960年10月の契約は1986年11月に切れるまで26年にわたって効力を保った。この縛りから抜けるため、曙ブレーキは次にGMとの合弁という賭けに出る必要があった。