三菱重工業マンモスタンカー建造への着手と、超大型船に向けた設備の拡充

計画造船の枠内で横並びに戻るか、まだ来ていない船型に設備を先に合わせるか——スエズ後の油送船大型化にどう構えたか

時期 1956年11月
意思決定者(推定) 三菱造船 旧三菱重工業の三分割で発足した造船主力会社
論点 設備投資と輸出船市場への構え
概要
1956年11月、財閥解体で三分割された三菱重工系の一社である三菱造船が、スエズ運河の閉鎖を受けた油送船の大型化を見越し、マンモスタンカーの建造に踏み切って設備の拡充へ進んだ経営判断。
背景
戦後の造船業は船舶公団と計画造船に支えられ、造船所は運輸省の指定と枠の中で横並びに並んでいた。粗糖リンク制を突破口に輸出船の受注が伸び、そこへスエズ動乱が重なって油送船の大型化が一気に前倒しになった。
内容
受注を積み上げてから設備を足すのではなく、設備の側を先に将来の船型へ合わせる順序を採った。当時は4万5,000重量トン級の建造が話題になる段階で、6万〜8万重量トンが常態となるのは1960年ごろである。
含意
1961年の長崎造船所の進水実績は世界第1位となった。一方でスエズ後の反動から輸出船の受注は急減し、陸上機械への投資の振り替えで凌いでいる。大型ドックを三社が競って抱えたことは、1964年の再合併を促す一因ともなった。
筆者の見解

先に持つか、確かめてから持つか

1956年11月の読売新聞が伝えた「マンモスタンカー建造には設備の拡充が必要となる」という一文に、この判断の順序が表れている。注文を取ってから設備を足すのではなく、設備の側を先に将来の船型へ合わせた。当時の話題は4万5,000重量トン級のスーパータンカーで、6万〜8万重量トンが常態になるまでになお四年ほどの間があった。計画造船の枠内で横並びに戻ることもできた会社が、枠の外の輸出船の大型化へ設備を寄せた点に、この判断の性格がうかがえる。

ただ、それがすぐ報われたわけではない。スエズ動乱が収まると輸出船の受注は1959年度に33万トンまで落ち、船価も1重量トン当たり207ドルから127ドルへ下がって、造船各社は陸上機械へ投資を振り替えている。三菱造船がその谷を越えられたのは、売上の四割を占める原動機や産業機械が船の穴を埋めたからだとみられる。1961年の長崎造船所の進水実績世界一は、先に設備を持った判断と、それを支えた陸上部門の両方の上に立っていたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

三分割された造船部門と、計画造船という枠

旧三菱重工業は1949年6月に過度経済力集中排除法の三分割指令を受け、翌1950年1月、東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業の三社に分かれて再出発した。このうち広島以西の五工場、すなわち長崎・下関・広島の三造船所と長崎・広島の二精機製作所を引き継いだのが西日本重工業である。同社は平和条約の発効で財閥商号の使用禁止が解けた1952年5月に商号を三菱造船へ改め、スリーダイヤの商標も復活させた[1]

再出発の場となった戦後の造船市場は、政府がつくった需要の上に成り立っていた。1947年4月に全額政府出資の船舶公団が設けられ、その資金で計画造船が動き出す。ただし第一次から第四次までの船は総トン数5,000トン以下・速力15ノット以下、機関は石炭だきに抑えられ、建造を担う造船所も運輸省が資材の手持ちと操業度をにらんで指定していた。制限が外れたのは1949年度の第五次計画造船からである[2]

輸出船ブームと、スエズ動乱

枠の外へ出る道を開いたのは輸出船であった。1954年度に実施された粗糖リンク制の助成で国際船価より一〜二割安く受注できるようになると、同年度の輸出船契約量は58万トンと前年の三倍を超えた。制度が廃止された後も受注は伸び、1955年度は223万トン、1956年度は185万トンに達している。3万重量トン以上の大型船で英国が500日、西ドイツが250日を要した納期を、日本の造船所は200日未満に収めていた[3]

そこへスエズ動乱が重なり、世界の造船需要は激増した。欧米の造船所が受注で手一杯になるなか、納期が短く船価も下がっていた日本へ注文が集まる。読売新聞も、石油消費量の増大に伴う油送船の大型化が「スエズ運河閉鎖以降はますますその傾向が強く」なったと伝えている。もっとも、この第一次輸出船ブームは七割までが大型タンカーで、しかもその大半はギリシャ系船主の注文であり、需要の不安定さは当初から懸念されていた[4][5]

決断

設備を先に船型へ合わせる

1956年11月22日の読売新聞は、「三菱造船・マンモスタンカー建造に踏み切る」との見出しを掲げた。海運業者と石油業者が油送船の大型化を急ぎ、スエズ運河の閉鎖以降その傾向がいっそう強まっていること、そして「マンモスタンカー建造には設備の拡充が必要となる」ことを、記事は併せて伝えている。受注が積み上がってから設備を足すのではなく、設備の側を先に船型へ合わせる順序であった[6]

当時の船型の相場観に照らすと、この踏み切りはかなり先回りしたものであった。1955年前後には4万5,000重量トンのスーパータンカーの建造が話題になる程度で、6万〜8万重量トンのマンモスタンカーが常態となるのは1960年ごろ、13万重量トンの日章丸が完成するのは1962年である。記事のいう「超大型船時代」を受け止める船台やドックは、これから作らなければならないものであった[7]

造船に六割を預けた会社が張る

踏み切った三菱造船は、造船に体重を預けた会社であった。1955年の時点で造船部門は全売上高の六割以上を占め、三造船所の造船能力は年間11万3,000トンと全国のおよそ二割にあたり、能力でも建造実績でも業界第一位である。輸出船でも1949年以来、フィリピン向け貨物船三隻を皮切りに米国やリベリアなどから十数隻を受けていた。残る四割は陸舶用原動機や発電設備、化学機械、製鉄機械が担っていた[8]

この踏み切りは、やがて各社を巻き込む設備競争の初期にあたる。造船各社の設備投資は1950年代初期には運搬・加工組み立て部門、中期には造機部門に重点が置かれていたが、超大型船の需要が高まると、それを受け止めるドックの新設が要る。三菱の長崎、石川島播磨の横浜第二、三井の千葉、日立の堺、川崎重工の坂出が、いずれも超大型クレーンを備えて15万〜20万トン級を建造できる設備を整えていった[9]

結果

長崎の進水実績、世界第1位

1962年1月9日の読売新聞は、三菱造船の長崎造船所について「1961年中の進水実績は世界第1位」と伝えた。国全体でみても、日本の造船業は1956年から10年にわたって世界第一位の座を保ち、1965年の進水量は534万総トン、世界に占めるシェアは44%と、第二位のスウェーデンの9%を引き離している。政府の保護に支えられた内需産業は、この間に輸出産業へ変わっていた[10][11]

ただし、先に設備を張った側にとって順風は長く続かなかった。スエズ動乱が収まって海運市況が急落すると、輸出船の受注量は1958年度76万トン、1959年度33万トンへ落ち込み、既契約船のキャンセルも相次ぐ。大型タンカーの船価は1重量トン当たり207ドルから1961年には127ドルまで下がり、造船界は長期の低迷に入った。設備を先に持った判断は、稼働を埋める仕事が細るなかで試された[12]

船屋の陸上がりと、三社が抱えた設備

低迷を受けて造船各社は1959年度以降、陸上機械と造機部門への設備投資を増やした。「船屋の陸上がり作戦」と呼ばれたこの転回で、もともと陸上部門の比重が高く出足の早かった三菱造船・新三菱重工業・三菱日本重工業・石川島重工業の四社と、他社との差が開く。1955年度と1960年度の売上高を比べると四社は3.3倍に伸び、日立・播磨・川崎・三井・浦賀の五社合計は2倍の伸びにとどまった[13]

もっとも、大型ドックの建造と陸上部門の拡充を三社がそれぞれ抱え込めば、必要な設備投資資金も三重になる。三菱重工業顧問の渡辺聖二氏は、主取引銀行の三菱銀行がグループ内の重複投資を避けるよう求めたのは当然であったと振り返っている。1964年6月、新三菱重工業・三菱造船・三菱日本重工業の三社は合併し、社名は分割前の三菱重工業へ戻った。長崎で積み上げた造船の実績は、そのまま合併後の会社が引き継いだ[14][15]

出典・参考
  • 読売新聞(1956年11月22日)「三菱造船・マンモスタンカー建造に踏み切る」
  • 読売新聞(1962年1月9日)「三菱の長崎造船所」
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「三菱造船」(東洋経済新報社, 1955)
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-政府も手厚い援助」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「造船-超大型や自動化船」
  • 日本産業史 第3巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「国際化のうねりと大型合併」
  • 『私の三菱昭和史』(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談

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