財閥解体で分割された三社の再合併と三菱重工業の発足

財閥解体で三つに分けられた重工業を、国際競争の時代にどう一つへ束ね直したか

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時期 1964年6月
意思決定者 新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船 合併前の3社
論点 分立の解消と事業の集約
概要
1964年6月、財閥解体で三社に分割されていた三菱重工系(新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船)が公正取引委員会の審査を経て再合併し、売上規模で日立製作所に次ぐ日本有数の重機械メーカー三菱重工業が発足した経営判断。
背景
1950年の過度経済力集中排除法で三社へ強制分割され約15年別々に運営された結果、トラックやブルドーザーで二重投資が生じ、国際競争力強化の要請が高まっていた。
内容
1963年に合併準備室を発足し独占禁止法上の審査を経て、1964年6月に三社が合併した。合併直前の三社合計売上は約3,193億円。二重投資の調整と研究開発の効率化、三菱商事を通じた輸出の一本化を狙った。
含意
財閥解体で人為的に分けられた組織を国際競争の時代に再統合した戦後産業再編の象徴。防衛・エネルギー・航空宇宙という政策連動事業の基盤となる一方、巨艦ゆえの組織硬直という課題も残した。
筆者の見解

分立を解いた規模を、どう使いこなすか

この判断の核心は、財閥解体という外的な力で人為的に三つに分けられた組織を、15年の分立を経て、国際競争力の要請のもとに再び一つへ集約した点にある。合併の狙いが規模そのものよりもグループ内の二重投資と研究重複の調整に置かれていたことを踏まえれば、これは拡大の判断であると同時に、切り分けられた事業を国際競争の時代に合わせて組み直す整理の判断でもあったとみることができる。日本の重工業の骨格を一社に束ね直した点で、戦後の産業再編を象徴する一手であった。

もっとも、一つの組織に集約された巨大さは、そのまま強みであり続けたわけではない。再合併が生んだ規模は防衛・エネルギー・航空宇宙という国策連動事業の土台となった一方で、1980年代には「軽薄短小」の逆風のなかで巨艦ゆえの組織硬直が指摘され、2000年前後には海外プラントの不振から最終赤字に陥る時期も経験した。分立を解いて得た規模を、変化する市場のなかでどう機動的に使いこなすか——1964年の再合併は、その問いを三菱重工業の経営に長く残したとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

戦前の巨大軍需企業と財閥解体による三社分割

三菱の重工業は、1887年に三菱社が官営長崎造船所の払い下げを受けて船舶の造修に乗り出したことに始まる。1917年に三菱造船が独立の株式会社として発足し、1934年には三菱航空機を合併して三菱重工業へと商号を改め、資本金5,500万円のもとで長崎・神戸・下関の造船所と名古屋の航空機製作所を擁する巨大な軍需企業となった。戦艦武蔵や零式艦上戦闘機を送り出した戦時の中核企業は、しかし終戦時に三十一を数えた事業所の大半について、解体を迫られた[1]

1950年、過度経済力集中排除法の適用により、三菱重工業は新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船の三社へと強制的に分割された。旧財閥解体の象徴的な対象となった三社は、それぞれ独立して証券取引所に上場し、以後およそ15年にわたって別々の会社として運営される異例の時期を迎えた。民需の平和産業への転換に社運を賭けた各社は独自の分野を開拓し、いずれも戦前をしのぐ成長を遂げていった[2]

分立がもたらした二重投資

高度成長期に入り、三社が別々に機械部門を充実させると、事業の重複が目立ち始めた。とりわけ自動車では、新三菱重工と三菱日本重工の双方がトラックの生産をめぐって二重投資に踏み込む危うさがあり、新三菱重工が米キャタピラーとの提携で乗り出したブルドーザーは、既存の建設機械メーカーである三菱日本重工と正面から競合していた。造船や機械の研究開発でも重複が多く、情報交換だけでは調整しきれない段階に達していた。国際競争力の強化が要請されるなかで、分立の非効率をどう解くかが三菱グループ共通の課題となっていた[3]

決断

合併準備室と公正取引委員会の審査

1962年には三社の合併が本決まりとなり、1963年には合併準備室が発足した。合併の利点として当時まず挙げられたのは、国際的な信用力の向上であった。三菱商事を通じて輸出を一本化すればグループの輸出力が高まり、EEC(欧州経済共同体)への対応で求められる船舶の大型化にも、有形無形の力を発揮できるとされた。国内では、機械や自動車の部門で生じていた二重投資を避け、投資の効率を高める狙いが前面に置かれていた[4]

三社の合併は独占禁止法に触れる規模であり、公正取引委員会の審査を経なければならなかった。準備室の発足から審査を通過し、1964年6月、新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船は合併して三菱重工業が発足した。合併直前の三社の売上高は合計でおよそ3,193億円に達し、内訳は新三菱重工が1,662億円、三菱造船が833億円、三菱日本重工が697億円で、新三菱重工が過半を占めていた。日立製作所に次ぐ、日本有数の規模を持つメーカーの再誕生であった[5][6]

規模より、重複の調整という狙い

合併の主眼は、規模の拡大そのものよりも、グループ内に分散した投資と研究の調整にあったとみられる。トラックやブルドーザーで生じていた事業の競合は、一つの会社に束ねることで初めて整理がつく。研究開発の面でも、造船・機械の双方で重なっていた投資を一本化すれば効率を高められると見込まれていた。15年にわたって別々に歩んだ三社を再び一つの組織に集約する判断は、財閥解体で人為的に切り分けられた事業を、国際競争の時代に合わせて組み直す試みであった[7]

結果

政策連動型の三事業への基盤

再合併によって、艦艇・原動機・航空機という戦前からの技術的な蓄積が、ふたたび一つの組織の内部に集約された。三菱重工業は船舶・原動機・機械・自動車・航空機を束ねる事業部制のもとで業容を広げ、1960年代末には売上高が6,000億円を超える規模へと成長した。造船で培った大型構造物の技術と、航空機や原動機の技術が同じ社内にそろったことで、防衛・エネルギー・航空宇宙といった国の政策と連動する事業へ本格的に展開する基盤が整った[8]

合併後の三菱重工業は、1970年に関西電力美浜発電所へ加圧水型原子炉を納め、同じ年に戦闘機F-4EJを受注するなど、原子力と防衛の両分野で国策事業の担い手となっていった。同年には自動車部門を三菱自動車工業として分離し、重機械の本業へ資源を集中させた。合併で得た規模と技術の集約は、のちの重電・原子力・防衛の事業展開を支え、2014年の三菱日立パワーシステムズ設立による火力発電の世界戦略に至るまで、長く前提として機能していった[9]

出典・参考
  • 日本経済新聞(1962年9月19日)「三菱・三重工合併本決まり」
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
  • 『利潤への挑戦 : 代表50社にみる経営革新』(中公新書)