三菱重工業は1884年7月7日を創立日[1]としている。岩崎弥太郎氏が工部省から長崎造船局を借り受け[2]、長崎造船所と命名した日である。その造船所の起源は幕府にさかのぼり、徳川幕府が1857年10月に長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所の建設に着手[3]し、1861年3月に落成させた。1871年4月に明治政府工部省の所管へ移り[4]、長崎造船所と改称されている。岩崎氏が1870年に設立した九十九商会[5]は三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と社名を改めて海運で伸びたが、運航する船舶の修繕を英国まで持ち出す不便[6]を抱えていた。借受から3年後の1887年6月、三菱は同造船所を政府から正式に買い受けた[7]。
1893年12月、資本金1,500万円の三菱合資会社[8]が設立されると、造船所はその傘下に編入されて三菱合資三菱造船所となった。国内各社が外国航路を開設して外航船舶の需要が増え、日清・日露の両戦争を機に海軍艦艇の建造も相次いだ[9]。設備の拡充は造船所の増設に及び、1905年7月に神戸三菱造船所、1914年12月に彦島三菱造船所[10]が開設されている。1917年3月には長崎兵器製作所[11]も設けられた。これら三造船所と兵器製作所が三菱合資の造船部を構成[12]し、長崎・神戸・彦島という三拠点の配置が固まった。
三菱合資会社は各事業の発展で機構が膨らみ、事業部門を独立させる方針[13]を採った。造船部門は1917年10月、三菱合資会社から造船部所属業務の一切を引き継いで[14]三菱造船株式会社として設立された。資本金は5,000万円[15]、初代会長には岩崎小弥太氏[16]が就いている。所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所[17]で、長崎造船所は1915年に三菱造船所から改称[18]されたものであった。その4年前の1913年に長崎造船所で進水した2万7,500トンの巡洋戦艦霧島[19]は、民間造船所として初の主力艦建造[20]である。この造艦技術は、のちに6万9,600トンの巨艦武蔵[21]の建造へつながった。
戦前の高速客船を代表する日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸[22]も同社の建造にかかる。舶用主機の製作から始まった原動機部門[23]は、次第に陸用へも進出した。ボイラ・タービンはいずれも発電用と産業用で容量と性能を伸ばし、国内外の発電所や大工場への納入[24]を重ねている。内燃機関の製作も舶用大型ディーゼル[25]など広い範囲に及んだ。車両では1917年に乗用車、1923年に日本最初の電気機関車[26]を送り出し、1935年から翌年にかけてディーゼルバスとディーゼルトラック[27]を開発している。造船で培った素材と機械の技術が、陸上の製品群へ横に広がった[28]。
航空機は原動機部門から枝分かれし、発動機の製造は1916年、機体の生産は1921年[29]に始まっている。1920年には三菱内燃機製造が設立され[30]、これがのちの三菱航空機となった。当時のわが国の航空機工業は民需をほとんど対象とせず、もっぱら軍需に向けて発達[31]している。外国機の製作権購入や外国人技師の招聘に力が注がれ、1930年ごろまでは模倣の域を脱しなかった[32]。1931年の満州事変以後に需要が急激に高まり[33]、1932年4月に横須賀へ設けられた海軍航空廠[34]が民間会社への発注と技術指導を通じて自主設計を推し進めた。1928年には三菱航空機が設立されている。
電機部門も造船から分かれ、1921年には神戸造船所の電気部を分離して三菱電機[35]が独立会社として設立された。造船所の内部で電機事業を並行して運営することから生じる組織上の非効率が、分離の理由である。三菱電機は1921年1月に分離手続きを終えている。こうして1930年代の初頭までに、造船・原動機・航空機・電機という四つの系統[36]が三菱の重工業部門から出そろっている。
1934年4月、三菱航空機と三菱造船が合併[37]し、商号が三菱重工業へ変更された。発足時の資本金は5,500万円[38]である。創業の母体である長崎造船所をはじめ、神戸造船所・下関造船所・名古屋航空機製作所・東京機器製作所[39]を傘下に置いた。艦船の建造はもとより、原動機・鉄道車両・自動車・航空機・産業機械[40]まで製作品目はすでに広い範囲へ及んでいる。本社は東京府麹町区丸ノ内に置かれた。造船から枝分かれした系統が、ふたたび一つの会社へ束ね直された[41]形であった。
長崎造船所は6万9,600トンの武蔵を建造[42]した。航空機では神風号、ニッポン号、九六式陸上攻撃機、零式艦上戦闘機[43]といった機体を送り出している。これらは同社の歴史を飾るだけでなく、国産技術の発展の各時期を画す製品[44]として評価された。1938年の航空機製造事業法の制定[45]は、航空機工業への保護政策をさらに推し進めている。太平洋戦争の開戦後は航空機の増産が至上命令となり、1943年から翌年にかけて生産は最盛期[46]を迎えた。
戦争の末期には資材の不足と空爆による被害で生産能力が下がった[47]。終戦時の月産は空襲前と比べて機体が21%、発動機が16%の水準[48]まで落ちている。終戦時に31を数えた同社の事業所[49]は、その大部分が解体を迫られた。GHQの指令で航空機の生産は一切禁じられ[50]、航空機会社は他の民需品への転換を余儀なくされている。財閥解体と集中排除法による企業分割[51]も重なり、航空機工業は一時まったく終焉したかにみえた。その後はまず米軍航空機の修理から再開の道[52]が開かれている。
1946年4月に持株整理委員会令が制定・施行[53]され、財閥解体の対象となった制限会社から該当会社を持株会社として指定し、解散を含む整理や分割を指令する機関が置かれた。1947年12月には過度経済力集中排除法が制定・施行[54]され、非財閥系を含む巨大会社の再編成が進められている。三菱系では三菱重工業・三菱商事・三菱鉱業など少なからぬ企業が持株会社の指定[55]を受けた。三菱重工業は三菱財閥のなかで圧倒的な地位を占めていたとして、持株整理委員会から三分割の指令案[56]を示された。
1950年1月、三菱重工業は中日本重工業・東日本重工業・西日本重工業の3社へ分割[57]された。中日本重工業は本社を神戸市に置き、資本金13億円、社長は藤井深造氏[58]である。静岡から三原までの間にあった神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輌製作所[59]を譲り受けた。東日本重工業と西日本重工業はいずれも本社を東京都中央区に置き、資本金はそれぞれ30億円と28億円[60]であった。3社は1950年5月に東京・大阪の各証券取引所へ株式を上場[61]している。
占領下では財閥の商標と商号の使用が禁じられていたが、1952年の対日講和条約の発効に伴って解除[62]された。中日本重工業は1952年5月に新三菱重工業へ、西日本重工業は同月に三菱造船へ、東日本重工業は同年6月に三菱日本重工業へ[63]商号を変更している。あわせてスリーダイヤモンドの商標も復活[64]した。同じく禁じられていた艦艇・兵器・航空機の生産加工も許され、1952年7月には航空機製造法が制定[65]されて航空機工業が再開へ向かった。新三菱重工業はこれらを新たに事業目的へ加えている[66]。
分立した3社は、それぞれ先進技術の導入で製品の幅を広げた[67]。新三菱重工業は1950年11月に米国レイヨンコンサルタント社と化学繊維機械[68]について技術提携を結び、1951年5月にはスイスのスルザー・フレール社と機関車用エンジン[69]で提携している。1951年7月には米国バタワース社と化学繊維機械で、1952年2月には米国ウェスチングハウス社と蒸気タービン[70]で提携した。1952年5月には米国コンバッション・エンジニアリング社[71]との間に蒸気発生装置の提携が加わっている。このうちウェスチングハウス社との関係は、のちの加圧水型原子炉の技術導入へつながる入口となった。
旧三菱重工業の分割は地域を基準に行われたため、3社は発足のときから製品分野が競合[72]した。各社が経営の多角化を進めるほど、競合はいっそう激しく[73]なっている。合併を求める声は三菱グループの内外から上がり、とりわけ主取引銀行の三菱銀行と共通の取引商社である三菱商事からの要望[74]が強かった。3社はいずれも大型ドックの建造や陸上機械部門の拡充で多額の設備投資資金[75]を必要としており、銀行はグループ内の重複投資を避けたいと考えた。商事の側も、電力会社からタービンやボイラの注文を取る際に3社のどこへ割り振るか[76]で苦慮し、注文の奪い合いが演じられていた。
3社合併が各社の役員会で具体的に話されたのは1962年の秋[77]である。同年9月には合併が本決まりとする新聞報道[78]が出たが、社内ではまだ決していなかった。新三菱重工業の藤井深造社長は1962年の暮れ、公正取引委員会がどう出るかを打診[79]するよう指示している。照会の結果は諾否いずれでもなかった[80]ため、ともかく申請する方針が固まった。1963年7月27日に3社の取締役会が共同検討への着手を決議し、8月2日には合併準備室[81]が置かれ、三菱日本重工業の織田淑夫常務が室長[82]に就いた。同年10月28日に合併契約書が調印され、11月27日の株主総会で承認[83]されている。
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| 1884〜1933年官営長崎造船所の借受から、三菱造船の分離独立まで | 三菱重工業創業——岩崎弥太郎氏の長崎造船所借受に始まる重工業の系譜 1884年7月7日、岩崎弥太郎氏が工部省から官営の長崎造船局を借り受けて長崎造船所と命名し、造船業に本格参入した。三菱重工業はこの日を公式の創立日とする。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三菱を設立し造船事業を承継 | ★★ | |||
| 三菱造船を設立 | ★ | |||
| 神戸造船所旧電気部を三菱電機として分離 | ★★ | |||
| 1934〜1963年三菱重工業の発足と軍需の一貫生産、そして三社への分割 | 商号を三菱重工に変更 | ★ | ||
| 財閥解体により3社に会社分割 | ★★ | |||
| 戦闘機の生産再開を決定(国内ライセンス生産) | ★★ | |||
| マンモスタンカー建造への着手と、超大型船に向けた設備の拡充 1956年11月、財閥解体で三分割された三菱重工系の一社である三菱造船が、スエズ運河の閉鎖を受けた油送船の大型化を見越し、マンモスタンカーの建造に踏み切って設備の拡充へ進んだ経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| YS-11の共同開発を開始 | ★ | |||
| 新三菱重工業:キャタピラーと合弁・建設機械に参入 | ★ | |||
| 1964〜1999年再合併と、防衛・エネルギーという政策連動事業の確立 | 藤井深造 | 財閥解体で分割された三社の再合併と三菱重工業の発足 1964年6月、財閥解体で三社に分割されていた三菱重工系(新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船)が公正取引委員会の審査を経て再合併し、売上規模で日立製作所に次ぐ日本有数の重機械メーカー三菱重工業が発足した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 河野文彦 | 長崎造船所で30万tドッグを新設 | ★ | ||
| 牧田與一郎 | 関西電力美浜1号にPWRを導入 | ★ | ||
| 牧田與一郎 | 戦闘機F-4EJを受注 | ★ | ||
| 牧田與一郎 | 自動車部門の分離独立と三菱自動車工業の設立 1970年6月、三菱重工業が売上の28%を占める最大部門であった自動車の営業を三菱自動車工業へ譲渡し、100%出資の子会社として分離独立させた経営判断。クライスラーとの65対35の合弁を実現する前提として、まず完全子会社の形をとった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 守屋学治 | MU-300ビジネスジェットの開発開始 | ★ | ||
| 金森政雄 | ボーイング社とB767/777の事業契約を締結 | ★ | ||
| 飯田庸太郎 | 大幸工場を閉鎖(名古屋市大曽根) | ★ | ||
| 飯田庸太郎 | 広島海洋機器工場を閉鎖 | ★ | ||
| 相川賢太郎 | 三菱原子力工業を合併 | ★★ | ||
| 2000〜2026年民間大型案件の連続した失敗と、防衛が支える最高益 | 西岡喬 | 最終赤字に転落 | ★★ | |
| 西岡喬 | Mitsubishi Power Systems, Inc.を設立 | ★ | ||
| 西岡喬 | 長崎造船所でダイヤモンドプリンセスが火災 | ★ | ||
| 佃和夫 | PBR1倍割れを問題視 | ★ | ||
| 佃和夫 | ウェスチングハウス買収入札での敗退と、仏アレバとの中型炉共同開発合弁の設立 2006年、米ウェスチングハウス社の買収入札で東芝に敗れた三菱重工業が、仏アレバとの中型原子炉の共同開発に合意し、2007年9月に合弁会社ATMEAをフランスに設立した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 佃和夫 | ボーイングB787向けに主翼出荷を開始 | ★ | ||
| 大宮英明 | キャタピラーとの合弁契約を解消 | ★ | ||
| 宮永俊一 | ニチユ三菱フォークリフトとして営業開始 | ★ | ||
| 宮永俊一 | 日立との火力発電システム事業の統合と三菱日立パワーシステムズの設立 2012年11月29日、三菱重工業と日立製作所が、火力発電システム分野の事業統合で基本合意した経営判断。両社の開発・製造・販売・エンジニアリング機能を新設合弁へ移し、三菱重工が65%、日立が35%を出資する。合弁は2014年2月1日に三菱日立パワーシステムズ(MHPS)として発足した。 詳細を読む | ★ | ||
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| 泉澤清次 | 防衛事業の急拡大——縮小産業を国策の成長事業へ 2022年12月の防衛3文書改定で政府が5年間43兆円・GDP比2%への防衛費増額を決めたのを受け、三菱重工業が防衛・宇宙事業を成長事業と定めて受注と生産能力を広げ、2026年3月期に同事業の売上収益を初めて1兆円超へ伸ばした経営判断。泉澤清次社長のもとで進めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 泉澤清次 | 過去最高益を達成 | ★ |
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事実根拠:出所(三菱重工業)