三菱重工業 の歴史

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創業 1887年
母体 三菱財閥
創業地 長崎県長崎市
創業
1884年7月、岩崎弥太郎氏が工部省から官営の長崎造船局を借り受け、長崎造船所と命名した。三菱重工業はこの日を創立日としている。起源は徳川幕府が1857年に長崎で着手した鎔鉄所にさかのぼり、明治政府の官営工場を経て民間へ渡った。官営の造船所を借り受けて造船へ参入したのは、自社の海運で使う船の修繕を英国まで持ち出す不便を解消するためで、1887年6月には政府から正式に買い受けている。1893年に三菱合資会社の傘下へ入り、1917年10月には造船部門が三菱造船として分離独立した。ただし最初から最大の顧客は自社の海運であり、外で客を取る経験は乏しいまま始まっている。
決断
事業の切り離しと統合を、100年にわたって繰り返してきた。1917年に三菱合資会社の造船部を三菱造船として分け、1921年には電機部門を三菱電機として独立させた。1934年に三菱航空機と合併して商号を三菱重工業へ改めたが、1950年には過度経済力集中排除法で3社へ分割される。分立した3社は同じ製品分野で競い、1956年に超大型タンカーに合わせて設備を先に張った判断もその競争のさなかに出た。重複投資を避けたい三菱銀行と三菱商事の求めで1964年に三社の再合併に踏み切り、その6年後には売上の3割近くを占めていた自動車部門を三菱自動車工業へ分離した。切り離しと再統合を繰り返した結果、注文主が国か電力会社という、需要が先に決まっている事業だけが手元に残った。
現況
現在の売上を支えているのは、船でも旅客機でもなく、発電設備と防衛装備である。2026年3月期の売上収益4兆9,742億円のうち、エナジーが2兆540億円で41%、航空・防衛・宇宙が1兆3,929億円で28%を占めた。親会社株主に帰属する当期純利益は3,321億円で、過去最高を更新している。ここへ至る前に、2016年には大型客船から撤退して造船を中小型船とLNG運搬船へ絞った。2022年末に政府が防衛費の増額を決めると防衛・宇宙事業を1兆円規模へ倍増する目標を掲げ、翌2023年には約1兆円を投じたスペースジェットの開発を中止した。二度の撤退で民間需要が抜けた結果、業績は国の防衛予算と電力需要の増減へ直に連動するようになった。
競合
ガスタービンで競う相手は、国内の重工大手ではなく海外の2社である。三菱重工業自身は、ガスタービン全体の世界シェアは2位、最新鋭のアドバンスドガスタービンでは1位と説明する。北米では一定のシェアを取り、中国では高い水準を保つ一方、中東ではSiemens Energyが大型案件を重ね、国内へは米GE Vernovaが入ってきている。国内で長年競った日立製作所とは2014年に火力発電システムを統合して合弁を設けたが、南アフリカ案件の損失負担をめぐる係争を経て2020年に合弁を解消して単独へ戻り、相手は火力から実質的に退いた。競合が減った結果、受注の優劣は価格ではなく、顧客の求める時期に工場の生産枠を用意できるかで決まるようになった。

設立ストーリー 官営長崎造船所の借受から、三菱造船の分離独立まで (1884年〜)

海運の修繕を自前で担うための造船所取得

三菱重工業は1884年7月7日を創立日[1]としている。岩崎弥太郎氏が工部省から長崎造船局を借り受け[2]、長崎造船所と命名した日である。その造船所の起源は幕府にさかのぼり、徳川幕府が1857年10月に長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所の建設に着手[3]し、1861年3月に落成させた。1871年4月に明治政府工部省の所管へ移り[4]、長崎造船所と改称されている。岩崎氏が1870年に設立した九十九商会[5]は三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と社名を改めて海運で伸びたが、運航する船舶の修繕を英国まで持ち出す不便[6]を抱えていた。借受から3年後の1887年6月、三菱は同造船所を政府から正式に買い受けた[7]

  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1884年7月7日 三菱重工業の創立日
    • [2]岩崎弥太郎による工部省からの長崎造船局借受
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [3]1857年10月 徳川幕府が長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所建設に着手、1861年3月落成
    • [4]1871年4月 明治政府工部省の所管となり長崎造船所と改称
    • [7]1887年6月 三菱が長崎造船所の払下げを受ける
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [5]1870年 岩崎弥太郎が九十九商会を設立、三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と改称
    • [6]船舶修繕を英国へ持ち出す不便が造船所取得の動機

1893年12月、資本金1,500万円の三菱合資会社[8]が設立されると、造船所はその傘下に編入されて三菱合資三菱造船所となった。国内各社が外国航路を開設して外航船舶の需要が増え、日清・日露の両戦争を機に海軍艦艇の建造も相次いだ[9]。設備の拡充は造船所の増設に及び、1905年7月に神戸三菱造船所、1914年12月に彦島三菱造船所[10]が開設されている。1917年3月には長崎兵器製作所[11]も設けられた。これら三造船所と兵器製作所が三菱合資の造船部を構成[12]し、長崎・神戸・彦島という三拠点の配置が固まった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [8]1893年12月 資本金1,500万円の三菱合資会社設立、造船所を傘下へ編入
    • [9]外国航路開設による外航船需要増と、日清・日露戦争を機とした海軍艦艇建造
    • [10]1905年7月 神戸三菱造船所開設、1914年12月 彦島三菱造船所開設
    • [11]1917年3月 長崎兵器製作所開設
    • [12]三造船所と長崎兵器製作所が三菱合資の造船部を構成
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1884年7月7日 三菱重工業の創立日
    • [2]岩崎弥太郎による工部省からの長崎造船局借受
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [3]1857年10月 徳川幕府が長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所建設に着手、1861年3月落成
    • [4]1871年4月 明治政府工部省の所管となり長崎造船所と改称
    • [7]1887年6月 三菱が長崎造船所の払下げを受ける
    • [8]1893年12月 資本金1,500万円の三菱合資会社設立、造船所を傘下へ編入
    • [9]外国航路開設による外航船需要増と、日清・日露戦争を機とした海軍艦艇建造
    • [10]1905年7月 神戸三菱造船所開設、1914年12月 彦島三菱造船所開設
    • [11]1917年3月 長崎兵器製作所開設
    • [12]三造船所と長崎兵器製作所が三菱合資の造船部を構成
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [5]1870年 岩崎弥太郎が九十九商会を設立、三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と改称
    • [6]船舶修繕を英国へ持ち出す不便が造船所取得の動機

三菱造船の分離独立と、民間造船所初の主力艦

三菱合資会社は各事業の発展で機構が膨らみ、事業部門を独立させる方針[13]を採った。造船部門は1917年10月、三菱合資会社から造船部所属業務の一切を引き継いで[14]三菱造船株式会社として設立された。資本金は5,000万円[15]、初代会長には岩崎小弥太氏[16]が就いている。所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所[17]で、長崎造船所は1915年に三菱造船所から改称[18]されたものであった。その4年前の1913年に長崎造船所で進水した2万7,500トンの巡洋戦艦霧島[19]は、民間造船所として初の主力艦建造[20]である。この造艦技術は、のちに6万9,600トンの巨艦武蔵[21]の建造へつながった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [13]三菱合資会社が各事業部門を独立させる方針を採用
    • [15]三菱造船の資本金 5,000万円
    • [16]三菱造船の初代会長 岩崎小弥太
    • [17]三菱造船の所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所
    • [18]1915年 三菱造船所を長崎造船所へ改称
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1917年10月 三菱合資会社から造船部所属業務を引き継ぎ三菱造船を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [19]1913年 長崎造船所で2万7,500トンの巡洋戦艦霧島が進水
    • [20]民間造船所として初の主力艦建造
    • [21]6万9,600トンの戦艦武蔵

戦前の高速客船を代表する日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸[22]も同社の建造にかかる。舶用主機の製作から始まった原動機部門[23]は、次第に陸用へも進出した。ボイラ・タービンはいずれも発電用と産業用で容量と性能を伸ばし、国内外の発電所や大工場への納入[24]を重ねている。内燃機関の製作も舶用大型ディーゼル[25]など広い範囲に及んだ。車両では1917年に乗用車、1923年に日本最初の電気機関車[26]を送り出し、1935年から翌年にかけてディーゼルバスとディーゼルトラック[27]を開発している。造船で培った素材と機械の技術が、陸上の製品群へ横に広がった[28]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [22]日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸を建造
    • [23]舶用主機から陸用への原動機部門の進出
    • [24]ボイラ・タービンの発電用・産業用への展開と国内外の発電所・大工場への納入
    • [25]舶用大型ディーゼルなど内燃機関製作の広がり
    • [26]1917年 乗用車、1923年 日本最初の電気機関車を開発
    • [27]1935〜1936年 ディーゼルバス・ディーゼルトラックの開発製作
    • [28]造船由来の技術が陸上製品群へ展開
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [13]三菱合資会社が各事業部門を独立させる方針を採用
    • [15]三菱造船の資本金 5,000万円
    • [16]三菱造船の初代会長 岩崎小弥太
    • [17]三菱造船の所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所
    • [18]1915年 三菱造船所を長崎造船所へ改称
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1917年10月 三菱合資会社から造船部所属業務を引き継ぎ三菱造船を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [19]1913年 長崎造船所で2万7,500トンの巡洋戦艦霧島が進水
    • [20]民間造船所として初の主力艦建造
    • [21]6万9,600トンの戦艦武蔵
    • [22]日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸を建造
    • [23]舶用主機から陸用への原動機部門の進出
    • [24]ボイラ・タービンの発電用・産業用への展開と国内外の発電所・大工場への納入
    • [25]舶用大型ディーゼルなど内燃機関製作の広がり
    • [26]1917年 乗用車、1923年 日本最初の電気機関車を開発
    • [27]1935〜1936年 ディーゼルバス・ディーゼルトラックの開発製作
    • [28]造船由来の技術が陸上製品群へ展開

航空機と電機の枝分かれ、そして三系統の並立

航空機は原動機部門から枝分かれし、発動機の製造は1916年、機体の生産は1921年[29]に始まっている。1920年には三菱内燃機製造が設立され[30]、これがのちの三菱航空機となった。当時のわが国の航空機工業は民需をほとんど対象とせず、もっぱら軍需に向けて発達[31]している。外国機の製作権購入や外国人技師の招聘に力が注がれ、1930年ごろまでは模倣の域を脱しなかった[32]。1931年の満州事変以後に需要が急激に高まり[33]、1932年4月に横須賀へ設けられた海軍航空廠[34]が民間会社への発注と技術指導を通じて自主設計を推し進めた。1928年には三菱航空機が設立されている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [29]1916年 発動機製造開始、1921年 機体生産着手
    • [31]日本の航空機工業は民需をほとんど対象とせず軍需向けに発達
    • [32]外国機の製作権購入・外国人技師招聘、1930年ごろまで模倣の域
    • [33]1931年 満州事変以後の航空機需要急増
    • [34]1932年4月 横須賀に海軍航空廠設立、民間への発注と技術指導で自主設計を推進
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [30]1920年 三菱内燃機製造設立(三菱航空機の前身)

電機部門も造船から分かれ、1921年には神戸造船所の電気部を分離して三菱電機[35]が独立会社として設立された。造船所の内部で電機事業を並行して運営することから生じる組織上の非効率が、分離の理由である。三菱電機は1921年1月に分離手続きを終えている。こうして1930年代の初頭までに、造船・原動機・航空機・電機という四つの系統[36]が三菱の重工業部門から出そろっている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [35]1921年 神戸造船所の電気部を分離し三菱電機を設立
    • [36]1930年代初頭までに造船・原動機・航空機・電機の四系統が成立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [29]1916年 発動機製造開始、1921年 機体生産着手
    • [31]日本の航空機工業は民需をほとんど対象とせず軍需向けに発達
    • [32]外国機の製作権購入・外国人技師招聘、1930年ごろまで模倣の域
    • [33]1931年 満州事変以後の航空機需要急増
    • [34]1932年4月 横須賀に海軍航空廠設立、民間への発注と技術指導で自主設計を推進
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [30]1920年 三菱内燃機製造設立(三菱航空機の前身)
    • [35]1921年 神戸造船所の電気部を分離し三菱電機を設立
    • [36]1930年代初頭までに造船・原動機・航空機・電機の四系統が成立

三菱航空機との合併と、戦時の生産

1934年4月、三菱航空機と三菱造船が合併[37]し、商号が三菱重工業へ変更された。発足時の資本金は5,500万円[38]である。創業の母体である長崎造船所をはじめ、神戸造船所・下関造船所・名古屋航空機製作所・東京機器製作所[39]を傘下に置いた。艦船の建造はもとより、原動機・鉄道車両・自動車・航空機・産業機械[40]まで製作品目はすでに広い範囲へ及んでいる。本社は東京府麹町区丸ノ内に置かれた。造船から枝分かれした系統が、ふたたび一つの会社へ束ね直された[41]形であった。

  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1934年4月 三菱航空機と三菱造船が合併、商号を三菱重工業へ変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [38]三菱重工業発足時の資本金 5,500万円
    • [39]傘下事業所は長崎造船所・神戸造船所・下関造船所・名古屋航空機製作所・東京機器製作所
    • [40]製作品目は艦船・原動機・鉄道車両・自動車・航空機・産業機械に及ぶ
    • [41]造船由来の各系統が一社へ再統合

長崎造船所は6万9,600トンの武蔵を建造[42]した。航空機では神風号、ニッポン号、九六式陸上攻撃機、零式艦上戦闘機[43]といった機体を送り出している。これらは同社の歴史を飾るだけでなく、国産技術の発展の各時期を画す製品[44]として評価された。1938年の航空機製造事業法の制定[45]は、航空機工業への保護政策をさらに推し進めている。太平洋戦争の開戦後は航空機の増産が至上命令となり、1943年から翌年にかけて生産は最盛期[46]を迎えた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [42]長崎造船所が6万9,600トンの戦艦武蔵を建造
    • [43]神風号・ニッポン号・九六式陸上攻撃機・零式艦上戦闘機を製作
    • [44]国産技術発展の各時期を画す製品としての評価
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [45]1938年 航空機製造事業法の制定による保護政策の推進
    • [46]1943〜1944年 航空機生産の最盛期

戦争の末期には資材の不足と空爆による被害で生産能力が下がった[47]。終戦時の月産は空襲前と比べて機体が21%、発動機が16%の水準[48]まで落ちている。終戦時に31を数えた同社の事業所[49]は、その大部分が解体を迫られた。GHQの指令で航空機の生産は一切禁じられ[50]、航空機会社は他の民需品への転換を余儀なくされている。財閥解体と集中排除法による企業分割[51]も重なり、航空機工業は一時まったく終焉したかにみえた。その後はまず米軍航空機の修理から再開の道[52]が開かれている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [47]戦争末期の資材不足と空爆被害による生産能力低下
    • [48]終戦時の月産は空襲前比で機体21%・発動機16%
    • [50]GHQ指令による航空機生産の全面禁止と民需品への転換
    • [51]財閥解体と集中排除法による企業分割
    • [52]戦後は米軍航空機の修理から再開
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [49]終戦時31事業所、大部分が解体
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1934年4月 三菱航空機と三菱造船が合併、商号を三菱重工業へ変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [38]三菱重工業発足時の資本金 5,500万円
    • [39]傘下事業所は長崎造船所・神戸造船所・下関造船所・名古屋航空機製作所・東京機器製作所
    • [40]製作品目は艦船・原動機・鉄道車両・自動車・航空機・産業機械に及ぶ
    • [41]造船由来の各系統が一社へ再統合
    • [42]長崎造船所が6万9,600トンの戦艦武蔵を建造
    • [43]神風号・ニッポン号・九六式陸上攻撃機・零式艦上戦闘機を製作
    • [44]国産技術発展の各時期を画す製品としての評価
    • [49]終戦時31事業所、大部分が解体
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [45]1938年 航空機製造事業法の制定による保護政策の推進
    • [46]1943〜1944年 航空機生産の最盛期
    • [47]戦争末期の資材不足と空爆被害による生産能力低下
    • [48]終戦時の月産は空襲前比で機体21%・発動機16%
    • [50]GHQ指令による航空機生産の全面禁止と民需品への転換
    • [51]財閥解体と集中排除法による企業分割
    • [52]戦後は米軍航空機の修理から再開

財閥解体と、三社への強制分割による再出発

1946年4月に持株整理委員会令が制定・施行[53]され、財閥解体の対象となった制限会社から該当会社を持株会社として指定し、解散を含む整理や分割を指令する機関が置かれた。1947年12月には過度経済力集中排除法が制定・施行[54]され、非財閥系を含む巨大会社の再編成が進められている。三菱系では三菱重工業・三菱商事・三菱鉱業など少なからぬ企業が持株会社の指定[55]を受けた。三菱重工業は三菱財閥のなかで圧倒的な地位を占めていたとして、持株整理委員会から三分割の指令案[56]を示された。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「大企業の分割相つぐ」
    • [53]1946年4月 持株整理委員会令の制定・施行
    • [54]1947年12月 過度経済力集中排除法の制定・施行
    • [55]三菱重工業・三菱商事・三菱鉱業などが持株会社の指定を受ける
    • [56]三菱財閥内で圧倒的地位を占めたことを理由とする三分割の指令案

1950年1月、三菱重工業は中日本重工業・東日本重工業・西日本重工業の3社へ分割[57]された。中日本重工業は本社を神戸市に置き、資本金13億円、社長は藤井深造[58]である。静岡から三原までの間にあった神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輌製作所[59]を譲り受けた。東日本重工業と西日本重工業はいずれも本社を東京都中央区に置き、資本金はそれぞれ30億円と28億円[60]であった。3社は1950年5月に東京・大阪の各証券取引所へ株式を上場[61]している。

  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1950年1月 中日本重工業・東日本重工業・西日本重工業の3社へ分割
    • [61]1950年5月 3社が東京・大阪各証券取引所へ上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [58]中日本重工業は本社神戸市・資本金13億円・社長藤井深造
    • [59]中日本重工業が譲り受けた工場は神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輌製作所
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [60]東日本重工業の資本金30億円、西日本重工業の資本金28億円

占領下では財閥の商標と商号の使用が禁じられていたが、1952年の対日講和条約の発効に伴って解除[62]された。中日本重工業は1952年5月に新三菱重工業へ、西日本重工業は同月に三菱造船へ、東日本重工業は同年6月に三菱日本重工業へ[63]商号を変更している。あわせてスリーダイヤモンドの商標も復活[64]した。同じく禁じられていた艦艇・兵器・航空機の生産加工も許され、1952年7月には航空機製造法が制定[65]されて航空機工業が再開へ向かった。新三菱重工業はこれらを新たに事業目的へ加えている[66]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [62]1952年 対日講和条約発効による財閥商標・商号の使用解除
    • [64]スリーダイヤモンド商標の復活使用
    • [66]新三菱重工業が艦艇・兵器・航空機を事業目的へ追加
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [63]1952年5月 新三菱重工業・三菱造船へ、同年6月 三菱日本重工業へ商号変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [65]1952年7月 航空機製造法の制定と航空機工業の再開
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「大企業の分割相つぐ」
    • [53]1946年4月 持株整理委員会令の制定・施行
    • [54]1947年12月 過度経済力集中排除法の制定・施行
    • [55]三菱重工業・三菱商事・三菱鉱業などが持株会社の指定を受ける
    • [56]三菱財閥内で圧倒的地位を占めたことを理由とする三分割の指令案
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1950年1月 中日本重工業・東日本重工業・西日本重工業の3社へ分割
    • [61]1950年5月 3社が東京・大阪各証券取引所へ上場
    • [63]1952年5月 新三菱重工業・三菱造船へ、同年6月 三菱日本重工業へ商号変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [58]中日本重工業は本社神戸市・資本金13億円・社長藤井深造
    • [59]中日本重工業が譲り受けた工場は神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輌製作所
    • [62]1952年 対日講和条約発効による財閥商標・商号の使用解除
    • [64]スリーダイヤモンド商標の復活使用
    • [66]新三菱重工業が艦艇・兵器・航空機を事業目的へ追加
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [60]東日本重工業の資本金30億円、西日本重工業の資本金28億円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [65]1952年7月 航空機製造法の制定と航空機工業の再開

技術導入と競合、そして合併の決議

分立した3社は、それぞれ先進技術の導入で製品の幅を広げた[67]。新三菱重工業は1950年11月に米国レイヨンコンサルタント社と化学繊維機械[68]について技術提携を結び、1951年5月にはスイスのスルザー・フレール社と機関車用エンジン[69]で提携している。1951年7月には米国バタワース社と化学繊維機械で、1952年2月には米国ウェスチングハウス社と蒸気タービン[70]で提携した。1952年5月には米国コンバッション・エンジニアリング社[71]との間に蒸気発生装置の提携が加わっている。このうちウェスチングハウス社との関係は、のちの加圧水型原子炉の技術導入へつながる入口となった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [67]分立3社による先進技術の導入
    • [68]1950年11月 米国レイヨンコンサルタント社と化学繊維機械で技術提携
    • [69]1951年5月 スイス・スルザーフレール社と機関車用エンジンで提携
    • [70]1951年7月 米国バタワース社と化学繊維機械、1952年2月 米国ウェスチングハウス社と蒸気タービンで提携
    • [71]1952年5月 米国コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生装置で提携

旧三菱重工業の分割は地域を基準に行われたため、3社は発足のときから製品分野が競合[72]した。各社が経営の多角化を進めるほど、競合はいっそう激しく[73]なっている。合併を求める声は三菱グループの内外から上がり、とりわけ主取引銀行の三菱銀行と共通の取引商社である三菱商事からの要望[74]が強かった。3社はいずれも大型ドックの建造や陸上機械部門の拡充で多額の設備投資資金[75]を必要としており、銀行はグループ内の重複投資を避けたいと考えた。商事の側も、電力会社からタービンやボイラの注文を取る際に3社のどこへ割り振るか[76]で苦慮し、注文の奪い合いが演じられていた。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談
    • [72]旧三菱重工業の分割が地域基準だったため3社の製品分野が競合
    • [73]各社の経営多角化に伴う競合の激化
    • [74]三菱銀行・三菱商事からの合併要望
    • [75]大型ドック建造・陸上機械部門拡充による設備投資資金需要と、銀行の重複投資回避意向
    • [76]電力会社向けタービン・ボイラ受注をめぐる3社間の奪い合い

3社合併が各社の役員会で具体的に話されたのは1962年の秋[77]である。同年9月には合併が本決まりとする新聞報道[78]が出たが、社内ではまだ決していなかった。新三菱重工業の藤井深造社長は1962年の暮れ、公正取引委員会がどう出るかを打診[79]するよう指示している。照会の結果は諾否いずれでもなかった[80]ため、ともかく申請する方針が固まった。1963年7月27日に3社の取締役会が共同検討への着手を決議し、8月2日には合併準備室[81]が置かれ、三菱日本重工業の織田淑夫常務が室長[82]に就いた。同年10月28日に合併契約書が調印され、11月27日の株主総会で承認[83]されている。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談
    • [77]1962年秋 3社の役員会で合併が具体的に議論
    • [79]藤井深造社長による公正取引委員会への打診指示(1962年暮れ)
    • [80]公取委への照会結果は諾否いずれでもなく、申請へ
    • [81]1963年7月27日 3社取締役会が共同検討に着手を決議、8月2日 合併準備室設置、室長は織田淑夫
    • [82]合併準備室長は三菱日本重工業の織田淑夫常務
    • [83]1963年10月28日 合併契約書調印、11月27日 株主総会承認
  • 日本経済新聞(1962年9月19日)
    • [78]1962年9月 日本経済新聞が三重工合併を本決まりと報道
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [67]分立3社による先進技術の導入
    • [68]1950年11月 米国レイヨンコンサルタント社と化学繊維機械で技術提携
    • [69]1951年5月 スイス・スルザーフレール社と機関車用エンジンで提携
    • [70]1951年7月 米国バタワース社と化学繊維機械、1952年2月 米国ウェスチングハウス社と蒸気タービンで提携
    • [71]1952年5月 米国コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生装置で提携
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談
    • [72]旧三菱重工業の分割が地域基準だったため3社の製品分野が競合
    • [73]各社の経営多角化に伴う競合の激化
    • [74]三菱銀行・三菱商事からの合併要望
    • [75]大型ドック建造・陸上機械部門拡充による設備投資資金需要と、銀行の重複投資回避意向
    • [76]電力会社向けタービン・ボイラ受注をめぐる3社間の奪い合い
    • [77]1962年秋 3社の役員会で合併が具体的に議論
    • [79]藤井深造社長による公正取引委員会への打診指示(1962年暮れ)
    • [80]公取委への照会結果は諾否いずれでもなく、申請へ
    • [81]1963年7月27日 3社取締役会が共同検討に着手を決議、8月2日 合併準備室設置、室長は織田淑夫
    • [82]合併準備室長は三菱日本重工業の織田淑夫常務
    • [83]1963年10月28日 合併契約書調印、11月27日 株主総会承認
  • 日本経済新聞(1962年9月19日)
    • [78]1962年9月 日本経済新聞が三重工合併を本決まりと報道

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三菱重工業の沿革1884〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1884〜1933年官営長崎造船所の借受から、三菱造船の分離独立まで三菱重工業創業——岩崎弥太郎氏の長崎造船所借受に始まる重工業の系譜

1884年7月7日、岩崎弥太郎氏が工部省から官営の長崎造船局を借り受けて長崎造船所と命名し、造船業に本格参入した。三菱重工業はこの日を公式の創立日とする。

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三菱を設立し造船事業を承継★★
三菱造船を設立
神戸造船所旧電気部を三菱電機として分離★★
1934〜1963年三菱重工業の発足と軍需の一貫生産、そして三社への分割商号を三菱重工に変更
財閥解体により3社に会社分割★★
戦闘機の生産再開を決定(国内ライセンス生産)★★
マンモスタンカー建造への着手と、超大型船に向けた設備の拡充

1956年11月、財閥解体で三分割された三菱重工系の一社である三菱造船が、スエズ運河の閉鎖を受けた油送船の大型化を見越し、マンモスタンカーの建造に踏み切って設備の拡充へ進んだ経営判断。

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YS-11の共同開発を開始
新三菱重工業:キャタピラーと合弁・建設機械に参入
1964〜1999年再合併と、防衛・エネルギーという政策連動事業の確立藤井深造財閥解体で分割された三社の再合併と三菱重工業の発足

1964年6月、財閥解体で三社に分割されていた三菱重工系(新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船)が公正取引委員会の審査を経て再合併し、売上規模で日立製作所に次ぐ日本有数の重機械メーカー三菱重工業が発足した経営判断。

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河野文彦長崎造船所で30万tドッグを新設
牧田與一郎関西電力美浜1号にPWRを導入
牧田與一郎戦闘機F-4EJを受注
牧田與一郎自動車部門の分離独立と三菱自動車工業の設立

1970年6月、三菱重工業が売上の28%を占める最大部門であった自動車の営業を三菱自動車工業へ譲渡し、100%出資の子会社として分離独立させた経営判断。クライスラーとの65対35の合弁を実現する前提として、まず完全子会社の形をとった。

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★★★
守屋学治MU-300ビジネスジェットの開発開始
金森政雄ボーイング社とB767/777の事業契約を締結
飯田庸太郎大幸工場を閉鎖(名古屋市大曽根)
飯田庸太郎広島海洋機器工場を閉鎖
相川賢太郎三菱原子力工業を合併★★
2000〜2026年民間大型案件の連続した失敗と、防衛が支える最高益西岡喬最終赤字に転落★★
西岡喬Mitsubishi Power Systems, Inc.を設立
西岡喬長崎造船所でダイヤモンドプリンセスが火災
佃和夫PBR1倍割れを問題視
佃和夫ウェスチングハウス買収入札での敗退と、仏アレバとの中型炉共同開発合弁の設立

2006年、米ウェスチングハウス社の買収入札で東芝に敗れた三菱重工業が、仏アレバとの中型原子炉の共同開発に合意し、2007年9月に合弁会社ATMEAをフランスに設立した経営判断。

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★★★
佃和夫ボーイングB787向けに主翼出荷を開始
大宮英明キャタピラーとの合弁契約を解消
宮永俊一ニチユ三菱フォークリフトとして営業開始
宮永俊一日立との火力発電システム事業の統合と三菱日立パワーシステムズの設立

2012年11月29日、三菱重工業と日立製作所が、火力発電システム分野の事業統合で基本合意した経営判断。両社の開発・製造・販売・エンジニアリング機能を新設合弁へ移し、三菱重工が65%、日立が35%を出資する。合弁は2014年2月1日に三菱日立パワーシステムズ(MHPS)として発足した。

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宮永俊一Primetals Technologies, Limitedが営業開始★★
宮永俊一大型客船事業からの撤退——アイーダ社2隻で2408億円の損失

2016年10月18日、三菱重工業が大型客船事業からの事実上の撤退を表明した経営判断。2011年に欧州アイーダ・クルーズから受注した大型客船2隻で累計2408億円の損失を計上し、造船事業を中小型客船とLNG運搬船に集中する方針を示した。宮永俊一社長の主導による造船部門の構造改革の一環である。

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★★★
泉澤清次三菱航空機が債務超過状態
泉澤清次三菱重工と日立の火力発電合弁「三菱日立パワーシステムズ」の解消(2020年)

2014年に三菱重工と日立が火力発電システム事業を統合して発足した三菱日立パワーシステムズ(MHPS)が、2020年9月に合弁を解消し、三菱重工の完全子会社『三菱パワー』となった案件。

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★★★
泉澤清次国産ジェット旅客機スペースジェット(MSJ/旧MRJ)の開発中止

2020年秋に開発を凍結してから約2年半、事業を再開するに足る採算性を見いだせないとして、泉澤清次社長が撤退を決断した。開発子会社の三菱航空機はトヨタ自動車など出資者との協議を経て清算する方針が示された。

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★★★
泉澤清次Concentric, LLCを子会社化
泉澤清次防衛事業の急拡大——縮小産業を国策の成長事業へ

2022年12月の防衛3文書改定で政府が5年間43兆円・GDP比2%への防衛費増額を決めたのを受け、三菱重工業が防衛・宇宙事業を成長事業と定めて受注と生産能力を広げ、2026年3月期に同事業の売上収益を初めて1兆円超へ伸ばした経営判断。泉澤清次社長のもとで進めた。

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★★★
泉澤清次過去最高益を達成
出典・参考
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 会社年鑑(1986年版)セグメント別売上高
  • 日本産業史 4(高村寿一・小山博之 編、日経文庫、1994年)年表
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号 牧田與一郎
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「大企業の分割相つぐ」
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談
  • 日本経済新聞(1962年9月19日)
  • 利潤への挑戦 : 代表50社にみる経営革新(中公新書)

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