三菱重工業三菱重工業創業——岩崎弥太郎の長崎造船所借受に始まる重工業の系譜

海運と造船の垂直統合に始まり、戦時の一貫量産・戦後の強制分割・1964年の再合併をどう越えたか

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時期 1884年7月
意思決定者 岩崎弥太郎 三菱財閥創業者・郵便汽船三菱会社社長
論点 自社海運の船舶修繕を内製化する造船業への参入
概要
1884年7月7日、岩崎弥太郎が工部省から官営の長崎造船局を借り受けて長崎造船所と命名し、造船業に本格参入した。三菱重工業はこの日を公式の創立日とする。
背景
岩崎は1870年に九十九商会、1875年に郵便汽船三菱会社を興して海運業で台頭したが、運航船の修繕を英国まで持ち出す構造的な不便を抱えていた。明治政府の官業払下げ方針のもと、長崎造船局の取得で海運と造船の垂直統合に踏み切った。
内容
借受の翌1885年に弥太郎が没し弟・岩崎弥之助が本格運営を継承、1887年に正式払下げを受けた。1893年三菱合資会社造船部、1917年三菱造船として独立、1934年に三菱航空機と合併して三菱重工業が発足し、戦艦武蔵・零式艦上戦闘機・戦車を一貫量産する重工業の中核となった。
含意
戦後1950年の過度経済力集中排除法で東日本・中日本・西日本の3社に強制分割されたが、1964年6月に再合併して三菱重工業が復活。1970年に自動車部門を三菱自動車工業として分離し、防衛・エネルギー・航空宇宙・船舶を主軸とする体制を整えた。

なぜ岩崎弥太郎は1884年に長崎造船局を借り受け造船業に踏み込んだのか

岩崎弥太郎は1835年に土佐国安芸郡井ノ口村(現高知県安芸市)の地下浪人の家に生まれ、1870年に九十九商会を起こして海運業を開始した。1875年に郵便汽船三菱会社を設立し、台湾出兵と西南戦争の軍事輸送で政府船を一手に運航する地位を確保したが、運航船の修繕は英国まで持ち出さねばならない構造的な不便を抱えていた。

旧徳川幕府が1857年に開設した長崎熔鉄所を起源とする官営の長崎造船局は、1880年代に明治政府の官業払下げの対象となり、岩崎は1884年7月7日付で工部省から借受の形でこれを取得し、長崎造船所と命名して造船事業に本格参入した。三菱重工業はこの日を公式の創立日と位置付けている。借受開始の翌1885年2月に弥太郎が49歳で病没し、長崎造船所の本格運営は弟の岩崎弥之助に引き継がれた。1887年6月には政府から長崎造船所の正式払下げを受け、自社海運と造船を垂直統合する三菱財閥の重工業基盤がここに成立した。

三菱合資会社への継承と三菱造船の独立

1893年12月の三菱合資会社設立で造船事業は同社造船部に継承され、1905年に神戸造船所、1914年に彦島造船所を加えて三拠点体制を整えた。1917年10月、三菱合資会社造船部所属業務一切を引き継いで三菱造船株式会社として独立し、長崎・神戸・彦島の三造船所を一元運営する体制が整った。1921年1月には神戸造船所電気部を三菱電機として分離している。

なぜ1934年に三菱航空機と三菱造船が合併して三菱重工業となったのか

1928年には三菱航空機株式会社を別法人として設立し、名古屋に航空機工場を新設していた。1930年代に入ると満州事変・日中戦争の進展で陸海軍からの艦艇・航空機・発動機の発注が急増し、艦艇を担う三菱造船と航空機を担う三菱航空機とで、研究開発と量産投資の重複が顕在化した。両社の主要顧客がともに陸海軍で重複していたことが、合併判断の背景にある。

1934年4月、三菱航空機と三菱造船を合併し、商号を三菱重工業株式会社に変更した。本社は東京府麹町区丸ノ内(現千代田区丸の内)、艦艇・航空機・車両を国内で一貫量産する日本有数の重工業企業として再編された。長崎造船所では1937年から戦艦武蔵の建造に着手して1942年8月竣工、名古屋航空機製作所では1939年に零式艦上戦闘機の量産を開始、1937年新設の丸子工場(神奈川県)では戦車の量産体制を構築し、太平洋戦争期の軍需生産を中核で担う体制となった。

なぜ1950年に旧三菱重工業は3社に強制分割されたのか

1945年8月の敗戦と同時に連合国軍最高司令官総司令部の指令で航空機製造が全面禁止となり、旧三菱重工業は陸海軍向けの軍需製品の生産を停止して鍋・釜・農具・スクーターなど民需品への事業転換を余儀なくされた。1947年制定の独占禁止法と同年12月公布の過度経済力集中排除法のもと、旧三菱重工業は集中排除指定企業に指定され、単一法人としての存続が認められないとの結論に至った。

1950年1月、過度経済力集中排除法により旧三菱重工業は3社に強制分割された。本社を神戸市に置く中日本重工業株式会社、本社を東京都中央区に置く東日本重工業株式会社、同じく東京都中央区に置く西日本重工業株式会社が同月に発足し、1950年5月までに3社いずれも東京・大阪両証券取引所に株式を上場した。1952年5月に中日本重工業は新三菱重工業、同月に西日本重工業は三菱造船、1952年6月に東日本重工業は三菱日本重工業へと商号を改め、財閥商号制限令の緩和に合わせて「三菱」名を回復した。

なぜ1964年6月に3社が再合併できたのか

1962年9月、日経新聞は3社合併の本決まりを報じた。高度成長期の重化学工業化で3社それぞれが造船・建機・自動車・原動機への投資を進めた結果、グループ内で二重投資が顕在化しており、輸出力強化と研究開発効率化が合併の理由に挙げられた。1963年7月の3社取締役会で合併共同検討の方針を決議し、同年8月に合併準備室を発足した。

売上高3,000億円規模の大企業誕生となるため公正取引委員会が独占禁止法抵触の有無を慎重に審査し、1964年1月までに抄紙機を除き問題ない旨を回答した。1964年6月1日、新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船の3社が合併し、本社を東京都千代田区に置く三菱重工業株式会社が発足した。約14年の分立を経て、艦艇・原動機・航空機の戦前来の技術系譜が再び一法人に集約され、戦後の防衛・エネルギー・航空宇宙という政策連動型事業への展開基盤が制度的に整った。

日本経済新聞
合併後の新会社は半期売上高で1300億円以上(中略)と日立製作所に次ぐわが国最大級のマンモス企業となる

なぜ1970年に自動車部門を三菱自動車工業として分離したのか

1964年の3社再合併時、旧新三菱重工業と旧三菱日本重工業の双方がトラック・乗用車の生産を行っており、自動車部門は再合併後の三菱重工業の中で機械事業と並ぶ重要事業となった。1960年代後半に乗用車市場が急成長し、コルト・ギャラン・デボネアといった乗用車ブランドを擁する自動車部門は、本体の重工業事業とは異なる市場リスクと投資サイクルを持つ事業として運営の独立性が求められるに至った。

1969年12月、三菱重工業と米クライスラー社は資本・業務提携で合意し、1970年6月1日付で自動車部門の営業を新設の三菱自動車工業株式会社へ譲渡した。クライスラーは三菱自動車工業の発行済株式の15%を取得し、新会社は乗用車・小型トラックを中核に独立して運営される体制となった。1884年の長崎造船所借受から数えて86年、戦前の合併・戦後の分割・1964年の再合併を経た三菱重工業は、自動車を切り離して防衛・エネルギー・航空宇宙・船舶・産業機械を主軸とする体制を本格化させた。

出典・参考
  • 三菱重工業株式会社史
  • 三菱重工業株式会社 有価証券報告書(沿革・創業経緯)
  • 日本経済新聞(1962年9月19日ほか、3社合併報道)

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