嘉永六年(1853年)に米国の水師提督ペルリが来朝すると、同年9月には200年に及んだ大船建造禁止令が解かれ、12月、幕命により隅田川口の石川島の地にわが国最初の造船所が建てられた。これが石川島の始まり[1]となった。1876年に同造船所は機関技師の平野富二氏の個人経営となり、石川島平野造船所と称して[2]わが国最初の民営造船所となった。平野氏は民営初の汽船建造に取り組むかたわら、活字の製造や印刷業にも手を染めている[3]。その手ではじめて国産化された機械類は、日本最初の蒸汽船をはじめボイラ・製糸機械・破砕機・鉄橋・エレベーターにおよんだ[4]。三井・三菱・住友が海運や商事、鉱山で得た収益を機械部門へ投じたのに対し、平野氏は重機械の生産ひとすじに打ち込み[5]、47歳の若さで他界した[6]。
1889年1月、組織を変更して[7]平野富二氏・渋沢栄一氏らにより資本金17万5,000円の有限責任石川島造船所が創立され[8]、現在の第一工場にあたる場所で造船と陸舶用諸機械を製作した。1893年9月には商法の実施にともない社名を株式会社東京石川島造船所と改め[9]、渋沢栄一氏が初代会長に就任している。これを機に、その後の長い社歴を通じて第一銀行との紐帯が固く結ばれた[10]。財閥系でない石川島が強大な力を持つ財閥企業に対抗するには、経営でも技術でもつねに他に一歩先んじる[11]必要がある。工業基盤の脆弱な環境で造船所は素材から部品まで一切を自給する体制を取らざるをえず、石川島ではその傾向がとりわけ顕著に出た。のちに『機械のデパート』と呼ばれる性格は、この形成過程で培われた[12]ものである。
わが国の運搬荷役機械は1897年の同社製の手動起重機に始まり、その後の製作台数は約5,600台・百数十種におよんだ[13]。そのなかには1934年の三百五十屯旋回式埠頭起重機、1936年の鴨緑江に架けたわが国最大径間九百三十米のケーブルクレーン、世界最大級の四百屯共吊り八百屯天井起重機[14]がある。わが国の起重機船と浚渫船は、ほとんどが同社で建造[15]された。圧縮機は高圧合成用として知られ、1939年のアンモニア合成用四千五百馬力八百気圧六段圧縮機は容量において東洋一[16]であった。水門の製作数は八百余を数えてわが国最高[17]であり、造船部門では創業以来各種艦艇約800隻を建造[18]している。造機部門では1921年にスイスのエツシャ・ウィス社と提携してツェリー式舶用蒸気タービンの製造販売権を獲得し、独自の考案と改良を加えた石川島式舶用蒸気タービンで質量ともにわが国最大のメーカーとなった[19]。
社運の進展にともない、同社は各種の生産部門を分離して子会社を設けている[20]。1925年の石川島飛行機製作所、1929年の石川島自動車製作所、1936年の石川島芝浦タービン、1937年の奉天製作所、1941年の石川島航空工業、1943年の東京造船所、1944年の満州石川島重工業[21]がそれであり、このうち石川島自動車製作所はのちのいすゞ自動車にあたる[22]。百年の歩みは企業の分離と統合の歴史[23]であった。分離した石川島芝浦タービンには、1936年に土光敏夫氏が本社から移っている[24]。同氏は1929年に特許番号八三〇八二『推力軸承の改良』を得た[25]のを皮切りに蒸気タービンの特許と実用新案を重ねた技術者で、1929年の石川島の技術陣は年間16件の特許を取り、この記録は1952年まで破られなかった[26]。
1933年10月、東京市の勝鬨橋架設計画を機会に、第一工場の造船部門を移転拡張する目的で深川豊洲に第二工場を増設[27]し、1939年2月に造船および製缶関係の操業を開始した[28]。1940年3月には陸舶用諸機械の需要増大に対処するため、タービン部門と鋳造部門を移転し、産業設備営団の援助を一部得て第三工場を建設[29]している。太平洋戦争に入ると石川島芝浦タービンは軍需工場に指定され、1943年には東芝の首脳陣を説得して長野県松本市に敷地30万坪・建物5万坪の大工場を建設した。ここでは航空機用排ガスタービンと過給機を製造[30]し、続いて辰野工場・木曾工場・伊那工場と工場網を広げた[31]。
ジェットエンジンの開発は、石川島芝浦タービンが1942年ごろからプロペラ併用タービン噴進機を目標に着手し、海軍の種子島時休大佐の指導と技術院の参加を得て進んだ[32]。ドイツから資料を潜水艦で運ぶ途中に一隻が撃沈され、かろうじて到着した一隻から1944年に見取図を入手[33]している。これをもとに航空本部・海軍航空技術廠・石川島が協力し、『ネ二〇』と名付けられたエンジンが完成した[34]。特別戦闘攻撃機『橘花』に装備されて1945年8月7日に飛翔し、六百メートルを十二分間飛んだ[35]が、工場を挙げて量産体制に入った一週間後に終戦を迎えた。同社はネ二〇を終戦直前に五台完成させ、民間会社として唯一の実績を残している[36]。この間の1945年6月、商号を石川島重工業株式会社と改称した[37]。
終戦とともに需要は減退し、1945年11月にいったん第一・第二工場へ生産を集中[38]したが、復興建設用機械の需要増大を受けて1947年3月には第三工場も操業を再開[39]した。公職追放令の影響で1948年に首脳陣は下島勝次社長・宮島利雄副社長・田口連三常務という若い顔ぶれに変わり[40]、過度経済力集中排除法による東京三工場の分割指定を受けながら、のちにその解除に成功[41]している。1949年には黒字に転じて下期に3,000万円の利益を計上し、資本金も1億3,000万円へ[42]増やした。同年5月には東京および名古屋の証券取引所へ上場[43]している。ところが1950年に受注した戦時標準船の改造工事が大インフレの影響をこうむって大赤字となり、無配に転落[44]した。
石川島重工業は1億円以上の赤字を出して経営の危機に瀕し[45]、笠原逸二前社長が石川島芝浦タービンの社長であった土光敏夫氏を本社へ引き抜いた[46]。土光氏の社長就任は1950年6月24日で、その翌日に朝鮮戦争が始まっている[47]。残留を求められた田口連三氏は二つの条件を出した。代表権は社長だけが持ち、ほかの役員は専務も常務も置かず全員を平取締役[48]とすること。もう一つは、部長職より上位五人の月給の平均値をもって役員の給料とすること[49]である。土光氏は『わかった、のむ』[引用元]と即答[50]した。提出される稟議書や計画書を三、四回押し戻すやり方で経費は当初の3分の1ほどに減り、同社はある財界年鑑で『日本一のケチ会社』に挙げられている[51]。
1954年の造船疑獄では、土光氏も造船会社社長の一人として逮捕され、20日間の拘置生活を送った。取り調べは結局『関係なし』[52]に終わっている。造船不況のなかで同社を支えたのはブラジルとの取引で、1950年から三隻のタンカーを受注[53]し、1952年にはストックホルムの国際入札で4,800トン級の貨物船兼軍隊輸送船二隻を落札[54]した。ブラジル政府がリオデジャネイロ港内の埋め立て地40万平方メートルを提供し、商船基金法まで制定して誘致[55]すると、土光氏は国内の反対を『すべて責任は私が負う』[引用元]として押し切り[56]、1958年1月8日に議定書を調印した。同年12月13日、ブラジルの海軍記念日に石川島ブラジル造船所の定礎式[57]が行われている。資本金は17億6,000万クルゼイロ、日本から選抜した技術者125人[58]に、土光氏は『ブラジルで骨を埋めて来い』[引用元]と告げた[59]。
1960年7月1日、土光氏は石川島重工業と播磨造船所の合併を発表[60]した。石川島の造船設備は3万トン級にとどまり、三菱の8万トン、日立の5万トン級に見劣り[61]していた。土光氏は1950年代の末からエネルギーが石炭から石油へ転換してタンカーの需要が高まり、それも10万トン以上の大型船が必至とみていた[62]が、隅田川河口という立地では大型タンカーの設備を持てない[63]。一方の播磨造船所は造船メーカー第三位ながら、1958年以降の不況で二年のうちに受注残高が3分の2、売上高が2分の1へ激減し、造船比率九割超[64]という構成がとくにこたえていた。石川島の陸上部門の比率は8割[65]である。合併比率は石川島の株式五に対して播磨の三、資本金は102億円、従業員は1万5,000人[66]となった。同年12月、商号を石川島播磨重工業株式会社と改称[67]している。
新会社は会長に播磨の六岡周三氏、社長に石川島の土光敏夫氏を据え、役員を両社それぞれ九人[68]として人事面での平等感を前面に出した。会社組織は産業機械・原動機化工機・船舶・航空エンジン・汎用機の五部門に分け、完全事業部制へ移行[69]している。両社の従業員をいったん本社へプールしたうえでほとんど無差別に五事業部へ再配分[70]したため、新しい職場では上役も同僚も石川島なのか播磨なのか分からない配置となった。土光氏は記者会見で『一と一を足して二ではなく、三にも四にもする。大エネルギーを起こす核融合を行うつもりである』[引用元][71]と述べている。1962年の正月には『もはや合併の蜜月旅行は終わった』[引用元]として、十年後に受注3,100億円・生産規模2,400億円という目標[72]を掲げた。
造船世界一の第一の功労者は真藤恒氏[73]である。九州帝国大学工学部の造船科を出て博士号を持ち、播磨造船から海軍艦政本部を経て呉造船所にいた同氏に、土光氏は合併の条件として復帰を求めた[74]。真藤氏の『経済船型』は、船は細長くなければならないというそれまでの常識を破ってずんぐりした形とし、内容積が同じなら球状に近づくほど壁面積が小さくなる原理[75]を応用している。第一号船の亜細亜丸は4万7,000トンで、鋼材を六・5%節約しながら公式試験で十七・六二ノットを出し、船価はトン当たり十ドル下がった[76]。1963年、英国のグラスゴー・ヘラルド誌は前年の世界の造船所進水量で相生第一工場を第一位に挙げている[77]。1964年5月に名古屋造船と名古屋重工業を合併[78]したのち、同年11月、土光氏は14年半座った社長の椅子を田口連三氏へ引き渡した[79]。
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|---|---|---|---|---|
| 1853〜1945年幕命の造船所と、財閥によらずに広げた重機械の裾野 | 有限責任石川島造船所を設立 | ★★ | ||
| 東京石川島造船所に商号変更 | ★★ | |||
| 航空機部門を分離(立川飛行機) | ★ | |||
| 自動車部門を分離(いすゞ自動車) | ★ | |||
| 芝浦製作所(東芝)と共同でタービン製造会社を設立 | ★ | |||
| 東京江東区豊洲で造船所を拡張 | ★ | |||
| 石川島重工業に商号変更 | ★ | |||
| 1946〜1964年経営危機からの再建と、陸と海を交換した合併 | 土光敏夫 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |
| 土光敏夫 | 田無工場を新設・ジェットエンジン製造を開始 | ★ | ||
| 土光敏夫 | 播磨造船所との合併による石川島播磨重工業の発足 1960年12月、石川島重工業が業界第三位の播磨造船所を合併し、石川島播磨重工業を発足させた経営判断。陸上機械に厚い石川島と造船に偏った播磨が設備と事業構成を交換する形で結びつき、土光敏夫社長の主導で進められた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 土光敏夫 | 石川島芝浦精機・芝浦ミシンを合併 | ★★ | ||
| 土光敏夫 | ジュロン造船所を新設 | ★ | ||
| 田口連三 | 名古屋造船・名古屋重工業を合併 | ★★ | ||
| 1965〜1998年造船世界一からの転落と、二度にわたる人員削減 | 田口連三 | 呉造船所を合併 | ★ | |
| 真藤恒 | 愛知工場を新設 | ★ | ||
| 生方泰二 | 希望退職者を大量募集 | ★ | ||
| 稲葉興作 | 造船不況下の「2.5次産業型企業」への変身 1979年と1987年の二度にわたる大規模な人員削減とあわせて、石川島播磨重工業が造船一本の事業構成を陸上機械・産業機械へ組み替え、重工業と機械産業の中間を志向する『2.5次産業型企業』への脱皮を進めた経営判断。稲葉興作社長の下で対外的に明確化した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 武井俊文 | 航空分野に積極投資 | ★ | ||
| 1999〜2026年祖業の切り離しと、航空エンジンへの集中が招いた代償 | 武井俊文 | 日産自動車からの宇宙航空事業取得と航空・宇宙への転換 1998年に航空分野への積極投資を決め、2000年7月に日産自動車から宇宙航空事業を譲り受けてアイ・エイチ・アイ・エアロスペースを設立した経営判断。造船が構造不況で細るなか、民間エンジン事業部長からの経歴を持つ伊藤源嗣社長が、航空エンジンと宇宙を次の柱に据えた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 武井俊文 | 造船事業の分社化とIHIマリンユナイテッドの発足 2002年10月、石川島播磨重工業が祖業の船舶・海洋事業を分社化し、住友重機械工業との合弁IHIマリンユナイテッドへ移管した経営判断。前年に川崎重工との統合で一度合意しながら五ヶ月で破談し、相手を住友重機械へ替えて実現した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 伊藤源嗣 | 豊洲2丁目土地区画整理事業に参入 | ★★★ | ||
| 伊藤源嗣 | 船舶海洋事業を分社化・IHIマリンユナイテッドを発足 | ★★★ | ||
| 釡和明 | 有価証券報告書等の虚偽記載と当時最大の課徴金 2008年6月、証券取引等監視委員会は、IHIが平成18年9月中間期と平成19年3月期の開示書類で損失を過少に、あるいは利益に見せかけて記載したとして、当時最大となる約15億9千万円の課徴金納付命令を勧告した。虚偽記載のある書類は、直前の公募増資と社債発行の参照文書となっていた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 斎藤保 | ジャパンマリンユナイテッド発足 | ★★ | ||
| 斎藤保 | Steinmuller社を買収 | ★ | ||
| 満岡次郎 | 非注力事業の縮小 | ★ | ||
| 満岡次郎 | プラント事業をIHIプラントに承継 | ★★ | ||
| 井手博 | 航空エンジンへの集中とGTF応分負担による過去最大赤字 2024年3月期、IHIは米プラット・アンド・ホイットニーの民間エンジンPW1100G-JMの品質問題で応分の負担を迫られ、過去最大となる682億円の最終赤字を計上した。造船分社化と非注力事業の整理を重ねた末に中心軸となった航空エンジンへの集中が、その裏側にあるリスクを一度に露わにした一年であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井手博 | IHI原動機の大型エンジン事業を三井E&Sへ譲渡 | ★★ | ||
| 井手博 | IHI原動機の燃費データ改ざんと「技術を欺いた」不正の露見 舶用エンジンの燃料消費率を約40年にわたり改ざんしていた事実が社員の申告で表面化し、国土交通省の規制対応と顧客への説明を迫られた品質統治の失敗 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井手博 | 業績好転の見込み | ★ |
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事実根拠:出所(IHI)