IHI の歴史

更新: Author:

創業 1889年
創業者 平野富二・渋沢栄一
創業地 東京都中央区佃
創業
1853年、ペリー来航を受けて幕府が隅田川河口の石川島に造船所を設けた。1876年に機関技師の平野富二氏が個人経営として引き継いで石川島平野造船所と称し、1889年1月には渋沢栄一氏らの出資で有限責任石川島造船所が設立された。財閥の後ろ盾を持たないため素材から部品まで自給せざるを得ず、蒸汽船・ボイラ・製糸機械・鉄橋・エレベーターと国産化を重ねる過程で、扱う機械の幅が広がる。1893年に株式会社東京石川島造船所、1945年6月に石川島重工業と改称し、2007年7月に商号をIHIへ変えた。
決断
足りない設備は、そのつど他社ごと取り込んで埋めてきた。隅田川河口の東京工場では大型船を建造できず、1960年7月に播磨造船所と合併し、相生の大型ドックを得て四万総トン級タンカーの建造に入った。1968年3月には呉造船所も合併し、造船で世界首位に立つ。しかし石油危機でタンカー需要が構造的に細ると、1979年に4,610人が希望退職に応じ、1987年3月期は212億円の当期純損失を計上した。人員整理にとどめず陸上機械・産業機械へ事業構成を移し、2000年7月には日産自動車から宇宙航空事業を取得した。設備を埋めるために重ねた買収が、やがて造船から航空へ移る手段にもなった。
現況
利益の7割近くが航空エンジンから出る一方、その品質問題が全社を赤字にした。2026年3月期の売上収益1兆6,434億円のうち航空・宇宙・防衛が6,481億円で39%、営業利益1,655億円のうち1,124億円を同事業が占める。ところが2024年3月期は、IHIが約15%の比率で参画する米プラット・アンド・ホイットニーのPW1100G-JMで高圧タービン部の異常が見つかり、応分の負担から営業損失701億円・最終赤字682億円へ転落した。同じ2024年4月にはIHI原動機の燃費データ改ざんが露見し、2003年以降に出荷した舶用エンジンの約9割にあたる4,215台で書き換えが判明した。集中が生んだ利益と、集中がもたらした損失が、二年のうちに同じ事業から出た。
競合
競争は完成品の受注ではなく、国際共同開発での分担比率で決まる。民間航空エンジンでIHIは機体メーカーへ完成品を納めず、米プラット・アンド・ホイットニーのPW1100G-JMに約15%で参画する。この比率が開発費の負担と将来の整備収入を同時に決めるため、相手の品質問題がそのまま自社の損失になった。船からは退いており、2002年10月に造船をIHIマリンユナイテッドへ分社し、2023年4月には舶用2ストローク機関を三井E&Sへ譲っている。造船と舶用機関を降りた結果、売上に占める航空・宇宙・防衛の比率は39%となり、三菱重工業の28%、川崎重工業の27%を上回った。

創業ストーリー 幕命の造船所と、財閥によらずに広げた重機械の裾野 (1853年〜)

隅田川口の造船所と、平野富二による民営化

嘉永六年(1853年)に米国の水師提督ペルリが来朝すると、同年9月には200年に及んだ大船建造禁止令が解かれ、12月、幕命により隅田川口の石川島の地にわが国最初の造船所が建てられた。これが石川島の始まり[1]となった。1876年に同造船所は機関技師の平野富二氏の個人経営となり、石川島平野造船所と称して[2]わが国最初の民営造船所となった。平野氏は民営初の汽船建造に取り組むかたわら、活字の製造や印刷業にも手を染めている[3]。その手ではじめて国産化された機械類は、日本最初の蒸汽船をはじめボイラ・製糸機械・破砕機・鉄橋・エレベーターにおよんだ[4]。三井・三菱・住友が海運や商事、鉱山で得た収益を機械部門へ投じたのに対し、平野氏は重機械の生産ひとすじに打ち込み[5]、47歳の若さで他界した[6]

  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [1]嘉永六年 ペルリ来朝、同年9月に大船建造禁止令解除、12月に幕命で隅田川口石川島にわが国最初の造船所
    • [2]1876年 平野富二の個人経営となり石川島平野造船所と改称、わが国最初の民営造船所
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社 編、1968年)「石川島播磨重工業(IHI)」の項
    • [3]平野富二 民営初の汽船建造のかたわら活字製造・印刷業にも進出
    • [4]平野富二が国産化した機械類 日本最初の蒸汽船・ボイラ・製糸機械・破砕機・鉄橋・エレベーター
    • [5]三井・三菱・住友は海運・商事・鉱山の収益を機械部門へ投入、平野富二は重機械ひとすじ
    • [6]平野富二 47歳で他界

1889年1月、組織を変更して[7]平野富二氏・渋沢栄一氏らにより資本金17万5,000円の有限責任石川島造船所が創立され[8]、現在の第一工場にあたる場所で造船と陸舶用諸機械を製作した。1893年9月には商法の実施にともない社名を株式会社東京石川島造船所と改め[9]、渋沢栄一氏が初代会長に就任している。これを機に、その後の長い社歴を通じて第一銀行との紐帯が固く結ばれた[10]。財閥系でない石川島が強大な力を持つ財閥企業に対抗するには、経営でも技術でもつねに他に一歩先んじる[11]必要がある。工業基盤の脆弱な環境で造船所は素材から部品まで一切を自給する体制を取らざるをえず、石川島ではその傾向がとりわけ顕著に出た。のちに『機械のデパート』と呼ばれる性格は、この形成過程で培われた[12]ものである。

  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1889年1月 有限責任石川島造船所を設立
    • [9]1893年9月 商法実施に伴い株式会社東京石川島造船所と改称
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [8]平野富二・渋沢栄一らにより資本金17万5,000円で創立、現第一工場で造船と陸舶用諸機械を製作
    • [10]渋沢栄一が初代会長に就任し、以後の社歴を通じて第一銀行との紐帯が固く結ばれた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社 編、1968年)「石川島播磨重工業(IHI)」の項
    • [11]財閥系でない石川島は経営・技術で他に一歩先んじる必要があった
    • [12]造船所は素材から部品まで自給する体制を取り、石川島でその傾向が顕著。「機械のデパート」的性格の由来
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [1]嘉永六年 ペルリ来朝、同年9月に大船建造禁止令解除、12月に幕命で隅田川口石川島にわが国最初の造船所
    • [2]1876年 平野富二の個人経営となり石川島平野造船所と改称、わが国最初の民営造船所
    • [8]平野富二・渋沢栄一らにより資本金17万5,000円で創立、現第一工場で造船と陸舶用諸機械を製作
    • [10]渋沢栄一が初代会長に就任し、以後の社歴を通じて第一銀行との紐帯が固く結ばれた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社 編、1968年)「石川島播磨重工業(IHI)」の項
    • [3]平野富二 民営初の汽船建造のかたわら活字製造・印刷業にも進出
    • [4]平野富二が国産化した機械類 日本最初の蒸汽船・ボイラ・製糸機械・破砕機・鉄橋・エレベーター
    • [5]三井・三菱・住友は海運・商事・鉱山の収益を機械部門へ投入、平野富二は重機械ひとすじ
    • [6]平野富二 47歳で他界
    • [11]財閥系でない石川島は経営・技術で他に一歩先んじる必要があった
    • [12]造船所は素材から部品まで自給する体制を取り、石川島でその傾向が顕著。「機械のデパート」的性格の由来
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1889年1月 有限責任石川島造船所を設立
    • [9]1893年9月 商法実施に伴い株式会社東京石川島造船所と改称

陸上機械への広がりと、切り出されていった事業

わが国の運搬荷役機械は1897年の同社製の手動起重機に始まり、その後の製作台数は約5,600台・百数十種におよんだ[13]。そのなかには1934年の三百五十屯旋回式埠頭起重機、1936年の鴨緑江に架けたわが国最大径間九百三十米のケーブルクレーン、世界最大級の四百屯共吊り八百屯天井起重機[14]がある。わが国の起重機船と浚渫船は、ほとんどが同社で建造[15]された。圧縮機は高圧合成用として知られ、1939年のアンモニア合成用四千五百馬力八百気圧六段圧縮機は容量において東洋一[16]であった。水門の製作数は八百余を数えてわが国最高[17]であり、造船部門では創業以来各種艦艇約800隻を建造[18]している。造機部門では1921年にスイスのエツシャ・ウィス社と提携してツェリー式舶用蒸気タービンの製造販売権を獲得し、独自の考案と改良を加えた石川島式舶用蒸気タービンで質量ともにわが国最大のメーカーとなった[19]

  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [13]1897年 同社製の手動起重機がわが国の運搬荷役機械の始まり、製作台数約5,600台・百数十種
    • [14]1934年 三百五十屯旋回式埠頭起重機/1936年 鴨緑江のわが国最大径間九百三十米ケーブルクレーン/四百屯共吊り八百屯天井起重機
    • [15]わが国の起重機船・浚渫船は殆んど同社で建造
    • [16]1939年 アンモニア合成用四千五百馬力八百気圧六段圧縮機は容量で東洋一
    • [17]水門の製作数八百余でわが国最高
    • [18]創業以来各種艦艇約800隻を建造
    • [19]1921年 スイスのエツシャ・ウィス社と提携しツェリー式舶用蒸気タービンの製造販売権を獲得、石川島式舶用蒸気タービンでわが国最大メーカーに

社運の進展にともない、同社は各種の生産部門を分離して子会社を設けている[20]。1925年の石川島飛行機製作所、1929年の石川島自動車製作所、1936年の石川島芝浦タービン、1937年の奉天製作所、1941年の石川島航空工業、1943年の東京造船所、1944年の満州石川島重工業[21]がそれであり、このうち石川島自動車製作所はのちのいすゞ自動車にあたる[22]。百年の歩みは企業の分離と統合の歴史[23]であった。分離した石川島芝浦タービンには、1936年に土光敏夫氏が本社から移っている[24]。同氏は1929年に特許番号八三〇八二『推力軸承の改良』を得た[25]のを皮切りに蒸気タービンの特許と実用新案を重ねた技術者で、1929年の石川島の技術陣は年間16件の特許を取り、この記録は1952年まで破られなかった[26]

  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [20]社運の進展に伴い各種の生産部門を分離して子会社を創立
    • [21]分離して設立した子会社 1925年石川島飛行機製作所・1929年石川島自動車製作所・1936年石川島芝浦タービン・1937年奉天製作所・1941年石川島航空工業・1943年東京造船所・1944年満州石川島重工業
    • [22]石川島自動車製作所は現いすゞ自動車
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社 編、1968年)「石川島播磨重工業(IHI)」の項
    • [23]IHIの歴史は企業の分離と統合の歴史
  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [24]1936年 土光敏夫が系列の石川島芝浦タービンへ移る
    • [25]1929年 特許番号八三〇八二「推力軸承の改良」が土光敏夫の最初の特許
    • [26]1929年の石川島の特許取得は年間16件、1952年まで破られず
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [13]1897年 同社製の手動起重機がわが国の運搬荷役機械の始まり、製作台数約5,600台・百数十種
    • [14]1934年 三百五十屯旋回式埠頭起重機/1936年 鴨緑江のわが国最大径間九百三十米ケーブルクレーン/四百屯共吊り八百屯天井起重機
    • [15]わが国の起重機船・浚渫船は殆んど同社で建造
    • [16]1939年 アンモニア合成用四千五百馬力八百気圧六段圧縮機は容量で東洋一
    • [17]水門の製作数八百余でわが国最高
    • [18]創業以来各種艦艇約800隻を建造
    • [19]1921年 スイスのエツシャ・ウィス社と提携しツェリー式舶用蒸気タービンの製造販売権を獲得、石川島式舶用蒸気タービンでわが国最大メーカーに
    • [20]社運の進展に伴い各種の生産部門を分離して子会社を創立
    • [21]分離して設立した子会社 1925年石川島飛行機製作所・1929年石川島自動車製作所・1936年石川島芝浦タービン・1937年奉天製作所・1941年石川島航空工業・1943年東京造船所・1944年満州石川島重工業
    • [22]石川島自動車製作所は現いすゞ自動車
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社 編、1968年)「石川島播磨重工業(IHI)」の項
    • [23]IHIの歴史は企業の分離と統合の歴史
  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [24]1936年 土光敏夫が系列の石川島芝浦タービンへ移る
    • [25]1929年 特許番号八三〇八二「推力軸承の改良」が土光敏夫の最初の特許
    • [26]1929年の石川島の特許取得は年間16件、1952年まで破られず

戦時下の拡張と、終戦直前に完成した五台のネ二〇

1933年10月、東京市の勝鬨橋架設計画を機会に、第一工場の造船部門を移転拡張する目的で深川豊洲に第二工場を増設[27]し、1939年2月に造船および製缶関係の操業を開始した[28]。1940年3月には陸舶用諸機械の需要増大に対処するため、タービン部門と鋳造部門を移転し、産業設備営団の援助を一部得て第三工場を建設[29]している。太平洋戦争に入ると石川島芝浦タービンは軍需工場に指定され、1943年には東芝の首脳陣を説得して長野県松本市に敷地30万坪・建物5万坪の大工場を建設した。ここでは航空機用排ガスタービンと過給機を製造[30]し、続いて辰野工場・木曾工場・伊那工場と工場網を広げた[31]

  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [27]1933年10月 勝鬨橋架設計画を機に深川豊洲へ第二工場を増設、1939年に造船・製缶の操業開始
    • [29]1940年3月 タービン部門・鋳造部門を移転し産業設備営団の援助を得て第三工場を建設
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1939年2月 東京第一工場(現 江東区豊洲)を新設し造船関係・製缶関係の操業を開始
  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [30]1943年 石川島芝浦タービンが東芝首脳を説得し長野県松本市に敷地30万坪・建物五万坪の工場を建設、航空機用排ガスタービン・過給機を製造
    • [31]辰野工場・木曾工場・伊那工場へ工場網を拡大

ジェットエンジンの開発は、石川島芝浦タービンが1942年ごろからプロペラ併用タービン噴進機を目標に着手し、海軍の種子島時休大佐の指導と技術院の参加を得て進んだ[32]。ドイツから資料を潜水艦で運ぶ途中に一隻が撃沈され、かろうじて到着した一隻から1944年に見取図を入手[33]している。これをもとに航空本部・海軍航空技術廠・石川島が協力し、『ネ二〇』と名付けられたエンジンが完成した[34]。特別戦闘攻撃機『橘花』に装備されて1945年8月7日に飛翔し、六百メートルを十二分間飛んだ[35]が、工場を挙げて量産体制に入った一週間後に終戦を迎えた。同社はネ二〇を終戦直前に五台完成させ、民間会社として唯一の実績を残している[36]。この間の1945年6月、商号を石川島重工業株式会社と改称した[37]

  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [32]1942年ごろ 石川島芝浦タービンがプロペラ併用タービン噴進機を目標に開発着手、海軍の種子島時休大佐の指導と技術院の参加
    • [33]1944年 ドイツからの資料輸送で潜水艦一隻が撃沈、到着した一隻から見取図を入手
    • [34]航空本部・海軍航空技術廠・石川島の協力でネ二〇が完成
    • [35]1945年8月7日 特別戦闘攻撃機「橘花」がネ二〇を装備して飛翔、六百メートル十二分間
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [36]ネ二〇を終戦直前に五台完成、民間会社として唯一の実績
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [37]1945年6月 商号を石川島重工業株式会社と改称
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [27]1933年10月 勝鬨橋架設計画を機に深川豊洲へ第二工場を増設、1939年に造船・製缶の操業開始
    • [29]1940年3月 タービン部門・鋳造部門を移転し産業設備営団の援助を得て第三工場を建設
    • [36]ネ二〇を終戦直前に五台完成、民間会社として唯一の実績
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1939年2月 東京第一工場(現 江東区豊洲)を新設し造船関係・製缶関係の操業を開始
    • [37]1945年6月 商号を石川島重工業株式会社と改称
  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [30]1943年 石川島芝浦タービンが東芝首脳を説得し長野県松本市に敷地30万坪・建物五万坪の工場を建設、航空機用排ガスタービン・過給機を製造
    • [31]辰野工場・木曾工場・伊那工場へ工場網を拡大
    • [32]1942年ごろ 石川島芝浦タービンがプロペラ併用タービン噴進機を目標に開発着手、海軍の種子島時休大佐の指導と技術院の参加
    • [33]1944年 ドイツからの資料輸送で潜水艦一隻が撃沈、到着した一隻から見取図を入手
    • [34]航空本部・海軍航空技術廠・石川島の協力でネ二〇が完成
    • [35]1945年8月7日 特別戦闘攻撃機「橘花」がネ二〇を装備して飛翔、六百メートル十二分間

無配転落と、石川島芝浦タービンから呼び戻された土光敏夫

終戦とともに需要は減退し、1945年11月にいったん第一・第二工場へ生産を集中[38]したが、復興建設用機械の需要増大を受けて1947年3月には第三工場も操業を再開[39]した。公職追放令の影響で1948年に首脳陣は下島勝次社長・宮島利雄副社長・田口連三常務という若い顔ぶれに変わり[40]、過度経済力集中排除法による東京三工場の分割指定を受けながら、のちにその解除に成功[41]している。1949年には黒字に転じて下期に3,000万円の利益を計上し、資本金も1億3,000万円へ[42]増やした。同年5月には東京および名古屋の証券取引所へ上場[43]している。ところが1950年に受注した戦時標準船の改造工事が大インフレの影響をこうむって大赤字となり、無配に転落[44]した。

  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [38]1945年11月 第一・第二工場に生産を集中
    • [39]1947年3月 第三工場の操業を再開
  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [40]1948年 公職追放令により下島勝次社長・宮島利雄副社長・田口連三常務の首脳陣へ
    • [41]過度経済力集中排除法による東京三工場の分割指定と、のちの解除
    • [42]1949年 黒字転換、下期に3,000万円の利益、資本金1億3,000万円へ増資
    • [44]1950年受注の戦時標準船改造工事が大インフレで大赤字となり無配転落
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [43]1949年5月 東京及び名古屋証券取引所に上場

石川島重工業は1億円以上の赤字を出して経営の危機に瀕し[45]、笠原逸二前社長が石川島芝浦タービンの社長であった土光敏夫氏を本社へ引き抜いた[46]。土光氏の社長就任は1950年6月24日で、その翌日に朝鮮戦争が始まっている[47]。残留を求められた田口連三氏は二つの条件を出した。代表権は社長だけが持ち、ほかの役員は専務も常務も置かず全員を平取締役[48]とすること。もう一つは、部長職より上位五人の月給の平均値をもって役員の給料とすること[49]である。土光氏は『わかった、のむ』[引用元]と即答[50]した。提出される稟議書や計画書を三、四回押し戻すやり方で経費は当初の3分の1ほどに減り、同社はある財界年鑑で『日本一のケチ会社』に挙げられている[51]

  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [45]石川島重工業は1億円以上の赤字で経営の危機に瀕していた
    • [46]笠原逸二前社長が石川島芝浦タービン社長の土光敏夫を本社へ引き抜いた
    • [47]1950年6月24日 土光敏夫が石川島重工業社長に就任、翌25日に朝鮮戦争が開戦
    • [51]稟議書・計画書を三、四回押し戻して経費は当初の3分の1に減り、財界年鑑で「日本一のケチ会社」に挙げられた
  • 『私の履歴書 経済人16』(日本経済新聞社、1981年)「田口連三」
    • [48]田口連三が残留の条件として二つを提示、その一は代表権を社長のみとし他の役員は全員平取締役
    • [49]役員の給料は部長職より上位五人の月給の平均値とする
    • [50]土光敏夫の返答「わかった、のむ」
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
    • [38]1945年11月 第一・第二工場に生産を集中
    • [39]1947年3月 第三工場の操業を再開
  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [40]1948年 公職追放令により下島勝次社長・宮島利雄副社長・田口連三常務の首脳陣へ
    • [41]過度経済力集中排除法による東京三工場の分割指定と、のちの解除
    • [42]1949年 黒字転換、下期に3,000万円の利益、資本金1億3,000万円へ増資
    • [44]1950年受注の戦時標準船改造工事が大インフレで大赤字となり無配転落
    • [45]石川島重工業は1億円以上の赤字で経営の危機に瀕していた
    • [46]笠原逸二前社長が石川島芝浦タービン社長の土光敏夫を本社へ引き抜いた
    • [47]1950年6月24日 土光敏夫が石川島重工業社長に就任、翌25日に朝鮮戦争が開戦
    • [51]稟議書・計画書を三、四回押し戻して経費は当初の3分の1に減り、財界年鑑で「日本一のケチ会社」に挙げられた
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [43]1949年5月 東京及び名古屋証券取引所に上場
  • 『私の履歴書 経済人16』(日本経済新聞社、1981年)「田口連三」
    • [48]田口連三が残留の条件として二つを提示、その一は代表権を社長のみとし他の役員は全員平取締役
    • [49]役員の給料は部長職より上位五人の月給の平均値とする
    • [50]土光敏夫の返答「わかった、のむ」

ブラジルへの進出と、播磨造船所との合併

1954年の造船疑獄では、土光氏も造船会社社長の一人として逮捕され、20日間の拘置生活を送った。取り調べは結局『関係なし』[52]に終わっている。造船不況のなかで同社を支えたのはブラジルとの取引で、1950年から三隻のタンカーを受注[53]し、1952年にはストックホルムの国際入札で4,800トン級の貨物船兼軍隊輸送船二隻を落札[54]した。ブラジル政府がリオデジャネイロ港内の埋め立て地40万平方メートルを提供し、商船基金法まで制定して誘致[55]すると、土光氏は国内の反対を『すべて責任は私が負う』[引用元]として押し切り[56]、1958年1月8日に議定書を調印した。同年12月13日、ブラジルの海軍記念日に石川島ブラジル造船所の定礎式[57]が行われている。資本金は17億6,000万クルゼイロ、日本から選抜した技術者125人[58]に、土光氏は『ブラジルで骨を埋めて来い』[引用元]と告げた[59]

  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [52]1954年 造船疑獄で土光敏夫が逮捕され20日間拘置、結局「関係なし」
    • [53]1950年からブラジルタンカー購入委員会が三隻のタンカーを発注
    • [54]1952年 ストックホルムの国際入札で4,800トン級の貨物船兼軍隊輸送船二隻を受注
    • [55]ブラジル政府がリオデジャネイロ港内の埋め立て地40万平方メートルを提供し商船基金法を制定
    • [56]土光敏夫の発言「すべて責任は私が負う」で国内の反対を押し切る
    • [57]1958年1月8日 ブラジル関係当局と議定書を調印、同年12月13日に石川島ブラジル造船所の定礎式
    • [58]イシブラスの資本金17億6,000万クルゼイロ、日本から技術者125人を選抜
    • [59]土光敏夫の激励「ブラジルで骨を埋めて来い」

1960年7月1日、土光氏は石川島重工業と播磨造船所の合併を発表[60]した。石川島の造船設備は3万トン級にとどまり、三菱の8万トン、日立の5万トン級に見劣り[61]していた。土光氏は1950年代の末からエネルギーが石炭から石油へ転換してタンカーの需要が高まり、それも10万トン以上の大型船が必至とみていた[62]が、隅田川河口という立地では大型タンカーの設備を持てない[63]。一方の播磨造船所は造船メーカー第三位ながら、1958年以降の不況で二年のうちに受注残高が3分の2、売上高が2分の1へ激減し、造船比率九割超[64]という構成がとくにこたえていた。石川島の陸上部門の比率は8割[65]である。合併比率は石川島の株式五に対して播磨の三、資本金は102億円、従業員は1万5,000人[66]となった。同年12月、商号を石川島播磨重工業株式会社と改称[67]している。

  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [60]1960年7月1日 石川島重工業と播磨造船所の合併を発表
    • [61]石川島の造船設備は3万トン級、三菱は8万トン・日立は5万トン級
    • [62]土光敏夫は1950年代末から石炭から石油への転換と10万トン超のタンカー大型化を予見
    • [63]隅田川河口の立地では大型タンカーの建造設備を持てなかった
    • [64]播磨造船所は造船メーカー第三位、1958年以降の不況で二年間に受注残高3分の2・売上高2分の1へ激減、造船比率九割超
    • [65]石川島の陸上部門比率は8割
  • 『私の履歴書 経済人16』(日本経済新聞社、1981年)「田口連三」
    • [66]合併比率は石川島5対播磨3、資本金102億円、従業員1万5,000人
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [67]1960年12月 播磨造船所を合併し商号を石川島播磨重工業株式会社と改称
  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [52]1954年 造船疑獄で土光敏夫が逮捕され20日間拘置、結局「関係なし」
    • [53]1950年からブラジルタンカー購入委員会が三隻のタンカーを発注
    • [54]1952年 ストックホルムの国際入札で4,800トン級の貨物船兼軍隊輸送船二隻を受注
    • [55]ブラジル政府がリオデジャネイロ港内の埋め立て地40万平方メートルを提供し商船基金法を制定
    • [56]土光敏夫の発言「すべて責任は私が負う」で国内の反対を押し切る
    • [57]1958年1月8日 ブラジル関係当局と議定書を調印、同年12月13日に石川島ブラジル造船所の定礎式
    • [58]イシブラスの資本金17億6,000万クルゼイロ、日本から技術者125人を選抜
    • [59]土光敏夫の激励「ブラジルで骨を埋めて来い」
    • [60]1960年7月1日 石川島重工業と播磨造船所の合併を発表
    • [61]石川島の造船設備は3万トン級、三菱は8万トン・日立は5万トン級
    • [62]土光敏夫は1950年代末から石炭から石油への転換と10万トン超のタンカー大型化を予見
    • [63]隅田川河口の立地では大型タンカーの建造設備を持てなかった
    • [64]播磨造船所は造船メーカー第三位、1958年以降の不況で二年間に受注残高3分の2・売上高2分の1へ激減、造船比率九割超
    • [65]石川島の陸上部門比率は8割
  • 『私の履歴書 経済人16』(日本経済新聞社、1981年)「田口連三」
    • [66]合併比率は石川島5対播磨3、資本金102億円、従業員1万5,000人
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [67]1960年12月 播磨造船所を合併し商号を石川島播磨重工業株式会社と改称

完全事業部制への移行と、造船世界一

新会社は会長に播磨の六岡周三氏、社長に石川島の土光敏夫氏を据え、役員を両社それぞれ九人[68]として人事面での平等感を前面に出した。会社組織は産業機械・原動機化工機・船舶・航空エンジン・汎用機の五部門に分け、完全事業部制へ移行[69]している。両社の従業員をいったん本社へプールしたうえでほとんど無差別に五事業部へ再配分[70]したため、新しい職場では上役も同僚も石川島なのか播磨なのか分からない配置となった。土光氏は記者会見で『一と一を足して二ではなく、三にも四にもする。大エネルギーを起こす核融合を行うつもりである』[引用元][71]と述べている。1962年の正月には『もはや合併の蜜月旅行は終わった』[引用元]として、十年後に受注3,100億円・生産規模2,400億円という目標[72]を掲げた。

  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [68]会長に播磨の六岡周三、社長に石川島の土光敏夫、役員は両社各九人
    • [69]産業機械・原動機化工機・船舶・航空エンジン・汎用機の五部門に分け完全事業部制へ移行
    • [70]両社の従業員を本社にプールしたうえで無差別に五事業部へ再配分
    • [71]土光敏夫の発言「一と一を足して二ではなく、三にも四にもする。大エネルギーを起こす核融合を行うつもりである」
    • [72]1962年正月「もはや合併の蜜月旅行は終わった」として十年後に受注3,100億円・生産規模2,400億円の目標

造船世界一の第一の功労者は真藤恒[73]である。九州帝国大学工学部の造船科を出て博士号を持ち、播磨造船から海軍艦政本部を経て呉造船所にいた同氏に、土光氏は合併の条件として復帰を求めた[74]。真藤氏の『経済船型』は、船は細長くなければならないというそれまでの常識を破ってずんぐりした形とし、内容積が同じなら球状に近づくほど壁面積が小さくなる原理[75]を応用している。第一号船の亜細亜丸は4万7,000トンで、鋼材を六・5%節約しながら公式試験で十七・六二ノットを出し、船価はトン当たり十ドル下がった[76]。1963年、英国のグラスゴー・ヘラルド誌は前年の世界の造船所進水量で相生第一工場を第一位に挙げている[77]。1964年5月に名古屋造船と名古屋重工業を合併[78]したのち、同年11月、土光氏は14年半座った社長の椅子を田口連三氏へ引き渡した[79]

  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [73]造船世界一の第一の功労者は真藤恒
    • [74]真藤恒は九州帝国大学工学部造船科出身で博士号を持ち、播磨造船から海軍艦政本部を経て呉造船所へ。土光敏夫が合併の条件として復帰を要請
    • [75]経済船型は「船は細長くなければならない」という常識を破り、内容積が同じなら球状に近づくほど壁面積が小さくなる原理を応用
    • [76]第一号船 亜細亜丸は4万7,000トン、鋼材六・5%節約、公式試験で十七・六二ノット、船価はトン当たり十ドル低下
    • [77]1963年 英グラスゴー・ヘラルド誌が前年の世界の造船所進水量で相生第一工場を第一位と発表
    • [79]1964年11月 土光敏夫が14年半務めた社長を田口連三へ引き継ぐ
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [78]1964年5月 名古屋造船株式会社及び名古屋重工業株式会社を合併
  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
    • [68]会長に播磨の六岡周三、社長に石川島の土光敏夫、役員は両社各九人
    • [69]産業機械・原動機化工機・船舶・航空エンジン・汎用機の五部門に分け完全事業部制へ移行
    • [70]両社の従業員を本社にプールしたうえで無差別に五事業部へ再配分
    • [71]土光敏夫の発言「一と一を足して二ではなく、三にも四にもする。大エネルギーを起こす核融合を行うつもりである」
    • [72]1962年正月「もはや合併の蜜月旅行は終わった」として十年後に受注3,100億円・生産規模2,400億円の目標
    • [73]造船世界一の第一の功労者は真藤恒
    • [74]真藤恒は九州帝国大学工学部造船科出身で博士号を持ち、播磨造船から海軍艦政本部を経て呉造船所へ。土光敏夫が合併の条件として復帰を要請
    • [75]経済船型は「船は細長くなければならない」という常識を破り、内容積が同じなら球状に近づくほど壁面積が小さくなる原理を応用
    • [76]第一号船 亜細亜丸は4万7,000トン、鋼材六・5%節約、公式試験で十七・六二ノット、船価はトン当たり十ドル低下
    • [77]1963年 英グラスゴー・ヘラルド誌が前年の世界の造船所進水量で相生第一工場を第一位と発表
    • [79]1964年11月 土光敏夫が14年半務めた社長を田口連三へ引き継ぐ
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
    • [78]1964年5月 名古屋造船株式会社及び名古屋重工業株式会社を合併

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

IHIの沿革1889〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1853〜1945年幕命の造船所と、財閥によらずに広げた重機械の裾野有限責任石川島造船所を設立★★
東京石川島造船所に商号変更★★
航空機部門を分離(立川飛行機)
自動車部門を分離(いすゞ自動車)
芝浦製作所(東芝)と共同でタービン製造会社を設立
東京江東区豊洲で造船所を拡張
石川島重工業に商号変更
1946〜1964年経営危機からの再建と、陸と海を交換した合併土光敏夫東京証券取引所に株式上場
土光敏夫田無工場を新設・ジェットエンジン製造を開始
土光敏夫播磨造船所との合併による石川島播磨重工業の発足

1960年12月、石川島重工業が業界第三位の播磨造船所を合併し、石川島播磨重工業を発足させた経営判断。陸上機械に厚い石川島と造船に偏った播磨が設備と事業構成を交換する形で結びつき、土光敏夫社長の主導で進められた。

詳細を読む
★★★
土光敏夫石川島芝浦精機・芝浦ミシンを合併★★
土光敏夫ジュロン造船所を新設
田口連三名古屋造船・名古屋重工業を合併★★
1965〜1998年造船世界一からの転落と、二度にわたる人員削減田口連三呉造船所を合併
真藤恒愛知工場を新設
生方泰二希望退職者を大量募集
稲葉興作造船不況下の「2.5次産業型企業」への変身

1979年と1987年の二度にわたる大規模な人員削減とあわせて、石川島播磨重工業が造船一本の事業構成を陸上機械・産業機械へ組み替え、重工業と機械産業の中間を志向する『2.5次産業型企業』への脱皮を進めた経営判断。稲葉興作社長の下で対外的に明確化した。

詳細を読む
★★★
武井俊文航空分野に積極投資
1999〜2026年祖業の切り離しと、航空エンジンへの集中が招いた代償武井俊文日産自動車からの宇宙航空事業取得と航空・宇宙への転換

1998年に航空分野への積極投資を決め、2000年7月に日産自動車から宇宙航空事業を譲り受けてアイ・エイチ・アイ・エアロスペースを設立した経営判断。造船が構造不況で細るなか、民間エンジン事業部長からの経歴を持つ伊藤源嗣社長が、航空エンジンと宇宙を次の柱に据えた。

詳細を読む
★★★
武井俊文造船事業の分社化とIHIマリンユナイテッドの発足

2002年10月、石川島播磨重工業が祖業の船舶・海洋事業を分社化し、住友重機械工業との合弁IHIマリンユナイテッドへ移管した経営判断。前年に川崎重工との統合で一度合意しながら五ヶ月で破談し、相手を住友重機械へ替えて実現した。

詳細を読む
★★★
伊藤源嗣豊洲2丁目土地区画整理事業に参入★★★
釡和明有価証券報告書等の虚偽記載と当時最大の課徴金

2008年6月、証券取引等監視委員会は、IHIが平成18年9月中間期と平成19年3月期の開示書類で損失を過少に、あるいは利益に見せかけて記載したとして、当時最大となる約15億9千万円の課徴金納付命令を勧告した。虚偽記載のある書類は、直前の公募増資と社債発行の参照文書となっていた。

詳細を読む
★★★
斎藤保ジャパンマリンユナイテッド発足★★
斎藤保Steinmuller社を買収
満岡次郎非注力事業の縮小
満岡次郎プラント事業をIHIプラントに承継★★
井手博航空エンジンへの集中とGTF応分負担による過去最大赤字

2024年3月期、IHIは米プラット・アンド・ホイットニーの民間エンジンPW1100G-JMの品質問題で応分の負担を迫られ、過去最大となる682億円の最終赤字を計上した。造船分社化と非注力事業の整理を重ねた末に中心軸となった航空エンジンへの集中が、その裏側にあるリスクを一度に露わにした一年であった。

詳細を読む
★★★
井手博IHI原動機の大型エンジン事業を三井E&Sへ譲渡★★
井手博IHI原動機の燃費データ改ざんと「技術を欺いた」不正の露見

舶用エンジンの燃料消費率を約40年にわたり改ざんしていた事実が社員の申告で表面化し、国土交通省の規制対応と顧客への説明を迫られた品質統治の失敗

詳細を読む
★★★
井手博業績好転の見込み
出典・参考
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「石川島重工業」の項
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社 編、1968年)「石川島播磨重工業(IHI)」の項
  • 石川島播磨重工業 会社年鑑(単体業績)
  • 日経ビジネス 1973年3月5日号
  • 週刊東洋経済 1979年3月24日号
  • 日経ビジネス 1987年6月22日号
  • 日経ビジネス 1989年12月18日号
  • 『私の履歴書 経済人16』(日本経済新聞社、1981年)「田口連三」
  • 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」

免責事項およびポリシー