1878年4月、貿易商であった川崎正蔵氏[1]は東京築地で造船業を始めた。和船に比べて格段に優れた西洋型船の建造こそ国家の急務である[2]、という考えが出発点にあった。1881年3月には兵庫東出町に川崎兵庫造船所を開設[3]し、1886年には東京から事業の一切を神戸へ移している[4]。同年5月には官営兵庫造船所を借り受けて川崎兵庫造船所を併合し、川崎造船所へ商号を変更[5]した。翌1887年7月にはその官営兵庫造船所の払下げを受け[6]、築地と兵庫に分かれていた二つの造船所をここへ集約している。正蔵氏は岩崎弥太郎氏とともに日本の造船業の始祖と称された[7]人物であった。
1896年10月15日、個人経営から資本金200万円の株式会社へ改組[8]し、株式会社川崎造船所が発足した。初代社長には松方正義氏の三男である松方幸次郎氏を迎え、副社長に川崎芳太郎氏[9]が就き、創業者の正蔵氏は顧問となっている。松方氏は、陸海空にわたる総合重機械工業を築くことが企業の安定した成長を促し、それが日本の発展にも寄与するという信念[10]を抱いていた。新発足とともに懸案であった6,000総トン級の大乾ドック構築に着手[11]し、設備を新たにした。社章は創業者である正蔵氏の『川』の字を図案化し、はためく旗の中央に配したもので、積極と前進を表している[12]。
株式会社への改組後は欧米の造船技術の摂取に努め、政府の施策に応じて優秀船の建造へ主力を注いだ[13]。1897年には造船奨励法の適格第一船である伊予丸を建造[14]している。1904年には民間として初めて海軍から潜水艇2隻を受注[15]し、これがのちに潜水艦建造技術で優位を得るきっかけとなった。1905年には日本の潜水艦建造の嚆矢とされる第六号潜水艦を建造[16]している。1902年から1912年にかけては外国船数隻も手がけており[17]、技術が海外からも認められていたことを示す。往復動蒸気機関や主要な舶用補助機械の自給態勢[18]もこの時期に整った。
1907年5月にはカーチス式蒸気タービンの製造実施権を獲得[19]し、1911年にはドイツのマン社とディーゼル機関の第一次技術契約を結んだ[20]。船体の設計と工作の面でも先進国の技術を採り入れた結果、戦艦・巡洋艦から優秀貨客船までを国産できる態勢[21]が整っている。1913年には巡洋戦艦榛名を、1916年には戦艦伊勢を建造[22]し、いずれも良好な成績で引き渡した。設備の面では1906年9月に兵庫工場を開設[23]して翌1907年7月に操業を始め[24]、1918年7月には製鈑工場を新設して造船用鋼材の自給[25]を図り、船台は小型3基から大小11基へ増えた[26]。第四船台のガントリークレーン架構など近代的な設備の増強によって建造期間は縮まり、社船来福丸は起工から竣工まで30日という世界記録[27]を残している。
1914年7月に第一次世界大戦が起こると船舶需要が増し、海運・造船界は空前の好況[28]を迎えた。艦艇の建造能力と技術の両面で、同社は日本の二大造船所の一つに数えられる[29]ようになる。1919年4月には川崎汽船を、同年7月には国際汽船を設立[30]した。1920年5月にはマン社と第二次の舶用ディーゼル機関建造契約を結び[31]、1924年に竣工した大型潜水艦伊第一号[32]以降、日本の潜水艦性能の向上に寄与している。造機・製缶・電気の各部門に加え、車両・航空機・製鉄の分野へも事業を広げ[33]、総合重工業としての形が整いつつあった。一方で1922年のワシントン海軍軍縮条約は艦艇建造需要を直撃し、加賀・愛宕の工事中止の代償として特務艦2隻の建造が内命[34]された。
好況の反動は厳しく、1927年には昭和金融恐慌の余波を受けて同社は経営難[35]に陥る。半期利益は1926年下期の356万円から、1927年下期には3,346万円の損失[36]へ転落した。主取引銀行であった十五銀行に取り付け騒ぎが起こり、未曾有の金融難に直面[37]したためである。1927年の経営行き詰まりに際しては、主たる債務が優先株となり、主たる債権者であった十五銀行はこの優先株40万株を日本銀行に担保として差し入れて借り入れ、整理資金に充てた[38]。この40万株は全株式の25%にあたる[39]。松方氏が抱いた陸海空の構想は、恐慌を前にいったん潰えた[40]。再建の手段としては、川崎車輌の分離などが図られた[41]。
1928年5月18日、川崎造船所は兵庫工場を独立分離し、資本金1,200万円で川崎車輌を設立[42]した。この工場の起こりは1906年9月の創設[43]にさかのぼる。当時の日本の鉄道車輌は輸入でまかなわれており、その国産化に乗り出した[44]ものであった。1914年に全国の鉄道国有化が実施されて車輌規格が統一されると量産作業が可能[45]となり、大正末期には国内自給の域を脱して一部をアジア地域へ輸出[46]するまでになっている。分離の目的は事業の育成ではなく、恐慌で危殆に瀕した造船所からの危険の分散と金融上の操作[47]にあった。比較的業績の安定していた兵庫工場を切り出し、これを担保として再建資金の融資を受けている[48]。
分離は形のうえのものにとどまり、資本の面では依然として川崎造船所の支配下[49]にあり、社長も初代の鹿島房次郎氏をはじめ平生釟三郎氏、鋳谷正輔氏と、終戦直後まで川崎造船所の社長が兼ねて[50]いる。本体の再建はさらに難航し、1928年5月に松方幸次郎社長が辞任し、鹿島房次郎氏が後任に、石井清氏が社長代理[51]に就いて社業の挽回にあたる。それでも収まらず、1931年7月には和議を申請するに至った。従業員1万7,000名の死活と神戸の盛衰に直結する問題であったため政府が救済の斡旋に動いている。1932年には和議法の適用を受けて再建[52]を図ることとなり、1933年3月に平生釟三郎氏が社長へ就任[53]した。1935年12月には鋳谷正輔氏が後を継いで[54]いる。1930年代に入ると、海運業の船舶拡充策である優秀船建造助成施設の実行と、海軍が無条約状態への移行を前に新艦艇の建造を始めたことで受注が戻り[55]、1936年には業績が好転した[56]。
飛行機部門は1918年に設けられ、おもに陸軍機の製作[57]にあたっていた。1937年11月、この部門を分離して資本金5,000万円の川崎航空機工業を設立[58]している。分離の理由は事業の成熟ではなく軍との関係にあり、飛行機部門は陸軍と、造船部門は海軍と密接に結びついており[59]、双方の要請に一つの会社で応じることが難しくなっていたためである。1939年12月1日には社名を川崎重工業[60]へ改めた。1943年4月には資本金を6億円へ増やして[61]事業施設の拡充を図った。日華事変の後は泉州工場の新設など国策による拡充態勢[62]に入っている。
1939年4月、山下汽船社長の山下亀三郎氏が大阪商船社長の村田省蔵氏と組み、日本銀行が保有していた川崎造船所株40万株の買い取りを計画[63]した。狙いは造船所の経営そのものより、傘下の川崎汽船を収めて海運界で首位に立つこと[64]にあったとみられる。当時の川崎造船所は川崎汽船の全株に加えて川崎航空機工業と川崎車輌の全株も保有[65]していた。驚いた幹部は反対運動を起こし、幹部社員は社員会を結成して関係方面へ陳情[66]する。掲げた大義名分は、臨戦体制のもとで航空機の生産に影響を与えてはならない[67]、というものであった。結果として、新株主は向こう3年間、役員人事その他の経営に介入しないという契約が成立[68]している。
休戦は3年で切れ、1942年5月に山下氏と村田氏[69]は自分たちの力では足りないとして住友を引き込む。当時の住友の総理事は古田俊之助氏[70]であった。鋳谷正輔氏をはじめ幹部は今度こそ軍門に降ろうと観念しかけたが、第一回戦を勝利に導いた根本専務と大久保専務が食い下がる[71]。臨戦体制のもとで従業員に動揺を与えてはならないという理由は、戦争に突入した今こそ強まりこそすれ消えていない[72]、いま手を上げれば社員会から一層の突き上げがあり、天下に向かって面目が立たない、と社長を突き上げた。鋳谷正輔氏はさっそく考えを改め[73]、買い占め側の企ては潰えた。砂野仁氏は後年、これを43年の在職中で最も大きな衝撃を受けた事件として書き残している[74]。
1945年初頭から施設への爆撃が激しくなり[75]、3月以降は生産が事実上止まった。1946年12月に鋳谷正輔氏が社長を辞任すると、新しい役員は合議制のもとで再建整備計画を立案[76]した。まず川崎製鉄を分離設立し、泉州工場を閉鎖して、造船部門だけで再出発[77]する道を選んだ。1949年10月には再建整備計画が認可され、残された事業は造船・造機・電機の3部門のみとなっている。1950年8月に製鉄事業を分離して川崎製鐵が発足[78]した。松方幸次郎氏が構想した陸海空の総合重工業は、車輌・航空機・製鉄と順に切り離され、この時点で祖業の造船だけが手元に残った[79]。
1950年6月にいったん資本金を6,000万円へ減資[80]し、同年8月には5億6,000万円へ増資して、手塚敏雄氏が5代社長に就任[81]した。技術の回復と先進技術の導入が再建の柱となり、1951年2月にスイスのエッシャウィス社[82]と発電用水車タービンの、1954年6月には同じくスイスのエリコン社と発電機の製作技術援助契約を結び、水力発電機の分野へ進出[83]した。1953年には1万7,000トン浮船渠を完成[84]させている。同じ1953年には川崎機械など旧航空機関係の3社が合併して川崎航空機が再現[85]し、1955年6月には資本金が33億6,000万円[86]となった。1959年には川崎電機製造も分離独立[87]している。
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|---|---|---|---|---|
| 1878〜1927年築地の造船所から、「陸海空」の総合重工業という構想へ | 川崎築地造船所を創業 | ★★ | ||
| 川崎兵庫造船所を開設 | ★ | |||
| 官営兵庫造船所を借受け川崎造船所に商号変更 | ★ | |||
| 川崎造船所を設立 | ★ | |||
| 川崎汽船を設立 | ★★ | |||
| 1928〜1959年分離の連鎖と、経営権をめぐる攻防の15年 | 昭和金融恐慌下での鉄道車両・航空機事業の分離独立 昭和金融恐慌で経営難に陥った川崎造船所が、1928年5月に兵庫工場を分離して川崎車輌を、1937年11月に飛行機部門を分離して川崎航空機工業を設立した判断。造船の本体を残すため、比較的業績の安定した部門を別会社として切り出した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 軍縮を受けて和議申請 | ★★ | |||
| 航空機事業を分離・川崎航空機工業を設立 | ★ | |||
| 商号を川崎重工業に変更 | ★ | |||
| 再建整備計画が認可(造船・造機・電機の3部門のみ) | ★★ | |||
| 手塚敏雄 | 製鉄部門の分離独立と川崎製鉄の設立、造船・造機・電機3部門への集約 1950年8月、川崎重工業が企業再建整備計画に基づいて製鉄部門を分離し、資本金5億円の第二会社として川崎製鉄を設立した。本体は造船・造機・電機の3部門に事業を絞り、初代社長には西山弥太郎氏が就いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1960〜1989年三度の合併失敗を経た、松方の初志への回帰 | 砂野仁 | 事業部制を採用 | ★ | |
| 砂野仁 | 国内生産拠点を拡充 | ★ | ||
| 砂野仁 | 二輪車の米国販売会社の設立と、中・大型車に絞った北米市場への傾斜 1966年3月、川崎航空機工業が米国に American Kawasaki Motorcycle Corp. を設立し、国内で主流であった原付第一種を追わず、中・大型車の需要が厚い北米へ販売の足場を置いた判断。1981年12月には米国生産にも踏み込み、二輪車は重工業の会社が持つ唯一の消費財事業として育った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 四本潔 | 産業ロボットに参入 | ★ | ||
| 四本潔 | 陸海空にわたる総合重工業をめざした川崎3社の合併 1968年3月、川崎重工業は一年後を目途に川崎航空機工業・川崎車輛の2社を吸収合併すると発表し、1969年4月1日に合併を実施した判断。6代社長・砂野仁氏が主導し、初代社長・松方幸次郎氏以来の『陸海空にわたる総合重工業』の理想のもと、分かれていた造船・航空・車両を一つの経営体へ束ね直した。合併後の年間売上高は約1,700億円を見込んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 四本潔 | 汽車製造を合併 | ★ | ||
| 梅田善司 | 産業用ガスタービンの民需営業を開始 | ★ | ||
| 梅田善司 | 経営合理化に着手 | ★ | ||
| 梅田善司 | P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始 | ★ | ||
| 長谷川謙浩 | Kawasaki Motors Mfg.を設立 | ★ | ||
| 長谷川謙浩 | 空調・ボイラ事業を川重冷熱工業に承継 | ★ | ||
| 大庭浩 | Kawasaki Rail Carを設立 | ★ | ||
| 1990〜2026年提案型への転換と、統合破談から水素事業へ | 大庭浩 | ボーイング向け航空機部品生産を本格化 | ★ | |
| 亀井俊郎 | NY市交通局向け地下鉄車両の製造開始 | ★ | ||
| 田崎雅元 | IHIとの造船事業の統合を白紙撤回 | ★ | ||
| 田崎雅元 | 船舶事業と精密機械事業を分社 | ★★ | ||
| 長谷川聰 | 造船・精密機械・プラント子会社を再合併 | ★★ | ||
| 村山滋 | 川崎重工と三井造船の経営統合と白紙撤回(2013年破談) 2013年、造船再編をにらんで川崎重工と三井造船が経営統合を交渉したが、約3か月で破談した案件。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 村山滋 | 建設機械事業から撤退 | ★ | ||
| 金花芳則 | 船舶海洋事業の構造改革 | ★ | ||
| 橋本康彦 | グループビジョン2030を策定 | ★ | ||
| 橋本康彦 | 車両事業と二輪事業を分社化 | ★ | ||
| 橋本康彦 | 液化水素サプライチェーンへの集中と、世界初の液化水素運搬船の建造 2010年からの中期経営計画で液化水素サプライチェーン構想を掲げた川崎重工業が、2020年代に入って全社の資源を水素へ寄せ、世界初の液化水素運搬船『すいそ ふろんてぃあ』から受入基地、水素混焼タービンまでを自社で通そうとした一連の判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 橋本康彦 | 防衛省向け販売が好調 | ★ | ||
| 橋本康彦 | 潜水艦事業の裏金と舶用エンジン検査データ改ざんの露呈、そして統治の立て直し 2024年、川崎重工業の潜水艦修繕事業で、取引先との架空取引による裏金を原資に海上自衛隊員へ金品や飲食を供与していた問題が発覚した。8月には舶用エンジンの検査データ改ざんも判明し、橋本康彦社長は特別調査委員会の設置と防衛事業管理本部の新設を決めた。防衛特需のさなかに露呈した相次ぐ不正への対応である。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(川崎重工業)