三菱重工業自動車部門の分離独立と三菱自動車工業の設立
売上の3割を占める最大部門を抱え続けるか、専業会社として外へ出すか——クライスラーとの合弁を前提にした切り出し
- 概要
- 1970年6月、三菱重工業が売上の28%を占める最大部門であった自動車の営業を三菱自動車工業へ譲渡し、100%出資の子会社として分離独立させた経営判断。クライスラーとの65対35の合弁を実現する前提として、まず完全子会社の形をとった。
- 背景
- 1964年の三社再合併後、自動車は1968年度に1,769億円を売り上げて六部門で最大となった。一方で乗用車のシェアは低く、牧田與一郎社長は「頭痛の種」と呼んだ。重工業の本体は香焼島の大型船建造ドックや原子力に長期の投資を抱えていた。
- 内容
- 1969年6月に自動車へ事業本部制度を敷いて分離の第一歩とし、1970年6月1日に営業を三菱自動車工業へ譲渡した。残る重工業も従来の5事業部を4事業本部と6事業部へ組み替え、「専業体制の強化」を掲げた。
- 含意
- 分離後も資本と人のつながりは残り、2004年のリコール隠しでは重工が救済に加わった。2016年の燃費不正では日産自動車の傘下入りを見送り、切り出しから46年を経て関係が解けた。
切り出すことと、切り離すこと
売上の28%、1,769億円。1968年度の三菱重工業で最大の部門は自動車であった。それを社外へ出す理由として牧田與一郎社長が挙げたのは、事業の不振ではなく合弁の比率であった。クライスラーとの65対35を保つには100%の子会社でなくては具合が悪い、と社長は語っている。乗用車を自社の「アキレス腱」と呼び、外資の販売網を借りて弱点を直しにいくと決めた時点で、最大部門を自前で抱え続ける道は消えていたとみることができる。
ただ、切り出すことと切り離すことは別であった。三菱自動車工業は完全子会社として発足し、持株比率が14.8%まで下がっても歴代社長は重工出身者で占められ、取引額が約500億円にすぎない相手のために2004年の重工は株主への説明責任を負った。1970年に外へ出した部門との縁が解けるまでには、日産自動車への傘下入りを黙って見送る2016年まで46年を要している。分離の判断は事業の帳簿を分けはしても、資本と人の縁までは切らなかったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
再合併から5年で最大部門になった自動車
1964年6月に新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船の三社が合併して発足した三菱重工業にとって、自動車は片隅の事業ではなかった。1968年度の総売上高6,272億円のうち、自動車は28%にあたる1,769億円を占め、六つの部門で最大であった。1965年度の構成比は船舶が26%で首位、自動車は24%にとどまっていたから、合併後のわずか3年で順位が入れ替わっている[1][2]。
もっとも、その最大部門は内訳が偏っていた。トラック・バスは普通トラックで27%、大型バスで22%のシェアを持ち国内でも上位にあったが、乗用車は戦後の参入が遅れたためにシェアが低い。牧田與一郎社長は1969年9月の講演で乗用車を「頭痛の種」と呼び、この4年ほど普通乗用車と軽四輪で新車種を出さなかったためにシェアが下がったと述べている。「もの」はできるが「商品」はできないという社外の評も、そのまま引き受けていた[3]。
重工業の投資と、量産事業の周期
同じ時期、重工業の本体は大型の設備投資を並べていた。長崎港の入口にある香焼島には約250億円を投じて世界最新鋭の大型船建造ドックを新設し、1972年初めの稼働をめざしていた。原動機ではウェスチングハウス社との提携のもとで関西電力高浜1号機(82万6,000キロワット)の製作に着手し、航空機では次期戦闘機F-4EJ 104機、手取総額1,000億円の主契約者となっている。設備投資額は1969年度に約300億円で、前年度の約170億円から拡大した[4]。
重工業の仕事は、資金が寝ている期間が長い。1970年末の時点で、売上に計上されるまでに最も長くかかるのは原子力の約4年、火力発電所のタービン等で約3年であった。モデルチェンジの周期に合わせて設備と販売網へ資金を投じ続ける乗用車とは、投資の周期が違う。1969年9月の講演の質疑でも、1972〜73年に自動車産業が量的な成長鈍化を迎えるといわれるなかでなぜ外資が入ってこようとするのかが問われ、牧田社長は「踊場」が来ると答えたうえで、輸出に活路を見いだすのが日本の自動車工業の進むべき道だと述べている[5][6]。
決断
合弁比率65対35を保つための100%子会社
1969年6月、三菱重工業は自動車に事業本部制度を発足させた。牧田社長は同年9月の講演でこれを分離への第一歩と説明し、具体的にはまず100%出資の子会社にすると述べている。理由は資本の構成にあった。クライスラーとの合弁計画は65対35の比率で進めており、「この比率を維持するためにも100%の子会社でなくては具合が悪い」。適当な時期に政府へ申請し、個別審査を受けたいとも語っている[7]。
提携の狙いは、クライスラーの海外販売網を通じて小型車を輸出することにあった。牧田社長は先方も乗り気であるとし、クライスラー車を日本へ持ち込む話は相手も重点を置いていないと説明している。米側から多くの技術者が来て計画を進めており、乗用車でもトヨタ・日産に次ぐ第3位を確保できるとの見通しを示した。乗用車を自社の「アキレス腱」と呼んだ社長にとって、外資との合弁はその弱点を直すための手であった[8]。
「専業体制の強化」という枠組み
量産事業を合弁会社へ移す型には、社内に先例があった。三菱重工業は米キャタピラー社との合弁でキャタピラー三菱を設立しており、発足から満5年の1969年3月期には売上高300億円・利益8億円を計上し、3月末の累積赤字約75億円も2年半を待たずに解消する見込みとなっていた。相模原にあるその工場の北側の用地には、牧田社長の言葉によれば「自動車事業分離とも関連して」小型ブルドーザーと農業用トラクター専門の新工場を建設していた[9]。
1970年6月、自動車部門の営業は三菱自動車工業へ譲渡された。同年12月の講演で小原滋常務は、6月1日に「かねて念願していた」分離を行って自動車の専業体制を確立したと述べ、残る重工業についても従来の5事業部を4事業本部と6事業部へ組み替えたと説明している。そのねらいを「一口にいえば専業体制の強化」とし、今後も逐次各事業部の独立を進めると語った。自動車の切り出しは、その方針を最初に適用したものであった[10][11]。
結果
最大部門が抜けた決算と、残った持分
分離の影響は決算にすぐ表れた。当時は半期決算で、1971年3月を期末とする半期の売上高は3,230億円と見込まれ、上期には4月・5月の2カ月分の自動車売上が算入される一方、下期にはその大部分が除かれた。自動車以外では253億円程度の増加が見込まれている。受注でも自動車部門として残ったのは重トラック関係のみの71億円で、前の半期の410億円から縮んだ。それでも1971年3月末の手持ち工事量は1兆1,500億円を超える見通しであった[12]。
会社は分かれても、資本と人のつながりは残った。三菱自動車工業は完全子会社として切り出され、のちにダイムラークライスラーが経営に参加すると三菱重工業の持株比率は14.8%まで下がったが、自工の歴代社長はいずれも重工出身者であった。取引額はエンジンバルブなどを中心に約500億円程度にすぎない。それでも2004年、二度目のリコール隠しで経営危機に陥った三菱自動車に対し、重工は「三菱グループ企業の救済」と「社会的な影響の大きさ」を理由に金融支援を決めている[13]。
46年後、救済を見送るまで
支援には説明責任がついてまわった。2004年5月、NPO法人の株主オンブズマンは重工の金融支援に対して株主代表訴訟の構えを見せている。三菱自動車はその後、2014年に約2,600億円の公募増資を実施して大半を優先株の買い入れと消却に充て、三菱重工業はファンド分を含め実質20%を持つ筆頭株主となり、同年6月には宮永俊一社長が社外取締役に就いた。関係が整理へ向かうかに見えたところで、2016年に燃費データの不正が明らかになった[14][15]。
このとき重工自身も余力を失っていた。大型客船の建造では受注額約1,000億円に対し2016年3月期までに累計2,374億円の特別損失を計上し、MRJの開発投資も膨らんで、2年間で土地と有価証券を売って2,000億円を捻出する計画を進めていた。保有する三菱自動車株の売却も水面下で検討していた。日産自動車が34%を出資して三菱自動車を傘下に収める間、重工は動かなかった。宮永社長は株式保有の意義を互恵関係・純投資・支配の三つに定めており、その基準に照らせば自動車株を持つ大義名分は立たないとみられていた[16][17]。
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号「三菱重工業の現状と将来」牧田與一郎
- 証券アナリストジャーナル 1971年9巻1号「三菱重工業の現状と将来」小原滋
- 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
- 週刊東洋経済 2004年5月29日号「ビジネスリポート01 自工問題であぶり出された『選択と集中』なき経営 三菱重工に漂う閉塞」
- 週刊東洋経済 2016年5月14日号「本当は三菱自を見切りたい 三菱重工 困難と焦燥」
- 週刊東洋経済 2016年6月25日号「三菱重工 動かなかったグループの長 救済見送りの必然」
- 三菱重工業 会社年鑑(1976年版・単体)