牧田與一郎社長が自動車部門を社外へ切り出す理由に挙げたのは、事業がふるわないことではなく、合弁の出資比率だった。クライスラーとの65対35という比率を守るには、100%を持つ子会社にしておく必要がある、というのが社長の説明である。その自動車部門は、1968年度の三菱重工業で売上の28%にあたる1,769億円を占める最大の部門だった。乗用車を自社の"アキレス腱"と呼び、外資の販売網を借りてその弱みを補うと決めた時点で、最大部門を自社の内に抱え続ける選択肢はなくなっていたのだろう。
ただ、切り出すことと切り離すことは別であった。三菱自動車工業は完全子会社として発足し、持株比率が14.8%まで下がっても歴代社長は重工出身者で占められ、取引額が約500億円にすぎない相手のために2004年の重工は株主への説明責任を負った。1970年に外へ出した部門との縁が解けるまでには、日産自動車への傘下入りを黙って見送る2016年まで46年を要している。分離の判断は事業の帳簿を分けはしても、資本と人の縁までは切らなかったといえる。