三井造船は、三井物産の船舶部が自前の造船・修繕拠点を求めたことに始まる。創業当時の三井の中枢機構は持株会社の三井合名会社で、三井物産以下の傘下会社を統轄して財界に大きな支配力を持っていた。[1]船舶部長の川村は1916年から造船業の兼営を建議し、1917年10月に社長へ陳情書を提出した。[2]用地は宇野湾に臨む岡山県児島郡日比町の玉・和田一帯に求められ、塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収交渉を重ねた。[3]地元は工場誘致のため期成同盟会を組織して世論を喚起し、玉・宇野ほかの漁業組合には賠償金を交付して、大正6年7月に漁業補償をまとめた。[4]
用地取得を受け、大正6年11月2日の取締役会で造船部設置が可決され、同月14日の臨時株主総会で定款の営業目的に造船業を加えて、造船部が正式に発足した。[5]事業所の所在地には岡山県児島郡宇野村が登録され、三井造船はこの11月14日を創業記念日としている。建設は大正6年に宇野仮工場と玉工場へ着手し、同年12月には早くも第一船の木船海正丸を宇野仮工場で進水させ、翌大正7年3月には鋼船第一船の三天丸を進水、玉工場の工事中だった同年10月には建造第一船の三仁丸を起工した。[6]1919年5月には玉工場(現・玉野事業所)が操業を始め[7]、瀬戸内海沿岸の造船拠点として規模を広げた。第一次世界大戦下の戦時造船需要が、三井物産に自前の造船拠点を持たせる背景にあった。
造船部の出発点は蒸気の機関であった。玉造船所の造機部門は蒸気レシプロ機関やボイラー、艤装部品を作る目的で置かれ、溶解能力が月40トンの鋳物工場から、120台の工作機械を備えた旋盤工場、2,600平方メートルの仕上組立工場までを構えた。[8]現場の技能者養成も創業まもない1918年に始まり、実技と学習を重ねて、のちにディーゼル機関の製造を担う約280名の技能集団が形づくられた。[9]しかし第一次世界大戦後の不況のなかで、海運界の関心は運航費の少ないディーゼル船へ移りつつあった。1920年に船鉄交換船の引渡しで渡米した造船設計課長の北郷七次は、欧米の造船界が総じて不況にあるなかデンマークのB&W社だけが盛況で、それは在来の蒸気機関では運航費の面でディーゼル機関に追随できないためだと報告した。[10]
1923年の関東大震災は、皮肉にも造船部の存続を後押しした。関東の造船所が壊滅して関西へ修繕船が殺到し、救援・復興物資の輸送で船腹需要が急増したため、造船部は輸入古船の修繕28隻と、震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した。[11]それまで毎期の欠損が続き、三井物産の首脳部には造船部廃止論が強かったが、この震災特需による活況で廃止論は立ち消えとなった。[12]船舶部は古船輸入の方針をあらため、経済的な優秀船の建造へ転換して、赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻の建造を決めた。これらは大正13年から14年にかけて建造され、なかでも赤城山丸は、のちの繁栄をもたらす動機をつくった商船と位置づけられている。[13]
優秀船建造の核となったのがディーゼル化である。造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させ[14]、1923年に起工した赤城山丸へデンマークのBurmeister & Wain(B&W、現Everllence SE)社製ディーゼル機関を搭載した。これがわが国初の外航ディーゼル船であり[15]、その優れた航海成績が国内に大型ディーゼル船建造の気運を生んだ。調査は英国のヴィッカース社やドクスフォード社、オランダのウエルクスポール社、スイスのスルザー社にもおよんだが、最も優秀と認めたB&Wと1926年8月13日に製造販売実施権契約を結び[16]、三井造船は同年を自社のディーゼル元年としている。[17]
図面を受け取るだけで機関が作れるわけではなかった。1926年、造機工作課長の斉藤実理以下、技師と鋳造・木型・機械・組立の職長ら7名をB&Wへ送り、とくに主要部材である大形高級鋳物の製造技術には技師1名を専念させた。[18]契約前で工場内のスケッチを禁じられていたため、派遣者はポケットのなかで手さぐりに図を写し、わからない点は現地職長の自宅を訪ねて辞書を引きながら質したという。[19]帰国後の1927年に鋳物研究室を置き、総面積1,100平方メートルのディーゼル機関組立工場を建てて7,000BHPの水制動機を据え[20]、1928年に自社製第1号機となる高見山丸主機6125M(950BHP)を完成させた。[21]燃料ポンプの調整には難渋し、輸入補機を分解して見よう見まねで合わせたと、担当者は後年に回想している。[22]
1930年代の海運不況は、機関の販路を陸へ広げさせた。1932年にB&Wとのライセンス契約へ陸用機関と機関車用機関を加え、同年に日本製粉神戸工場へ納めた533MTS60(450BHP)が陸上進出の第1号機となった。[23]輸入に頼っていたローラーチェンを椿本チェンとの共同研究で国産に切り替えるなど内作化も進み、1937年の年産は36基54,740BHPと戦前最高を記録した。[24]規模が親会社の一部門に収まらなくなるなか、1937年7月に三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立し[25]、公称資本金1,000万円(うち払込500万円)で発足した。株式20万株のうち19万9,300株は三井物産が持ち、残りは発起人である役員7名が各100株を持つ役株にすぎなかった。[26]
独立後の拡張は軍需に沿って進んだ。1937年に艦艇課(のち艦艇部)を、1938年には人造石油事業に関連して化工課を設け[27]、コッパース式瓦斯発生炉やメタン分解装置、常圧・加圧の石油合成器といった設備を手がけた。[28]1940年3月に海軍管理工場の指定を受け、2サイクル単動トランク型の5,000BHP機関が戦時標準商船の標準機関に採用されると、これを年60基・約30万馬力で量産する岡山機械製作所の建設に着手したが、終戦とともに閉鎖された。[29]1942年1月6日に三井造船株式会社へ商号を変更し、同年6月に資本金を3,000万円へ[30]、1944年3月にはさらに6,000万円へ増やした。[31]もっとも戦時標準船の多くがタービン主機を積んだため、機関事業は量的拡大のないまま終戦を迎えている。[32]
敗戦は法人の姿を作り替えた。内外地の五工場を閉鎖して玉野造船所へ集約し、1947年の計画造船で再建の糸口をつかんだ。同年、播磨造船所とともにノルウェーから受注した400総トン型捕鯨船は、戦後日本の鋼製輸出船第一号となった。[33]財閥解体で三井本社が1946年に解散すると株式は持株会社整理委員会へ移り、1947年7月末には同委員会が78%にあたる945,800株の議決権を握った。[34]証券処理調整協議会を通じて放出された株式は当時の株式総数の93.55%にのぼり、株主構成は一変した。[35]戦時補償の打切りで約6,700万円の損失を負って特別経理会社となり[36]、1949年3月認可の企業再建整備計画で1,500万円の形式減資と9,500万円の増資を行って資本金を1億4,000万円とした。[37]同年5月に東京・大阪の証券取引所へ上場し[38]、三井物産の一部門から公開会社へ移り終えた。
戦後しばらく、三井造船は玉野造船所を唯一の工場とする一工場の集約経営で安定と成長を確保した。[39]混乱から復興へ向かう時代に、一社一工場の方式は集約経営としての強みを発揮した。だが玉野は阪神地区より西に偏り、修繕需要の取り込みに限りがあったため、適地にサービスドックを設けることが戦前からの懸案であった。[40]高度成長と海上貿易の拡大で船舶の専用船化・大型化が進み、いわゆる造船ブームのなかで、玉野だけの規模では発展力・競争力に限りが見えてきた。再建の足がかりは政策にあった。1947年に復興金融公庫の資金で第一次貨物船建造計画が立てられ、財政資金の融資による計画造船が始まると、三井造船もその一翼を担って戦後の再出発を果たした。[41]1949年にはデンマークのマースク社から戦後わが国初の大形輸出船4隻を受注し、B&W型主機の指定を通じて戦中に途絶えていた技術連絡も再開した。[42]
三井造船は首都経済圏に近い新工場を求め、1956年ごろから東京湾岸を調査した。川崎・大森は所要面積が得られず、本牧は地盤と風向きに難点があり、いずれも見送った。そのころ千葉県が五井・市原地区の公有水面を埋め立てて工場用地を造成する計画を進めており、埋立による土地造成を新規事業としていた三井不動産の江戸英雄社長からも市原地区の推薦を受けた。[43]三井造船は1957年3月、千葉県の京葉地帯に165万平方メートル(50万坪)[44]の用地割当を申請した。三井グループの側から見れば、これは重工業部門の立ち遅れを埋める動きでもあった。玉野一工場では世界的な大型船型化に応じる地形の余裕も、化工機など機械部門を含む総合重工業を目指す敷地の余裕もなく、首都圏に新工場用地を求めることが絶対の要件とされていた。[45]
1962年5月に千葉工場が操業を始め[46]、当初の5万7,000総トン建造ドックを軸に、『10万トン時代』の到来へ合わせてドックの大型化を進めた。1965年3月、千葉工場は『千葉造船所』へ改称[47]して玉野造船所と並ぶ二大拠点となった。同年10月に15万重量屯ドック、1968年6月には50[48]万重量屯ドックを完成させて、VLCC(大型原油タンカー)の建造能力を獲得した。瀬戸内の玉野に加え、首都圏に大型船建造の拠点を構えた意味は大きい。これに先立つ1961年2月には建設機械メーカーの日本開発機製造へ資本参加し、1962年10月に合併して機械部門を強化している。それでも三井重工業と呼ぶには規模と総合化がなお不十分だと、グループ内では見られていた。[49]
1967年10月、三井造船は株式会社藤永田造船所を合併した。藤永田は元禄2年(1689年)創業で、戦前は『駆逐艦の藤永田』とうたわれた名門であり[50]、合併時の資本金19億4,900万円、従業員約2,000名を擁した。藤永田株5株につき三井造船株4株の比率で[51]、大阪・木津川河口の本社工場と船町工場を承継した。約280年におよぶ独立企業の歴史を閉じた同社の化工機・鉄構技術も取り込み、三井造船は商船・タンカーを中心とする造船重工としての基本構造を1960年代までに整えた。以後も1973年4月の由良工場、1975年2月の玉野造船所海洋構造物建造ドック、1981年10月の大分事業所と拠点を広げた[52]。
1970年代後半から1980年代にかけて、三井造船は本業の造船で培った技術と現場経験を周辺領域へ広げた。1978年6月に昭島研究所を開設し(1986年に三井造船昭島研究所として子会社化)[53]、流体・構造解析の研究拠点を整えた。1985年10月に三造環境サービスを設立して環境エンジニアリングへ進み、1987年6月には三井造船プラント工事を設立して[54]プラントエンジニアリングの母体を作った。造船の周りに研究・環境・プラントの事業を並べ、単一の造船会社から複合事業体へ広がる下地を整えた。
1971年3月、山下勇社長は証券アナリスト協会の講演で、当時の三井造船を資本金202億円・従業員約1万3,000名を擁する総合工業メーカーと説明した。[55]1970年度上期の売上高は667億円、受注高は804億円に達し、3月末の手持ち工事量は約2年半分の約2,900億円に積み上がっていた。同業他社に比べて船舶の比重は約6割以上と高く、玉野・千葉・藤永田の3造船所はフル稼働の状態にあった。[56]舶用ディーゼル機関では世界最高位の生産実績を持ち、玉野造船所で世界最大38,000馬力の機関と、コンピュータによる世界初の自動化船『三峯山丸』を完成させている。[57]三井B&W型機関の累計生産馬力は1967年に300万馬力、1970年に500万馬力を越えていた。[58]
造船各社が陸上機械へ向かったのは、年間700万総トン近い造船能力に国内需要が伴わず、不安定な輸出市場に依存せざるをえなかったからである。陸上機械は重化学工業化を背景に発展性が大きく、経営の安定と発展に資すると見られていた。[59]三井造船でも1960年代後半から陸上部門の伸びが際立ち、建設機械の売上は1966年度の25億円から1971年初めには約50億円へ、鉄構・運搬機は約14億円から約66億円へ、機械事業部は約58億円から約110億円へ増えた。[60]なかでも約5倍に伸びた鉄構・運搬機が、のちに主力となる港湾クレーン事業の原型である。
一方、船舶部門は好況の裏で通貨の変動という不安を抱えていた。三井造船は1970年4月以降の契約をすべて円建てとするか、円切り上げに伴うリスクを発注者の負担とし、ドル建て債権の圧縮を進めた。[61]1970年9月期の決算では造船業界で初めて為替変動損失引当金13億1,000万円を計上し、切り上げが実施されても最小限の負担で切り抜けられるよう手を打っている。[62]設備では千葉造船所を50万トンまで建造できる体制としつつ、1975年までの受注を28万トン標準船型に統一して量産性を高め、業界全体で不足していた大型船修繕ドックを補うため和歌山県由良に修繕工場を建設した。[63]
造船と並ぶもう一本の柱は、玉野で積み上げた舶用ディーゼルであった。1951年に淡路山丸主機で低質燃料油だけの燃焼に成功し、翌年の加茂川丸主機では鋳造から溶接構造へ切り替えて機関全体で約2割の軽量化を実現した。[64]1953年には有馬山丸の換装主機でわが国初の2サイクル排気ターボ過給機関を完成させ、機械効率は81%から90%へ、平均有効圧力は5.3から7.1キログラム毎平方センチへ上がり、同じ寸法で出力が35%増えて燃料消費率も下がった。[65]1958年には三井B&W型の累計製造馬力が単一機種としてわが国初の100万馬力を越え[66]、1965年には年間生産馬力で世界第3位となって、技術を供与したB&W社自身を追い越すにいたった。[67]
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|---|---|---|---|---|
| 1917〜1949年三井物産造船部からの出発と戦前造船重工の確立 | 三井物産造船部として宇野仮工場で創業 | ★★ | ||
| 玉工場で操業開始 | ★ | |||
| デンマークBurmeister & WainとB&W型舶用ディーゼル機関で業務提携 | ★★ | |||
| 三井物産造船部の分離独立と株式会社玉造船所の設立 1937年7月31日、三井物産は1917年に設けた造船部を分離独立させ、株式会社玉造船所を設立した。登記は同年8月2日。岡山県児島郡の玉工場を拠点に、商社の一部門であった造船事業が独立の資本と決算を持つ会社になった。1942年1月に社名を三井造船へ改め、現在の三井E&Sにつながる。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 化工機部門創設 | ★★ | |||
| 三井造船に商号変更 | ★ | |||
| 加藤五一 | 東京・大阪証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 1950〜1987年戦後復興・高度成長と多拠点造船重工の完成 | 加藤五一 | 三友不動産を設立 | ★ | |
| 田中繁松 | 千葉工場操業開始 | ★ | ||
| 田中繁松 | 日本開発機製造と合併 | ★ | ||
| 田中繁松 | 四国ドックに経営参加 | ★ | ||
| 田中繁松 | 藤永田造船所の吸収合併と合併比率5対4での株式交換 1967年2月28日、三井造船は株式会社藤永田造船所と合併契約に調印した。三井造船を存続会社、藤永田造船所を解散会社とし、藤永田株5株に対し三井造船株4株の割合で株式を交換する内容で、同年5月末の両社株主総会の承認を経て10月1日に合併が実現した。1965年3月の業務提携を一段進めた再編であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 田中繁松 | 千葉造船所50万重量屯建造ドック完成 | ★ | ||
| 山下勇 | 由良工場操業開始 | ★ | ||
| 山下勇 | 播磨工事を設立 | ★ | ||
| 山下勇 | 伊達製鋼に経営参加 | ★ | ||
| 山下勇 | 玉野造船所海洋構造物建造ドック完成 | ★ | ||
| 山下勇 | 昭島研究所を新設 | ★ | ||
| 前田和雄 | 大分事業所操業開始 | ★ | ||
| 末長一志 | 三井造船プラント工事設立 | ★ | ||
| 1988〜2018年周辺事業への多角化と海外プラントの蹉跌、構造不況下の経営危機 | 石井泰之助 | 大分・由良両子会社化、三井物産と共同でPACECO CORP.設立 | ★ | |
| 石井泰之助 | モデックに経営参加 | ★ | ||
| 石井泰之助 | Burmeister & Wain Scandinavian Contractor A/Sを買収 | ★ | ||
| 石井泰之助 | MES Engineering Inc.を設立 | ★ | ||
| 石井泰之助 | 三幸実業出資で三幸物流を設立 | ★ | ||
| 石井泰之助 | 三幸実業と合併 | ★ | ||
| 星野二郎 | エム・ディー特機を設立 | ★ | ||
| 星野二郎 | Babcock Energy Limitedを買収 | ★ | ||
| 元山登雄 | 三井造船鉄構工事が三造リフレ・運搬機エンジニアリング2社と合併 | ★ | ||
| 元山登雄 | 新潟造船が新潟鐵工所から造船事業を譲受 | ★ | ||
| 元山登雄 | 三井鉱山から資源循環事業・水環境事業を譲受 | ★ | ||
| 元山登雄 | ドーピー建設工業の株式取得し経営参加 | ★ | ||
| 元山登雄 | Mitsui Babcock Energy売却 | ★ | ||
| 田中孝雄 | 川崎重工と三井造船の経営統合と白紙撤回(2013年破談) 2013年、造船再編をにらんで川崎重工と三井造船が経営統合を交渉したが、約3か月で破談した案件。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 田中孝雄 | 昭和飛行機工業を公開買付けで子会社化 | ★★ | ||
| 田中孝雄 | 加地テックを公開買付けで子会社化 | ★ | ||
| 田中孝雄 | 持株会社体制に移行し商号を三井E&SHDに変更 | ★★ | ||
| 2019〜2025年造船からの撤退と舶用エンジン・物流システムへの特化 | 岡良一 | Engineers and Constructors International全株式売却 | ★ | |
| 岡良一 | 造船事業からの撤退と、舶用エンジン・港湾クレーンへの集約 2019年11月に事業再生計画を公表した三井E&Sホールディングスは、2021年3月に千葉事業所の新造船事業を終え、同月29日に艦艇・官公庁船事業の三菱重工業への売却を決めた。同年10月には三井E&S造船株式の49%を常石造船へ譲渡し、玉野事業所の新造船事業も終了。1917年の三井物産造船部以来の造船事業から退いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡良一 | 艦艇事業を三菱重工へ譲渡 | ★★ | ||
| 高橋岳之 | 三井E&Sマシナリー・三井E&Sビジネスサービスを吸収合併し商号を三井E&Sに変更 | ★ | ||
| 高橋岳之 | IHI原動機の舶用大型エンジン事業を承継した新会社を取得 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三井E&S)