川崎重工と三井造船の経営統合と白紙撤回

2013年破談

なぜ大手造船会社における経営統合が破談に至り、川崎重工の社長が解任されたのか?

更新:

時期 2013年4月
論点 ガバナンス
概要
2013年、造船再編をにらんで川崎重工と三井造船が経営統合を交渉したが、約3か月で破談した案件。
背景
造船不況と「2014年問題」で重工各社が再編を迫られ、JFE系とIHI系のJMU発足など業界再編が連鎖していた。
内容
川重主導で両社の造船部門をJMUへ合流させる構想。だが社内の反対が強く、6月13日の臨時取締役会が10対3で長谷川社長ら3人を解任し、交渉を打ち切った。
含意
統合の経済合理性より、社内ガバナンスと事業ポートフォリオ観が決着を左右した。条件面より先に社内合意の土台を欠いたディールの典型例。
筆者の見解

合意形成という土台

この破談では、統合の経済合理性よりも、社内のガバナンスと事業ポートフォリオ観の違いが前面に出たとみられる。経営トップが主導するディールであっても、社内組織における重要人物や、取締役会の合意形成を欠いたまま進めば、株主総会の直前で白紙に戻ることがありえる。全社のなかでマイノリティに位置する事業——川重にとっての造船——の再編では、全社最適を重んじる経営トップの論理と、収益柱を守ろうとする個別部門の論理が衝突する形となり、社長解任という事態に至った。

破談それ自体を失敗と断じる材料は乏しい。条件面が整う前に社内の合意という土台を欠いたまま進んだことが、社長解任という形で表面化した一例とみることもでき、さらには取締役会において合理的な説明ができなかったことにも問題があった。前のめりの主導側と距離を置く相手側という非対称、社内の反対派、過去の頓挫の記憶——成立に至らなかった案件にも、業界再編や社内組織の力学を読み解く手がかりは多く存在するのだろう。

Yutaka Sugiura

統合の背景

マクロ環境——造船不況と「2014年問題」

2010年代前半の国内造船業は、構造的な逆風のただ中にあった。リーマン・ショック後の世界的な海運不況で新造船の引き合いが細り、海運会社の発注意欲は冷え込んでいた。そこに円高が重なり、ウォン安を背景にコスト競争力を高めた韓国勢、国家の後押しで台頭する中国勢に挟まれて、国内ヤードの新規受注は落ち込んでいく[1]。輸出採算は悪化し、価格競争では分が悪く、技術で差をつけられる領域も限られていた。手持ちの工事量が2014年ごろに払底するとみられた、いわゆる「2014年問題」が業界共通の重しとなり、各社は単独での生き残りに限界を意識し始めていた。造船は好不況の振れが大きく、1980年代から再編の波が周期的に押し寄せてきた事業でもある。

再編は連鎖していた。2013年1月にはJFEホールディングス系のユニバーサル造船とIHI系のアイ・エイチ・アイ マリンユナイテッドが統合し、ジャパン マリンユナイテッド(JMU)が発足する[2]。三菱重工業と今治造船も提携関係を深めていた[3]。重工各社が造船部門の括り直しに動くなかで、川崎重工業と三井造船もまた、互いを生き残りの組み合わせとして意識する状況に置かれていた。

ミクロ環境——両社それぞれの事情

両社の置かれた状況は、事業構成からして対照的であった。総合重工として鉄道車両や航空宇宙といった複数の柱を抱える川崎重工に対し、三井造船は造船・舶用ディーゼル・プラントへの依存度が高く[4]、造船再編の帰趨が会社全体の行方を左右する関係にある。川重にとって造船は数ある事業の一つだが、三井造船にとっては本業そのものであり、再編に向けた切迫感は両社で異なっていたとみられる。この温度差は、のちの交渉の進み方にも影響した可能性がある。

解説
  • 川崎重工は多角化した総合重工で、船舶海洋は売上の約6%(2015年3月期・連結)にとどまる。
  • 造船が全社に占める比重の小ささが、統合の社内的な動機づけを弱めた面があるとみられる。

統合の発端

公表経緯——スクープ、そして「そのような事実はない」

表面化のきっかけは報道だった。2013年4月22日付の日本経済新聞朝刊(東京最終版)が、川崎重工業と三井造船が経営統合の交渉に入ったと報じる。ところが川崎重工は同日、適時開示で「そのような事実はない」と全面的に否定した[5]。上場企業が投資家向けに行う適時開示で交渉そのものを否定する一方、報道は具体性を伴っていたため、観測報道と公式否定が真っ向からぶつかる不透明な立ち上がりとなった。のちに振り返れば、この最初のボタンの掛け違いが、社内で交渉の進め方をめぐる不信が膨らんでいく伏線でもあった。

否定は長くは続かなかった。4月25日、長谷川聡社長は中期経営計画を発表する会見の場で、三井造船との統合を「選択肢の一つとして排除しているわけではない」と述べ、協議の存在を事実上認める。同じ中計はM&Aの活用による事業拡大を打ち出しており[6]、経営統合はその方針の延長線上に位置づけられていた。

川崎重工業

川崎重工の視点——造船再興に賭けた長谷川構想

主導したのは川崎重工側、とりわけ2009年に就任した長谷川聡社長であった[7]。苦戦の続く造船事業の立て直しは在任中の重い課題であり、三井造船との統合はその解の一つとして描かれた。両社の造船部門を切り出してJMUへ合流させ[8]、成長分野とみられた海洋開発に経営資源を振り向ける——報じられた構想の骨格はそうしたものだったとされる。

長谷川社長にとって、これは中期経営計画で掲げたM&A路線に沿う一手でもあった。造船という単独では先細りの見える事業を、業界再編の枠組みに乗せ、海洋開発という次の柱に賭ける[9]。JMUという受け皿がすでに動き出していたことも、川重の造船を業界再編の本流につなげる契機になりうる状況であった。経営トップの視座に立てば一定の合理性を備えた構想だが、その合理性が全社の事業構成という別の論理とぶつかる余地は、この時点ではらんでいたとも読める。トップダウンで描いた構想を、取締役会という合議の場でどう承認に持ち込むか——そのプロセス設計が、案件の行方を分ける論点になったとみられる。

三井造船

三井造船の視点——「模索していた段階」の慎重

相手側の三井造船にとっても、造船・海洋は事業の主柱であり、規模の拡大と海洋開発の強化につながる統合は選択肢になりえた。ただし三井造船の立ち位置は、合意に踏み込んだというより可能性を見極めていた段階にとどまる。後に交渉打ち切りの報を受けた際、同社は「当社としては可能性を模索していた段階。急なことで遺憾だ」とコメントしている[10]。前のめりの川重と、距離を置く三井造船という非対称が、この案件には初めから含まれていた。

統合の経過

株主総会直前の解任クーデター

川崎重工の社内では、統合への反対論が根強かった。船舶・海洋部門は当時、売上の7%ほどにすぎない[11]。その小さな部門の再編のために全社を統合の枠組みへ引き込めば、造船の比重が相対的に高まり、収益柱である鉄道車両や航空機・宇宙が埋没しかねない——反対派が抱いたのはそうした危機感であった。マイノリティ事業の論理で会社全体の資本政策が決まることへの違和感は、部門ごとの収益力の差を意識する取締役ほど強かったとみられる。解任動議を主導したのは統合に反対していた大橋忠晴会長で[12]、実務面で動いたのは6月13日付で副社長に昇格した松岡京平前常務だったと報じられている。

造反は5月から助走していた。村山氏によれば、全取締役が三井造船との交渉を知らされたのは「4月22日の報道が出た1、2週間前」にすぎなかった[13]。統合に反対する村山氏ら複数の取締役は5月23日、交渉の打ち切りを機関決定するよう長谷川氏らに求めた[14]が、長谷川氏は臨時取締役会を速やかには開こうとしなかった。両社は水面下で資産査定に入っており[15]、長谷川氏には6月下旬の株主総会を越えてから交渉を本格化させる腹づもりがあったとみられる。しびれを切らした3人以外の取締役は、自ら臨時取締役会を招集する道を選んだ。

決着は35分で訪れた。6月26日の株主総会を直前に控えた6月13日、午後3時に始まった臨時取締役会には長谷川氏を含む取締役13人全員が出席し[16]、3人の解任動議が諮られた。賛成は10、反対は当の3人——10対3で可決され[17]、三井造船との経営統合交渉の打ち切りも決まった[18]。同日付で村山滋常務が社長に昇格し[19]、長谷川氏のほか高尾光俊副社長・広畑昌彦常務も取締役に降格、26日付で取締役も退いた。賛成した10人が車両・航空宇宙・精密機械など全部門に及んだのに対し、解任された3人はガスタービン・機械と企画畑に偏っていた[20]

解任動議の賛否(2013年6月13日 臨時取締役会・取締役13人)
氏名当時の肩書出身部門賛否
大橋 忠晴会長車両賛成
松岡 京平常務車両賛成
高田 広常務モーターサイクル&エンジン賛成
村山 滋常務航空宇宙賛成
園田 誠常務精密機械賛成
井城 譲治常務ガスタービン・機械賛成
井上 英二常務プラント・環境賛成
金花 芳則常務マーケティング本部賛成
瀬川 雅司取締役車両賛成
神林 伸光取締役船舶海洋賛成
長谷川 聡社長ガスタービン・機械解任対象
高尾 光俊副社長社長補佐・企画本部解任対象
広畑 昌彦常務企画本部長解任対象
出所:日本経済新聞 2013年6月14日
川崎重工 取締役の異動(2013年6月13日)
氏名異動前異動後
村山 滋代表取締役常務(航空宇宙)代表取締役社長
松岡 京平代表取締役常務(車両)代表取締役副社長
髙田 廣代表取締役常務(二輪・エンジン)代表取締役副社長
金花 芳則常務取締役(マーケティング本部長)代表取締役常務(車両)
長谷川 聰代表取締役社長取締役(社長付)→ 6/26退任
髙尾 光俊代表取締役副社長取締役(社長付)→ 6/26退任
廣畑 昌彦常務取締役(企画本部長)取締役(社長付)→ 6/26退任
大橋 忠晴取締役(会長)6/26退任(1/31公表済み)
出所:川崎重工業 ニュースリリース NO.2013022(2013年6月13日)

村山新社長は会見で、解任の理由を経営統合そのものへの賛否ではなく、進め方の問題として説明した。「取締役会を軽視する行動があり、これ以上、業務執行体制の中核を担わせることはできない」[21]。統合に関する社内会議の議事内容を操作し、反対意見を無視する行動があったという。川崎重工はあわせて、4月の「そのような事実はない」とした適時開示を「交渉の事実はあるが、何も決まっていない」と訂正したうえで、交渉の打ち切りを発表した[22]

川崎重工自身の開示は、より踏み込んだ言葉を残している。同日のニュースリリースは、長谷川氏ら3名の代表取締役・役付取締役を解職して「社長付の取締役」とする決議を、他の取締役の全員一致で行ったと記す[23]。その理由を「他の多数の取締役の意向に反した業務執行を強行しようとするなど取締役会を軽視した行動があった」ためと説明し、これらの行為をコーポレートガバナンス及びコンプライアンスの見地より不適格といわざるをえないと断じ、「苦渋の決断」と表現した[24]。あわせて経営体制の強化のため金花芳則氏を代表取締役に選定し[25]、4月の否定開示を訂正したうえで「皆様にご迷惑をかけしましたことを改めて深くお詫び申し上げます」と結んでいる。

村山滋 川崎重工業 新社長
2013年ごろの当事者の証言
経営統合ありきの姿勢にあることに強い不満感、不信感を覚えた
村山滋 川崎重工業 新社長
2013年ごろの当事者の証言
苦楽をともにした仲間であり、このような結論に至ったことは慚愧にたえない

統合の帰結

その後——白紙化と業界再編

交渉は白紙に戻った。村山新社長は「経営戦略として今後もM&Aを否定するわけではない」と述べ、造船事業の再編に含みを残した[26]。打ち切りの主因は統合の是非そのものというより、取締役会の支持を欠いたまま進められた進め方への不信にあった点が、この発言ににじむ。

川崎重工にとって、造船再編の頓挫は初めてではなかった。2000年前後にも同社は造船部門の再編を模索し、2001年には石川島播磨重工業(現IHI)との事業統合で基本合意しながら、その後に統合を見送っている[27]。今回もまた構想は実を結ばなかった。もっとも、両社の関係が断たれたわけではなく、2014年には川崎重工と三井造船がLNG船などの修繕で提携する[28]。業界全体としても、JMUや三菱重工を含む再編の模索はその後も続いていく。

出典・参考

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