開放経済への対応という当時の常套句だけでは、この合併の輪郭は見えてこない。三井造船が藤永田造船所から受け取ったものの中心は、船台ではなく陸上部門であったのだろう。1927年に化学工業用諸機械から始まった藤永田の化工機部門は、薬品から製油までの装置を一貫して手がけ、都市向けの環境衛生装置や鉄骨・橋梁も抱えていた。造船市況が振れるたびに収益が揺れる会社にとって、この製品群を2,000名の技術者ごと引き受ける意味は小さくない。
もっとも、この合併が円滑に運んだ理由を三井造船の判断力だけに求めるのは行き過ぎている。1965年3月の業務提携で技術と営業を先に一体化し、3年以内の合併を目標として明示したうえで、新造船・ディーゼルエンジン・化工機の各分野で関係を積んでからの調印であった。合併比率5対4も従業員の全員引き継ぎも、その2年の下地があって初めて条件として置ける。統合の可否を決めるのは交渉卓の巧拙よりも、そこに至るまでに何を共有していたかだといえる。