日商岩井日商と岩井産業の合併による日商岩井の発足

三和銀行の打診から始まった商社再編の第二波と、業界第7位が第5位になるまでの2年

時期 1968年5月
意思決定者(推定) 西川政一 社長
論点 規模の追求と商社再編
概要
1968年10月1日、日商が岩井産業を合併して日商岩井が発足した。取引先の倒産が重なった岩井産業について、主力銀行の三和銀行から日商の西川政一社長へ合併の可能性が打診されたことに始まり、両社の単純合計で年商約1兆2000億円、業界第5位の商社となった。
背景
1964年3月の金融引締めに始まる四〇年不況で経営危機の企業が続出し、商社でも丸紅飯田と東通、江商と兼松の合併が相次いだ。日商は1963年に資本金を70億円としてもなお取扱高は第7位にとどまり、三井・三菱の財閥系商社との差は開くばかりであった。
内容
1968年4月27日に読売新聞が合併を一面四段抜きでスクープし、5月2日に両社社長が大阪繊維輸出会館で正式発表と仮調印を行った。10月1日、日商を存続会社として合併し、商号を日商岩井へ改めた。鈴木商店の後継会社として39人で出発した日商の創立から40年の年にあたる。
含意
富士製鉄に緊密な日商と八幡製鉄に強い岩井産業は鉄鋼の取引関係で対照をなし、当時未公表であった八幡・富士両製鉄の合併準備の情報も判断に影響した。この合併で一〇大商社時代が到来し、戦後2度目の商社再編に区切りがついた。
筆者の見解

銀行が持ち込んだ縁組

合併の話は、日商が岩井産業へ持ちかけたのではなく、岩井産業の主力銀行である三和銀行から西川社長へ持ち込まれた。サンウエーブ工業と平松商店の倒産で経営の安定を欠いた会社を、体力のある同業へ寄せる縁組である。日商がこれを機会として使えたのは、八幡製鉄と富士製鉄の合併準備という未公表の情報を握っていたからだとみられる。富士に緊密で八幡に薄い日商と、その逆の岩井産業。鉄鋼の取引関係で見れば、両社は互いの欠けを埋める組み合わせであった。

ただ、合併がただちに実を結んだわけではない。指揮を執るはずの西川社長は発足直後に脳血栓で倒れ、1年余りで社長の座を辻良雄氏に譲っている。半期取扱高が1兆円に届くのは1972年で、仮調印から4年を要した。西川氏が、合併には経営責任を担う者の勇断が不可欠だと書き、自身については考えに考え、悩みに悩んだと記したのは、資本金を70億円としても第7位から動かなかった年月の重さによるとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

四〇年不況と、業界再編の連鎖

1963年末から日本の国際収支の赤字が拡大し、1964年3月に公定歩合が引き上げられて金融引締めに転じた。1964年10月の東京オリンピックを見込んで各企業が設備拡張に走った、その反動でもあった。引締めの影響は鉄鋼・化学・機械へ広がり、収益性を無視した市場占有率の競争に走る企業も現れる。1965年3月には山陽特殊製鋼が当時戦後最高の500億円近い負債を残して事実上倒産し、5月には山一證券が日銀特融でかろうじて危機を回避した[1][2]

国際競争力の強化を掲げた業界再編も同じ時期に進んだ。三重工の合併による三菱重工業の発足、東洋紡績と呉羽紡績、日産自動車とプリンス自動車の合併がそれにあたる。商社では三井物産が木下産商を吸収したのに続き、1966年6月に丸紅飯田が東通を合併し、1967年には関西五綿の一つであった江商と兼松が一緒になった。東通の側の事情は、山陽特殊製鋼の倒産で売上債権が焦げ付き、資金繰りに窮したことにあった[3][4]

第7位から動かない順位

日商の側にも規模を追う理由があった。1958年秋、現職の落合豊一社長が死去し、後を継いで西川政一氏が社長に就いた。1960年に資本金を35億円へ増やし、取扱高も初めて半期1000億円を超えたが、大手商社のなかではなお第7位であった。1961年には業界に先んじて本社機能の大部分を東京へ移す。1963年には資本金を70億円として名実ともに総合商社の態勢を整えたが、順位は動かず、三井・三菱の財閥系商社との格差は開くばかりであった[5][6]

1966年、日商は年1回・部長以上が全員出席する定例幹部会「日商会議」で、飛躍のためには他社との合併も辞さないという方針を打ち出した。合併そのものは初めてではない。1941年にエジプト綿の輸入商である桜井商店を、1954年に信興棉花を吸収している。三井系の白洋貿易のときは、旧鈴木商店と三井物産の対抗意識から社内に拒絶反応が出て一度は断り、第一銀行の再三の要請を受けて踏み切った。それでも後遺症は起きず、合併を前向きにとらえる素地が社内に残った[7][8]

決断

三和銀行からの打診

相手方の岩井産業は、岩井文助氏の雑貨商に始まり、創業から100年を数える関西の商社であった。1955年6月に資本金3億円、同年5月期の売上高は259億円で、ダイセル・日新製鋼・徳山曹達・関西ペイント・日本橋梁を関係会社に持ち、鉄鋼と物資に地盤があった。合併前の年商は約4500億円に達している。その岩井産業に、1960年代半ばから取引先の倒産が重なった[9][10]

流し台メーカーのサンウエーブ工業は、1964年12月に運転資金が尽きて会社更生法の適用を申請し、1966年3月に認可された更生計画で、日新製鋼・岩井産業・三井物産の3社を中心に再建が図られた。平松商店の倒産も重なり、岩井産業は経営の安定を期しがたくなる。ここで主力銀行の三和銀行から、日商の西川社長へ合併の可能性についての打診があった。西川氏は後年、この決断を行なう者として考えに考え、悩みに悩んだと書いている(私の商社昭和史 1987年)[11][12]

鉄鋼をめぐる対照と、八幡・富士の合併準備

打診を受けた側には、規模のほかに鉄鋼という具体的な理由があった。当時まだ公表されていなかった八幡製鉄と富士製鉄の合併準備の情報が、日商には入っていた。日商は富士製鉄と緊密な関係にあったが、八幡製鉄とは旧鈴木商店時代のつながりが残るだけで関係が薄い。岩井産業はその逆で、八幡製鉄との結び付きは強く、富士製鉄とは薄かった。高畑誠一氏は、この両製鉄の合併への動きも合併の理由の一つであったと後年書いている[13]

西川社長には、それとは別の動機もあった。鈴木商店を引き継いだ日商を三井・三菱に匹敵する世界的な大商社に育てることが永年の夢であり、鈴木の全盛期に金子直吉氏がロンドンの高畑誠一氏へ書き送った「三井三菱を圧倒する乎」(私の商社昭和史 1987年)という一節を、一日たりとて忘れたことはないと述べている。合併には緻密な現状分析と周到な準備、そして経営責任を担う者の勇断が不可欠だ、というのが西川氏の考えであった[14][15]

合併への基本方針は極秘のうちに固まり、細部を詰める段階で読売新聞にスクープされた。1968年4月27日の同紙は、一面四段抜きで「日商、岩井産業合併、業界第五位の商社に」という見出しを掲げた。合併のうわさは一部で流れていたが、現実になってみるとそれは一つの驚きであったと西川氏は記している。両社は予定を繰り上げ、5月2日に大阪繊維輸出会館で正式に発表し、合併契約に仮調印した[16]

結果

業界第5位と、一〇大商社時代

1968年10月1日、日商を存続会社として合併が成り、商号は日商岩井へ改まった。鈴木商店の後継会社として39人で出発した日商の創立から、ちょうど40年にあたる年であった。両社の単純合計(日商1968年3月期・岩井産業1967年11月期)で年商は約1兆2000億円、業界第5位となる。商品構成は金属40%・物資25%・機械14%・繊維12%・食糧9%、取引別では国内51%・輸入29%・輸出16%・海外4%であった[17][18]

鉄鋼の取扱いは業界第3位となり、工業塩と木材はトップクラス、国内約40店・海外約74店の店舗網を持つ会社となった。この合併で戦後2度目の商社再編劇に区切りがつき、いわゆる一〇大商社時代を迎える。もっとも、吸収される側には別の感情があった。岩井英夫社長は貿易商社会の会合の終わりに、こんど日商と合併して自分は会長になる、この会に出席できるのは今日が最後になるだろう、と挨拶している[19][20]

発足直後に倒れた責任者

発足の高揚は長く続かなかった。1968年の秋、合併が滑り出した矢先に西川社長は脳血栓で倒れ、約半年を病院で過ごす。合併前後の多忙が心身をむしばんでいた。合併の絶対の責任者である自分がこの状態で許されるのか、と病床で悩み抜いた末、1969年秋に社長を辻良雄氏に譲り、自身は会長に就いた。合併の発足から1年余りでの交代であった[21]

合併の効果が数字に表れるまでには数年を要した。日商岩井は1972年に半期の取扱高で待望の1兆円の大台を突破し、資本金も154億円となる。取扱高が半期1000億円を初めて超えた1960年から12年で、規模はその10倍に達した。西川氏はこの足どりを自分の目で確認したうえで、同じ1972年の秋に会長も辞している[22]

出典・参考
  • 私の商社昭和史(1987年)8章「四〇年不況と大型合併」
  • 私の商社昭和史(1987年)8章「グループの中核として」
  • 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社, 1981年)
  • 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社, 1981年)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
  • 証券 1990年3号「新規上場会社紹介 サンウエーブ工業株式会社」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」

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