豊田通商の直接の源流は、1936年10月にトヨタ自動車工業の自動車販売金融を目的に設立されたトヨタ金融株式会社である[1]。その背景には、1933年に豊田が純国産自動車の製造を企図して試作に成功[2]し、その販売に対する金融を必要とした事情があった。資本金100万円で始まったこの会社は[3]、戦時統制によって本来の金融業務を必要としなくなる。一方、豊田系諸事業の中枢だった豊田紡織が企業整理により1942年1月に中央紡績と合併[4]するにあたり、豊田紡織が保有していた豊田系諸会社の株式をどこかに保有させる必要が生じた。そこでトヨタ金融は1942年4月に豐田産業株式会社へ改称し[5]、その豊田系諸会社の株式を継承保有する形へ転じ、1945年2月には資本金1000万円へ増資した[6]。戦後の1947年9月に持株会社整理委員会から持株会社の指定[7]を受け、1948年7月に解散した[8]。自動車の製造側ではなく販売金融から枝分かれした成り立ちは、他の総合商社の生まれ方と一線を画す。
豐田産業は1945年8月にいったん商事会社として発足[9]していたが、1947年9月の持株会社指定により解散し、その商事部門だけを継承する形で、1948年7月に資本金900万円の日新通商株式会社が名古屋市に設立[10]され、大阪市に支店をもつ商社として出発した[11]。日新通商は紡織機関係を中心に、一般機械・車両・鉄鋼・雑貨・繊維・燃料・棉花[12]・羊毛などの内外取引を逐次広げ、総合商社としての内容を充実させた。財閥解体を経て付いた日新通商の名は豊田系商事部門の実態にそぐわぬ感があり、1956年7月1日に商号を豐田通商株式会社へ改め[13]、トヨタグループ商社としての名称を整えた。設立の動機が自動車金融にあった事実は、その後の自動車・部品・物流を軸とする事業構造に直結する。金融会社から商事会社への転身は、戦後の組織再編の流れのなかで進められ、現在のトヨタグループ商社の直接の出発点を定めた。
豐田産業が商事会社へ転じる過程は、豊田利三郎の指示から始まる。1945年、利三郎は商事部門を急速に整備して各社製品の販売に当たらせ、豐田産業が各社の販売面を統括して海外需要の調査から資材供給までを担うよう指示し[14]、定款に一般商品の製造販売・輸入、仲立・代理・問屋業を書き加えさせた。機構の改革と業務の整備を経て貿易商社への転換が形になったのは同年10月である[15]。ところが1947年9月、地方財閥解体と呼ばれた第5次指定で豐田産業は持株会社と断定された。豊田家は財閥家族と見なされなかったが、グループ各社の株式を保有していたことが理由だった[16]。解散を命じられた利三郎と岡本藤次郎副社長は、持株会社整理委員会とGHQの担当者に事情を説明し、小規模ながら現に動いていた商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法に基づく第二会社として日新通商を立ち上げた[17]。
1960年10月にToyota Tsusho America, Inc.を設立し[18]、自動車輸出の拡大に合わせて米国拠点を構えた。1961年10月には名古屋証券取引所[19]、1977年1月には東京証券取引所に株式を上場した[20]。名古屋本拠の商社として名証を先に選んだ経緯は、トヨタグループ内での立ち位置を示す。東京・名古屋の両市場に上場する体制は、全国の資本市場での認知度を高めつつ、中部地方に根を張るトヨタグループ商社としての所在を保つ選択でもあった。東京本社をもたずに名古屋から全国の商流を束ねる構えは、当時の商社としては珍しい部類に入る。米国進出と二重上場を1960〜70年代の17年間で実行した動きは、トヨタ車の北米輸出拡大を前提に、調達と資金調達の両面でグループの成長を支える基盤づくりにあたる。
米国拠点の設立には具体的な引き金があった。日本輸出入銀行の借款による米国製機械の買い付けで、米メーカーから信用状の提出を契約条件とされ、懸案だった現地法人の設立を急いだのである。1960年10月30日にニューヨーク州法に基づき資本金1,000ドルで設立し、日本政府の認可を得たうえで1961年8月に資本金5万1,000ドルの新会社へ組み直した[21]。設立まもなく特殊グラインダー最大手ランディス社の代理店権を得たことが初仕事となり、輸入機械部の発足にもつながった[22]。東証への上場を申請した時点では国内に3支店・11出張所、海外に18事務所・8現地法人を配し、取扱品目も総合商社的となって売上高順位は業界15位にあった[23]。
上場と海外拠点展開は、トヨタの生産・輸出拡大と歩調を合わせたもので、豊田通商は自動車産業の伸長に連動して規模を広げた。当時の豊田通商は、総合商社というよりトヨタ向け物流・調達商社としての性格が濃く、業界内順位も中堅だった。トヨタという巨大な顧客基盤のもとで安定成長を続けたが、総合商社としての独自性や規模を追う位置には届かず、以後の長い拡大期に向けた事業基盤を整える下準備の時期にとどまった。自動車商社の範疇にとどまりつつ、海外拠点網と上場企業としての資本市場アクセスを獲得した事実が、1980年代以降の総合商社化の前提条件となって残った。
1950年代から1960年代にかけての豊田通商は、戦後復興期から高度成長期にかけての日本自動車産業の急拡大と並走し、自動車販売金融と商事機能を結び合わせた商社として性格を固めた。トヨタ本体の生産拡大と輸出攻勢を、商材調達・物流・金融の面から支える役割を担い続けた結果、グループ内での存在感を高めた。もっとも当時の業績は芳しくなく、1959年にはトヨタ自動車工業の購買部から宮入潔がその立て直しに送り込まれ、江崎誠三らが同行している。トヨタ向け鋼材を総合商社経由から自社扱いへ切り替える商流の開拓が、金属部門の出発点だった[24]。他の総合商社が繊維・鉄鋼・化学品などの領域を軸に多角化したのとは対照的に、豊田通商は自動車という単一産業に張り付く形で成長軌道を描いた。
1970年代前半のオイルショック以前には、トヨタの海外展開に追随する形で豊田通商自身も海外拠点を広げ、米国以外に欧州・アジアへの進出を試みた。総合商社への本格的な転換は1980年代以降の動きで、それ以前の同社は自動車商社・グループ内調達機能としての性格が中心だった。非自動車分野の事業基盤は1970年代まで限定的で、鉄鋼・化学品・食料などへの本格進出は加商・トーメン[25]との合併まで先送りされた。総合商社業界全体が資源開発やプラント輸出で規模拡大を競うなか、豊田通商はトヨタという確かな顧客基盤を背後にもちつつ、自動車の裾野を広げる中堅商社の位置を保った。
1955年時点の日新通商は、紡織機を軸に一般機械・金属・雑貨・繊維・燃料・綿花へ品目を広げ、商域は台湾・香港・タイ・フィリピン・インド・パキスタン・アフリカ・北中南米・欧州に及び、ダッカ・カラチ・バンコク・香港・台北・ダラスに駐在員と技術者を常駐させていた[26]。アフリカに事務所という形で足を下ろしたのは1962年9月、ケニアの首都ナイロビである[27]。工業近代化を目指す東アフリカ3カ国へ紡織機械を売り込む狙いだったが、3国の外貨事情が悪く商談は乏しかった。潮目が変わったのは1964年以降にトヨタ車の販売を手がけてからで、販売代理店を設けて数年後には約1,000台を売り、営業地域もエチオピア・スーダンへ広がった[28]。半世紀後に最大の事業本部となるアフリカの起点が、この時期に置かれている。
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|---|---|---|---|---|
| 1936〜1977年トヨタ金融から商社への再編と海外展開の出発 | トヨタ金融が発足 | ★ | ||
| トヨタ金融が豐田産業に商号変更、証券保有業務も兼営 | ★ | |||
| 豐田産業が持株会社整理委員会から持株会社に指定 | ★★ | |||
| 豐田産業の商事部門を継承して「日新通商」を設立 | ★★ | |||
| 東京支店を開設 | ★ | |||
| 商号を「豐田通商」に変更 | ★ | |||
| Toyota Tsusho America, Inc.を設立 | ★ | |||
| 名古屋証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 1978〜2015年総合商社化とアフリカへの踏み込みの長期拡大 | 東京支店を東京本社に昇格し二本社制を採用 | ★ | ||
| 商号の漢字を常用漢字に改め豊田通商に変更 | ★ | |||
| 英文社名をTOYOTA TSUSHO CORPORATIONに変更 | ★ | |||
| 加商と合併 | ★★ | |||
| トーメン・同社子会社の鉄鋼部門に関する営業の一部を譲り受け | ★★ | |||
| 清水順三 | 経営再建中のトーメンとの統合——資本提携から吸収合併への総合商社化 2006年4月1日、豊田通商が、経営再建中の総合商社トーメンを、存続会社を豊田通商として吸収合併した経営判断。2000年3月の第三者割当増資約75億円による資本・業務提携から段階的に統合を深め、2005年10月に合併へ合意した。合併比率はトーメン普通株式1株に豊田通商株0.069株。清水順三社長のもとで、化学品・食料・繊維・エレクトロニクスを扱うトーメンを取り込み、トヨタ系の自動車商社から総合商社へ実体を移した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 清水順三 | 清水順三社長が退任し加留部淳が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 加留部淳 | 仏CFAO買収によるアフリカ流通網の獲得 2012年、豊田通商が仏PPRからアフリカ流通大手CFAO SASの株式29.8%を取得し、続く公開買付で88.20%まで高めて子会社化した経営判断。取得総額は約23億ユーロ(約2,300億円)に上り、2016年12月には残る株式を取得して完全子会社化し、ユーロネクスト・パリへの上場を廃止した。加留部淳社長が主導した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2016〜2025年IFRS移行とV字回復から10兆円商社化と新中計へ | 加留部淳 | 親会社株主に帰属する当期純損失437億円 | ★★ | |
| 加留部淳 | 貸谷伊知郎氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 加留部淳 | トーメンエレクトロニクスと豊通エレクトロニクスを統合 | ★ | ||
| 加留部淳 | リチウム・電池材料の川上資源確保——トヨタの電動化と一体の非鉄投資 2018年、豊田通商が電気自動車用電池材料であるリチウムの川上(資源権益)へ本格的に踏み込んだ経営判断。同年1月にアルゼンチン・オラロス塩湖のリチウムを産する豪Orocobre社(後のAllkem)へ約260億円を出資して15%を取得し、11月には生産能力の拡張を決定、さらに豊通リチウムを通じて福島県楢葉町に国内初の水酸化リチウム製造工場を立ち上げた。トヨタグループの電動化と一体の資源確保である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 貸谷伊知郎 | ユーラスエナジーHDを完全子会社化 | ★★ | ||
| 貸谷伊知郎 | 台数依存からの脱却——「質で稼ぐ」構造への転換と売上10兆円商社化 2016年3月期の赤字から2024年3月期の売上10兆円到達までの間に、豊田通商が台数依存の収益構造を『質で稼ぐ』体へ組み替えた面的な転換。貸谷伊知郎社長のもとで、トヨタの新車販売台数と自社利益の連動を薄め、非自動車・非資源の付加価値事業で利益を積み上げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 今井斗志光 | 今井斗志光氏が社長に就任 | ★ | ||
| 今井斗志光 | 新中期経営計画と資本政策への転換——時価総額向上を経営アジェンダに据える 2025年4月30日、豊田通商は2026年3月期から2028年3月期を対象とする新中期経営計画を公表し、2028年3月期の当期利益4,500億円・ROE15%以上・総還元性向40%以上を掲げた。今井斗志光社長と岩本秀之副社長CFOのもと、自己株式取得を株主還元に含め、時価総額の向上を経営アジェンダに据えた資本政策への転換であった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(豊田通商)