イトマン の歴史

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創業 1883年
創業者 伊藤萬助
創業地 大阪府大阪市
創業 1883年1月、伊藤萬助氏が大阪・南本町の心斎橋筋で、店員5人の洋反物商「羽州屋
1883年1月、伊藤萬助氏が大阪・南本町の心斎橋筋で、店員5人の洋反物商「羽州屋」を開いた。当時の洋反物問屋は舶来の織物を神戸と横浜の外国商館から仕入れていたが、1891年にロンドンからの直輸入を始めて仕入れの経路を自ら握った。1916年には輸出部の羽州洋行を設けて中国へ向かい、対中輸出の取扱高で業界の首位に立つ。1918年5月18日に株式会社へ改組し、資本金300万円の伊藤萬商店となった。1921年に宮川モスリン、1923年に日本染業を設け、問屋でありながら紡績と染色の工場を抱える。1943年5月に商号を伊藤萬へ改め、1949年に株式を公開した。
決断 本業から離れずに一度立ち直り、本業から離れて消えた会社である。1975年9月期に
本業から離れずに一度立ち直り、本業から離れて消えた会社である。1975年9月期に経常44億7,300万円の欠損を出して上場以来初の無配に落ちたとき、住友銀行常務から移った河村良彦氏が社長に就いた。第1次石油ショックの後、商社の多くが脱繊維へ向かうなかで河村氏は繊維に留まり、営業の課を5人前後の損益単位に割って課ごとに純損益を出させ、相場と仲間取引を禁じた。1979年には安宅産業の繊維部門を引き受け、売上高は1,800億円から1984年9月期の5,628億円へ伸びる。だが1985年からは不動産へ軸を移し、1988年に杉山商事、1990年に雅叙園観光を抱え込んだ。
現況 1993年4月1日、住金物産に吸収されて110年の社名が消えた。1990年6月末
1993年4月1日、住金物産に吸収されて110年の社名が消えた。1990年6月末のグループの不動産・証券投融資は1兆3,514億円に達し、同年10月に河村良彦氏が7,000億円の圧縮計画を掲げたが、不動産の内容を把握していたのは河村氏と伊藤寿永光常務の2人だけであった。1991年1月に河村氏は解任され、後任の芳村昌一氏はグループの有利子負債1兆2,000億円を抱えて繊維・食料・産業機械・物資の4分野へ事業を絞った。それでも自主再建には届かず、1992年9月に住友銀行へ合併の支援を求める。合併の比率は5対1で、約1万人の株主が割を食った。
長期業績の推移 1949〜1993年
イトマン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1955年11月期〜1984年9月期

第1章 1883年〜 洋反物問屋から川上への一貫化羽州屋の直輸入から伊藤萬商店の生産会社経営へ

1883年〜南本町の洋反物商から舶来品の直輸入へ

1883年1月、のちに初代社長となる伊藤萬助氏が、大阪・南本町の心斎橋筋に店員5人の洋反物商「羽州屋」を開いた。輸入織物を扱う小店であり、これが伊藤萬の起点となった。当時の日本では洋反物を扱う商いが始まって間もなく、舶来の織物は神戸と横浜に構えた外国商館が握り、問屋はそこから買うほかに手が無かった。仕入れの経路を他人に押さえられている以上、問屋の利は仲介の差益に限られ、品揃えも値決めも店の側では動かせない。羽州屋を起点に、伊藤萬では創業から四代にわたり同族の社長が続いた。ただし出発点にあったのは、需要は伸びるのに調達の条件を選べない立場だった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [1]1883年1月、初代伊藤萬助が大阪・南本町(心斎橋筋)で店員5人の洋反物商「羽州屋」を開業した
    • [4]創業当時は洋反物業界の黎明期で、洋反物問屋は舶来織物を神戸・横浜の外国商館の手を経て輸入していた
  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [2]1883年1月に初代伊藤萬助が大阪市南本町で開業した洋反物商「羽州屋」が伊藤萬の起源にあたる
  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [3]伊藤萬は1883年に心斎橋で輸入織物を扱う羽州屋伊藤萬商店として創業した繊維中心の老舗商社である
    • [5]伊藤萬では創業以来四代にわたり同族の社長が続いた

1889年5月、伊藤萬助氏は本町4丁目へ店舗を新築して移り、神戸と横浜の商館から更紗や洋傘地といった輸入品を直に買い付ける形に改めた。1891年にはロンドンから紅金巾、スレーキ、毛布、ビロードを直輸入し、商館を挟まずに海外の売り手と結んだ。この年に始めた直輸入が、仕入れ値の決定権を店の側へ移す転機となった。翌1892年、伊藤九兵衛氏らと共同出資で大阪毛布製造を興し、のちに伊藤萬助氏がその社長を務めた。毛布は直輸入の品目の一つであり、輸入で扱う品をそのまま国内生産へ移す試みでもあった。舶来品を売る問屋が、同じ品をつくる会社の経営へ踏み出した最初の一手だった。

  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [6]1889年5月、本町4丁目に店舗を新築し、神戸・横浜の外国商館から更紗・洋傘地など輸入品の直接取引を行った
    • [7]1891年、ロンドンから紅金巾・スレーキ・毛布・ビロードなどの直輸入を開始した
    • [9]1892年、伊藤九兵衛らと共同で大阪毛布製造を創立し、のちに伊藤萬助が社長へ就任した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [8]羽州屋は1891年に直輸入業務を始めた

販路は当初の店頭売りから国内の出張販売へ広がった。1901年以降は全国へ、1908年以後は朝鮮、台湾、満州へと売り先が伸びた。舶来織物の直輸入で握った品揃えを、売り歩く相手の側から広げていった形である。1916年2月には輸出部を創設して羽州洋行と称し、本格的な輸出業務を始めた。仕向け先は中国のほか、ジャワ、シンガポールに及んだ。対中貿易の必要から置いたこの輸出部は中国各地へ店を構え、中国向け輸出の取扱高で当時のわが国業界の首位に立った。開業から三十余年を経て、羽州屋は舶来品を仕入れて国内で売る問屋から、織物を域外の市場へ送り出す輸出商へ重心を移していた。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [10]当初の店頭売りから国内出張販売へ、さらに朝鮮・満州・台湾へ進出した
    • [12]1916年に本格的な輸出業務を開始し、対中貿易の必要から羽州洋行を創設した
    • [14]対中貿易の必要から羽州洋行を創設して中国各地へ勢力を伸ばし、中国向け輸出でわが国業界第1位の地歩を築いた
  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [11]販路を1901年以降は全国へ、1908年以後は朝鮮・台湾・満州へ拡張した
    • [13]1916年2月に創設した輸出部(羽州洋行)は中国・ジャワ・シンガポールなどへ輸出を行った
参考文献[1]-[14]
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [1]1883年1月、初代伊藤萬助が大阪・南本町(心斎橋筋)で店員5人の洋反物商「羽州屋」を開業した
    • [4]創業当時は洋反物業界の黎明期で、洋反物問屋は舶来織物を神戸・横浜の外国商館の手を経て輸入していた
    • [8]羽州屋は1891年に直輸入業務を始めた
    • [10]当初の店頭売りから国内出張販売へ、さらに朝鮮・満州・台湾へ進出した
    • [12]1916年に本格的な輸出業務を開始し、対中貿易の必要から羽州洋行を創設した
    • [14]対中貿易の必要から羽州洋行を創設して中国各地へ勢力を伸ばし、中国向け輸出でわが国業界第1位の地歩を築いた
  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [2]1883年1月に初代伊藤萬助が大阪市南本町で開業した洋反物商「羽州屋」が伊藤萬の起源にあたる
    • [6]1889年5月、本町4丁目に店舗を新築し、神戸・横浜の外国商館から更紗・洋傘地など輸入品の直接取引を行った
    • [7]1891年、ロンドンから紅金巾・スレーキ・毛布・ビロードなどの直輸入を開始した
    • [9]1892年、伊藤九兵衛らと共同で大阪毛布製造を創立し、のちに伊藤萬助が社長へ就任した
    • [11]販路を1901年以降は全国へ、1908年以後は朝鮮・台湾・満州へ拡張した
    • [13]1916年2月に創設した輸出部(羽州洋行)は中国・ジャワ・シンガポールなどへ輸出を行った
  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [3]伊藤萬は1883年に心斎橋で輸入織物を扱う羽州屋伊藤萬商店として創業した繊維中心の老舗商社である
    • [5]伊藤萬では創業以来四代にわたり同族の社長が続いた

1918年〜株式会社への改組と創業以来最大の損失

1918年2月、中国向けの高級無地綿布を加工するため、共同出資者の市居氏と合資会社の大阪染工を起こした。輸出先の求める仕上げの工程を、自らの出資先に担わせる構えである。同年5月18日には羽州屋を株式会社へ改め、資本金は300万円、商号は伊藤萬商店とし、伊藤萬助氏が初代社長に就いた。翌1919年1月にはシベリア向けの販売も始めた。しかし同年4月に初代社長が逝去し、二代目の伊藤萬助氏が40歳で跡を継いだ。個人商店の資本と信用では担いきれない規模へ取引が膨らみ、法人への改組と世代の交代がわずか1年の間に重なった。

  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [15]1918年2月、中国向け高級無地綿布加工のため市居氏と共同出資で大阪染工(合資)を起こした
    • [16]1918年5月18日に羽州屋を株式会社へ改組し、資本金300万円の伊藤萬商店と改称、初代社長に伊藤萬助が就任した
    • [18]1919年1月にシベリアへ販路を拡張し、同年4月に初代社長が逝去した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [17]1918年、資本金300万円で株式会社へ改組し、株式会社伊藤萬商店を創立した
    • [19]1919年、初代社長の死去にともない二代目伊藤萬助が40歳の若さで社長に就任した

1920年の大恐慌は、資本金500万円の約半分にのぼる損失を伊藤萬商店にもたらした。創業以来もっとも重い打撃であり、輸出の前線を畳んで同年6月に羽州洋行を閉じた。第一次世界大戦の終結後に訪れた不況で、在外市場の需要も国内の相場も同時に崩れた局面だった。中国向けで業界第1位まで積み上げた輸出の拠点を、創設から4年で手放したことになる。それでも二代目社長以下の全社員が穴埋めに当たり、2年後には損失を埋め戻して1割配当を行うまでに立ち直った。恐慌を切り抜けた経験が、のちに川上へ資本を投じる判断の下地になったのだろう。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [20]1920年の大恐慌時に資本金500万円の約半分にもおよぶ大損失をこうむった
    • [21]1920年の損失は創業以来最大の危急存亡の事態と記された
    • [24]社長以下全社員の努力で切り抜け、2年後には損失を埋め合わせて1割配当を行うまで立ち直った
  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [22]1920年6月に羽州洋行を閉鎖した
    • [23]羽州洋行の閉鎖は欧州大戦後の経済不況によるものであった

二代目社長の伊藤萬助氏は、経営者の務めを店の仕組みを改めることに置いた。大福帳が常であった当時に複式簿記を採り入れ、店則を定め、意匠部を新設し、花形商品だった友禅と着尺の図案を懸賞で広く集めた。社章も社名の頭文字であるMとIを組み合わせた図案で、社員から集まった案の中から選ばれた。損益を数字で把握する仕組みと、売る柄を自ら設計する部門とを、同じ時期に据えたことになる。1924年4月には中国へモスリンの宣伝と販売に赴いて成果を上げ、翌1925年4月に輸出部を再開した。以後の輸出は東南アジア方面に重きを置いた。損失の後に打った手は経費の削減ではなく、商いの作法の置き換えだった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [25]二代目社長の伊藤萬助は、絶えざる革新こそ経営者に課せられた最大の使命であるとの経営理念を持っていた
    • [26]大福帳時代にあって複式簿記制度の採用、店則の制定、意匠部の新設、友禅・着尺の懸賞図案の大募集を断行した
    • [27]社章は社名のイニシャルであるMとIを図案化したもので、社員の応募図案の中から採用された
  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [28]1924年4月、中国へモスリンの宣伝および販売に赴いて成果を上げた
    • [29]1925年4月に輸出部を再開した
    • [30]輸出部の再開後はとくに東南アジア方面へ積極的な輸出を行った
参考文献[15]-[30]
  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [15]1918年2月、中国向け高級無地綿布加工のため市居氏と共同出資で大阪染工(合資)を起こした
    • [16]1918年5月18日に羽州屋を株式会社へ改組し、資本金300万円の伊藤萬商店と改称、初代社長に伊藤萬助が就任した
    • [18]1919年1月にシベリアへ販路を拡張し、同年4月に初代社長が逝去した
    • [22]1920年6月に羽州洋行を閉鎖した
    • [23]羽州洋行の閉鎖は欧州大戦後の経済不況によるものであった
    • [28]1924年4月、中国へモスリンの宣伝および販売に赴いて成果を上げた
    • [29]1925年4月に輸出部を再開した
    • [30]輸出部の再開後はとくに東南アジア方面へ積極的な輸出を行った
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [17]1918年、資本金300万円で株式会社へ改組し、株式会社伊藤萬商店を創立した
    • [19]1919年、初代社長の死去にともない二代目伊藤萬助が40歳の若さで社長に就任した
    • [20]1920年の大恐慌時に資本金500万円の約半分にもおよぶ大損失をこうむった
    • [21]1920年の損失は創業以来最大の危急存亡の事態と記された
    • [24]社長以下全社員の努力で切り抜け、2年後には損失を埋め合わせて1割配当を行うまで立ち直った
    • [25]二代目社長の伊藤萬助は、絶えざる革新こそ経営者に課せられた最大の使命であるとの経営理念を持っていた
    • [26]大福帳時代にあって複式簿記制度の採用、店則の制定、意匠部の新設、友禅・着尺の懸賞図案の大募集を断行した
    • [27]社章は社名のイニシャルであるMとIを図案化したもので、社員の応募図案の中から採用された

1921年〜加工会社の経営から戦時の取扱商品の入れ替えへ

1921年11月、伊勢の宮川に資本金200万円の宮川モスリンを創立した。原料から糸、織物、加工、製品までを一本の方針でつなぐ。二代目社長の伊藤萬助氏は、そこまで揃えれば仕入れる値も売る柄も他社に委ねずに済むと見た。加工問屋が自ら生産会社を持つ形であり、繊維の流通では珍しい構えである。1923年2月には捺染友禅が伸びるのを見て、日本染業を和歌山に置いた。本染めの友禅が機械による捺染へ置き換わるという読みから設けた専属工場で、モスリンの友禅染めが伸びる余地も織り込んでいた。素材の調達から染めまでを抱え込み、のちにコンバーターと呼ばれる機能を自前で持った。売り場から退くのではなく、売れる柄を自ら決めるために川上を押さえた。

  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [31]1921年11月、伊勢宮川に資本金200万円の宮川モスリン(のちの大日本紡績宮川工場)を創立した
    • [34]1923年2月、捺染友禅の台頭に鑑み和歌山に日本染業を設立した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [32]問屋の地盤強化には原料・糸・織物・加工・製品まで一貫性のある経営方針が必要との判断から宮川モスリンを創設した
    • [33]宮川モスリンは加工問屋が経営する生産会社として業界の発展に貢献した
    • [35]本染め友禅は機械捺染に圧倒されると判断し、1923年に和歌山へ専属捺染工場を創立した
    • [36]モスリン友禅の将来の発展性を洞察したうえで和歌山に専属捺染工場を創立した
    • [37]一連の生産会社の経営は、今日でいうコンバーター機能を発揮するものであった

1933年8月、創業50周年にあたり、本町4丁目の角に地上7階地下2階の社屋が竣工した。竣工した社屋について、当時の評は『ガスビルとともに当時の御堂筋の二大近代建築として人々の目を見はらせた』というものだった。移転にあわせ、店は設備と売り方の両方を新しくした。1936年には、天然繊維に代わる素材を得るため、京都帝国大学へ当時の金で30万円を寄付した。織物を仕入れて売る問屋の本業からは遠い支出である。これを基金として、学内へ財団法人日本化学繊維研究所が置かれた。同研究所が生んだ京大合成一号が、のちのビニロンである。織物を売る問屋の関与は、原料の一段手前にある素材の研究まで及んでいた。

  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [38]1933年8月、かねて建築中の本町4丁目の社屋が竣工した
    • [40]社屋竣工と同時に近代式の設備および販売方法を採用し、経営の革新を図った
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [39]創業50周年にあたる1933年、本町4丁目角に地上7階地下2階の社屋が完成し移転した
    • [41]天然繊維に代わる合成繊維の将来を見越し、当時の金で30万円を京都帝国大学へ寄付した
    • [42]寄付を基金として1936年に京都帝国大学内へ財団法人日本化学繊維研究所が設立された
    • [43]日本化学繊維研究所で発明された京大合成一号が、のちのビニロンである

日華事変の後は扱える品が細り、1939年には国産原料の銘仙を扱い始めた。しかし翌1940年の七・七禁令により、金銀糸を入れた高級絹織物は販売を禁じられた。太平洋戦争に入ると繊維品は配給統制の下に入り、内需向けの取扱は減る一方となった。そこで薬品、食料品、雑貨へ品目を広げて収益を確保し、木材製造と航空機修理の工場を傍系会社として持つに至った。天津、上海、青島、南京など中国各地には支店出張所を置き、天津へは内地から捺染と染色の設備を運んで加工に当たった。商号を伊藤萬と改めたのは、この戦時下の1943年5月である。

  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [44]日華事変後の取扱商品減少に伴い、1939年に国産原料による銘仙の取扱を開始した
    • [45]1940年の七・七禁令により金銀糸入り高級絹織物の販売が停止され、打撃を受けた
    • [46]太平洋戦争に入ると繊維品は完全な配給統制下に置かれ、内需用繊維品の取扱は減少の一途をたどった
    • [47]取扱商品を薬品・食料品・雑貨へ広げて収益確保に努め、傍系会社として木材製造・航空機修理工場も経営した
    • [48]天津・上海・青島・南京など中国各地に支店出張所を設置・拡張し、天津では内地から捺染・染色設備を移送して加工を営んだ
    • [49]1943年5月に商号を伊藤萬へ変更した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [50]1943年に社名を伊藤萬株式会社へ変更した
参考文献[31]-[50]
  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [31]1921年11月、伊勢宮川に資本金200万円の宮川モスリン(のちの大日本紡績宮川工場)を創立した
    • [34]1923年2月、捺染友禅の台頭に鑑み和歌山に日本染業を設立した
    • [38]1933年8月、かねて建築中の本町4丁目の社屋が竣工した
    • [40]社屋竣工と同時に近代式の設備および販売方法を採用し、経営の革新を図った
    • [44]日華事変後の取扱商品減少に伴い、1939年に国産原料による銘仙の取扱を開始した
    • [45]1940年の七・七禁令により金銀糸入り高級絹織物の販売が停止され、打撃を受けた
    • [46]太平洋戦争に入ると繊維品は完全な配給統制下に置かれ、内需用繊維品の取扱は減少の一途をたどった
    • [47]取扱商品を薬品・食料品・雑貨へ広げて収益確保に努め、傍系会社として木材製造・航空機修理工場も経営した
    • [48]天津・上海・青島・南京など中国各地に支店出張所を設置・拡張し、天津では内地から捺染・染色設備を移送して加工を営んだ
    • [49]1943年5月に商号を伊藤萬へ変更した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [32]問屋の地盤強化には原料・糸・織物・加工・製品まで一貫性のある経営方針が必要との判断から宮川モスリンを創設した
    • [33]宮川モスリンは加工問屋が経営する生産会社として業界の発展に貢献した
    • [35]本染め友禅は機械捺染に圧倒されると判断し、1923年に和歌山へ専属捺染工場を創立した
    • [36]モスリン友禅の将来の発展性を洞察したうえで和歌山に専属捺染工場を創立した
    • [37]一連の生産会社の経営は、今日でいうコンバーター機能を発揮するものであった
    • [39]創業50周年にあたる1933年、本町4丁目角に地上7階地下2階の社屋が完成し移転した
    • [41]天然繊維に代わる合成繊維の将来を見越し、当時の金で30万円を京都帝国大学へ寄付した
    • [42]寄付を基金として1936年に京都帝国大学内へ財団法人日本化学繊維研究所が設立された
    • [43]日本化学繊維研究所で発明された京大合成一号が、のちのビニロンである
    • [50]1943年に社名を伊藤萬株式会社へ変更した

第2章 1946年〜 専門商社化と非繊維への多角化伊藤良三の上場から伊藤寛の「スコープ」へ

1946年〜統制下の商品構成の入れ替えと株式公開

1946年5月、伊藤萬は経営の合理化に踏み切り、二代目社長の伊藤萬助氏は会長へ移った。社長の席は伊藤良三氏が継いだ。新しい体制が受け取ったのは、繊維品の配給が統制されたままの商権である。繊維だけでは収支が合わず、薬品・化粧品・電気機具・食料品を脇の商材として扱い、利益をつないだ。品目を入れ替えて凌ぐやり方は戦中から続き、太平洋戦争期にも内需向けの繊維が細るたびに薬品や食料品、雑貨へ商いを移していた。本町四丁目の本社社屋も駐留軍に押さえられたままで、商権と拠点のどちらも戦前の形には戻らなかった。統制が解けるまでの数年を、繊維以外の商品で食い繋ぐ会社だった。

  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [51]1946年5月に経営合理化を行い、伊藤萬助は会長に就任した
    • [53]繊維品が統制下にあり、その取扱のみでは収支が償わないため、薬品・化粧品・電気機具・食料品等の取扱を補助的に行った
    • [54]太平洋戦争期に内需用繊維品の取扱が減少し、取扱商品を薬品・食料品・雑貨等に広げて収益の確保に努めた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [52]1946年に伊藤良三が社長に就任した
    • [55]終戦により本町四丁目の社屋が駐留軍に接収された

商品の組み替えと並行して、販売の網を張り直した。支店と出張所は東京・名古屋・福井・神戸・小樽・新潟・松山・福岡・足利などへ置かれた。繊維品の統制は1948年6月以降に解かれ、続いて朝鮮動乱が起きると収益は大きく伸びた。動乱が収まって繊維相場は暴落したが、被った損害は小さかった。取扱いも戦前の織物中心から外れ、棉花や羊毛、穀類、機械といった諸物資にまで及んだ。輸出は1949年の民間貿易再開から伸び、インドネシアとパキスタン向けが量の中心を占め、ニューヨークやバンコクにも出張所を構えた。統制という供給の制約が解けたとき、広げておいた商品と拠点がそのまま収益の受け皿になった。

  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [56]戦後に東京・名古屋・福井・神戸・小樽・新潟・松山・福岡・足利等へ支店出張所を開設した
    • [57]1948年6月以降の繊維品の統制解除と朝鮮動乱の勃発により高収益をあげた
    • [58]朝鮮動乱後の繊維相場暴落による損害は軽微にとどまった
    • [60]1949年の民間貿易再開以来、輸出はインドネシア・パキスタン向けが大きな比重を占め、ニューヨーク・バンコックほかに出張所を設けていた
  • 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
    • [59]戦後は棉花・羊毛・穀類・機械その他の諸物資の取扱いも行うに至った

戦後の収益は資本の性格を変えた。1949年、資本金を5,000万円へ引き上げ、株式を市場へ出した。上場は同じ年の12月だった。1951年1月には公募を併せ、資本金を1億円へ倍にした。本社社屋の接収は1952年9月に解かれ、資本金は1953年6月に3億円へ達した。1955年に名乗った事業は、貿易と繊維品の問屋の二つだった。創業家が抱え込む商店から、増資を重ねて外部の資本を迎える公開会社へ、金の出どころが移った。1956年4月には吹田商事を合併し、貿易の部門を厚くした。大正期の羽州洋行以来の輸出の系譜を、自前の育成ではなく他社の取り込みで太らせる選択だった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [61]1949年に資本金5,000万円に増資し、株式を公開した
  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [62]伊藤萬の株式上場は1949年12月であった
  • 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
    • [63]1951年1月に資本金を5,000万円から1億円へ増資し、1対1の割当のほかに公募を行った
    • [67]1956年4月1日に吹田商事を合併し、貿易部門の強化をはかった
  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [64]1952年9月に進駐軍に接収されていた本社社屋が返還された
    • [65]資本金は累増し、1953年6月に3億円となった
    • [66]1955年時点の事業は貿易および繊維品問屋で、本社は大阪市東区本町4の46にあった
参考文献[51]-[67]
  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
    • [51]1946年5月に経営合理化を行い、伊藤萬助は会長に就任した
    • [53]繊維品が統制下にあり、その取扱のみでは収支が償わないため、薬品・化粧品・電気機具・食料品等の取扱を補助的に行った
    • [54]太平洋戦争期に内需用繊維品の取扱が減少し、取扱商品を薬品・食料品・雑貨等に広げて収益の確保に努めた
    • [56]戦後に東京・名古屋・福井・神戸・小樽・新潟・松山・福岡・足利等へ支店出張所を開設した
    • [57]1948年6月以降の繊維品の統制解除と朝鮮動乱の勃発により高収益をあげた
    • [58]朝鮮動乱後の繊維相場暴落による損害は軽微にとどまった
    • [60]1949年の民間貿易再開以来、輸出はインドネシア・パキスタン向けが大きな比重を占め、ニューヨーク・バンコックほかに出張所を設けていた
    • [64]1952年9月に進駐軍に接収されていた本社社屋が返還された
    • [65]資本金は累増し、1953年6月に3億円となった
    • [66]1955年時点の事業は貿易および繊維品問屋で、本社は大阪市東区本町4の46にあった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [52]1946年に伊藤良三が社長に就任した
    • [55]終戦により本町四丁目の社屋が駐留軍に接収された
    • [61]1949年に資本金5,000万円に増資し、株式を公開した
  • 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
    • [59]戦後は棉花・羊毛・穀類・機械その他の諸物資の取扱いも行うに至った
    • [63]1951年1月に資本金を5,000万円から1億円へ増資し、1対1の割当のほかに公募を行った
    • [67]1956年4月1日に吹田商事を合併し、貿易部門の強化をはかった
  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [62]伊藤萬の株式上場は1949年12月であった

1957年〜加工問屋機能の掘り下げと自社ブランドの内製

1957年12月、伊藤寛氏が四代目の社長に就いた。就任にあたって定めた基本方針は、総合化へ走るのではなく、繊維の加工を担う問屋として専門商社の働きを深める一点に置かれた。原料から糸、織物、加工、製品までを繋ぐ役回りを、規模ではなく機能の深さで守る構えだった。決算は5月と11月の年2回で、1963年11月期の業績は創業以来で最も良かった。翌1964年5月期も前の期並みの見通しで、増資を経ても年1割の配当は保てるとみられた。同じ年の取扱内訳は繊維製品84%・繊維原料8%・非繊維8%、在籍人員は1,473名だった。伊藤家が四代続けて経営を担う同族会社でもあった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [68]1957年12月に伊藤寛が四代目社長に就任した
    • [69]伊藤寛は近代経営を目指す基本方針を制定し、国内・輸出を通じて繊維加工問屋的機能をもった専門商社としての機能の掘下げに全力を集中した
  • 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
    • [70]決算期は5月31日と11月30日で、1963年11月期は創業以来の好成績であった
    • [71]1964年5月期の業績はほぼ前期並みで、増資後も1割配当は安泰と見られていた
    • [72]1964年版の事業内容は繊維製品84%・繊維原料8%・非繊維8%、在籍人員は1,473名であった
  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [73]伊藤萬は創業以来四代続いた同族経営の商社であった

掘り下げは、物流と生産を自ら抱える形で現れた。1961年、日本通運と共同で出資し、伊藤萬運輸を設けた。都心の交通が詰まることを前提に、商品の保管と配送を一社へ集約する狙いだった。同じ年の10月には労働組合も結成された。1963年にはスコープとスコープ編織という直営の工場を二つ構え、自社ブランド「スコープ」の品をここで作った。仕入れた品を回すだけの問屋から、縫製の工程を抱える側へ踏み出したことになる。1964年の時点で、縫製を担う系列会社の工場は、販売と加工の系列を固める投資に数えられた。全国に張った販売の網と、企画から加工までを自ら担う力量が、当時の評価を支えた。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [74]1961年に都心部の交通難を見越し、商品管理の合理化のため日本通運との共同投資により伊藤萬運輸を設立した
    • [75]伊藤萬運輸の設立目的は都心部の交通難を見越した商品管理の合理化であった
    • [77]1963年にスコープおよびスコープ編織の直営二工場を設立し、「スコープ」ブランドの特選商品の生産を行った
  • 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
    • [76]労働組合は1961年10月に単組として結成された
    • [78]系列の縫製専門会社「スコープ」の工場建設など、販売・加工系列の強化に力を注いでいた
    • [79]繊維製品の強固な全国的販売網と企画・加工の優秀性を誇る商社と評された

素材と意匠の側にも手が伸びた。デザイン部を広げ、1964年には開発加工部を新たに置いた。素材メーカーと組み、素材そのものの開発から加工の技術まで、工程をまたいで一つの政策として扱った。写真の柄を布へ移す技術は1965年、大日本印刷と手を組んで作り上げ、市販に移した。貿易でもオーストラリア、アメリカ、西独に現地法人を置いた。投資を支えたのは増資で、1964年4月に資本金を12億円から24億円へ倍にした。株主には大正海上火災保険・住友銀行・東洋信託銀行が並び、日清紡績・東洋紡績・帝人という取引先の紡績と化繊の各社も上位に入った。取引銀行は住友、三菱、富士以下の十六行に及んだ。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [80]デザイン部の拡充強化とともに、1964年に開発加工部を新設した
    • [81]素材メーカーとタイアップし、素材開発から加工技術の向上まで一貫した加工政策を展開した
    • [82]1965年に大日本印刷との技術提携による写真プリントの開発に成功し、市販を開始した
    • [83]オーストラリア・アメリカ・西独などに現地法人を設立し、貿易部門の拡大をはかった
  • 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
    • [84]1964年4月に資本金を12億円から24億円へ1対1の割当で増資した
    • [85]1964年1月末現在の大株主は大正海上火災保険・住友銀行・東洋信託銀行・日清紡績・東洋紡績・帝人などであった
    • [86]取引銀行は住友・三菱・富士・第一・東銀・勧銀ほか十六行であった
参考文献[68]-[86]
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [68]1957年12月に伊藤寛が四代目社長に就任した
    • [69]伊藤寛は近代経営を目指す基本方針を制定し、国内・輸出を通じて繊維加工問屋的機能をもった専門商社としての機能の掘下げに全力を集中した
    • [74]1961年に都心部の交通難を見越し、商品管理の合理化のため日本通運との共同投資により伊藤萬運輸を設立した
    • [75]伊藤萬運輸の設立目的は都心部の交通難を見越した商品管理の合理化であった
    • [77]1963年にスコープおよびスコープ編織の直営二工場を設立し、「スコープ」ブランドの特選商品の生産を行った
    • [80]デザイン部の拡充強化とともに、1964年に開発加工部を新設した
    • [81]素材メーカーとタイアップし、素材開発から加工技術の向上まで一貫した加工政策を展開した
    • [82]1965年に大日本印刷との技術提携による写真プリントの開発に成功し、市販を開始した
    • [83]オーストラリア・アメリカ・西独などに現地法人を設立し、貿易部門の拡大をはかった
  • 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
    • [70]決算期は5月31日と11月30日で、1963年11月期は創業以来の好成績であった
    • [71]1964年5月期の業績はほぼ前期並みで、増資後も1割配当は安泰と見られていた
    • [72]1964年版の事業内容は繊維製品84%・繊維原料8%・非繊維8%、在籍人員は1,473名であった
    • [76]労働組合は1961年10月に単組として結成された
    • [78]系列の縫製専門会社「スコープ」の工場建設など、販売・加工系列の強化に力を注いでいた
    • [79]繊維製品の強固な全国的販売網と企画・加工の優秀性を誇る商社と評された
    • [84]1964年4月に資本金を12億円から24億円へ1対1の割当で増資した
    • [85]1964年1月末現在の大株主は大正海上火災保険・住友銀行・東洋信託銀行・日清紡績・東洋紡績・帝人などであった
    • [86]取引銀行は住友・三菱・富士・第一・東銀・勧銀ほか十六行であった
  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [73]伊藤萬は創業以来四代続いた同族経営の商社であった

1962年〜非繊維への多角化と石油ショックによる無配転落

1962年からは繊維以外の部門が広げられ、繊維原料や化成品、食肉へ資源が向かった。1968年の資本金は24億円、従業員は1,600名、年間の売上高は約900億円に達した。内訳は繊維製品80%・繊維原料10%・非繊維10%だった。扱いが伸びたのは輸入の食肉、林業、建築機械である。食肉では海外に牧場を持ち、牛肉と豚肉を自ら開発して輸入する段階まで進んだ。1969年11月期は増収が11%にとどまる一方、利益は69%増えた。売上の内訳は繊維製品74%・繊維原料7%・非繊維19%へ移り、経営刷新の3か年計画が走っていた。繊維の商社が、繊維以外で稼ぐ割合をわずか数年で倍近くへ引き上げたことになる。

  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [87]1962年以降から非繊維部門の拡充強化を図り、繊維原料・化成品・食肉部門にも力を入れた
    • [91]食品部門では海外の牧場経営による牛肉および豚肉の開発輸入を推進していた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [88]1968年時点の資本金は24億円、従業員は1,600名、年間売上高は約900億円であった
    • [89]1968年時点の売上内訳は繊維製品80%・繊維原料10%・非繊維10%であった
    • [90]非繊維部門において輸入食肉・林業・建築機械などの特殊分野で着実に拡大しつつあった
  • 日本企業要覧 1970年版「イトマン」
    • [92]1969年11月期は11%の増収ながら体質改善の効果が表面化し69%の大幅増益となった
    • [93]1970年版の事業内容は繊維製品74%・繊維原料7%・非繊維19%で、経営刷新3ケ年計画を推進中であった

多角化は繊維の外へ出る速度を上げた。1970年5月期は春夏物が中心で商品1点あたりの単価が低く、業績は落ちた。売上高は480億円、純利益は1億1,000万円の見込みで、配当は年6分のまま据え置かれた。1971年には不動産へ参入したが、投じた額は30億円前後にとどまった。1972年度から決算の期を9月の年1回へ改め、機械や化成品、食糧、インテリア、不動産まで手を伸ばして総合商社への脱皮を掲げた。頂点は1973年9月期だった。期の変更で10か月の変則決算ながら、売上高は約1,794億円、税引後の利益は6億5,000万円に届いた。創業90周年として、年1割の普通配当に記念の2分を上乗せした。経常利益は21億900万円だった。

  • 日本企業要覧 1970年版「イトマン」
    • [94]1970年5月期は単価の低い春夏物のため業績が低下する見通しであった
    • [95]1970年5月期は売上高480億円・純利益1億1,000万円見当で、配当年6分は据え置きの見通しであった
  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [96]1971年から始めた不動産部門の投資は30億円前後にとどまった
    • [101]1973年9月期の経常利益は21億900万円で、これが業績のピークであった
  • 日本企業要覧 1974年版「イトマン」
    • [97]1972年度より決算期を9月(年1回)に変更した
    • [98]機械・化成品・食糧・インテリアおよび不動産部門など多角化をめざし、総合商社への脱皮をはかった
    • [99]1973年9月期(10ヶ月決算)の売上高は約1,794億円、税引後利益は6億5,000万円であった
    • [100]1973年9月期の配当は普通年1割に記念2分を付けたものであった

1973年の石油ショックが起きると、続くインフレと不況のなかで繊維の市況は崩れた。物価が急騰する局面で、繊維の製品を買い込み、精肉を輸入しすぎ、不動産では土地を買い集めた。中堅の商社の体力では、その反動を吸収しきれなかった。売上の7割近くはなお繊維で、その不振がそのまま全体を押し下げた。1974年9月期の経常利益は3億5,700万円へ落ちた。翌期の繊維部門は在庫の整理に手を取られて15%近い減収となり、処分の損は48億円に達した。有価証券と名古屋支店の処分益21億5,000万円を営業外に立てても、経常は44億7,300万円の欠損だった。最終の損益は約45億円の赤字に沈み、配当は8分から無配へ転じた。1949年12月の上場から数えて初めての無配だった。

  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [102]1973年の石油ショック後のインフレと不況により繊維市況が悪化した
    • [105]事業の7割近くを占める本業の繊維が不振に陥り、立て直しがきかなくなった
    • [106]1974年9月期の経常利益は3億5,700万円であった
    • [107]1975年9月期は繊維部門が在庫調整に追われて15%近い減収となり、繊維の処分損は48億円にのぼった
    • [108]1975年9月期は有価証券と名古屋支店の処分益21億5,000万円を営業外に計上した上で経常44億7,300万円の欠損となった
    • [109]1975年9月期は約45億円の赤字を計上した
    • [111]1949年12月の上場以来初の無配転落であった
  • マネジメント 1978年 勝田健
    • [103]1973年の石油ショック時の狂乱物価のあおりで繊維製品の過剰仕入れ・精肉の過剰輸入・不動産部門の土地買いに走った
    • [104]中堅商社であったため、過剰仕入れと過剰輸入の反動をもろに受けた
    • [110]1975年9月に、それまでの8分配当から無配に転落した
参考文献[87]-[111]
  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [87]1962年以降から非繊維部門の拡充強化を図り、繊維原料・化成品・食肉部門にも力を入れた
    • [91]食品部門では海外の牧場経営による牛肉および豚肉の開発輸入を推進していた
    • [96]1971年から始めた不動産部門の投資は30億円前後にとどまった
    • [101]1973年9月期の経常利益は21億900万円で、これが業績のピークであった
    • [102]1973年の石油ショック後のインフレと不況により繊維市況が悪化した
    • [105]事業の7割近くを占める本業の繊維が不振に陥り、立て直しがきかなくなった
    • [106]1974年9月期の経常利益は3億5,700万円であった
    • [107]1975年9月期は繊維部門が在庫調整に追われて15%近い減収となり、繊維の処分損は48億円にのぼった
    • [108]1975年9月期は有価証券と名古屋支店の処分益21億5,000万円を営業外に計上した上で経常44億7,300万円の欠損となった
    • [109]1975年9月期は約45億円の赤字を計上した
    • [111]1949年12月の上場以来初の無配転落であった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
    • [88]1968年時点の資本金は24億円、従業員は1,600名、年間売上高は約900億円であった
    • [89]1968年時点の売上内訳は繊維製品80%・繊維原料10%・非繊維10%であった
    • [90]非繊維部門において輸入食肉・林業・建築機械などの特殊分野で着実に拡大しつつあった
  • 日本企業要覧 1970年版「イトマン」
    • [92]1969年11月期は11%の増収ながら体質改善の効果が表面化し69%の大幅増益となった
    • [93]1970年版の事業内容は繊維製品74%・繊維原料7%・非繊維19%で、経営刷新3ケ年計画を推進中であった
    • [94]1970年5月期は単価の低い春夏物のため業績が低下する見通しであった
    • [95]1970年5月期は売上高480億円・純利益1億1,000万円見当で、配当年6分は据え置きの見通しであった
  • 日本企業要覧 1974年版「イトマン」
    • [97]1972年度より決算期を9月(年1回)に変更した
    • [98]機械・化成品・食糧・インテリアおよび不動産部門など多角化をめざし、総合商社への脱皮をはかった
    • [99]1973年9月期(10ヶ月決算)の売上高は約1,794億円、税引後利益は6億5,000万円であった
    • [100]1973年9月期の配当は普通年1割に記念2分を付けたものであった
  • マネジメント 1978年 勝田健
    • [103]1973年の石油ショック時の狂乱物価のあおりで繊維製品の過剰仕入れ・精肉の過剰輸入・不動産部門の土地買いに走った
    • [104]中堅商社であったため、過剰仕入れと過剰輸入の反動をもろに受けた
    • [110]1975年9月に、それまでの8分配当から無配に転落した

第3章 1975年〜 無配転落からの再建と本業回帰河村良彦の課別損益管理と繊維での収益回復

1975年〜無配転落と住友銀行からの経営者派遣

伊藤萬が1975年9月期に計上した赤字は約45億円に達し、1949年12月の上場以来はじめての無配へ転落した。1973年9月期には創業90周年を記念して年13%の配当を実施し、最終利益も6億5,200万円を計上していた。同じ期に21億900万円あった経常利益は翌期に3億5,700万円へ落ち、二期で欠損へ振れた。原因は本業にあり、繊維の処分損は48億円、経常は44億7,300万円の欠損となった。事業の7割近くを繊維が占めていたため、第1次石油ショック後の市況悪化と高値で買い付けた在庫が、そのまま全社の損益を決めた。売上高は1,800億円まで落ち込み、同じ期の自己資本はマイナス8億3,900万円の欠損に沈んだ。

  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [112]伊藤萬は1975年9月期決算で約45億円の赤字を計上し、1949年12月の上場以来初の無配に転落した
    • [113]1973年9月期は最終利益6億5,200万円、90周年記念で年13%配当と業績のピークだった
    • [114]経常利益は1973年9月期の21億900万円をピークに、1974年9月期は3億5,700万円へ減少した
    • [115]1975年9月期は繊維の処分損が48億円にのぼり、経常では44億7,300万円の欠損となった
    • [116]事業の7割近くを占める本業の繊維が不振に陥り、高値契約で買い付けた在庫が欠損につながった
  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [117]第1次石油ショック当時の売上高は1,800億円程度まで落ち込んでいた
  • 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [118]自己資本は1975年9月期にマイナス8億3,900万円まで落ち込んだ

創業家による経営は、この決算をもって終わった。創業以来4代続いた伊藤寛社長は責任をとり、代表権のない会長へ退いた。後任には、同年5月に住友銀行常務から副社長として入っていた河村良彦氏が昇格した。河村氏は1924年生まれ、1942年に住友銀行へ入り、社長に就いた1975年の時点で51歳だった。栄町・渋谷・銀座の各支店長を経て1973年に取締役、1975年に常務へ上がった営業畑の人物である。河村氏自身も、みずからの着任を銀行が送り込んだ立て直し役と捉えていた。伊藤前社長は、紡績メーカーと銀行の支援で再建計画が動き出したのを見届けて責任をとったと説明した。住友銀行の堀田庄三会長は『伊藤萬が立ち直れば、すぐにも伊藤家に経営は返しますよ』と述べ、経営権の返還を前提にした派遣であることを明らかにした。

  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [119]創業以来4代続いた同族の伊藤寛社長は無配転落の責任をとり、代表権のない会長に退いた
    • [120]後任には1975年5月に住友銀行常務から転出して副社長となっていた河村良彦が昇格した
    • [121]河村良彦は大正13年生まれで昭和17年に住友銀行へ入行し、社長就任時は51歳だった
    • [122]河村良彦は栄町・渋谷・銀座の各支店長を経て昭和48年に取締役、昭和50年に常務となり、住友銀行内でも営業畑に強いと評されていた
    • [124]伊藤寛前社長は、河村良彦が入社後約半年で社内状況を掌握し、再建計画が紡績メーカーと銀行の支援で順調に進んでいるため無配転落の責任をとることにしたと述べた
    • [125]住友銀行の堀田庄三会長は1975年10月26日の朝日新聞で、伊藤萬が立ち直れば経営はすぐにも伊藤家へ返すとコメントした
  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [123]河村良彦は、第1次石油ショックで苦境に陥った同社の経営テコ入れのため銀行から入り社長を引き受けたと述べている

再建策の柱は、人員整理と、審査体制を強めた機構改革、そして子会社の整理統合の三つだった。1975年4月に示した155人の整理案は組合との交渉が進まず女子20名ほどが応じたにとどまり、あらためて男子100人の希望退職を募った。国内に32社あった繊維系の子会社は統廃合にかけ、グループ全体で商品企画を担う形へ寄せる方向が探られた。一方、繊維以外の商品への進出は緩めず、総合商社化の方針そのものは保たれた。河村氏は社長内定の記者会見で、デザイン力と商品企画力は伊藤萬の財産であるとしたうえで、『そして昔の加工問屋に戻れば再建は出来ると思う』と語った。1976年9月期に経常5億円の黒字、翌期の復配を掲げたこの計画は、3カ年で欠損を解消して復配体制へ入る形で実現した。

  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [126]繊維部門を中心とした再建策として、人員整理・審査体制強化を中心とした機構改革・子会社の整理統合が掲げられた
    • [127]1975年4月に発表した155人の人員整理案は組合との話し合いが進まず女子20名ほどが応じただけで、その後あらためて男子100人の希望退職を募集した
    • [128]繊維関連の国内子会社32社を整理統合し、グループ全体としての商品企画機能を高める方針がとられた
    • [129]無配転落後も非繊維部門への進出には依然積極的で、総合商社として確固たるものにしていく決意が示されていた
    • [130]河村良彦は社長内定の記者会見で、伊藤萬の持つデザイン力と商品企画力を財産として挙げた
    • [131]1976年9月期に経常5億円の黒字とし、1977年9月期に復配する計画が示された
  • 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [132]昭和50年の苦境に対し3カ年計画で赤字を解消し、復配体制に入った
参考文献[112]-[132]
  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
    • [112]伊藤萬は1975年9月期決算で約45億円の赤字を計上し、1949年12月の上場以来初の無配に転落した
    • [113]1973年9月期は最終利益6億5,200万円、90周年記念で年13%配当と業績のピークだった
    • [114]経常利益は1973年9月期の21億900万円をピークに、1974年9月期は3億5,700万円へ減少した
    • [115]1975年9月期は繊維の処分損が48億円にのぼり、経常では44億7,300万円の欠損となった
    • [116]事業の7割近くを占める本業の繊維が不振に陥り、高値契約で買い付けた在庫が欠損につながった
    • [119]創業以来4代続いた同族の伊藤寛社長は無配転落の責任をとり、代表権のない会長に退いた
    • [120]後任には1975年5月に住友銀行常務から転出して副社長となっていた河村良彦が昇格した
    • [121]河村良彦は大正13年生まれで昭和17年に住友銀行へ入行し、社長就任時は51歳だった
    • [122]河村良彦は栄町・渋谷・銀座の各支店長を経て昭和48年に取締役、昭和50年に常務となり、住友銀行内でも営業畑に強いと評されていた
    • [124]伊藤寛前社長は、河村良彦が入社後約半年で社内状況を掌握し、再建計画が紡績メーカーと銀行の支援で順調に進んでいるため無配転落の責任をとることにしたと述べた
    • [125]住友銀行の堀田庄三会長は1975年10月26日の朝日新聞で、伊藤萬が立ち直れば経営はすぐにも伊藤家へ返すとコメントした
    • [126]繊維部門を中心とした再建策として、人員整理・審査体制強化を中心とした機構改革・子会社の整理統合が掲げられた
    • [127]1975年4月に発表した155人の人員整理案は組合との話し合いが進まず女子20名ほどが応じただけで、その後あらためて男子100人の希望退職を募集した
    • [128]繊維関連の国内子会社32社を整理統合し、グループ全体としての商品企画機能を高める方針がとられた
    • [129]無配転落後も非繊維部門への進出には依然積極的で、総合商社として確固たるものにしていく決意が示されていた
    • [130]河村良彦は社長内定の記者会見で、伊藤萬の持つデザイン力と商品企画力を財産として挙げた
    • [131]1976年9月期に経常5億円の黒字とし、1977年9月期に復配する計画が示された
  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [117]第1次石油ショック当時の売上高は1,800億円程度まで落ち込んでいた
    • [123]河村良彦は、第1次石油ショックで苦境に陥った同社の経営テコ入れのため銀行から入り社長を引き受けたと述べている
  • 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [118]自己資本は1975年9月期にマイナス8億3,900万円まで落ち込んだ
  • 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [132]昭和50年の苦境に対し3カ年計画で赤字を解消し、復配体制に入った

1979年〜脱繊維を採らず課を最小の損益単位に割る

第1次石油ショックのあと、商社はほとんどが脱繊維へ向かったが、河村氏はその流れに乗らなかった。再建は本業で競争優位を取り戻すほかないと見て、繊維をなお付加価値を積める産業として捉え直した。判断の根拠は産業の重心の置きどころにあった。日本の繊維産業の総売上高は、輸出入を含めて約53兆円に達していた。その内訳は川上の糸と綿が約5%、川中の織物が15%、川下の二次製品が約80%で、付加価値は16倍に開いていた。川上の紡績・合繊メーカーは従業員を半分から3分の1へ減らす減量で収益を保っていた。世間が繊維を斜陽と呼び脱繊維を唱えるあいだも、伊藤萬はそれを採らずに通した。取扱商品に占める繊維の比率は1982年の時点でなお約6割を保っていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [133]第1次石油ショック後、商社はほとんどが脱繊維指向に入った
    • [134]河村良彦は再建のためには本業で勝ち抜くほかないと考え、繊維を収益のあがる成長産業だと結論づけた
    • [135]日本の繊維の総売上高は輸出入を含めて約53兆円に達していた
    • [136]繊維の総売上高の内訳は川上(糸と綿)が約5%、川中(織物)が15%、川下(二次製品)が約80%と川下偏重で、付加価値は16倍あった
    • [137]川上の紡績・合繊メーカーは石油ショック後の減量経営で従業員を半分、ひどいところでは3分の1に減らし、かろうじて収益を維持していた
    • [139]1982年時点で取扱商品に占める繊維の比率は約6割だった
  • 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [138]主力取扱商品の繊維が世間で斜陽といわれ脱繊維が唱えられたが、伊藤萬はそれをやらずにきた

川下の店舗を持たずに川下の需要を取る方法として選ばれたのが、機能の提供だった。伊藤萬が重心を置いたのは、縫製を担う中小メーカーへ織物を流す経路だった。取引先には資金を貸し、販路を紹介し、デザインを持ち込んだ。子会社のイトマンデザインクリエイターズには、デザイナーが約200人いた。自前でデザイナーを採用できない中小アパレルへその機能を代替して提供し、見返りに素材を売り込む経路を作った。河村氏は商社の役割を、消費者の需要を調べ、デザインを専門家に起こさせ、紡織・染色・縫製を手配する取りまとめ役と定義していた。生地は本体が扱い、製品の売上はすべて子会社が立てる分業も敷かれた。1979年には安宅産業の繊維部門を、社員約200人と約1,000億円の商権ごと引き受けた。

  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [140]織物を二次製品のアパレル・メーカーに売り込むことへ重点を置き、二次製品メーカーに対して資金援助・販売あっせん・デザインの協力を進めた
    • [142]デザイナーの採用が難しい中小アパレル・メーカーへ代わってデザイナー機能を提供することで、素材を売り込むことができた
    • [144]伊藤萬本体の取扱いは全部が生地で製品はなく、製品はすべて子会社の売上となっていた
    • [145]1979年に安宅産業の繊維部門(社員200人程度と約1,000億円に及ぶ商権)を引き受けた
  • 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [141]子会社イトマンデザインクリエイターズは約200人のデザイナーを擁していた
    • [143]河村良彦は、商社が消費者のニーズを調べ、デザインを専門家にやらせ、紡織・染色・縫製をアレンジするオルガナイザーの機能を発揮する体制を目指すとした

収益の回復を支えたのは、損益を数える単位の作り替えだった。就任時に1,500人近くいた従業員は1982年に約1,300人へ減ったが、売上高は1,800億円から約4,500億円へ伸びた。コンピュータの導入で管理は一カ所へ集まり、営業は自ら資料を作らなくなっていた。河村氏は、そのために季節ごとに動く繊維の商いへ数字が追いつかなくなったと見ていた。そこで管理を本部へ集める方式を改め、管理部門と営業部門の比率を40対60から25対75へ移し、営業の各課に毎日バランスシートを作らせた。100を超える営業の課には売上高ではなく純損益の目標を与え、1課5人前後、10人前後になれば課を分けた。この課別の損益集団は最小戦闘集団と称され、人を増やさず1人当たりの生産性で利益を上げる方針を支えた。

  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [146]従業員は社長就任当時の1,500人近くから1982年には約1,300人へ減ったが、売上高は1,800億円程度から約4,500億円へ増えた
    • [147]コンピューターの導入により管理部門が1カ所に集中し、営業が自分で資料をつくらなくなっていた
    • [148]そのためテンポの速い繊維の商売でシーズンごとの商いについていけない状態に陥っていた
    • [149]集中管理を分散管理に置き換え、管理の仕事を営業部門へ移して営業の各課が毎日バランス・シートをつくるようにした
    • [150]管理部門と営業部門の比率は7年前の40対60から25対75へ変わった
    • [151]営業の課は100以上あり、損益単位を課別に置き換えて売上高ではなく純損益の目標を与え、1つの課は5人前後、10人前後になれば課を分けた
    • [152]課別の損益集団は社内で最小戦闘集団と呼ばれた
  • 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [153]1983年9月期も従業員数は約1,300人で昭和50年ごろとほとんど変わらず、人を増やさず1人当たりの生産性を高めて利益を上げる方針がとられた
参考文献[133]-[153]
  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [133]第1次石油ショック後、商社はほとんどが脱繊維指向に入った
    • [134]河村良彦は再建のためには本業で勝ち抜くほかないと考え、繊維を収益のあがる成長産業だと結論づけた
    • [135]日本の繊維の総売上高は輸出入を含めて約53兆円に達していた
    • [136]繊維の総売上高の内訳は川上(糸と綿)が約5%、川中(織物)が15%、川下(二次製品)が約80%と川下偏重で、付加価値は16倍あった
    • [137]川上の紡績・合繊メーカーは石油ショック後の減量経営で従業員を半分、ひどいところでは3分の1に減らし、かろうじて収益を維持していた
    • [139]1982年時点で取扱商品に占める繊維の比率は約6割だった
    • [140]織物を二次製品のアパレル・メーカーに売り込むことへ重点を置き、二次製品メーカーに対して資金援助・販売あっせん・デザインの協力を進めた
    • [142]デザイナーの採用が難しい中小アパレル・メーカーへ代わってデザイナー機能を提供することで、素材を売り込むことができた
    • [144]伊藤萬本体の取扱いは全部が生地で製品はなく、製品はすべて子会社の売上となっていた
    • [145]1979年に安宅産業の繊維部門(社員200人程度と約1,000億円に及ぶ商権)を引き受けた
    • [146]従業員は社長就任当時の1,500人近くから1982年には約1,300人へ減ったが、売上高は1,800億円程度から約4,500億円へ増えた
    • [147]コンピューターの導入により管理部門が1カ所に集中し、営業が自分で資料をつくらなくなっていた
    • [148]そのためテンポの速い繊維の商売でシーズンごとの商いについていけない状態に陥っていた
    • [149]集中管理を分散管理に置き換え、管理の仕事を営業部門へ移して営業の各課が毎日バランス・シートをつくるようにした
    • [150]管理部門と営業部門の比率は7年前の40対60から25対75へ変わった
    • [151]営業の課は100以上あり、損益単位を課別に置き換えて売上高ではなく純損益の目標を与え、1つの課は5人前後、10人前後になれば課を分けた
    • [152]課別の損益集団は社内で最小戦闘集団と呼ばれた
  • 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [138]主力取扱商品の繊維が世間で斜陽といわれ脱繊維が唱えられたが、伊藤萬はそれをやらずにきた
  • 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [141]子会社イトマンデザインクリエイターズは約200人のデザイナーを擁していた
    • [143]河村良彦は、商社が消費者のニーズを調べ、デザインを専門家にやらせ、紡織・染色・縫製をアレンジするオルガナイザーの機能を発揮する体制を目指すとした
    • [153]1983年9月期も従業員数は約1,300人で昭和50年ごろとほとんど変わらず、人を増やさず1人当たりの生産性を高めて利益を上げる方針がとられた

1983年〜相場の禁止から財務戦略へ傾く経営

相場を張ることは、社内で一切認められなかった。河村氏は相場で損益を作る手法を商社の機能そのものを損なうものと見て、取引をすべてヘッジの形で持たせた。背景には、大阪船場で名を成した五綿八社のうち、八木商店ひとつを残して八社が退出したのは三品相場のためだ、という見方があった。仲間取引も、伝票は膨らむが口銭が薄く一度きりで終わる商いが多いとして、同じく禁じられた。販売先は大手だけでなく中小の小口を重んじ、総合商社が普通は扱わない1枚10万円、5万円の伝票も受けた。社内へ向けては『売ってから買え。これが鉄則だ』という言い方で、在庫を先に抱えない商いが徹底された。この方針は当初、鉄鋼や機械を扱う部門から強い反対を受けた。

  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [154]河村良彦は相場で損益をつくり出すやり方が商社機能の喪失につながると考え、社内で相場をいっさい御法度とし、全部ヘッジという形でやらせた
    • [155]大阪の船場で戦後に隆盛を極めた五綿八社のうち八社が八木商店のみを残すに至ったのは、三品相場を張ったのが原因だった
    • [156]仲間取引は売上高が増えてもマージンの取れない一過性のものが多く安定収益につながらないため、いっさいやらせなかった
    • [157]総合商社では1枚100万円以下の伝票を扱わないのが普通だが、伊藤萬は10万円でも5万円でも扱い、中小企業など小口販売先を特に重視した
  • 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [158]河村良彦は在庫ゼロの方針を推し進め、社内に対して売ってから買うことを鉄則として示した
    • [159]在庫ゼロの方針は当初、素人が何をいうかという反発が強く、特に鉄鋼や機械類を扱う部門から強く反対された

1983年初から、河村氏は課長を直接押さえる方式へ移った。本社の約1,500人は約200の課に分かれており、その課長を毎月ひとりずつ呼び、前月までの数字と当期の着地見込みを直接聴き取った。社内でトップ・ヒアリングと呼ばれたこの場では、部長と本部長は同席こそ許されたが、発言は原則として認められなかった。河村氏は抽象的な話を避けて数字へ絞り込み、在庫と売掛金を残さない姿勢を課長ごとに確かめた。損益は商品ではなく販売先ごとに見るものとされ、大企業なら必ず儲かるという前提も採らなかった。運営の要点は『生きている細胞には目をかけるな。それよりも死にかけた細胞の活性化が大事である』という言葉に置かれ、伸びる課ではなく沈みかけた課へ手をかけることが経営の仕事とされた。

  • 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [160]昭和58年初から、本社の約1,500人を約200の課に分け、その課長を毎月個々に呼んで前月の実績・当月の見通し・期中の決算予想を聴取した
    • [161]社内でトップ・ヒアリングと呼ばれたこの聴取では、部長・本部長は横にいるだけで発言は原則として一切許されなかった
    • [162]トップ・ヒアリングでは抽象的な話を避けて数字に絞り込み、在庫と売掛金は絶対に残さないという経営の基本姿勢を貫いた
    • [164]河村良彦は、良い課は放っておいても伸びるため、死にかけた課の活性化こそ大きな仕事だとする方針をとった
  • 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [163]河村良彦は商品による損益ではなく販売先別の損益管理を重視し、大企業なら必ずもうかるわけではないとして中小企業との商売にも利益を見た

1984年9月期の売上高は5,628億7,700万円で、前期比18.8%増となった。経常利益は45億5,000万円、当期利益は20億7,800万円である。1975年9月期にマイナス8億3,900万円だった自己資本は、九期の蓄積と増資・転換社債の発行で204億9,200万円まで戻った。河村氏が掲げた『商品によって差がつくものではなく、格差は経営力によってでてくるもの』という経営理念は、繊維から離れずに立て直した九年を説明する言葉だった。もっとも次に据えられた軸は、商いではなく財務だった。河村氏は、企業を測る物差しが規模から収益へ移ると読んでいた。自己資本を厚くして借入を圧縮し、浮いた資金の運用益を稼ぐ財務戦略が、経営の大きな柱に置かれた。非繊維では石油の販売や長谷川工務店と組んだマンション販売も動き、支払利息を受取利息が上回りはじめていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [165]昭和59年9月期の売上高は5,628億7,700万円で前期比18.8%増だった
    • [166]昭和59年9月期の経常利益は45億5,000万円(前期比13.2%増)、当期利益は20億7,800万円(同34.5%増)だった
    • [167]昭和50年9月期にマイナス8億3,900万円だった自己資本は、その後9年間の利益蓄積により昭和59年9月期に204億9,200万円となった
    • [168]17年間増資をしなかった過小資本の状態から、思い切った増資や転換社債の発行によって自己資本を積み上げた
    • [169]河村良彦は脱繊維を採らなかった理由として、商品ではなく経営力が格差を生むという経営理念を挙げた
    • [170]河村良彦は、これからは売上高ではなく収益が企業評価の基準になると述べ、財務戦略がこれからの大きな経営の柱になるとした
    • [171]具体策として、自己資本を充実して借入金をできるだけ減らし支払い利息を圧縮するだけでなく、余裕資金を有利に運用して金利収入の増加を図ることが挙げられた
    • [173]借入金は多いものの、支払い利息を受け取り利息が上回る状態になってきた
  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [172]非繊維部門では石油の販売と、長谷川工務店と組んだマンション販売を手がけていた
参考文献[154]-[173]
  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [154]河村良彦は相場で損益をつくり出すやり方が商社機能の喪失につながると考え、社内で相場をいっさい御法度とし、全部ヘッジという形でやらせた
    • [155]大阪の船場で戦後に隆盛を極めた五綿八社のうち八社が八木商店のみを残すに至ったのは、三品相場を張ったのが原因だった
    • [156]仲間取引は売上高が増えてもマージンの取れない一過性のものが多く安定収益につながらないため、いっさいやらせなかった
    • [157]総合商社では1枚100万円以下の伝票を扱わないのが普通だが、伊藤萬は10万円でも5万円でも扱い、中小企業など小口販売先を特に重視した
    • [172]非繊維部門では石油の販売と、長谷川工務店と組んだマンション販売を手がけていた
  • 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [158]河村良彦は在庫ゼロの方針を推し進め、社内に対して売ってから買うことを鉄則として示した
    • [159]在庫ゼロの方針は当初、素人が何をいうかという反発が強く、特に鉄鋼や機械類を扱う部門から強く反対された
    • [163]河村良彦は商品による損益ではなく販売先別の損益管理を重視し、大企業なら必ずもうかるわけではないとして中小企業との商売にも利益を見た
  • 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
    • [160]昭和58年初から、本社の約1,500人を約200の課に分け、その課長を毎月個々に呼んで前月の実績・当月の見通し・期中の決算予想を聴取した
    • [161]社内でトップ・ヒアリングと呼ばれたこの聴取では、部長・本部長は横にいるだけで発言は原則として一切許されなかった
    • [162]トップ・ヒアリングでは抽象的な話を避けて数字に絞り込み、在庫と売掛金は絶対に残さないという経営の基本姿勢を貫いた
    • [164]河村良彦は、良い課は放っておいても伸びるため、死にかけた課の活性化こそ大きな仕事だとする方針をとった
    • [165]昭和59年9月期の売上高は5,628億7,700万円で前期比18.8%増だった
    • [166]昭和59年9月期の経常利益は45億5,000万円(前期比13.2%増)、当期利益は20億7,800万円(同34.5%増)だった
    • [167]昭和50年9月期にマイナス8億3,900万円だった自己資本は、その後9年間の利益蓄積により昭和59年9月期に204億9,200万円となった
    • [168]17年間増資をしなかった過小資本の状態から、思い切った増資や転換社債の発行によって自己資本を積み上げた
    • [169]河村良彦は脱繊維を採らなかった理由として、商品ではなく経営力が格差を生むという経営理念を挙げた
    • [170]河村良彦は、これからは売上高ではなく収益が企業評価の基準になると述べ、財務戦略がこれからの大きな経営の柱になるとした
    • [171]具体策として、自己資本を充実して借入金をできるだけ減らし支払い利息を圧縮するだけでなく、余裕資金を有利に運用して金利収入の増加を図ることが挙げられた
    • [173]借入金は多いものの、支払い利息を受け取り利息が上回る状態になってきた

第4章 1990年〜 不動産投融資の膨張と消滅イトマン事件の露見と住金物産への吸収合併

1990年〜3年で1兆3514億円へ膨らんだ不動産投融資

伊藤萬を率いた河村良彦氏は、1975年に住友銀行の常務から移ってきた銀行出身の経営者だった。立て直しの手は資金繰りの管理で、売り先が決まってからメーカーへ注文を出す方式に改め、在庫の金利負担を削った。ただ、繊維や食品の流通をその方式で回しても取扱高は伸びず、中堅の商社という位置から動けなかった。河村氏が次に選んだのは、1985年に始まった不動産の高騰局面を使って会社を一気に大きくする道だった。まず強めたのが、不動産を担保に取る金融である。担い手は子会社のイトマンファイナンスで、関西の地銀や住友銀行から案件の情報を得ながら、銀行本体では取れない危険度の融資を引き受けた。銀行出身の社長にとって、もっとも扱い慣れた商品はカネだった。

  • 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
    • [174]河村良彦氏は住友銀行常務から1975年に伊藤萬へ転出し、社長として住銀と一体で不動産関連の投融資を拡大した
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
    • [175]経営不振の伊藤萬が立ち直った理由は、バンカー出身の河村社長が資金管理を徹底し、受注してからメーカーへ発注することで在庫金利を圧縮した点にある
    • [176]その手法で繊維・食品などの物資流通を手掛けても扱い量は増えず、中堅商社の枠から抜け出せなかった
    • [177]河村社長は1985年から始まった不動産ブームに乗じて伊藤萬を急成長させることに取り組んだ
    • [178]てっとり早いのは不動産担保ローン、すなわちノンバンク事業の強化で、カネを扱い慣れたバンカー出身社長にとって自然な発想だった
    • [179]古巣の住友銀行や関西の地銀と情報交換を密にし、銀行が貸せないハイリスクの部分をイトマンファイナンスが請け負って融資する事業を立ち上げた

不動産事業は、元手も実績も無いところから立ち上がった。出発点は1988年末、ワンルーム型マンションの分譲で伸びた杉山商事の引き取りだった。主力取引銀行が同じ住友銀行で、頼まれて買い取り、立て直しまで引き受けた。これを機に伊藤萬は、衣・食・住・遊を束ねる総合化の路線を掲げた。1989年には用地の買い集めを任せていた慶屋との訴訟が和解し、買い集め途中の東京・南青山と、三重県の奥志摩のリゾート用地が伊藤萬の手に移った。1990年2月には雅叙園観光へ資本を入れ、株式の取得額は108億円に上った。連結の売上高に不動産関連が占める比率は3年で3割へ届き、回転の速い分譲と回収の長い賃貸を並行して起こした商社はほかに無かった。この進出には、当時の副社長3人が揃って反対したという。

  • 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
    • [180]伊藤萬の不動産事業はほとんどゼロの状態から、わずか3年で一気に拡大した
    • [181]1988年末、経営危機に陥ったワンルームマンション大手の杉山商事を買い取った
    • [182]杉山商事の買収は同社のメーンバンクでもあった住友銀行の要請に応じたもので、伊藤萬は再建に乗り出した
    • [184]1989年に慶屋との訴訟が和解し、伊藤萬は地上げなかばの南青山の土地と奥志摩のリゾート用地を取得した
    • [186]連結ベースの不動産関連売上構成比は3割に達し、足の短い分譲と足の長い賃貸を同時に立ち上げたのは伊藤萬くらいだった
  • 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
    • [183]杉山商事の引き取りを機に伊藤萬は「衣・食・住・遊」の総合化路線を打ち出し、不動産事業へ進出した
    • [185]1990年2月に経営参加した雅叙園観光の株式は取得総額108億円
  • 日経ビジネス 1991年6月10日号(日経BP)
    • [187]不動産事業への進出には当時の3人の副社長が全員反対したが、河村社長は聞き入れなかったと生え抜き役員が証言した

グループが不動産と証券へ投じた資金は、1988年3月末に6201億円、1990年3月末に1兆1073億円、同年6月末に1兆3514億円と積み上がった。伊藤萬やイトマンファイナンスなど中核4社の借入金も、8160億円から1兆1253億円へ増えた。伸びた分は主に信託銀行と地方銀行の貸し出しで、住友銀行が占める比率は17%を切るところまで下がっていた。1990年3月末には、大蔵省が不動産業界向けの貸出総量に19年ぶりの規制を掛けた。続く5月24日の朝刊1面には、住友銀行が伊藤萬の土地がらみ債務の圧縮へ踏み切る意向を固めたという報道が載り、伊藤萬の首脳はこれに衝撃を受けた。銀行側で融資を審査する担当者たちの間には、この膨張を理由に3年ほど前から懸念が残っていた。

  • 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
    • [188]伊藤萬グループの不動産・証券投融資は1988年3月6201億円、1990年3月1兆1073億円、1990年6月1兆3514億円
    • [189]中核4社は伊藤萬・イトマンファイナンス・伊藤萬不動産販売・イトマントータルハウジングで、その借入金合計は8160億円から1兆1253億円へ増えた
    • [190]1990年前半に増えたのは信託銀行や地方銀行からの借り入れで、住友銀行の融資シェアは17%弱にまで低下した
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
    • [191]1990年3月末、大蔵省は不動産業に対する融資総量規制を19年ぶりに実施した
    • [192]1990年5月24日の日本経済新聞朝刊1面が、住友銀行が伊藤萬の土地債務圧縮に踏み切る意向を固めたと報じ、伊藤萬首脳に衝撃を与えた
  • 日経ビジネス 1991年4月1日号(日経BP)
    • [193]1988年から始まった連結ベースの借入金と不動産関連貸付金の急膨張が異常だったため、3年ほど前から取引金融機関の審査担当者の間に伊藤萬の経営状態への懸念がくすぶっていた
参考文献[174]-[193]
  • 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
    • [174]河村良彦氏は住友銀行常務から1975年に伊藤萬へ転出し、社長として住銀と一体で不動産関連の投融資を拡大した
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
    • [175]経営不振の伊藤萬が立ち直った理由は、バンカー出身の河村社長が資金管理を徹底し、受注してからメーカーへ発注することで在庫金利を圧縮した点にある
    • [176]その手法で繊維・食品などの物資流通を手掛けても扱い量は増えず、中堅商社の枠から抜け出せなかった
    • [177]河村社長は1985年から始まった不動産ブームに乗じて伊藤萬を急成長させることに取り組んだ
    • [178]てっとり早いのは不動産担保ローン、すなわちノンバンク事業の強化で、カネを扱い慣れたバンカー出身社長にとって自然な発想だった
    • [179]古巣の住友銀行や関西の地銀と情報交換を密にし、銀行が貸せないハイリスクの部分をイトマンファイナンスが請け負って融資する事業を立ち上げた
    • [180]伊藤萬の不動産事業はほとんどゼロの状態から、わずか3年で一気に拡大した
    • [181]1988年末、経営危機に陥ったワンルームマンション大手の杉山商事を買い取った
    • [182]杉山商事の買収は同社のメーンバンクでもあった住友銀行の要請に応じたもので、伊藤萬は再建に乗り出した
    • [184]1989年に慶屋との訴訟が和解し、伊藤萬は地上げなかばの南青山の土地と奥志摩のリゾート用地を取得した
    • [186]連結ベースの不動産関連売上構成比は3割に達し、足の短い分譲と足の長い賃貸を同時に立ち上げたのは伊藤萬くらいだった
    • [191]1990年3月末、大蔵省は不動産業に対する融資総量規制を19年ぶりに実施した
    • [192]1990年5月24日の日本経済新聞朝刊1面が、住友銀行が伊藤萬の土地債務圧縮に踏み切る意向を固めたと報じ、伊藤萬首脳に衝撃を与えた
  • 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
    • [183]杉山商事の引き取りを機に伊藤萬は「衣・食・住・遊」の総合化路線を打ち出し、不動産事業へ進出した
    • [185]1990年2月に経営参加した雅叙園観光の株式は取得総額108億円
    • [188]伊藤萬グループの不動産・証券投融資は1988年3月6201億円、1990年3月1兆1073億円、1990年6月1兆3514億円
    • [189]中核4社は伊藤萬・イトマンファイナンス・伊藤萬不動産販売・イトマントータルハウジングで、その借入金合計は8160億円から1兆1253億円へ増えた
    • [190]1990年前半に増えたのは信託銀行や地方銀行からの借り入れで、住友銀行の融資シェアは17%弱にまで低下した
  • 日経ビジネス 1991年6月10日号(日経BP)
    • [187]不動産事業への進出には当時の3人の副社長が全員反対したが、河村社長は聞き入れなかったと生え抜き役員が証言した
  • 日経ビジネス 1991年4月1日号(日経BP)
    • [193]1988年から始まった連結ベースの借入金と不動産関連貸付金の急膨張が異常だったため、3年ほど前から取引金融機関の審査担当者の間に伊藤萬の経営状態への懸念がくすぶっていた

1990年〜従業員一同名義の告発状と7000億円の投融資圧縮

不動産部門の利益がどこで生まれていたのかを疑わせる文書が、1990年9月に出回った。差出人を伊藤萬従業員一同とし、監査に当たる朝日新和会計社へ宛てた、決算を問う告発の書面である。疑いの柱は、不動産と株式とゴルフ会員権を売り買いで回す取引に置かれていた。系列各社や得意先との売買に関連会社をはさんで手数料を取り、本社はそこへ金利を課して利益に振り替えていたという筋立てだった。帳簿の利益は積み上がる一方で、物件の簿価は上がり続け、やがて売却そのものが成り立たなくなる仕組みだった。買い集めが途中の南青山の本社ビル用地は、簿価800億円と実勢の倍近くに膨れていた。開発案件で順調に運んだのは吉祥寺の商業ビルだけで、投融資を本気で縮めれば巨額の赤字が表に出る状態だった。

  • 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
    • [194]1990年9月、伊藤萬の決算に関する告発状が出回った
    • [195]告発状は「伊藤萬従業員一同」の差出人名で、監査を担当する朝日新和会計社へ送られた
    • [196]告発状が指摘した疑惑の中心は、不動産・株式・ゴルフ会員権の転がしに関する疑惑だった
    • [197]グループ内や得意先との間で物件を売買し、間に関連会社を介在させて手数料を吸い上げ、それをさらに本社が金利の形で吸い上げていたという指摘だった
    • [198]この取引形態は高収益につながる一方で資産の簿価は上昇を続け、いずれ処分不能となる
    • [199]地上げ半ばの南青山の本社ビル予定地は簿価800億円と、実勢価格の倍近くに達した
    • [201]伊藤萬は不動産投融資を本格的に圧縮しようとすると大赤字が避けられない状態にあった
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
    • [200]開発案件は吉祥寺の商業ビルを除いてほとんどが難航していた

住友銀行の幹部は1990年9月半ば、投融資の膨らみ方を河村氏へ示し、反省を促した。河村氏は逆に動き、不動産を担当していた住友銀行出身の役員4人を10月1日付で退任させた。11日には記者会見を開き、不動産事業から全面的に退くことと、1年で7000億円の投融資を縮める方針を示した。19日に配った資料は、翌年3月までの回収先を並べていた。459億円を本社の在庫売却で、3932億円を受取手形の期日取り立てで、2546億円を開発に投じた資金の回収で賄う組み立てだった。住友銀行の経営陣は終始反対し、確実な3500億円を先に片づけて残りは時間を掛けよという立場だった。手形の回収は融資先の不動産が買い手を見つけることを前提としており、圧縮の速さは伊藤萬の一存で決まらなかった。

  • 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
    • [202]膨らむ一方の伊藤萬の不動産投融資に業を煮やした住友銀行幹部は、1990年9月半ばにその拡大ぶりを明らかにして反省を促した
    • [203]河村社長は1990年10月1日付で、不動産部門にかかわっていた住友銀行出身の4役員を退任させた
  • 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
    • [204]1990年10月11日の記者会見で河村社長は不動産事業からの完全撤退を宣言し、1年で7000億円の不動産投融資を圧縮する方針を打ち出した
    • [205]1990年10月19日の記者会見で不動産投融資圧縮計画を示した資料が配布され、翌年3月までの圧縮額の内訳が示された
    • [206]内訳は本社在庫の売却で459億円、受取手形の期日回収で3932億円、開発関係資金回収で2546億円、合計7000億円弱
    • [207]磯田一郎会長退陣後の住友銀行経営陣は、まず確実に3500億円分を圧縮し残り半分は気長に処理すべきだとして、この計画に一貫して反対した

住友銀行が退任を求めた相手は、1990年2月に入社して不動産事業の統括に就いた伊藤寿永光氏だった。協和綜合開発研究所の代表取締役を務め、雅叙園観光の株を買い集めた側にいた。伊藤萬が抱える不動産の投融資は、その多くが伊藤氏の関わる案件で占められていた。河村氏は退任を受け入れず、10月11日の会見で『伊藤氏との二人三脚で不動産関連事業の資金回収にあたる』と述べた。この時点で、不動産の中身と資金の出入りを分かっていたのは河村氏と伊藤氏の2人だけという状態に陥っていた。雅叙園観光への出資について、河村氏は『雅叙園の第三者割り当て増資引き受けは伊藤君に対するほんの好意。大したカネじゃない』と説明し、『雅叙園の会社の中身など興味はない』とまで語った。同じ9月には河村氏名義の140億円の手形が、許永中氏を実質の持ち主とされる関西新聞社へ振り出されていた。大阪地方検察庁が河村・伊藤両氏の特別背任容疑で内偵に入ったとも伝えられた。

  • 日経ビジネス 1991年4月1日号(日経BP)
    • [208]伊藤寿永光氏は1990年2月に伊藤萬へ入社し、不動産事業を取り仕切る企画管理本部長に就いた
  • 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
    • [209]住友銀行が解任を要請していると言われた伊藤寿永光常務は、協和綜合開発研究所代表取締役で、雅叙園観光株の買い占めに関わった
    • [211]1990年10月11日の記者会見で河村社長は伊藤常務の解任の意思を示さなかった
    • [212]伊藤萬は不動産の内容や資金の状況を河村社長と伊藤常務の二人しか把握していない状態に陥っていた
  • 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
    • [210]伊藤萬の不動産投融資のかなりの部分は伊藤常務が絡んでいる案件だった
    • [213]河村社長は1990年2月に経営参加した雅叙園観光の株式を最後まで持ち続けると主張し、現在は全くメリットのない投資であることを自ら認めていた
    • [214]1990年9月に河村社長名義で140億円の手形が関西新聞社(本社・大阪)へ振り出され、同社の実質的なオーナーは許永中氏とされた
    • [215]大阪地検が河村・伊藤両氏について特別背任の疑いで内偵を始めたと言われた
参考文献[194]-[215]
  • 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
    • [194]1990年9月、伊藤萬の決算に関する告発状が出回った
    • [195]告発状は「伊藤萬従業員一同」の差出人名で、監査を担当する朝日新和会計社へ送られた
    • [196]告発状が指摘した疑惑の中心は、不動産・株式・ゴルフ会員権の転がしに関する疑惑だった
    • [197]グループ内や得意先との間で物件を売買し、間に関連会社を介在させて手数料を吸い上げ、それをさらに本社が金利の形で吸い上げていたという指摘だった
    • [198]この取引形態は高収益につながる一方で資産の簿価は上昇を続け、いずれ処分不能となる
    • [199]地上げ半ばの南青山の本社ビル予定地は簿価800億円と、実勢価格の倍近くに達した
    • [201]伊藤萬は不動産投融資を本格的に圧縮しようとすると大赤字が避けられない状態にあった
    • [204]1990年10月11日の記者会見で河村社長は不動産事業からの完全撤退を宣言し、1年で7000億円の不動産投融資を圧縮する方針を打ち出した
    • [205]1990年10月19日の記者会見で不動産投融資圧縮計画を示した資料が配布され、翌年3月までの圧縮額の内訳が示された
    • [206]内訳は本社在庫の売却で459億円、受取手形の期日回収で3932億円、開発関係資金回収で2546億円、合計7000億円弱
    • [207]磯田一郎会長退陣後の住友銀行経営陣は、まず確実に3500億円分を圧縮し残り半分は気長に処理すべきだとして、この計画に一貫して反対した
    • [210]伊藤萬の不動産投融資のかなりの部分は伊藤常務が絡んでいる案件だった
    • [213]河村社長は1990年2月に経営参加した雅叙園観光の株式を最後まで持ち続けると主張し、現在は全くメリットのない投資であることを自ら認めていた
    • [214]1990年9月に河村社長名義で140億円の手形が関西新聞社(本社・大阪)へ振り出され、同社の実質的なオーナーは許永中氏とされた
    • [215]大阪地検が河村・伊藤両氏について特別背任の疑いで内偵を始めたと言われた
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
    • [200]開発案件は吉祥寺の商業ビルを除いてほとんどが難航していた
  • 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
    • [202]膨らむ一方の伊藤萬の不動産投融資に業を煮やした住友銀行幹部は、1990年9月半ばにその拡大ぶりを明らかにして反省を促した
    • [203]河村社長は1990年10月1日付で、不動産部門にかかわっていた住友銀行出身の4役員を退任させた
    • [209]住友銀行が解任を要請していると言われた伊藤寿永光常務は、協和綜合開発研究所代表取締役で、雅叙園観光株の買い占めに関わった
    • [211]1990年10月11日の記者会見で河村社長は伊藤常務の解任の意思を示さなかった
    • [212]伊藤萬は不動産の内容や資金の状況を河村社長と伊藤常務の二人しか把握していない状態に陥っていた
  • 日経ビジネス 1991年4月1日号(日経BP)
    • [208]伊藤寿永光氏は1990年2月に伊藤萬へ入社し、不動産事業を取り仕切る企画管理本部長に就いた

1991年〜本業回帰の断念と住金物産への吸収合併

河村良彦氏が解任された後を継ぎ、1991年1月にイトマンの社長へ就いたのが、副社長だった芳村昌一氏だった。1932年に京都府で生まれ、1955年に神戸大学法学部を出て伊藤萬へ入り、食品部長から常務・専務・副社長と上がった。据えた土台は二つで、一つは起こした事件の後始末を最後まで付けることだった。もう一つは、どのような形であれ会社を倒産させず、取引先と社員を混乱に巻き込まないことである。同年8月、大阪地方検察庁特別捜査部は河村氏ら4人を、自社株の取得と特別背任などの商法違反で起訴した。最初に打ったのは本業への回帰で、広げすぎた事業を絞り、繊維と食料、産業機械と物資という得意な4分野へ寄せた。本体と子会社を合わせて負う利子付きの借金は、1兆2000億円に上っていた。

  • 日経ビジネス 1992年10月19日号(日経BP)
    • [216]芳村昌一氏は河村良彦前社長の解任の後を受け、1991年1月にイトマン社長へ就任した
    • [217]芳村昌一氏は1932年京都府生まれ、1955年3月神戸大学法学部卒業後に同年伊藤萬入社。1980年食品部長、1984年常務、1986年専務、1987年副社長を経て1991年1月社長就任
    • [218]芳村社長が就任以来の基本に据えた一つめは、あれだけの事件を起こした以上その後始末をきちんとやることで、事件にかかわる残務整理にまず取り組んだ
    • [219]二つめは社会的混乱を招くことを避けることで、いかなる形であれ倒産はさせないという方針だった
    • [221]自主再建のために打った手はまず本業回帰で、総花的な膨張経営から選択的な均衡経営へ戻し、繊維・食料・産業機械・物資の4分野に事業領域を絞った
    • [222]グループ全体の有利子負債は1兆2000億円と巨額だった
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号(日経BP)
    • [220]大阪地方検察庁特別捜査部は、イトマン前社長の河村良彦容疑者ら4人を自社株取得・特別背任など商法違反の罪で起訴した

自主再建を阻んだのは、子会社のイトマンファイナンスだった。本体から1800億円を直に回したうえ、他行が出した1000億円分にも保証を付けていた。1991年の秋から不動産市況の下落をまともに受け、担保に取った不動産から利息を取り立てられなくなった。支えるために利息を減らし免じた結果、入るはずの資金が途絶え、元本まで戻らない先も出てきた。1992年3月期に累積損失を消す計画は、そこで崩れた。経常利益は見込みの半分ほどで止まった。加えて、許永中氏への200億円の融資で担保としていた鹿児島県のアカラカントリーが競売に掛かり、落札額は15億円にとどまった。このゴルフ場は、伊藤氏が入社して2カ月で200億円を引き出した案件だった。

  • 日経ビジネス 1992年10月19日号(日経BP)
    • [223]イトマンファイナンスは直接子会社としてはスケールが大きすぎ、1991年秋以降の不動産市況悪化の直撃を受けた
    • [224]イトマンはイトマンファイナンスへ直接1800億円を貸し付け、住友銀行以外の各行から受けた融資1000億円にも債務保証していた
    • [225]不動産市況の悪化でイトマンファイナンスは不動産担保融資の金利を徴収できない状態になり、支援のため金利を減免した結果、1991年秋以降は巨額の金利が入らなくなった
    • [226]イトマンファイナンスの融資はすべてと言ってよいほど不動産担保融資で、元本さえ回収の難しいものも出てきた
    • [227]1992年3月期決算で累積損失を一掃する計画が狂った
    • [228]1992年3月期は経常利益が当初計画の半分ほどにしかならなかった
    • [229]許永中氏に対する融資200億円の担保だったアカラカントリー(鹿児島県)が競売にかけられ、15億円で落札された
  • 日経ビジネス 1991年6月10日号(日経BP)
    • [230]鹿児島県日置郡のアカラカントリー倶楽部には、伊藤寿永光氏の入社からわずか2カ月後に200億円が融資された

1992年9月の中間決算では、利息として帳簿に立てられない分が半年で60億円に届き、赤字が動かせなくなった。芳村氏は9月1日に住友銀行の巽外夫頭取を訪ね、合併も選択肢に入れた再建の枠組みが要るとして支援を求めた。7日には西川善文専務の同席で住金物産の山本順英社長と初めて向き合い、鋼材なら商いが重ならないとして、ほぼ話をまとめた。17日に双方が合意し、翌18日に公表した。交換比率は5対1で、およそ1万人の株主に目減りを求める内容だった。その2日後、巽頭取は住友金属工業の新宮康男会長を訪ね、傘下の鉄鋼商社による救済合併への協力を求めている。新宮氏は『分かりました。引き受けましょう。老舗、イトマンが消滅するのは残念ですが、ほかに方法がなければ仕方ありません』と答え、ほぼ即答で引き受けた。1993年4月1日、イトマンは住金物産に吸収され、1883年の創業から110年を数えた名が消えた。芳村氏は『名前にこだわって実体をなくすよりも、名を捨てて実を残すことの方が大事です』と述べた。

  • 日経ビジネス 1992年10月19日号(日経BP)
    • [231]1992年9月中間決算では未収利息としても計上できない金額が上期だけで60億円ほどに達し、赤字決算が避けられない状況になった
    • [232]芳村社長は1992年9月1日に住友銀行の巽外夫頭取と会い、合併を視野に入れた新たな再建対策が必要になったとして支援を求めた
    • [233]1992年9月7日、住友銀行の西川善文専務の立ち会いで住金物産の山本順英社長と初めて会い、鋼材を扱う住金物産とイトマンなら補完的な関係になり合併は双方にメリットがあるとしてほぼ合意に達した
    • [234]1992年9月17日に双方が合意し、イトマンを解散会社とすることや株式の交換比率を9月18日に発表した
    • [235]合併比率は5対1で、イトマンの株主は約1万人だった
    • [238]1993年4月1日付で住金物産と合併し、1883年に創業して110年の歴史を持つイトマンの名前が消えることになった
    • [239]芳村社長は、のれんを守るとは名前を残しながら中身を発展させることだが、今のイトマンにはそれほどの力はないと判断した
  • 日経ビジネス 1993年3月22日号(日経BP)
    • [236]1992年9月3日、住友銀行の巽外夫頭取が住友金属工業本社を訪ね、新宮康男会長にイトマン問題の処理への協力を依頼した。この時点で巽頭取は住金グループの鉄鋼商社である住金物産による救済合併を固めていた
    • [237]新宮康男会長の返事はほとんど即答だったと巽外夫頭取は語っている
参考文献[216]-[239]
  • 日経ビジネス 1992年10月19日号(日経BP)
    • [216]芳村昌一氏は河村良彦前社長の解任の後を受け、1991年1月にイトマン社長へ就任した
    • [217]芳村昌一氏は1932年京都府生まれ、1955年3月神戸大学法学部卒業後に同年伊藤萬入社。1980年食品部長、1984年常務、1986年専務、1987年副社長を経て1991年1月社長就任
    • [218]芳村社長が就任以来の基本に据えた一つめは、あれだけの事件を起こした以上その後始末をきちんとやることで、事件にかかわる残務整理にまず取り組んだ
    • [219]二つめは社会的混乱を招くことを避けることで、いかなる形であれ倒産はさせないという方針だった
    • [221]自主再建のために打った手はまず本業回帰で、総花的な膨張経営から選択的な均衡経営へ戻し、繊維・食料・産業機械・物資の4分野に事業領域を絞った
    • [222]グループ全体の有利子負債は1兆2000億円と巨額だった
    • [223]イトマンファイナンスは直接子会社としてはスケールが大きすぎ、1991年秋以降の不動産市況悪化の直撃を受けた
    • [224]イトマンはイトマンファイナンスへ直接1800億円を貸し付け、住友銀行以外の各行から受けた融資1000億円にも債務保証していた
    • [225]不動産市況の悪化でイトマンファイナンスは不動産担保融資の金利を徴収できない状態になり、支援のため金利を減免した結果、1991年秋以降は巨額の金利が入らなくなった
    • [226]イトマンファイナンスの融資はすべてと言ってよいほど不動産担保融資で、元本さえ回収の難しいものも出てきた
    • [227]1992年3月期決算で累積損失を一掃する計画が狂った
    • [228]1992年3月期は経常利益が当初計画の半分ほどにしかならなかった
    • [229]許永中氏に対する融資200億円の担保だったアカラカントリー(鹿児島県)が競売にかけられ、15億円で落札された
    • [231]1992年9月中間決算では未収利息としても計上できない金額が上期だけで60億円ほどに達し、赤字決算が避けられない状況になった
    • [232]芳村社長は1992年9月1日に住友銀行の巽外夫頭取と会い、合併を視野に入れた新たな再建対策が必要になったとして支援を求めた
    • [233]1992年9月7日、住友銀行の西川善文専務の立ち会いで住金物産の山本順英社長と初めて会い、鋼材を扱う住金物産とイトマンなら補完的な関係になり合併は双方にメリットがあるとしてほぼ合意に達した
    • [234]1992年9月17日に双方が合意し、イトマンを解散会社とすることや株式の交換比率を9月18日に発表した
    • [235]合併比率は5対1で、イトマンの株主は約1万人だった
    • [238]1993年4月1日付で住金物産と合併し、1883年に創業して110年の歴史を持つイトマンの名前が消えることになった
    • [239]芳村社長は、のれんを守るとは名前を残しながら中身を発展させることだが、今のイトマンにはそれほどの力はないと判断した
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号(日経BP)
    • [220]大阪地方検察庁特別捜査部は、イトマン前社長の河村良彦容疑者ら4人を自社株取得・特別背任など商法違反の罪で起訴した
  • 日経ビジネス 1991年6月10日号(日経BP)
    • [230]鹿児島県日置郡のアカラカントリー倶楽部には、伊藤寿永光氏の入社からわずか2カ月後に200億円が融資された
  • 日経ビジネス 1993年3月22日号(日経BP)
    • [236]1992年9月3日、住友銀行の巽外夫頭取が住友金属工業本社を訪ね、新宮康男会長にイトマン問題の処理への協力を依頼した。この時点で巽頭取は住金グループの鉄鋼商社である住金物産による救済合併を固めていた
    • [237]新宮康男会長の返事はほとんど即答だったと巽外夫頭取は語っている

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歴史年表 1883〜1993年

イトマンの沿革1883〜1993年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1883〜1945年洋反物商「羽州屋」の創業から伊藤萬商店の設立、戦時の販売停止まで洋反物商「羽州屋」を大阪・南本町に創業★★
ロンドンからの紅金巾・毛布の直輸入を開始★
朝鮮・台湾・満州に販路を拡張★
輸出部「羽州洋行」を創設★★
伊藤萬商店を設立★★
2代目伊藤萬助氏が社長に就任★
戦後恐慌による大損失と羽州洋行の閉鎖★★
宮川モスリンを設立し生産を開始★★
和歌山に捺染工場となる日本染業を設立★★
本町四丁目に新社屋が竣工★
財団法人日本化学繊維研究所を設立★
七・七禁令による高級絹織物の販売停止★
伊藤萬に商号を変更★★
1946〜1974年伊藤良三の合理化と上場、吹田商事の合併と自社ブランド「スコープ」経営合理化の実施と伊藤良三氏の社長就任★★
繊維品の統制解除★
大阪証券取引所に上場★
進駐軍に接収された本社社屋の返還★
東京証券取引所に上場★
吹田商事の合併による貿易部門の強化★★
伊藤寛氏が社長に就任★★
資本金を12億円に増資★
日本通運との共同出資で伊藤萬運輸を設立★
自社ブランド「スコープ」の生産を開始★
大日本印刷との技術提携による写真プリントの市販★
1975〜1989年上場以来初の無配転落と住友銀行からの河村良彦、繊維外への多角化経常損失66億円の計上と経営危機の表面化★★
住友銀行出身の河村良彦氏が社長に就任★★★
1990〜1993年イトマン事件の露見と住金物産への吸収合併入社4カ月の伊藤寿永光氏を筆頭常務に登用★★
半年で3162億円に及ぶ有利子負債の急増★★
週刊東洋経済の報道によるイトマン事件の表面化★★★
イトマンに商号を変更★★
河村良彦氏の特別背任容疑での逮捕★★
上場廃止★
住金物産への吸収合併による消滅★★★
出典・参考 18件
出典・参考
  • 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
  • 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
  • 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
  • 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
  • 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
  • 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1991年6月10日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1991年4月1日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1992年10月19日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1993年3月22日号(日経BP)
  • 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
  • 日本企業要覧 1970年版「イトマン」
  • 日本企業要覧 1974年版「イトマン」
  • 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
  • マネジメント 1978年 勝田健

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