1858年の通商条約以来、日本の貿易は開港場の居留地で外国商人と日本商人が向き合う商館貿易の形をとった。外商は外国銀行による貿易金融と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握り、治外法権と協定関税がそれを支えた。1881年に原善三郎氏ら生糸売り込み商が横浜へ連合生糸荷預所をつくって商権回復に挑んだときも、外商は預所からの買い付けを拒み、三か月の取引停止のすえ妥協的な条件で決着した。輸入の側でも事情は変わらず、1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功に続いて大規模紡績が相次いで生まれると、原料綿を神戸在留の外国商にたよる紡績業者は、その値決めに従うほかなかった。
日本綿花は、この依存から抜けるためにつくられた綿花輸入機関である。摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり、綿花商などの有力財界人25名が発起人に名を連ねて、1892年11月10日に創立総会を開き、12月1日に開業した。公称資本金は100万円、払込は10万円で、創立事務所は大阪市西区靱北通りに置かれた。社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の合わせて19名という小さな陣容で始まり、第1期決算では9,286円余の純益をあげて1割の配当を行った。会社の側から見れば紡績資本の調達機関であり、紡績の側から見れば自前の輸入部門を切り出したものだった。
開業の直後から中国綿とインド綿の取引に入り、1896年には米国綿の直買を始めた。同じ1896年に綿花輸入税が撤廃されて原綿の海外依存が決定的になり、日本の綿業もここから飛躍する。原料を外国商から買うほかなかった紡績業者に、産地から直に買う経路ができたからである。明治30年代には、世界的に品質のよいエジプト綿の輸入にも手を伸ばした。社名の"日本綿花"は綿花と綿糸布の二つを指しており、事業は原料の輸入だけにとどまらなかった。荷印には日の字を図案化した社章を用い、分銅マークと呼ばれたこの印は、海外では Battle axe の名で通っていた。
1903年、日本綿花は華中と満州への綿糸布輸出に乗り出し、上海支店を開設した。翌1904年には漢口支店を開設し、綿糸布のほかに雑貨類の取り扱いも始めた。この二つの支店では商いだけでなく、繰綿と紡績、それに豆粕・綿実の工場も経営した。1911年には長江一帯へ出張員を配置し、天津と青島にも支店を開設して華北へ進出した。輸入商社として出発した会社が、十年あまりで日本製綿糸布の輸出者となり、さらに現地の加工業者にもなった。日露戦争後の日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出してインド綿糸と争っていた時期で、輸入商社が輸出と現地加工へ広がる順序は、当時の日本の商社に共通していたとみられる。
支店網は中国の外へも伸びた。1906年にニューヨーク出張所、1907年には1897年開設のボンベイ出張所を支店へ昇格させ、綿花の産地と綿製品の市場の双方に拠点を開設した。1916年には南米とビルマへ進出し、羊毛・綿花・米穀の売買と生糸取引に着手した。ニューヨーク支店が扱った生糸は当時の日本の輸出品の筆頭であり、その取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった。原料の輸入だけを目的に生まれた会社が、四半世紀のうちに繊維原料と繊維製品の双方を、地球の半分にまたがって動かす商社になっていた。
第一次大戦の好況が会社の規模を一段と押し上げた。創立25周年にあたる1917年には10割の配当を行い、9月に資本金を5000万円へ増やした。この時期の伸びをつくったのは、創業直後に入社して1917年に社長となった喜多又蔵氏の働きであり、日本綿花は"喜多サンの会社"と呼ばれるまでになった。1920年春にはビルマで精米業に着手し、日本からの輸出だけでなく、米国・インド・中国など海外各店のあいだで完結する第三国間取引にも成果をあげた。欧州にはロンドン・リバプールとドイツのブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを設け、フランスとスペインには代理店を置いて三国貿易にあたらせた。
商いの拡大と並んで、事業会社の設立も続いた。1916年に朝鮮棉花を京城に、1917年に日華製油を漢口に、1920年に東亜製麻を上海に収め、1921年には辻紡績、1924年には漢口の泰安紡績を設立した。満州では協和染織を奉天に、登喜和百貨店を、満洲食品工業をハルピンに擁した。綿花を運ぶ商社から、綿花を紡ぎ、油を搾り、麻を織る会社群の親会社へと広がった20年である。もっとも、この拡大は大戦景気という一時の需要を前提としており、講和後の反動を受け止めるだけの厚みは、まだ会社になかった。
反動は1920年の戦後恐慌から始まり、1923年の関東大震災による被害がそこへ重なった。会社は経営不振に陥り、大戦中に広げた支店網と事業会社を抱えたまま収益の細る時期へ入った。外商から綿花の商権を取り返すという設立の目的そのものは、1896年の綿花輸入税撤廃と原綿の海外依存の確立によって、創立から4年で達せられた。その後に積み上げた華中の工場、欧州の三国貿易、南米の羊毛、ビルマの精米は、いずれも創立時の発起人が想定した業ではない。取り返した商権を元手に何を業とするのかという問いに、会社はまだ答えを出していなかった。
1926年、29歳の野田岩次郎氏が日本綿花に入った。三井物産で国際結婚を認められずに退いたあと、東京海上の平生釟三郎氏が喜多又蔵社長へ直接話をして入社の労をとった経緯である。横浜支店で生糸を学んだ野田氏はまもなくニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学で生糸の生産と鑑定法を半年学んだうえで、全米48州のほとんどを回って売り込みにあたった。それまで生糸の販売は現地のアメリカ人セールスマンに委ねられており、日本人が直接商談に出るのは新しい試みだった。会社を代表する日本人と契約したほうが安心だという空気が客先に生まれるまで、その土地で最も上等なホテルのロビーを商談の場に選び続けた。
1930年、会社は浮沈にかかわる大欠損を出した。日本綿花が立てた再建策は、横浜正金銀行の意向をそのまま受けて海外各支店を閉鎖・縮小するというものだった。これに対して南郷三郎氏だけは、ニューヨーク支店を縮小しても開けておく方針を通し、帰朝中だった野田氏を支店長に登用する案を立てる。二人は伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ね、ニューヨーク支店の存続を願い出た。頭取は閉鎖するのが当たり前かもしれないがやってみたまえと応じ、1931年、34歳の野田氏がニューヨーク支店長に就任した。最大市場の窓口だけは残った。
1932年3月に喜多又蔵社長が世を去り、南郷三郎氏が社長を承継した。ここから経営はようやく軌道に乗る。もっとも、この立て直しは商いの中身を変えたわけではなく、恐慌前に広げた綿花と生糸の商権を、支店網を薄くしながら残したものだった。1930年の欠損が突きつけたのは、綿花輸入の代行に収益を頼る構造では市況の急変を吸収できないという事実である。原料の値が振れれば口銭も振れ、産地と紡績のあいだに立つ会社には逃げ場がない。取扱商品を綿花の外へ広げる作業は、皮肉にも平時ではなく、戦時統制という別の圧力のもとで進んだ。
日華事変の勃発後、繊維品の統制は段階を追って強まった。1939年9月に第二次欧州戦争が起こると、日本の欧州・アフリカおよび近東向け貿易は遮断され、国内でも諸統制令が施行された。それでも日本綿花は海外市場の拡充を続け、1941年6月には潮崎喜八郎氏が社長に就任した。同年末の開戦後も経営は進み、取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範な品目に及んだ。1943年4月、この実態に合わせて社名を日綿實業へ改める。綿花の一語を外した改称は、統制経済のもとで商品構成が綿花から離れていたことの追認であり、資本金も1945年4月に3000万円となった。
終戦とともに在外資産のすべてを失った。上海と漢口の工場、満州の事業会社、欧州と南米の店は一度に消え、会社は国内需給物資の取り扱いで営業をつないだ。敗戦後の2年間、日本に許された貿易は国民が生命をつなぐ食糧の輸入と、その外貨を稼ぐ輸出だけだった。それも政府機関の貿易公団がGHQの監視下で行い、商社は実務の代行を許されたにすぎない。1947年8月に民間貿易が再開されると、日綿實業はただちに旧来の海外取引関係を復活させ、国内取引の整備にも取りかかった。ニューヨーク支店を残した昭和恐慌時の判断が、ここで効いた。
敗戦は業界の順位も入れ替えた。1947年7月、三井物産と三菱商事がGHQの直接指令で解体され、旧社員は100人以上が同じ会社に就職してはならないという徹底した条件が付いた。戦前に日本の貿易の3割近くを占めた二社が消えた空白へ、関西五綿と呼ばれた綿業商社が進み出る。1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠の4.7%を筆頭に日綿實業が4.3%で続き、丸紅と東洋棉花が各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%と関西系が上位を占めた。第一物産は2%台にとどまった。日綿實業がこの時期に業界二番手へ出たのは自力の伸長というより、最大手二社の消滅がつくった順位だった。
1950年6月の朝鮮動乱を機に業績は飛躍的に伸びた。日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから翌年12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ膨らみ、商社の取引量も軒並み急増する。だが1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した。日銀ユーザンス制度を使い備蓄の名目で思惑輸入を重ねていた商社は、ゴム・原皮・油脂原料の新三品だけで176億円の値下がり損を負い、中小商社の倒産が相次いだ。日綿實業も休戦後の反動期に苦境へ立たされた。動乱は綿製品の買い付けを日本へ集中させたぶん、その反転も大きかった。
この危機のあと、政府は1952年から商社強化策を重要施策に据え、輸出所得控除などの税制措置と海外支店設置の助成、輸出入取引法の改正による過当競争の防止を進めた。業界の側でも再編が二つの流れで動き出す。ひとつは関西五綿を主軸とする集中で、専門商社から脱皮して総合商社をめざすもの、もうひとつは旧財閥商社の再統合だった。日綿實業は資本金を1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へと積み増し、1953年には輸出入の5%を取り扱って貿易商社の首位に立った。1951年11月には岡島美行氏が社長となり、1953年8月に中之島の新社屋へ移った。
1954年11月、日綿實業は丸永を吸収合併した。"会社銀行八十年史"(東洋経済新報社、1955年)はこの合併を『商社統合のテスト・ケース』と記している。合併で資本金は4億3000万円となり、1955年8月には10億7500万円まで増えた。1954年の実績は輸出6030万ドル(全国比4.0%)、輸入1億3500万ドル(同6.9%)で、食糧と綿花の輸入では業界の一、二位を占めていた。合併の翌年からは機械・金属の輸出取扱高も急増し、ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を開設した。同種の合併はその後、1955年の丸紅と高島屋飯田、1955年8月の東洋棉花と鐘淵商事へと続き、テスト・ケースという当時の呼び方は結果として正しかった。
戦後の関西五綿は、代理商化した専門商社のままでは取引の妙味が薄れるという事情から多角化を始めた。終戦直後に援助物資の輸入で専門外の商品を扱わされたことも、その一因である。それでも1955年ごろまでは五綿の扱い高の7割から8割を繊維品が占めていた。総合商社化が本格的に進んだのはその後で、日本の産業構造が重化学工業へ移ったことが旧繊維商社を動かした。1965年ごろには五綿の扱い高に占める繊維の比率は30%台まで下がり、代わって1955年ごろは7、8%だった機械金属や化学品が30%以上へ上がった。十年で商品構成がそっくり入れ替わった。
商品構成の入れ替えは、合併と系列づくりの形で進んだ。1954年の日綿實業と丸永、1955年の丸紅と高島屋飯田は同じ繊維業者どうしの集中だったが、その後の丸紅飯田と第一鋼材・東通、伊藤忠と大洋物産・森岡興業、東洋棉花と南海興業、日商と白洋貿易、そして日綿實業と高田商会は、いずれも機械金属部門の強化を狙ったものである。日綿實業は1960年に田附を合併した。大手商社10社の年間取扱高は1955年3月期の9021億円から1966年3月期には4兆463億円へ、11年で4.5倍に膨らんでおり、日綿實業もその10社に数えられていた。
1968年の日綿實業は、資本金75億円、従業員3600名、社長は神林正教氏という規模になっていた。取扱いに占める非繊維は65%、繊維は35%である。国内に30余りの営業店を持ち、海外ではホンコン・マニラ・バンコック・クァラルンプール・シンガポール・ラングーン・カルカッタ・ロンドンに支店を、ニューヨーク・ダラス・サンパウロ・ブエノスアイレス・ハンブルグ・パリ・ミラノ・カラチ・シドニーに現地法人を設立した。世界50数か所に支店か駐在員事務所があり、海外店勤務の社員は300名を超え、現地雇員は700名に達した。取扱品目は繊維原料と繊維製品にとどまらず、船舶・車輛・航空機・機械類・金属・鉱産物・化学品・木材・油脂・食品・セメントに及んでいる。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/8004/company.json https://the-shashi.com/api/8004/history.json https://the-shashi.com/api/8004/ceo.json https://the-shashi.com/api/8004/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1892〜1927年外商の手から綿花を取り返すためにつくられた会社 | 外商依存から脱するための綿花直輸入機関 1892年11月10日、摂津・平野・尼崎・天満の四紡績を中心に、綿花商などの有力財界人25名が発起人となって日本綿花が創立総会を開き、12月1日に開業した。公称資本金は100万円、払込は10万円。輸入綿花の供給を握っていた外商への依存から脱し、日本人自らの手で綿花を直輸入するための機関として設けられた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 米国綿の直買を開始 | ★★ | |||
| 上海支店を開設し華中・満州へ綿糸布の輸出を開始 | ★★ | |||
| ボンベイ出張所を支店に昇格 | ★ | |||
| 喜多又蔵 | 資本金を5000万円に増資 | ★ | ||
| 喜多又蔵 | 欧州にメンカ・ゲゼルシャフトを設立し第三国間取引を拡大 | ★★ | ||
| 1928〜1954年日綿實業への改称と、丸永合併という商社統合の実験 | 喜多又蔵 | 会社の浮沈にかかわる大欠損を計上 | ★★ | |
| 南郷三郎 | 喜多又蔵社長の死去にともない南郷三郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 潮崎喜八郎 | 潮崎喜八郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 潮崎喜八郎 | 日綿實業に商号変更 | ★★ | ||
| 潮崎喜八郎 | 敗戦により在外資産の全てを喪失 | ★★ | ||
| 潮崎喜八郎 | 朝鮮動乱を機に業績が急伸 | ★ | ||
| 岡島美行 | 岡島美行氏が社長に就任 | ★ | ||
| 岡島美行 | 資本金を4億円に増資 | ★ | ||
| 岡島美行 | 繊維商社・資本金4億3000万円への増強 1954年11月、日綿實業が繊維商社の丸永を吸収合併し、資本金を4億3000万円とした経営判断。朝鮮動乱の反動で商社が戦後最大の危機に見舞われ、政府が1952年から商社強化策を重要施策に据えた時期に、関西五綿の一角が同業を取り込んだ合併であった。当時の記録はこれを『商社統合のテスト・ケース』と記している(東洋経済新報社、1955年)。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1955〜1981年繊維商社の総合化と、下位が選んだ棲みわけ | 岡島美行 | 南郷三郎相談役が訪中し毛沢東主席と会談 | ★ | |
| 岡島美行 | 田附を合併 | ★★ | ||
| 岡島美行 | 米マックレガー社の商品独占使用権を取得 | ★ | ||
| 岡島美行 | 3商社5銀行の出資でオリエントリース(現オリックス)を設立 | ★★ | ||
| 岡島美行 | ソ連・ポーランドと鉄鉱石・石炭の大量輸入契約を締結 | ★ | ||
| 岡島美行 | 非繊維の取扱比率が65%を占め総合商社化が進展 | ★★ | ||
| 1982〜2003年ニチメンへの改称と、手形事件が露わにした与信管理 | 岡島美行 | ニチメンに商号変更 | ★★ | |
| 岡島美行 | 子会社ニチメン・インフィニティが株式を上場 | ★ | ||
| 岡島美行 | 最大100億円の穴埋めを機に踏み切った、採算による選別とカンパニー制の導入 1999年6月、ニチメンが融通手形取引に巻き込まれ、最大100億円の損失を負うことが明らかになった一件と、これを受けて渡利陽社長が進めた事業の絞り込みおよび組織の組み替え。取引先への信用供与という商社機能の中核で、社内の与信管理が働かなかった事案である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 半林亨 | 半林亨氏が社長に就任 | ★ | ||
| 半林亨 | トーメンの農薬事業と統合し合弁会社を設立 | ★★ | ||
| 半林亨 | 連結有利子負債が1兆0207億円に減少 | ★ | ||
| 半林亨 | 株式移転による共同持株会社の設立と、2660億円の優先株発行 2002年12月11日、日商岩井とニチメンが共同持株会社方式による経営統合の方針を発表し、2003年4月に株式移転でニチメン・日商岩井ホールディングスを設立した経営判断。2003年5月には取引金融機関6社と米国の投資銀行リーマン・ブラザーズに対し総額2660億円の優先株を発行し、2004年4月に傘下2社が合併して双日が発足した。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ニチメン)