1892年〜 外商の手から綿花を取り返すためにつくられた会社
- 1892年 外商依存から脱するための綿花直輸入機関、日本綿花の設立 神戸の外国商から買い続けるか、自前の輸入機関を持つか——在阪の紡績4社が100万円を掲げた1892年
- 1896年 米国綿の直買を開始
- 1903年 上海支店を開設し華中・満州へ綿糸布の輸出を開始
- 1907年 ボンベイ出張所を支店に昇格
- 1917年 資本金を5000万円に増資
- 1920年 欧州にメンカ・ゲゼルシャフトを設立し第三国間取引を拡大
紡績四社が出資してつくった綿花の直輸入機関
1858年の通商条約以来[1]、日本の貿易は開港場の居留地で外国商人と日本商人が向き合う商館貿易の形[2]をとった。外商は外国銀行による貿易金融と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握り[3]、治外法権と協定関税がそれを支えた。1881年に原善三郎氏ら生糸売り込み商が横浜へ連合生糸荷預所をつくって商権回復に挑んだ[4]ときも、外商は預所からの買い付けを拒み、三か月の取引停止のすえ妥協的な条件で決着した。輸入の側でも事情は変わらず、1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功に続いて大規模紡績が相次いで生まれる[5]と、原料綿を神戸在留の外国商にたよる紡績業者[6]は、その値決めに従うほかなかった。
- 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-重い外商のクサリ」
- [1]1858年6月に日米通商条約が結ばれ、翌年から開港場で貿易が始まった
- [2]開港場の居留地で外商と日本商人が取引する形態を居留地貿易・商館貿易と呼んだ
- [3]外商は外国銀行による貿易金融の掌握と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握った
- [4]1881年に原善三郎らが横浜へ連合生糸荷預所を設立し、外商との取引が約3か月停止した
- [5]1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功を機に明治20年前後から大規模紡績が続々と誕生した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [6]当時の紡績業者は神戸在留の外国商に綿花輸入をたより、その暴利のもとにあえいでいた
日本綿花は、この依存から抜けるためにつくられた綿花輸入機関[7]である。摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり、綿花商などの有力財界人25名が発起人に名を連ねて[8]、1892年11月10日に創立総会を開き、12月1日に開業した[9]。公称資本金は100万円、払込は10万円[10]で、創立事務所は大阪市西区靱北通りに置かれた。社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の合わせて19名[11]という小さな陣容で始まり、第1期決算では9,286円余の純益をあげて1割の配当を行った[12]。会社の側から見れば紡績資本の調達機関[13]であり、紡績の側から見れば自前の輸入部門を切り出したものだった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [7]日本綿花は外商依存から脱却し日本人自らの手で直輸入するために設立された
- [13]在阪の有力紡績会社と財界人の尽力により綿花の直輸入機関として設立された
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [8]摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり綿花商など有力財界人25名が発起人となった
- [9]1892年11月10日に創立総会を開き12月1日に開業した
- [10]公称資本金100万円・払込10万円で創立事務所は大阪市西区靱北通りにあった
- [11]創立時の人員は社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の計19名
- [12]第1期決算で純益9,286円余をあげ1割配当を行った
開業の直後から中国綿とインド綿の取引に入り、1896年には米国綿の直買[14]を始めた。同じ1896年に綿花輸入税が撤廃されて原綿の海外依存が決定的になり[15]、日本の綿業もここから飛躍する。原料を外国商から買うほかなかった紡績業者に、産地から直に買う経路[16]ができたからである。明治30年代には、世界的に品質のよいエジプト綿の輸入[17]にも手を伸ばした。社名の「日本綿花」は綿花と綿糸布の二つを指しており[18]、事業は原料の輸入だけにとどまらなかった。荷印には日の字を図案化した社章を用い、分銅マークと呼ばれたこの印は、海外では Battle axe の名で通っていた[19]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [14]開業後まもなく中国綿・インド綿の取引を始め1896年に米国綿の直買を開始した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [15]1896年に綿花輸入税が撤廃され原綿の海外依存が決定的になった
- [16]外国商に対抗する綿花輸入機関として日本綿花が設立された
- [17]明治30年代に入りエジプト綿の輸入を始めた
- [18]「日本綿花」という社名は綿糸布と綿花を示していた
- [19]社章は日の字を図案化した分銅マークで海外では Battle axe と呼ばれた
- 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-重い外商のクサリ」
- [1]1858年6月に日米通商条約が結ばれ、翌年から開港場で貿易が始まった
- [2]開港場の居留地で外商と日本商人が取引する形態を居留地貿易・商館貿易と呼んだ
- [3]外商は外国銀行による貿易金融の掌握と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握った
- [4]1881年に原善三郎らが横浜へ連合生糸荷預所を設立し、外商との取引が約3か月停止した
- [5]1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功を機に明治20年前後から大規模紡績が続々と誕生した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [6]当時の紡績業者は神戸在留の外国商に綿花輸入をたより、その暴利のもとにあえいでいた
- [8]摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり綿花商など有力財界人25名が発起人となった
- [9]1892年11月10日に創立総会を開き12月1日に開業した
- [10]公称資本金100万円・払込10万円で創立事務所は大阪市西区靱北通りにあった
- [11]創立時の人員は社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の計19名
- [12]第1期決算で純益9,286円余をあげ1割配当を行った
- [15]1896年に綿花輸入税が撤廃され原綿の海外依存が決定的になった
- [16]外国商に対抗する綿花輸入機関として日本綿花が設立された
- [17]明治30年代に入りエジプト綿の輸入を始めた
- [18]「日本綿花」という社名は綿糸布と綿花を示していた
- [19]社章は日の字を図案化した分銅マークで海外では Battle axe と呼ばれた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [7]日本綿花は外商依存から脱却し日本人自らの手で直輸入するために設立された
- [13]在阪の有力紡績会社と財界人の尽力により綿花の直輸入機関として設立された
- [14]開業後まもなく中国綿・インド綿の取引を始め1896年に米国綿の直買を開始した
上海と漢口に出て、綿糸布と工場を持った十五年
1903年[20]、日本綿花は華中と満州への綿糸布輸出に乗り出し、上海支店を開いた。翌1904年[21]には漢口支店を設け、綿糸布のほかに雑貨類の取り扱いも始めた。この二つの支店では商いだけでなく、繰綿と紡績、それに豆粕・綿実の工場も経営した[22]。1911年[23]には長江一帯へ出張員を配置し、天津と青島にも支店を置いて華北へ進出した。輸入商社として出発した会社が、十年あまりで日本製綿糸布の輸出者となり、さらに現地の加工業者[24]にもなった。日露戦争後の日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出してインド綿糸と争っていた[25]時期で、輸入商社が輸出と現地加工へ広がる順序は、当時の日本の商社に共通していたとみられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [20]1903年に華中および満州への綿糸布輸出を始め上海支店を開設した
- [22]上海・漢口両支店で繰綿・紡績ならびに豆粕・綿実工場を経営した
- [23]1911年に長江一帯へ出張員を配置し天津・青島に支店を設けて華北へ進出した
- [24]綿糸布の輸出と現地での繰綿・紡績・豆粕・綿実工場の経営を並行して行った
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [21]1904年に漢口支店を開設し綿糸布のほか雑貨類の取扱いを始めた
- 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-アジア市場にぎる」
- [25]日露戦争後に日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出しインド綿糸と競争した
支店網は中国の外へも伸びた[26]。1906年にニューヨーク出張所[27]、1907年には1897年開設のボンベイ出張所を支店へ昇格させ[28]、綿花の産地と綿製品の市場の双方に拠点を置いた。1916年[29]には南米とビルマへ進出し、羊毛・綿花・米穀の売買と生糸取引に着手した。ニューヨーク支店が扱った生糸は当時の日本の輸出品の筆頭であり[30]、その取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった[31]。原料の輸入だけを目的に生まれた会社が、四半世紀のうちに繊維原料と繊維製品の双方を、地球の半分にまたがって動かす商社になっていた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [26]ニューヨーク出張所とボンベイ支店を開設し中国以外へも店を広げた
- [27]1906年にニューヨーク出張所を開設した
- [28]1907年にボンベイ支店を開設した(1897年開設の出張所を昇格)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [29]1916年に南米・ビルマへ進出し羊毛・綿花・米穀の売買および生糸取引に着手した
- 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
- [30]ニューヨーク支店は生糸を扱っていた
- [31]当時の日本の輸出の大宗は生糸であり日綿の取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [20]1903年に華中および満州への綿糸布輸出を始め上海支店を開設した
- [22]上海・漢口両支店で繰綿・紡績ならびに豆粕・綿実工場を経営した
- [23]1911年に長江一帯へ出張員を配置し天津・青島に支店を設けて華北へ進出した
- [24]綿糸布の輸出と現地での繰綿・紡績・豆粕・綿実工場の経営を並行して行った
- [29]1916年に南米・ビルマへ進出し羊毛・綿花・米穀の売買および生糸取引に着手した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [21]1904年に漢口支店を開設し綿糸布のほか雑貨類の取扱いを始めた
- [26]ニューヨーク出張所とボンベイ支店を開設し中国以外へも店を広げた
- [27]1906年にニューヨーク出張所を開設した
- [28]1907年にボンベイ支店を開設した(1897年開設の出張所を昇格)
- 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-アジア市場にぎる」
- [25]日露戦争後に日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出しインド綿糸と競争した
- 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
- [30]ニューヨーク支店は生糸を扱っていた
- [31]当時の日本の輸出の大宗は生糸であり日綿の取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった
大戦景気が生んだ第三国間取引と、その反動
第一次大戦の好況が会社の規模[32]を一段と押し上げた。創立25周年にあたる1917年には10割の配当を行い、9月に資本金を5000万円へ増やした[33]。この時期の伸びをつくったのは、創業直後に入社して1917年に社長となった喜多又蔵氏の働きであり、日本綿花は「喜多サンの会社」と呼ばれるまでになった[34]。1920年春にはビルマで精米業に着手し[35]、日本からの輸出だけでなく、米国・インド・中国など海外各店のあいだで完結する第三国間取引にも成果をあげた[36]。欧州にはロンドン・リバプールとドイツのブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを設け、フランスとスペインには代理店を置いて[37]三国貿易にあたらせた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [32]欧州大戦による好況に恵まれ業績が大いに上伸した
- [35]1920年春にビルマで精米業に着手した
- [36]米国・インド・中国など海外各店間における第三国間取引に成果を収めた
- [37]ロンドン・リバプール・ブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを創設しフランス・スペインに代理店を設けた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [33]創立25周年の1917年に10割配当を行い9月に資本金を5000万円とした
- [34]創業直後に入社し1917年に社長となった喜多又蔵の努力が初期の発展を支え、日本綿花は「喜多サンの会社」と呼ばれた
商いの拡大と並んで、事業会社の設立も続いた[38]。1916年に朝鮮棉花を京城に、1917年に日華製油を漢口に、1920年に東亜製麻を上海に収め[39]、1921年には辻紡績、1924年には漢口の泰安紡績を設立した[40]。満州では協和染織を奉天に、登喜和百貨店を、満洲食品工業をハルピン[41]に擁した。綿花を運ぶ商社から、綿花を紡ぎ、油を搾り、麻を織る会社群[42]の親会社へと広がった二十年である。もっとも、この拡大は大戦景気という一時の需要を前提としており、講和後の反動を受け止めるだけの厚みは、まだ会社になかった[43]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [38]朝鮮棉花・日華製油・東亜製麻・辻紡績・泰安紡績など傘下会社の設立が続いた
- [39]1916年に朝鮮棉花(京城)、1917年に日華製油(漢口)、1920年に東亜製麻(上海)を傘下に収めた
- [40]1921年に辻紡績、1924年に泰安紡績(漢口)を設立した
- [41]満州では協和染織(奉天)・登喜和百貨店・満洲食品工業(ハルピン)などの傍系会社を擁した
- [42]傘下には紡績(辻紡績・泰安紡績)・製油(日華製油)・製麻(東亜製麻)が並んだ
- [43]大戦後の経済不況に遭遇したうえ関東大震災の被害も加わり経営不振となった
反動は1920年の戦後恐慌から始まり、1923年の関東大震災による被害がそこへ重なった。会社は経営不振に陥り、大戦中に広げた支店網と事業会社を抱えたまま収益の細る時期へ入った。外商から綿花の商権を取り返すという設立の目的そのものは、1896年の綿花輸入税撤廃と原綿の海外依存の確立[45]によって、創立から4年で達せられた。その後に積み上げた華中の工場、欧州の三国貿易、南米の羊毛、ビルマの精米[46]は、いずれも創立時の発起人が想定した業ではない。取り返した商権を元手に何を業とするのかという問いに、会社はまだ答えを出していなかった。 [44]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [44]大戦後の経済不況と関東大震災の被害により経営不振となった
- [46]華中の工場経営・欧州での三国貿易・南米の羊毛・ビルマの精米業はいずれも創立後に加えた事業である
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [45]1896年の綿花輸入税撤廃で原綿の海外依存が決定的になった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [32]欧州大戦による好況に恵まれ業績が大いに上伸した
- [35]1920年春にビルマで精米業に着手した
- [36]米国・インド・中国など海外各店間における第三国間取引に成果を収めた
- [37]ロンドン・リバプール・ブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを創設しフランス・スペインに代理店を設けた
- [38]朝鮮棉花・日華製油・東亜製麻・辻紡績・泰安紡績など傘下会社の設立が続いた
- [39]1916年に朝鮮棉花(京城)、1917年に日華製油(漢口)、1920年に東亜製麻(上海)を傘下に収めた
- [40]1921年に辻紡績、1924年に泰安紡績(漢口)を設立した
- [41]満州では協和染織(奉天)・登喜和百貨店・満洲食品工業(ハルピン)などの傍系会社を擁した
- [42]傘下には紡績(辻紡績・泰安紡績)・製油(日華製油)・製麻(東亜製麻)が並んだ
- [43]大戦後の経済不況に遭遇したうえ関東大震災の被害も加わり経営不振となった
- [44]大戦後の経済不況と関東大震災の被害により経営不振となった
- [46]華中の工場経営・欧州での三国貿易・南米の羊毛・ビルマの精米業はいずれも創立後に加えた事業である
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [33]創立25周年の1917年に10割配当を行い9月に資本金を5000万円とした
- [34]創業直後に入社し1917年に社長となった喜多又蔵の努力が初期の発展を支え、日本綿花は「喜多サンの会社」と呼ばれた
- [45]1896年の綿花輸入税撤廃で原綿の海外依存が決定的になった