ニチメン の歴史

創業

1892年

創業者

創業地

大阪府

Q なぜ1892年に在阪の紡績会社は自前の綿花輸入機関をつくったのか
A 原料綿の輸入を神戸在留の外国商に握られ、その値決めに従うほかなかったためである。1883年に発足した大阪紡績会社の成功に続いて大規模紡績が相次いで生まれると、外商依存から脱して日本人自らの手で直輸入したいという要望が強まった。摂津・平野・尼崎・天満の四紡績を中心に、綿花商など有力財界人25名が発起人となり、1892年11月10日に創立総会を開いて公称資本金100万円の日本綿花が設立された。設立から4年後の1896年には綿花輸入税が撤廃され、原綿の海外依存が決定的になった
Q なぜ1954年に日綿實業は丸永を吸収合併したのか
A 朝鮮動乱の反動で商社が戦後最大の危機に見舞われ、専門商社のままでは残れないと見たためである。政府は1952年から商社強化策を重要施策に据え、業界では関西五綿を主軸とする集中と、旧財閥商社の再統合という二つの再編が動き出していた。日綿實業は1954年11月に丸永を吸収合併し、資本金は4億3000万円、1955年8月には10億7500万円へ増えた。『会社銀行八十年史』はこの合併を「商社統合のテスト・ケース」と記しており、同種の合併はその後、丸紅と高島屋飯田、東洋棉花と鐘淵商事へと連鎖した
Q なぜ1999年の手形事件でニチメンは最大100億円の損失を負ったのか
A 取引先への信用供与と金融仲介という商社機能そのものの内側で、社内の与信管理が働かなかったためである。1996年6月に取引を始めた帝菱産業について、1998年3月の内部監査でチェーン取引の疑いがかかり取引は打ち切られたが、担当課長は入れ替わりにトーワジャパンとの取引を始め、1998年11月から自分の権限を超えて100本近い手形を乱発した。本人が会社へ告白した1999年4月まで、半年にわたって点検機関は異常を見逃していた。堅実な商社という評価は、この一件で崩れた。

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1892年〜 外商の手から綿花を取り返すためにつくられた会社

  1. 1892年 外商依存から脱するための綿花直輸入機関、日本綿花の設立 神戸の外国商から買い続けるか、自前の輸入機関を持つか——在阪の紡績4社が100万円を掲げた1892年
  2. 1896年 米国綿の直買を開始
  3. 1903年 上海支店を開設し華中・満州へ綿糸布の輸出を開始
  4. 1907年 ボンベイ出張所を支店に昇格
  5. 1917年 資本金を5000万円に増資
  6. 1920年 欧州にメンカ・ゲゼルシャフトを設立し第三国間取引を拡大

紡績四社が出資してつくった綿花の直輸入機関

1858年の通商条約以来[1]、日本の貿易は開港場の居留地で外国商人と日本商人が向き合う商館貿易の形[2]をとった。外商は外国銀行による貿易金融と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握り[3]、治外法権と協定関税がそれを支えた。1881年に原善三郎氏ら生糸売り込み商が横浜へ連合生糸荷預所をつくって商権回復に挑んだ[4]ときも、外商は預所からの買い付けを拒み、三か月の取引停止のすえ妥協的な条件で決着した。輸入の側でも事情は変わらず、1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功に続いて大規模紡績が相次いで生まれる[5]と、原料綿を神戸在留の外国商にたよる紡績業者[6]は、その値決めに従うほかなかった。

  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-重い外商のクサリ」
    • [1]1858年6月に日米通商条約が結ばれ、翌年から開港場で貿易が始まった
    • [2]開港場の居留地で外商と日本商人が取引する形態を居留地貿易・商館貿易と呼んだ
    • [3]外商は外国銀行による貿易金融の掌握と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握った
    • [4]1881年に原善三郎らが横浜へ連合生糸荷預所を設立し、外商との取引が約3か月停止した
    • [5]1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功を機に明治20年前後から大規模紡績が続々と誕生した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [6]当時の紡績業者は神戸在留の外国商に綿花輸入をたより、その暴利のもとにあえいでいた

日本綿花は、この依存から抜けるためにつくられた綿花輸入機関[7]である。摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり、綿花商などの有力財界人25名が発起人に名を連ねて[8]、1892年11月10日に創立総会を開き、12月1日に開業した[9]。公称資本金は100万円、払込は10万円[10]で、創立事務所は大阪市西区靱北通りに置かれた。社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の合わせて19名[11]という小さな陣容で始まり、第1期決算では9,286円余の純益をあげて1割の配当を行った[12]。会社の側から見れば紡績資本の調達機関[13]であり、紡績の側から見れば自前の輸入部門を切り出したものだった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [7]日本綿花は外商依存から脱却し日本人自らの手で直輸入するために設立された
    • [13]在阪の有力紡績会社と財界人の尽力により綿花の直輸入機関として設立された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [8]摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり綿花商など有力財界人25名が発起人となった
    • [9]1892年11月10日に創立総会を開き12月1日に開業した
    • [10]公称資本金100万円・払込10万円で創立事務所は大阪市西区靱北通りにあった
    • [11]創立時の人員は社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の計19名
    • [12]第1期決算で純益9,286円余をあげ1割配当を行った

開業の直後から中国綿とインド綿の取引に入り、1896年には米国綿の直買[14]を始めた。同じ1896年に綿花輸入税が撤廃されて原綿の海外依存が決定的になり[15]、日本の綿業もここから飛躍する。原料を外国商から買うほかなかった紡績業者に、産地から直に買う経路[16]ができたからである。明治30年代には、世界的に品質のよいエジプト綿の輸入[17]にも手を伸ばした。社名の「日本綿花」は綿花と綿糸布の二つを指しており[18]、事業は原料の輸入だけにとどまらなかった。荷印には日の字を図案化した社章を用い、分銅マークと呼ばれたこの印は、海外では Battle axe の名で通っていた[19]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [14]開業後まもなく中国綿・インド綿の取引を始め1896年に米国綿の直買を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [15]1896年に綿花輸入税が撤廃され原綿の海外依存が決定的になった
    • [16]外国商に対抗する綿花輸入機関として日本綿花が設立された
    • [17]明治30年代に入りエジプト綿の輸入を始めた
    • [18]「日本綿花」という社名は綿糸布と綿花を示していた
    • [19]社章は日の字を図案化した分銅マークで海外では Battle axe と呼ばれた
  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-重い外商のクサリ」
    • [1]1858年6月に日米通商条約が結ばれ、翌年から開港場で貿易が始まった
    • [2]開港場の居留地で外商と日本商人が取引する形態を居留地貿易・商館貿易と呼んだ
    • [3]外商は外国銀行による貿易金融の掌握と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握った
    • [4]1881年に原善三郎らが横浜へ連合生糸荷預所を設立し、外商との取引が約3か月停止した
    • [5]1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功を機に明治20年前後から大規模紡績が続々と誕生した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [6]当時の紡績業者は神戸在留の外国商に綿花輸入をたより、その暴利のもとにあえいでいた
    • [8]摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり綿花商など有力財界人25名が発起人となった
    • [9]1892年11月10日に創立総会を開き12月1日に開業した
    • [10]公称資本金100万円・払込10万円で創立事務所は大阪市西区靱北通りにあった
    • [11]創立時の人員は社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の計19名
    • [12]第1期決算で純益9,286円余をあげ1割配当を行った
    • [15]1896年に綿花輸入税が撤廃され原綿の海外依存が決定的になった
    • [16]外国商に対抗する綿花輸入機関として日本綿花が設立された
    • [17]明治30年代に入りエジプト綿の輸入を始めた
    • [18]「日本綿花」という社名は綿糸布と綿花を示していた
    • [19]社章は日の字を図案化した分銅マークで海外では Battle axe と呼ばれた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [7]日本綿花は外商依存から脱却し日本人自らの手で直輸入するために設立された
    • [13]在阪の有力紡績会社と財界人の尽力により綿花の直輸入機関として設立された
    • [14]開業後まもなく中国綿・インド綿の取引を始め1896年に米国綿の直買を開始した

上海と漢口に出て、綿糸布と工場を持った十五年

1903年[20]、日本綿花は華中と満州への綿糸布輸出に乗り出し、上海支店を開いた。翌1904年[21]には漢口支店を設け、綿糸布のほかに雑貨類の取り扱いも始めた。この二つの支店では商いだけでなく、繰綿と紡績、それに豆粕・綿実の工場も経営した[22]。1911年[23]には長江一帯へ出張員を配置し、天津と青島にも支店を置いて華北へ進出した。輸入商社として出発した会社が、十年あまりで日本製綿糸布の輸出者となり、さらに現地の加工業者[24]にもなった。日露戦争後の日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出してインド綿糸と争っていた[25]時期で、輸入商社が輸出と現地加工へ広がる順序は、当時の日本の商社に共通していたとみられる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [20]1903年に華中および満州への綿糸布輸出を始め上海支店を開設した
    • [22]上海・漢口両支店で繰綿・紡績ならびに豆粕・綿実工場を経営した
    • [23]1911年に長江一帯へ出張員を配置し天津・青島に支店を設けて華北へ進出した
    • [24]綿糸布の輸出と現地での繰綿・紡績・豆粕・綿実工場の経営を並行して行った
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [21]1904年に漢口支店を開設し綿糸布のほか雑貨類の取扱いを始めた
  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-アジア市場にぎる」
    • [25]日露戦争後に日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出しインド綿糸と競争した

支店網は中国の外へも伸びた[26]。1906年にニューヨーク出張所[27]、1907年には1897年開設のボンベイ出張所を支店へ昇格させ[28]、綿花の産地と綿製品の市場の双方に拠点を置いた。1916年[29]には南米とビルマへ進出し、羊毛・綿花・米穀の売買と生糸取引に着手した。ニューヨーク支店が扱った生糸は当時の日本の輸出品の筆頭であり[30]、その取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった[31]。原料の輸入だけを目的に生まれた会社が、四半世紀のうちに繊維原料と繊維製品の双方を、地球の半分にまたがって動かす商社になっていた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [26]ニューヨーク出張所とボンベイ支店を開設し中国以外へも店を広げた
    • [27]1906年にニューヨーク出張所を開設した
    • [28]1907年にボンベイ支店を開設した(1897年開設の出張所を昇格)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [29]1916年に南米・ビルマへ進出し羊毛・綿花・米穀の売買および生糸取引に着手した
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
    • [30]ニューヨーク支店は生糸を扱っていた
    • [31]当時の日本の輸出の大宗は生糸であり日綿の取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [20]1903年に華中および満州への綿糸布輸出を始め上海支店を開設した
    • [22]上海・漢口両支店で繰綿・紡績ならびに豆粕・綿実工場を経営した
    • [23]1911年に長江一帯へ出張員を配置し天津・青島に支店を設けて華北へ進出した
    • [24]綿糸布の輸出と現地での繰綿・紡績・豆粕・綿実工場の経営を並行して行った
    • [29]1916年に南米・ビルマへ進出し羊毛・綿花・米穀の売買および生糸取引に着手した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [21]1904年に漢口支店を開設し綿糸布のほか雑貨類の取扱いを始めた
    • [26]ニューヨーク出張所とボンベイ支店を開設し中国以外へも店を広げた
    • [27]1906年にニューヨーク出張所を開設した
    • [28]1907年にボンベイ支店を開設した(1897年開設の出張所を昇格)
  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-アジア市場にぎる」
    • [25]日露戦争後に日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出しインド綿糸と競争した
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
    • [30]ニューヨーク支店は生糸を扱っていた
    • [31]当時の日本の輸出の大宗は生糸であり日綿の取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった

大戦景気が生んだ第三国間取引と、その反動

第一次大戦の好況が会社の規模[32]を一段と押し上げた。創立25周年にあたる1917年には10割の配当を行い、9月に資本金を5000万円へ増やした[33]。この時期の伸びをつくったのは、創業直後に入社して1917年に社長となった喜多又蔵氏の働きであり、日本綿花は「喜多サンの会社」と呼ばれるまでになった[34]。1920年春にはビルマで精米業に着手し[35]、日本からの輸出だけでなく、米国・インド・中国など海外各店のあいだで完結する第三国間取引にも成果をあげた[36]。欧州にはロンドン・リバプールとドイツのブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを設け、フランスとスペインには代理店を置いて[37]三国貿易にあたらせた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [32]欧州大戦による好況に恵まれ業績が大いに上伸した
    • [35]1920年春にビルマで精米業に着手した
    • [36]米国・インド・中国など海外各店間における第三国間取引に成果を収めた
    • [37]ロンドン・リバプール・ブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを創設しフランス・スペインに代理店を設けた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [33]創立25周年の1917年に10割配当を行い9月に資本金を5000万円とした
    • [34]創業直後に入社し1917年に社長となった喜多又蔵の努力が初期の発展を支え、日本綿花は「喜多サンの会社」と呼ばれた

商いの拡大と並んで、事業会社の設立も続いた[38]。1916年に朝鮮棉花を京城に、1917年に日華製油を漢口に、1920年に東亜製麻を上海に収め[39]、1921年には辻紡績、1924年には漢口の泰安紡績を設立した[40]。満州では協和染織を奉天に、登喜和百貨店を、満洲食品工業をハルピン[41]に擁した。綿花を運ぶ商社から、綿花を紡ぎ、油を搾り、麻を織る会社群[42]の親会社へと広がった二十年である。もっとも、この拡大は大戦景気という一時の需要を前提としており、講和後の反動を受け止めるだけの厚みは、まだ会社になかった[43]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [38]朝鮮棉花・日華製油・東亜製麻・辻紡績・泰安紡績など傘下会社の設立が続いた
    • [39]1916年に朝鮮棉花(京城)、1917年に日華製油(漢口)、1920年に東亜製麻(上海)を傘下に収めた
    • [40]1921年に辻紡績、1924年に泰安紡績(漢口)を設立した
    • [41]満州では協和染織(奉天)・登喜和百貨店・満洲食品工業(ハルピン)などの傍系会社を擁した
    • [42]傘下には紡績(辻紡績・泰安紡績)・製油(日華製油)・製麻(東亜製麻)が並んだ
    • [43]大戦後の経済不況に遭遇したうえ関東大震災の被害も加わり経営不振となった

反動は1920年の戦後恐慌から始まり、1923年の関東大震災による被害がそこへ重なった。会社は経営不振に陥り、大戦中に広げた支店網と事業会社を抱えたまま収益の細る時期へ入った。外商から綿花の商権を取り返すという設立の目的そのものは、1896年の綿花輸入税撤廃と原綿の海外依存の確立[45]によって、創立から4年で達せられた。その後に積み上げた華中の工場、欧州の三国貿易、南米の羊毛、ビルマの精米[46]は、いずれも創立時の発起人が想定した業ではない。取り返した商権を元手に何を業とするのかという問いに、会社はまだ答えを出していなかった。 [44]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [44]大戦後の経済不況と関東大震災の被害により経営不振となった
    • [46]華中の工場経営・欧州での三国貿易・南米の羊毛・ビルマの精米業はいずれも創立後に加えた事業である
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [45]1896年の綿花輸入税撤廃で原綿の海外依存が決定的になった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [32]欧州大戦による好況に恵まれ業績が大いに上伸した
    • [35]1920年春にビルマで精米業に着手した
    • [36]米国・インド・中国など海外各店間における第三国間取引に成果を収めた
    • [37]ロンドン・リバプール・ブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを創設しフランス・スペインに代理店を設けた
    • [38]朝鮮棉花・日華製油・東亜製麻・辻紡績・泰安紡績など傘下会社の設立が続いた
    • [39]1916年に朝鮮棉花(京城)、1917年に日華製油(漢口)、1920年に東亜製麻(上海)を傘下に収めた
    • [40]1921年に辻紡績、1924年に泰安紡績(漢口)を設立した
    • [41]満州では協和染織(奉天)・登喜和百貨店・満洲食品工業(ハルピン)などの傍系会社を擁した
    • [42]傘下には紡績(辻紡績・泰安紡績)・製油(日華製油)・製麻(東亜製麻)が並んだ
    • [43]大戦後の経済不況に遭遇したうえ関東大震災の被害も加わり経営不振となった
    • [44]大戦後の経済不況と関東大震災の被害により経営不振となった
    • [46]華中の工場経営・欧州での三国貿易・南米の羊毛・ビルマの精米業はいずれも創立後に加えた事業である
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [33]創立25周年の1917年に10割配当を行い9月に資本金を5000万円とした
    • [34]創業直後に入社し1917年に社長となった喜多又蔵の努力が初期の発展を支え、日本綿花は「喜多サンの会社」と呼ばれた
    • [45]1896年の綿花輸入税撤廃で原綿の海外依存が決定的になった

1928年〜 日綿實業への改称と、丸永合併という商社統合の実験

  1. 1930年 会社の浮沈にかかわる大欠損を計上
  2. 1932年 喜多又蔵社長の死去にともない南郷三郎氏が社長に就任
  3. 1941年 潮崎喜八郎氏が社長に就任
  4. 1943年 日綿實業に商号変更
  5. 1945年 敗戦により在外資産の全てを喪失
  6. 1950年 朝鮮動乱を機に業績が急伸
  7. 1954年 繊維商社・丸永の吸収合併と、資本金4億3000万円への増強 同業を取り込んで規模を先に作るか、専門商社にとどまるか——総合商社化をめぐる最初の集中

昭和恐慌が迫った海外支店の整理と、ニューヨークの残留

1926年、29[47]歳の野田岩次郎氏が日本綿花に入った。三井物産で国際結婚を認められずに退いたあと、東京海上の平生釟三郎氏が喜多又蔵社長へ直接話をして入社の労をとった[48]経緯である。横浜支店で生糸を学んだ野田氏はまもなくニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学で生糸の生産と鑑定法を半年学んだ[49]うえで、全米48州のほとんどを回って売り込みにあたった。それまで生糸の販売は現地のアメリカ人セールスマンに委ねられており、日本人が直接商談に出るのは新しい試みだった。会社を代表する日本人と契約したほうが安心だという空気が客先に生まれるまで、その土地で最も上等なホテルのロビーを商談の場に選び続けた[51][50]

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
    • [47]1926年に29歳で日本綿花へ入社した
    • [48]平生釟三郎が喜多又蔵社長に直接話をして日綿への入社を取り持った
    • [49]横浜支店で生糸を学んだのちニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学に約半年通って生糸の生産・用途・鑑定法を学んだ
    • [50]生糸の売り込みで全米48州のほとんどを回り、従来アメリカ人セールスマンに任せていた販売を日本人が直接行った
    • [51]その土地の最高のホテルに泊まりロビーで商談する方法を採り、日本人と契約するほうが安心だという空気が生まれた

1930年[52]、会社は浮沈にかかわる大欠損を出した。日本綿花が立てた再建策は、横浜正金銀行の意向をそのまま受けて海外各支店を閉鎖・縮小するというものだった[53]。これに対して南郷三郎氏だけは、ニューヨーク支店は縮小しても開けておかなければならないと主張し、帰朝中だった野田氏を支店長に据える案を立てる[54]。二人は伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ね、ニューヨーク支店の存続を願い出た。頭取は閉鎖するのが当たり前かもしれないがやってみたまえと応じ、1931年、34歳の野田氏がニューヨーク支店長に就いた[56]。最大市場の窓口だけは残った。 [55]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [52]1930年に会社の浮沈にかかわる大欠損を出した
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
    • [53]再建策は正金銀行の言うままに海外各支店を閉鎖・縮小するものだった
    • [54]南郷三郎はニューヨーク支店は縮小しても開けておくべきだと主張し、帰朝中の野田岩次郎を支店長とする再建策を立てた
    • [55]伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ねて支店存続を陳情し、頭取は「やってみたまえ」と承知した
    • [56]1931年に34歳でニューヨーク支店長となった

1932年3月に喜多又蔵社長が世を去り、南郷三郎氏が社長を継いだ。ここから経営はようやく軌道に乗る。もっとも、この立て直しは商いの中身を変えたわけではなく、恐慌前に広げた綿花と生糸の商権を、支店網を薄くしながら残したものだった。1930年の欠損[58]が突きつけたのは、綿花輸入の代行に収益を頼る構造では市況の急変を吸収できないという事実である。原料の値が振れれば口銭も振れ、産地と紡績のあいだに立つ会社には逃げ場がない。取扱商品を綿花の外へ広げる作業[59]は、皮肉にも平時ではなく、戦時統制という別の圧力のもとで進んだ。 [57]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [57]1932年3月に喜多又蔵社長が逝去し南郷三郎が社長に就任して経営が軌道に乗った
    • [59]太平洋戦争期に取扱商品は当初の綿花売買のみにとどまらず広範にわたるに至った
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [58]1930年の欠損は会社の浮沈にかかわる規模だった
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
    • [47]1926年に29歳で日本綿花へ入社した
    • [48]平生釟三郎が喜多又蔵社長に直接話をして日綿への入社を取り持った
    • [49]横浜支店で生糸を学んだのちニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学に約半年通って生糸の生産・用途・鑑定法を学んだ
    • [50]生糸の売り込みで全米48州のほとんどを回り、従来アメリカ人セールスマンに任せていた販売を日本人が直接行った
    • [51]その土地の最高のホテルに泊まりロビーで商談する方法を採り、日本人と契約するほうが安心だという空気が生まれた
    • [53]再建策は正金銀行の言うままに海外各支店を閉鎖・縮小するものだった
    • [54]南郷三郎はニューヨーク支店は縮小しても開けておくべきだと主張し、帰朝中の野田岩次郎を支店長とする再建策を立てた
    • [55]伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ねて支店存続を陳情し、頭取は「やってみたまえ」と承知した
    • [56]1931年に34歳でニューヨーク支店長となった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [52]1930年に会社の浮沈にかかわる大欠損を出した
    • [58]1930年の欠損は会社の浮沈にかかわる規模だった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [57]1932年3月に喜多又蔵社長が逝去し南郷三郎が社長に就任して経営が軌道に乗った
    • [59]太平洋戦争期に取扱商品は当初の綿花売買のみにとどまらず広範にわたるに至った

統制のなかで広がった商品と、在外資産の全喪失

日華事変の勃発後、繊維品の統制は段階を追って強まった[60]。1939年9月[61]に第二次欧州戦争が起こると、日本の欧州・アフリカおよび近東向け貿易は遮断され、国内でも諸統制令が施行された。それでも日本綿花は海外市場の拡充を続け、1941年6月には潮崎喜八郎氏が社長に就いた[62]。同年末の開戦後も経営は進み、取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範な品目[63]に及んだ。1943年4月[64]、この実態に合わせて社名を日綿實業へ改める。綿花の一語を外した改称は、統制経済のもとで商品構成が綿花から離れていたことの追認であり、資本金も1945年4月に3000万円[65]となった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [60]日華事変勃発後は漸次繊維品の統制が強化された
    • [61]1939年9月の第二次欧州戦争勃発で欧州・アフリカ・近東向け貿易が阻止され国内でも諸統制令が施行された
    • [62]1941年6月に潮崎喜八郎が社長に就任した
    • [63]太平洋戦争期も経営は順調に進展し取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範にわたった
    • [64]1943年4月に社名を日綿實業へ改めた
    • [65]資本金は1945年4月に3000万円となった

終戦とともに在外資産[66]のすべてを失った。上海と漢口の工場、満州の事業会社、欧州と南米の店は一度に消え、会社は国内需給物資の取り扱いで営業をつないだ[67]。敗戦後の2年間、日本に許された貿易は国民が生命をつなぐ食糧の輸入と、その外貨を稼ぐ輸出[68]だけだった。それも政府機関の貿易公団がGHQの監視下で行い、商社は実務の代行[69]を許されたにすぎない。1947年8月に民間貿易が再開されると[70]、日綿實業はただちに旧来の海外取引関係を復活させ、国内取引の整備にも取りかかった[71]。ニューヨーク支店を残した昭和恐慌時の判断が、ここで効いた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [66]終戦とともに在外資産のすべてを喪失し一時は国内需給物資の取扱で営業を維持した
    • [67]在外資産喪失後は一時国内需給物資の取扱によって営業を維持した
    • [71]民間貿易再開に伴いただちに旧来の海外取引関係を復活させ国内取引面も整備した
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [68]敗戦後2年間に許された貿易は生命をつなぐ食糧の輸入とその外貨を稼ぐ輸出だけだった
    • [69]敗戦後2年間の貿易は貿易公団がGHQの監視下で行い商社は実務の代行のみ許された
    • [70]1947年8月に民間貿易が再開された

敗戦は業界の順位も入れ替えた[72]。1947年7月、三井物産と三菱商事がGHQの直接指令で解体され[73]、旧社員は100人以上が同じ会社に就職してはならないという徹底した条件が付いた[74]。戦前に日本の貿易の三割近くを占めた二社が消えた空白[75]へ、関西五綿と呼ばれた綿業商社が進み出る。1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠の4.7%を筆頭に日綿實業が4.3%で続き、丸紅と東洋棉花が各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%[76]と関西系が上位を占めた。第一物産は2%台にとどまった[77]。日綿實業がこの時期に業界二番手へ出たのは自力の伸長というより、最大手二社の消滅がつくった順位だった。

  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [72]三井物産・三菱商事の解体は業界の旧秩序を壊滅させ関西五綿の進出を招いた
    • [73]1947年7月に三井物産と三菱商事がGHQの直接指令で解体された
    • [74]解体の覚書には旧社員は100人以上、支店長級以上は2人以上が同じ会社に就職してはいけないという条件が付いた
    • [75]戦前の最盛期には三井物産と三菱商事の二社で日本の貿易の三割近くを占めていた
  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)5章 物産、商事の再興成る
    • [76]1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠4.7%、日綿実業4.3%、丸紅・東洋棉花各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%で関西系商社が上位を独占した
    • [77]同時期の第一物産のシェアは2%台にとどまった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [60]日華事変勃発後は漸次繊維品の統制が強化された
    • [61]1939年9月の第二次欧州戦争勃発で欧州・アフリカ・近東向け貿易が阻止され国内でも諸統制令が施行された
    • [62]1941年6月に潮崎喜八郎が社長に就任した
    • [63]太平洋戦争期も経営は順調に進展し取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範にわたった
    • [64]1943年4月に社名を日綿實業へ改めた
    • [65]資本金は1945年4月に3000万円となった
    • [66]終戦とともに在外資産のすべてを喪失し一時は国内需給物資の取扱で営業を維持した
    • [67]在外資産喪失後は一時国内需給物資の取扱によって営業を維持した
    • [71]民間貿易再開に伴いただちに旧来の海外取引関係を復活させ国内取引面も整備した
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [68]敗戦後2年間に許された貿易は生命をつなぐ食糧の輸入とその外貨を稼ぐ輸出だけだった
    • [69]敗戦後2年間の貿易は貿易公団がGHQの監視下で行い商社は実務の代行のみ許された
    • [70]1947年8月に民間貿易が再開された
    • [72]三井物産・三菱商事の解体は業界の旧秩序を壊滅させ関西五綿の進出を招いた
    • [73]1947年7月に三井物産と三菱商事がGHQの直接指令で解体された
    • [74]解体の覚書には旧社員は100人以上、支店長級以上は2人以上が同じ会社に就職してはいけないという条件が付いた
    • [75]戦前の最盛期には三井物産と三菱商事の二社で日本の貿易の三割近くを占めていた
  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)5章 物産、商事の再興成る
    • [76]1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠4.7%、日綿実業4.3%、丸紅・東洋棉花各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%で関西系商社が上位を独占した
    • [77]同時期の第一物産のシェアは2%台にとどまった

商社統合のテスト・ケースとしての丸永合併

1950年6月[78]の朝鮮動乱を機に業績は飛躍的に伸びた。日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから翌年12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ膨らみ[79]、商社の取引量も軒並み急増する。だが1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した[80]。日銀ユーザンス制度を使い備蓄の名目で思惑輸入を重ねていた商社は、ゴム・原皮・油脂原料の新三品だけで176億円の値下がり損を負い[81]、中小商社の倒産が相次いだ[82]。日綿實業も休戦後の反動期に苦境へ立たされた[83]。動乱は綿製品の買い付けを日本へ集中させた[84]ぶん、その反転も大きかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [78]1950年6月の朝鮮動乱勃発を契機に業績が飛躍的に増大し休戦後の反動期に苦境に立った
    • [83]休戦後の反動期に際会し経営は苦境に立った
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [79]日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから1951年に12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ増えた
    • [80]1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した
    • [81]ゴム・原皮・油脂原料の新三品で商社の値下がり損は176億円に達した
    • [82]1951年夏から秋にかけ中小商社の倒産が続出し商社は戦後最大の危機に見舞われた
    • [84]動乱とともに日本へ集中した綿製品の買い付けは、その後減少し輸出価格も下落した

この危機のあと、政府は1952年から商社強化策を重要施策に据え、輸出所得控除などの税制措置と海外支店設置の助成、輸出入取引法の改正による過当競争の防止を進めた[85]。業界の側でも再編が二つの流れで動き出す[86]。ひとつは関西五綿を主軸とする集中で、専門商社から脱皮して総合商社をめざすもの、もうひとつは旧財閥商社の再統合[87]だった。日綿實業は資本金を1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へと積み増し[88]、1953年には輸出入の5%を取り扱って貿易商社の首位に立った[89]。1951年11月には岡島美行氏が社長となり、1953年8月[90]に中之島の新社屋へ移った。

  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [85]1952年に政府が商社強化策を重要施策として取り上げ、輸出所得控除や海外支店設置の助成、輸出入取引法改正による過当競争防止を進めた
    • [86]業界内部でも体質強化を目指す再編成の動きが出始めた
    • [87]業界内部の再編は関西五綿を主軸とする集中と旧財閥商社の再統合という二つの流れで進んだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [88]資本金は1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へ増額された
    • [90]1951年11月に岡島美行が社長に就任し1953年8月に中之島の新社屋へ移転した
    • [89]1953年に輸出入の5%を取扱い貿易商社中トップとなった

1954年11月[91]、日綿實業は丸永を吸収合併した。『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)はこの合併を「商社統合のテスト・ケース」と記している[92]。合併で資本金は4億3000万円となり、1955年8月には10億7500万円まで増えた[93]。1954年の実績は輸出6030万ドル(全国比4.0%)、輸入1億3500万ドル(同6.9%)[94]で、食糧と綿花の輸入では業界の一、二位を占めていた[95]。合併の翌年からは機械・金属の輸出取扱高も急増し、ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を置いた[96]。同種の合併はその後、1955年の丸紅と高島屋飯田、1955年8月の東洋棉花と鐘淵商事へと続き[97]、テスト・ケースという当時の呼び方は結果として正しかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [91]1954年11月に丸永を吸収合併し資本金は4億3000万円となった
    • [92]会社銀行八十年史は丸永合併を「商社統合のテスト・ケース」と記している
    • [93]資本金は1955年8月に10億7500万円へ増額された
    • [94]1954年の輸出は6030万ドル(全国比4.0%)、輸入は1億3500万ドル(同6.9%)だった
    • [95]食糧および綿花の輸入で業界の一、二位を占め、機械・金属の輸出取扱高も激増していた
    • [96]ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を設置した
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」/私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)6章 高度成長期の商社活動
    • [97]1955年に丸紅と高島屋飯田、1955年8月に東洋棉花と鐘淵商事の合併が続いた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [78]1950年6月の朝鮮動乱勃発を契機に業績が飛躍的に増大し休戦後の反動期に苦境に立った
    • [83]休戦後の反動期に際会し経営は苦境に立った
    • [88]資本金は1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へ増額された
    • [90]1951年11月に岡島美行が社長に就任し1953年8月に中之島の新社屋へ移転した
    • [91]1954年11月に丸永を吸収合併し資本金は4億3000万円となった
    • [92]会社銀行八十年史は丸永合併を「商社統合のテスト・ケース」と記している
    • [93]資本金は1955年8月に10億7500万円へ増額された
    • [94]1954年の輸出は6030万ドル(全国比4.0%)、輸入は1億3500万ドル(同6.9%)だった
    • [95]食糧および綿花の輸入で業界の一、二位を占め、機械・金属の輸出取扱高も激増していた
    • [96]ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を設置した
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [79]日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから1951年に12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ増えた
    • [80]1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した
    • [81]ゴム・原皮・油脂原料の新三品で商社の値下がり損は176億円に達した
    • [82]1951年夏から秋にかけ中小商社の倒産が続出し商社は戦後最大の危機に見舞われた
    • [84]動乱とともに日本へ集中した綿製品の買い付けは、その後減少し輸出価格も下落した
    • [85]1952年に政府が商社強化策を重要施策として取り上げ、輸出所得控除や海外支店設置の助成、輸出入取引法改正による過当競争防止を進めた
    • [86]業界内部でも体質強化を目指す再編成の動きが出始めた
    • [87]業界内部の再編は関西五綿を主軸とする集中と旧財閥商社の再統合という二つの流れで進んだ
    • [89]1953年に輸出入の5%を取扱い貿易商社中トップとなった
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」/私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)6章 高度成長期の商社活動
    • [97]1955年に丸紅と高島屋飯田、1955年8月に東洋棉花と鐘淵商事の合併が続いた

1955年〜 繊維商社の総合化と、下位が選んだ棲みわけ

  1. 1958年 南郷三郎相談役が訪中し毛沢東主席と会談
  2. 1960年 田附を合併
  3. 1963年 米マックレガー社の商品独占使用権を取得
  4. 1964年 3商社5銀行の出資でオリエントリース(現オリックス)を設立
  5. 1967年 ソ連・ポーランドと鉄鉱石・石炭の大量輸入契約を締結
  6. 1968年 非繊維の取扱比率が65%を占め総合商社化が進展

繊維から機械金属へ、十年で入れ替えた商品構成

戦後の関西五綿は、代理商化した専門商社のままでは取引の妙味が薄れるという事情から多角化を始めた[98]。終戦直後に援助物資の輸入で専門外の商品を扱わされたことも、その一因[99]である。それでも1955年ごろまでは五綿の扱い高の7割から8割を繊維品が占めていた[100]。総合商社化が本格的に進んだのはその後で、日本の産業構造が重化学工業へ移った[101]ことが旧繊維商社を動かした。1965年ごろには五綿の扱い高に占める繊維の比率は30%台まで下がり、代わって1955年ごろは7、8%だった機械金属や化学品が30%[102]以上へ上がった。十年で商品構成がそっくり入れ替わった[103]

  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」
    • [98]戦後に代理商化した旧関西五綿など専門商社は従来の専門商品では取引のうま味がなくなり多角化を始めた
    • [99]終戦直後は援助物資の輸入などで専門外の商品も扱わねばならず多角化の一因になった
    • [100]1955年ごろまで五綿の扱い高の70〜80%は繊維品だった
    • [101]旧繊維商社が総合化に熱心だったのは日本の産業構造が重化学工業へ重点を移したためである
    • [102]1965年ごろには五綿の扱い高に占める繊維比率が30%台となり、1955年ごろ7〜8%だった機械金属や化学品が30%以上に上がった
    • [103]繊維比率は70〜80%から30%台へ下がり、機械金属・化学品は7、8%から30%以上へ上がった

商品構成の入れ替えは、合併と系列づくりの形で進んだ[104]。1954年の日綿實業と丸永、1955年の丸紅と高島屋飯田は同じ繊維業者どうしの集中だった[105]が、その後の丸紅飯田と第一鋼材・東通、伊藤忠と大洋物産・森岡興業、東洋棉花と南海興業、日商と白洋貿易、そして日綿實業と高田商会は、いずれも機械金属部門の強化を狙ったもの[106]である。日綿實業は1960年[107]に田附を合併した。大手商社10社の年間取扱高は1955年3月期の9021億円から1966年3月期には4兆463億円へ、11年で4.5倍に膨らんでおり[108]、日綿實業もその10社に数えられていた[109]

  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」
    • [104]総合化は合併・系列化・集団化など再編成の形で進んだ
    • [105]1954年の日綿と丸永、1955年の丸紅と高島屋飯田は同じ繊維業者の集中だった
    • [106]丸紅飯田と第一鋼材・東通、伊藤忠と大洋物産・森岡興業、東棉と南海興業、日商と白洋貿易、日綿と高田商会の各合併は機械金属部門の強化を目的とした
    • [108]大手商社10社の取扱高合計は1955年3月期9021億円から1966年3月期4兆463億円へ約4.5倍になった
    • [109]大手商社10社は三井物産・三菱商事・丸紅飯田・伊藤忠・東棉・日綿・住友商事・日商・安宅・江商である
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [107]1960年に田附を合併した

1968年の日綿實業は、資本金75億円、従業員3600名[110]、社長は神林正教氏という規模になっていた。取扱いに占める非繊維は65%、繊維は35%[111]である。国内に30余りの営業店を持ち、海外ではホンコン・マニラ・バンコック・クァラルンプール・シンガポール・ラングーン・カルカッタ・ロンドンに支店を[112]、ニューヨーク・ダラス・サンパウロ・ブエノスアイレス・ハンブルグ・パリ・ミラノ・カラチ・シドニーに現地法人を置いた。世界50数か所に支店か駐在員事務所があり、海外店勤務の社員は300名を超え、現地雇員は700名[113]に達した。取扱品目は繊維原料と繊維製品にとどまらず、船舶・車輛・航空機・機械類・金属・鉱産物・化学品・木材・油脂・食品・セメントに及んでいる[114]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [110]1968年時点の資本金は75億円、従業員3600名、社長は神林正教だった
    • [111]重化学工業部門を中心とする非繊維の取扱割合は65%、繊維関係は35%だった
    • [112]国内に30余の営業店、海外にホンコンからロンドンまでの支店と9か所の現地法人を持っていた
    • [113]世界50数か所に支店ないし駐在員事務所があり、海外店勤務の社員は300名を超え現地雇員は700名に達した
    • [114]取扱品目は繊維原料・繊維製品のほか船舶・車輛・航空機・機械類・金属・鉱産物・化学品・木材・油脂・食品・セメントに及んだ
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」
    • [98]戦後に代理商化した旧関西五綿など専門商社は従来の専門商品では取引のうま味がなくなり多角化を始めた
    • [99]終戦直後は援助物資の輸入などで専門外の商品も扱わねばならず多角化の一因になった
    • [100]1955年ごろまで五綿の扱い高の70〜80%は繊維品だった
    • [101]旧繊維商社が総合化に熱心だったのは日本の産業構造が重化学工業へ重点を移したためである
    • [102]1965年ごろには五綿の扱い高に占める繊維比率が30%台となり、1955年ごろ7〜8%だった機械金属や化学品が30%以上に上がった
    • [103]繊維比率は70〜80%から30%台へ下がり、機械金属・化学品は7、8%から30%以上へ上がった
    • [104]総合化は合併・系列化・集団化など再編成の形で進んだ
    • [105]1954年の日綿と丸永、1955年の丸紅と高島屋飯田は同じ繊維業者の集中だった
    • [106]丸紅飯田と第一鋼材・東通、伊藤忠と大洋物産・森岡興業、東棉と南海興業、日商と白洋貿易、日綿と高田商会の各合併は機械金属部門の強化を目的とした
    • [108]大手商社10社の取扱高合計は1955年3月期9021億円から1966年3月期4兆463億円へ約4.5倍になった
    • [109]大手商社10社は三井物産・三菱商事・丸紅飯田・伊藤忠・東棉・日綿・住友商事・日商・安宅・江商である
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [107]1960年に田附を合併した
    • [110]1968年時点の資本金は75億円、従業員3600名、社長は神林正教だった
    • [111]重化学工業部門を中心とする非繊維の取扱割合は65%、繊維関係は35%だった
    • [112]国内に30余の営業店、海外にホンコンからロンドンまでの支店と9か所の現地法人を持っていた
    • [113]世界50数か所に支店ないし駐在員事務所があり、海外店勤務の社員は300名を超え現地雇員は700名に達した
    • [114]取扱品目は繊維原料・繊維製品のほか船舶・車輛・航空機・機械類・金属・鉱産物・化学品・木材・油脂・食品・セメントに及んだ

リースと中国、他社より先に取った二つの席

日綿實業は1962年[115]ごろから、米国最大のリース会社であるUSリーシング社を通じてリース事業の研究を始めていた。欧米で急速に伸びていた新しい業態の将来性に着目したもので、主力銀行である三和銀行の協力のもと、他の商社と銀行の参加を得て企業化[116]にこぎつけた。1964年4月、日綿實業を中心に日商と岩井産業を加えた3商社、それに三和銀行・東洋信託銀行・日本興業銀行・神戸銀行・日本勧業銀行の5銀行が出資し、資本金1億円[117]のオリエントリースが大阪市に設立された。1971年時点の大株主は日綿實業と日商岩井がそれぞれ20%、三和銀行が8%[118]という構成である。同社は現在のオリックス[119]にあたる。

  • 証券 1971年23(5)(266)「新規上場会社紹介 オリエントリース株式会社」
    • [115]日綿実業は1962年ごろから米国最大のリース会社USリーシング社を通じてリースの研究を開始した
    • [116]設立の主体となった日綿実業は欧米で急速に発展していたリース産業の将来性に着目し、主力銀行である三和銀行の協力のもとで企業化を図った
    • [117]1964年4月に日綿実業を中心とする3商社5銀行の出資により資本金1億円でオリエントリースが大阪市に設立された
    • [118]1971年時点の大株主は日綿実業20.00%、日商岩井20.00%、三和銀行8.00%だった
    • [119]オリエントリースの顧客開拓は株主である日綿実業・日商岩井の営業網を利用する方法が柱の一つで、1970年9月期には仕入総額の45.3%を2商社経由が占めた

社会主義圏との商いでも先行[120]した。1958年、南郷三郎相談役が中国を訪れて毛沢東主席と会談し[121]、1960年には日本の大手商社として初めて中国友好商社の指定を受けた[122]。国交回復前の中国市場は実態がつかめず[123]、他の大手が動きにくい相手である。1967年[124]にはソビエトおよびポーランドと鉄鉱石と石炭の大量輸入契約を結び、南ヤクート炭田の開発では日商岩井とともに主導する立場に立った。原料の輸入で外商に頼らないという設立時の発想は、このとき資源国との直接取引となって戻ってきた。のちに経営統合する相手と同じ案件で組んでいた点も、二社の距離をよく示していた。

    • [120]中国友好商社の指定やソ連・ポーランドとの長期契約で社会主義圏との取引を先行させた
    • [121]1958年に南郷相談役が訪中し毛沢東と会談した
    • [122]1960年に日本の大手商社として初めて中国友好商社に指定された
    • [124]1967年にソビエト・ポーランドとそれぞれ鉄鉱石と石炭の大量輸入契約を締結し、南ヤクート炭田開発を日商岩井とともに主導した
  • 週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨/ニチメン社長」
    • [123]国交正常化前の中国市場は実態がまるで分からない相手だった
  • 証券 1971年23(5)(266)「新規上場会社紹介 オリエントリース株式会社」
    • [115]日綿実業は1962年ごろから米国最大のリース会社USリーシング社を通じてリースの研究を開始した
    • [116]設立の主体となった日綿実業は欧米で急速に発展していたリース産業の将来性に着目し、主力銀行である三和銀行の協力のもとで企業化を図った
    • [117]1964年4月に日綿実業を中心とする3商社5銀行の出資により資本金1億円でオリエントリースが大阪市に設立された
    • [118]1971年時点の大株主は日綿実業20.00%、日商岩井20.00%、三和銀行8.00%だった
    • [119]オリエントリースの顧客開拓は株主である日綿実業・日商岩井の営業網を利用する方法が柱の一つで、1970年9月期には仕入総額の45.3%を2商社経由が占めた
    • [120]中国友好商社の指定やソ連・ポーランドとの長期契約で社会主義圏との取引を先行させた
    • [121]1958年に南郷相談役が訪中し毛沢東と会談した
    • [122]1960年に日本の大手商社として初めて中国友好商社に指定された
    • [124]1967年にソビエト・ポーランドとそれぞれ鉄鉱石と石炭の大量輸入契約を締結し、南ヤクート炭田開発を日商岩井とともに主導した
  • 週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨/ニチメン社長」
    • [123]国交正常化前の中国市場は実態がまるで分からない相手だった

上位六社に届かなかった規模と、棲みわけという答え

総合商社の将来には当時から疑い[125]がかけられていた。1961年、東洋大学の御園生教授が「総合商社は斜陽であるか」と題する論文を発表し[126]、売上高利益率が年々低下していること、産業資本が巨大化してメーカーが販売網を整えれば問屋が排除されることを理由に、コミッションマーチャントである総合商社は斜陽化せざるをえないと論じた[127]。商社首脳は強い危機感を抱いた[128]が、結果は逆に出る。1965年度から1974年度までの10年間に、三菱商事から兼松までのいわゆる九大商社の取扱高は年率24%で伸び、名目GNPの年率17%[129]を大きく上回った。斜陽論が外れたのは、商社の機能を個別[130]に切り離して見ていたためだとみられる。

  • 日本産業史3(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-多様化でリスクに挑戦」
    • [125]1961年の商社斜陽論は総合商社の将来に疑問を投げかけた
    • [126]1961年に東洋大学の御園生教授が「総合商社は斜陽であるか」と題する論文を発表した
    • [127]斜陽論の骨子は売上高利益率の低下とメーカーの販売網整備による問屋排除で、コミッションマーチャントたる総合商社は斜陽化せざるを得ないというものだった
    • [128]御園生論文は説得性があり商社首脳は強い危機感を抱いたが、結果は商社の飛躍となった
    • [129]1965年度から1974年度の10年間に九大商社の取扱高は年率24%で伸び、名目GNPの年率17%を上回った
    • [130]斜陽論が外れたのは商社の機能をそれぞれ独立したものとしてとらえた点にあり、機能は有機的に結合して初めて力を発揮する

業界全体が伸びる一方で、社内順位は下がった[131]。1957年に江商を抜いた住友商事は、1966年[132]に日綿實業を追い抜いて六大商社の一つとなる。丸永と田附を合併して規模を積み増しても、財閥系の資金力と系列取引には届かなかった。日経ビジネスは日綿實業を「下位総合商社が示す棲みわけの知恵」(日経ビジネス 1979/1/29)[133]と見出しに掲げた。上位を追うのではなく、上位が手を出しにくい商圏で稼ぐ会社という見立てである。中国とソビエト、リース、繊維の川下といった選び方[134]は、規模で勝てない会社が採りうる合理的な道だった。この棲みわけが通用する条件は、商社の収益が取扱高ではなく個別の商権から生まれることにある。1980年代の環境変化は、まずこの前提のほうを崩した。

  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)4章 物産の解散と再出発
    • [131]住友商事が1966年に日綿を追い抜き六大商社の一つとなった
    • [132]住友商事は1957年に江商を抜いて8位に進出し、1966年に日綿を追い抜いて六大商社の一つとなった
  • 日経ビジネス 1979年1月29日号 No.232「日綿実業。下位総合商社が示す“棲みわけ”の知恵」
    • [133]1979年1月の日経ビジネスは日綿実業を「下位総合商社が示す“棲みわけ”の知恵」として取り上げた
    • [134]中国・ソビエトとの取引、リース事業、繊維の川下は上位商社が手薄な領域だった
  • 日本産業史3(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-多様化でリスクに挑戦」
    • [125]1961年の商社斜陽論は総合商社の将来に疑問を投げかけた
    • [126]1961年に東洋大学の御園生教授が「総合商社は斜陽であるか」と題する論文を発表した
    • [127]斜陽論の骨子は売上高利益率の低下とメーカーの販売網整備による問屋排除で、コミッションマーチャントたる総合商社は斜陽化せざるを得ないというものだった
    • [128]御園生論文は説得性があり商社首脳は強い危機感を抱いたが、結果は商社の飛躍となった
    • [129]1965年度から1974年度の10年間に九大商社の取扱高は年率24%で伸び、名目GNPの年率17%を上回った
    • [130]斜陽論が外れたのは商社の機能をそれぞれ独立したものとしてとらえた点にあり、機能は有機的に結合して初めて力を発揮する
  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)4章 物産の解散と再出発
    • [131]住友商事が1966年に日綿を追い抜き六大商社の一つとなった
    • [132]住友商事は1957年に江商を抜いて8位に進出し、1966年に日綿を追い抜いて六大商社の一つとなった
  • 日経ビジネス 1979年1月29日号 No.232「日綿実業。下位総合商社が示す“棲みわけ”の知恵」
    • [133]1979年1月の日経ビジネスは日綿実業を「下位総合商社が示す“棲みわけ”の知恵」として取り上げた
    • [134]中国・ソビエトとの取引、リース事業、繊維の川下は上位商社が手薄な領域だった

1982年〜 ニチメンへの改称と、手形事件が露わにした与信管理

  1. 1982年 ニチメンに商号変更
  2. 1994年 子会社ニチメン・インフィニティが株式を上場
  3. 1999年 手形取引による最大100億円の損失計上と、事業仕分け「そうや」・カンパニー制の導入 商社機能そのものである信用供与を、社内でどう管理し直すか——半年見逃された手形乱発の後始末
  4. 2000年 半林亨氏が社長に就任
  5. 2001年 トーメンの農薬事業と統合し合弁会社を設立
  6. 2002年 連結有利子負債が1兆0207億円に減少
  7. 2003年 株式移転によりニチメン・日商岩井ホールディングスの完全子会社へ

繊維11.6%での改称と、下位四社に落ちた収益力

1982年、日綿實業は商号をニチメンへ改めた[135]。1950年代から急ピッチで進めた総合商社化の結果[136]、1982年の売上高比率は金属・燃料34%、機械・建設25.4%、食糧14.4%と続き、創業以来の繊維は11.6%まで下がっていた[137]。創立90周年を控えて[138]の改称である。1943年に綿花の二字を外して日綿實業となり[139]、1982年には日綿の二字も外れた。二度の改称はどちらも事業構成の後追いであり、社名が実態に合わなくなるたびに看板を書き換えてきた会社だった。もっとも、綿花商社としての出自を捨てたぶん、この会社が何を得意とするのかを一語で言い表す手立ても失われた。

    • [135]1982年に商号を日綿實業からニチメンへ変更した
    • [136]1950年代から総合商社化を急ピッチで進め、創立90周年を控えた1982年に社名を変更した
    • [137]1982年の売上高比率は金属・燃料34%、機械・建設25.4%、食糧14.4%、繊維11.6%だった
    • [138]創立90周年を控えた1982年に社名を変更した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [139]1943年4月に日本綿花から日綿實業へ社名を変更していた

改称の3年後、商社の序列が動いた[140]。1985年9月[141]のプラザ合意で円が急騰し、日本経済は円高不況に入る。1985年度の売上順位は三菱商事・三井物産・伊藤忠商事・住友商事・丸紅・日商岩井だったが、翌1986年[142]度には伊藤忠・住友・丸紅・三井・三菱・日商岩井へと劇的に入れ替わった。より重いのは収益力の差である。1985年と1990年の経常利益を比べると、水準が大きく上昇したのは三菱・三井・住友の旧財閥系3社[143]で、低下したのは日商岩井・トーメン・ニチメン・兼松の下位四社だった。伊藤忠と丸紅はほぼ横ばい[144]である。ニチメンはこの時期、規模でも収益力でも下位四社の一角[145]に沈んだ。

  • 日本産業史4(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-新たなビジネスチャンスを求めて」
    • [140]1986年度に商社の売上順位が劇的に入れ替わった
    • [141]1985年9月のプラザ合意でドル高是正が決まり円が急騰、日本経済は円高不況に突入した
    • [142]1985年度の売上順位は三菱商事・三井物産・伊藤忠・住友・丸紅・日商岩井だったが1986年度に伊藤忠・住友・丸紅・三井・三菱・日商岩井へ変化した
    • [143]1985年と1990年の経常利益を比較すると三菱・三井・住友の旧財閥系3社が上昇し、日商岩井・トーメン・ニチメン・兼松の下位四社が低下、伊藤忠と丸紅は横ばいだった
    • [144]伊藤忠と丸紅の経常利益はほぼ横ばいの水準だった
    • [145]1985年から1990年にかけて経常利益が低下したのは日商岩井・トーメン・ニチメン・兼松の下位四社である

収益力の差を埋める手として、商社は金融へ向かった[146]。金融自由化により内外を問わず低利の資金を調達して有利に運用できるようになり、各社は財務部門をコストセンターから利益を生む営業部門へ改めた[147]。総合商社はマーチャント・バンクをめざすべきだという路線が掲げられ、財務活動を本体から切り離した専門の金融子会社[148]をつくる動きも出る。しかしバブルが崩壊すると、第二の営業と期待した財務戦略はことごとく破綻し、各社は巨額[149]の含み損を抱えた。1998年12月時点で、財務良好とされたニチメンでさえ株式の含み損は439億円[150]あり、これを表面化させれば剰余金が消えてなくなる水準だった。渡利陽社長は当時、生き残るために何が必要かが経営の最重要ポイント[151]だと語っている。

  • 日本産業史4(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-新たなビジネスチャンスを求めて」
    • [146]金融自由化を背景に商社は為替や債券のディーリングに乗り出した
    • [147]金融自由化で商社は低利資金を調達し有利に運用できるようになり、財務部門をコストセンターからプロフィットセンターへ営業部門化した
    • [148]「総合商社はマーチャント・バンクを目指すべき」という路線が打ち出され、財務活動を切り離した金融子会社を作る動きが出た
    • [149]バブル崩壊で第二の営業と期待した財務戦略がことごとく破綻し巨額の含み損を抱えた
  • 週刊東洋経済 1998年12月26日号「2002年に勝ち残る会社の条件 商社」
    • [150]1998年12月時点でニチメンの株式含み損は439億円で、表面化させれば剰余金が消える水準だった
    • [151]ニチメンの渡利陽社長は「生き残るために何が必要か。経営の最重要ポイントがそれ」と述べた
    • [135]1982年に商号を日綿實業からニチメンへ変更した
    • [136]1950年代から総合商社化を急ピッチで進め、創立90周年を控えた1982年に社名を変更した
    • [137]1982年の売上高比率は金属・燃料34%、機械・建設25.4%、食糧14.4%、繊維11.6%だった
    • [138]創立90周年を控えた1982年に社名を変更した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [139]1943年4月に日本綿花から日綿實業へ社名を変更していた
  • 日本産業史4(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-新たなビジネスチャンスを求めて」
    • [140]1986年度に商社の売上順位が劇的に入れ替わった
    • [141]1985年9月のプラザ合意でドル高是正が決まり円が急騰、日本経済は円高不況に突入した
    • [142]1985年度の売上順位は三菱商事・三井物産・伊藤忠・住友・丸紅・日商岩井だったが1986年度に伊藤忠・住友・丸紅・三井・三菱・日商岩井へ変化した
    • [143]1985年と1990年の経常利益を比較すると三菱・三井・住友の旧財閥系3社が上昇し、日商岩井・トーメン・ニチメン・兼松の下位四社が低下、伊藤忠と丸紅は横ばいだった
    • [144]伊藤忠と丸紅の経常利益はほぼ横ばいの水準だった
    • [145]1985年から1990年にかけて経常利益が低下したのは日商岩井・トーメン・ニチメン・兼松の下位四社である
    • [146]金融自由化を背景に商社は為替や債券のディーリングに乗り出した
    • [147]金融自由化で商社は低利資金を調達し有利に運用できるようになり、財務部門をコストセンターからプロフィットセンターへ営業部門化した
    • [148]「総合商社はマーチャント・バンクを目指すべき」という路線が打ち出され、財務活動を切り離した金融子会社を作る動きが出た
    • [149]バブル崩壊で第二の営業と期待した財務戦略がことごとく破綻し巨額の含み損を抱えた
  • 週刊東洋経済 1998年12月26日号「2002年に勝ち残る会社の条件 商社」
    • [150]1998年12月時点でニチメンの株式含み損は439億円で、表面化させれば剰余金が消える水準だった
    • [151]ニチメンの渡利陽社長は「生き残るために何が必要か。経営の最重要ポイントがそれ」と述べた

一〇〇億円の手形損失と、堅実という評価の崩れ方

1999年6月、その評価が崩れた[152]。ニチメンは複雑な手形取引に巻き込まれ、最大で100億円[153]の損失を負うことになる。相手は大阪の機械メーカー、帝菱産業だった。1996年6月に取引を始めたが、1998年3月の内部監査で複数企業間の手形チェーン取引の疑いがかかり、この時点で取引は打ち切られたはずだった[155]。ところが担当した課長は入れ替わりに、全身プリクラの製造会社トーワジャパンとの取引を始める[156]。トーワジャパンは1999年5月に負債202億円[157]を抱えて自己破産を申請しており、その背景には数十社を相手とする融通手形取引の破綻があった。帝菱産業も1999年6月17日に和議を申請し[158]、この取引に深く関わっていた。 [154]

  • 週刊東洋経済 1999年7月3日号「ニチメン巨額損失発生 手形事件の深い闇」
    • [152]1999年6月にニチメンの手形取引をめぐる巨額損失が表面化した
    • [153]ニチメンがかぶる損は最大で100億円に上るとされた
    • [154]ニチメンは1996年6月に大阪の機械メーカー帝菱産業と取引を開始した
    • [155]1998年3月の内部監査で複数企業間のチェーン取引の疑いがかかり帝菱産業との取引は打ち切られたはずだった
    • [156]担当課長は入れ替わりに全身プリクラ製造会社トーワジャパンとの取引を始めた
    • [157]トーワジャパンは1999年5月に負債202億円で自己破産を申請し、背景に数十社を相手とする融通手形取引の破綻があった
    • [158]帝菱産業は1999年6月17日に和議を申請した

問題は損失額ではなく、その通り方にあった。トーワジャパン周辺の業者が倒れ始めた1998年11月から、課長は自分の権限を超えて100本[159]近い手形を乱発した。取引に実体がないことが明白になり、課長が会社へ告白したのは1999年4月だった。半年にわたってニチメンの点検機関は異常を見逃していたことになる。取引先への信用供与と金融仲介は商社機能そのものであり[161]、そこで社内の与信管理が働かなかったという事実は、扱い高の大きさとは別の弱さを示していた。「あの堅い会社がなぜ」(週刊東洋経済 1999/7/3)[162]が当時の業界の受け止め方である。事件はニチメン一社の不始末にとどまらず、デフレ下の商社にリスク管理能力があるのかという問い[163]を業界へ投げ返した。 [160]

  • 週刊東洋経済 1999年7月3日号「ニチメン巨額損失発生 手形事件の深い闇」
    • [159]1998年11月から課長は権限を超えて100本近い手形を乱発した
    • [160]課長が会社に取引内容を告白したのは1999年4月で、半年にわたりチェック機関が異常を見逃していた
    • [161]取引先への信用供与と金融仲介は商社機能そのものであり、デフレ時代に通用するリスク管理能力があるのかが問われた
    • [162]総合商社ニチメンが巨額の損を出すというニュースに「あの堅い会社がなぜ」と業界人は首をひねった
    • [163]この事件は商社の行方を占ううえで象徴的な事件と評された

事件の年、ニチメンは事業の絞り込みに入った[164]。渡利陽社長は事業全般を本体で育てる、グループ会社に移す、やめるの三つに仕分ける「そうや」を全社で進め[165]、繊維部門では本体の商いを高機能繊維の輸出に絞って人員を50%減らした[166]。1999年9月[167]中間決算は連結ベースの粗利率が過去最高となり、総合商社で唯一の連結純益増となる。渡利社長は総合商社を「あらゆるジャンルにアプローチする能力を持った企業体[168]」(週刊東洋経済 1999/12/25)と定義し、普通鋼をやめても特殊鋼を続ければメーカーやユーザーとのパイプは維持できると説明した。2000年4月[169]には営業部門を三つに束ねたカンパニー制を導入した。

  • 週刊東洋経済 1999年12月25日号「ザ・トーク 渡利陽」
    • [164]1999年に全社で「そうや」を進め事業の選択と集中に取り組んだ
    • [165]「そうや」は事業全般を本体で育てる・グループ会社に移す・やめるの三つで見直す活動である
    • [166]繊維部門は本体で手掛ける事業を高機能繊維の輸出に絞り人員を50%削減した
    • [167]1999年9月中間決算は総合商社で唯一連結純益が増益となり、連結ベースの粗利率が過去最高になった
    • [168]渡利陽社長は総合商社を「あらゆるジャンルにアプローチする能力を持った企業体」と定義し、普通鋼をやめても特殊鋼を続ければパイプは維持できると述べた
    • [169]2000年4月から営業部門を三つにくくったカンパニー制を導入した
  • 週刊東洋経済 1999年7月3日号「ニチメン巨額損失発生 手形事件の深い闇」
    • [152]1999年6月にニチメンの手形取引をめぐる巨額損失が表面化した
    • [153]ニチメンがかぶる損は最大で100億円に上るとされた
    • [154]ニチメンは1996年6月に大阪の機械メーカー帝菱産業と取引を開始した
    • [155]1998年3月の内部監査で複数企業間のチェーン取引の疑いがかかり帝菱産業との取引は打ち切られたはずだった
    • [156]担当課長は入れ替わりに全身プリクラ製造会社トーワジャパンとの取引を始めた
    • [157]トーワジャパンは1999年5月に負債202億円で自己破産を申請し、背景に数十社を相手とする融通手形取引の破綻があった
    • [158]帝菱産業は1999年6月17日に和議を申請した
    • [159]1998年11月から課長は権限を超えて100本近い手形を乱発した
    • [160]課長が会社に取引内容を告白したのは1999年4月で、半年にわたりチェック機関が異常を見逃していた
    • [161]取引先への信用供与と金融仲介は商社機能そのものであり、デフレ時代に通用するリスク管理能力があるのかが問われた
    • [162]総合商社ニチメンが巨額の損を出すというニュースに「あの堅い会社がなぜ」と業界人は首をひねった
    • [163]この事件は商社の行方を占ううえで象徴的な事件と評された
  • 週刊東洋経済 1999年12月25日号「ザ・トーク 渡利陽」
    • [164]1999年に全社で「そうや」を進め事業の選択と集中に取り組んだ
    • [165]「そうや」は事業全般を本体で育てる・グループ会社に移す・やめるの三つで見直す活動である
    • [166]繊維部門は本体で手掛ける事業を高機能繊維の輸出に絞り人員を50%削減した
    • [167]1999年9月中間決算は総合商社で唯一連結純益が増益となり、連結ベースの粗利率が過去最高になった
    • [168]渡利陽社長は総合商社を「あらゆるジャンルにアプローチする能力を持った企業体」と定義し、普通鋼をやめても特殊鋼を続ければパイプは維持できると述べた
    • [169]2000年4月から営業部門を三つにくくったカンパニー制を導入した

有利子負債1兆円への圧縮と、111年目に消えた社名

2000年10月[170]、半林亨氏が社長に就いた。1959年に日綿実業へ入った商社マンで、海外出張回数は280[171]に迫る。「私がやるべきことは、一にも二にも営業力の強化だ」(週刊東洋経済 2000/10/28)[172]と語り、事業の選択と集中と、他商社とのアライアンスによる収益力の向上を掲げた。半林社長の入社時に業界5位だったニチメンは、このとき売上規模で商社の8位[173]、債務免除を受けた兼松とトーメンが専門商社集団へ転じたあとでは総合商社の最下位である。アライアンスは二つの相手で具体化[174]した。2001年1月[175]、トーメンは主力の農薬を含むライフサイエンス事業をニチメンの同部門と統合すると発表する。統合会社への出資は両社が各40%で、対象分野の2001年3月期の経常利益予想はトーメン58億円、ニチメン22億円[176]だった。

  • 週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨/ニチメン社長」
    • [170]半林亨は2000年10月に社長へ昇格した
    • [171]1959年4月に日綿実業へ入社し、海外出張回数は280に迫った
    • [172]半林亨は「私がやるべきことは、一にも二にも営業力の強化だ」と述べ、事業の選択と集中と他商社とのアライアンスによる収益力向上を掲げた
    • [173]半林亨の入社時にニチメンは商社業界で5位、2000年時点では売上規模で商社の8位、総合商社では最下位だった
  • 週刊東洋経済 2001年1月20日号「崖っぷちのトーメンが主力の農薬をニチメンと統合」
    • [174]トーメンとの農薬事業統合と日商岩井とのIT事業統合が実行された
    • [175]2001年1月にトーメンが主力事業である農薬を含むライフサイエンス事業をニチメンの同部門と統合すると発表した
    • [176]統合会社にはトーメンとニチメンが各40%を出資し、統合対象分野の2001年3月期経常利益予想はトーメン58億円・ニチメン22億円だった

もう一方の相手は日商岩井[177]だった。2000年9月、ニチメンは情報産業関連子会社をすべてITXへ売却し、得た資金420億円[178]でITXに出資する。日商岩井がITX株をニチメンへ売り、ニチメンが子会社5社をITXへ売って、双方が約400億円の特別利益を計上した取引[179]である。合成樹脂や化学品でも同じやり方が続き、両社が計上した特別利益は総額1270億円余り、自己資本の7[180]割弱に達した。週刊東洋経済はこれを事業のキャッチボールと評し、決算対策ではないかといぶかる向きが多い[181]と伝えた。同じ時期、ニチメンは2001年9月末の連結有利子負債1兆1599億円を1兆円へ圧縮する計画を掲げ、東京本社ビルの売却と500億円のコミットメントライン設定を準備した[182]。残高は2002年3月末に1兆0207億円[183]まで下がった。

  • 週刊東洋経済 2002年11月2日号「『生殺し』の過大借金企業」
    • [177]ニチメンと日商岩井はITX株と子会社の売買を通じて事業を統合した
    • [179]日商岩井が情報産業子会社ITXの株式をニチメンに売却し、ニチメンが子会社5社をITXに売却して双方が約400億円の特別利益を計上した
    • [180]合成樹脂や化学品でも両社の出資による新会社へ事業を譲渡する形が続き、計上された特別利益は総額1270億円余りで両社の自己資本の7割弱に相当した
  • 週刊東洋経済 2001年12月8日号「墜ちる会社 粘る経営」
    • [178]2000年9月にニチメンは情報産業関連子会社をすべてITXに売却し、得た資金420億円でITXに出資した
    • [182]2001年9月末の連結有利子負債1兆1599億円を2003年3月期までに1兆円へ圧縮する計画を掲げ、東京本社ビルの売却と500億円のコミットメントライン設定を準備した
  • 週刊東洋経済 2002年11月2日号「『生殺し』の過大借金企業」/同 2002年10月19日号「竹中ショック 市場が狙い撃つ5社レポート」
    • [181]同じUFJ銀行系列のニチメンとの相次ぐ提携は「事業のキャッチボール」と評され、決算対策ではないかといぶかる向きが多かった
  • 週刊東洋経済 2002年6月1日号「ニチメン社長より14歳若いナンバー2誕生」
    • [183]2002年3月末の有利子負債残高は1兆0207億円だった

2003年4月[184]、ニチメンと日商岩井は株式移転により共同の持株会社ニチメン・日商岩井ホールディングスを設立し、その完全子会社となった。両社の株式は上場を廃止され、持株会社の普通株式が東京証券取引所と大阪証券取引所に上場[185]された。2004年4月[186]、子会社となっていたニチメンと日商岩井は合併し、商号を双日とした。1892年に在阪の紡績四社と財界人がつくった日本綿花は、日綿實業、ニチメンと二度名を替えたのち、創立から111年[187]目に上場を、その翌年に社名を失った。残ったのは商権と海外店網、そして人である。外商から綿花を取り返すためにつくられた会社は、最後はUFJ系列という共通項のもとで進んだ再編のなかで消えた。

  • 双日 有価証券報告書 第3期【沿革】
    • [184]2003年4月にニチメンと日商岩井が株式移転によりニチメン・日商岩井ホールディングスを設立し、普通株式を東京証券取引所および大阪証券取引所に上場した
    • [185]持株会社の普通株式が東京証券取引所および大阪証券取引所に上場された
    • [186]2004年4月に子会社のニチメンと日商岩井が合併し商号を双日とした
    • [187]日本綿花は1892年11月に設立され、1943年に日綿實業、1982年にニチメンへ商号を変更した
  • 週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨/ニチメン社長」
    • [170]半林亨は2000年10月に社長へ昇格した
    • [171]1959年4月に日綿実業へ入社し、海外出張回数は280に迫った
    • [172]半林亨は「私がやるべきことは、一にも二にも営業力の強化だ」と述べ、事業の選択と集中と他商社とのアライアンスによる収益力向上を掲げた
    • [173]半林亨の入社時にニチメンは商社業界で5位、2000年時点では売上規模で商社の8位、総合商社では最下位だった
  • 週刊東洋経済 2001年1月20日号「崖っぷちのトーメンが主力の農薬をニチメンと統合」
    • [174]トーメンとの農薬事業統合と日商岩井とのIT事業統合が実行された
    • [175]2001年1月にトーメンが主力事業である農薬を含むライフサイエンス事業をニチメンの同部門と統合すると発表した
    • [176]統合会社にはトーメンとニチメンが各40%を出資し、統合対象分野の2001年3月期経常利益予想はトーメン58億円・ニチメン22億円だった
  • 週刊東洋経済 2002年11月2日号「『生殺し』の過大借金企業」
    • [177]ニチメンと日商岩井はITX株と子会社の売買を通じて事業を統合した
    • [179]日商岩井が情報産業子会社ITXの株式をニチメンに売却し、ニチメンが子会社5社をITXに売却して双方が約400億円の特別利益を計上した
    • [180]合成樹脂や化学品でも両社の出資による新会社へ事業を譲渡する形が続き、計上された特別利益は総額1270億円余りで両社の自己資本の7割弱に相当した
  • 週刊東洋経済 2001年12月8日号「墜ちる会社 粘る経営」
    • [178]2000年9月にニチメンは情報産業関連子会社をすべてITXに売却し、得た資金420億円でITXに出資した
    • [182]2001年9月末の連結有利子負債1兆1599億円を2003年3月期までに1兆円へ圧縮する計画を掲げ、東京本社ビルの売却と500億円のコミットメントライン設定を準備した
  • 週刊東洋経済 2002年11月2日号「『生殺し』の過大借金企業」/同 2002年10月19日号「竹中ショック 市場が狙い撃つ5社レポート」
    • [181]同じUFJ銀行系列のニチメンとの相次ぐ提携は「事業のキャッチボール」と評され、決算対策ではないかといぶかる向きが多かった
  • 週刊東洋経済 2002年6月1日号「ニチメン社長より14歳若いナンバー2誕生」
    • [183]2002年3月末の有利子負債残高は1兆0207億円だった
  • 双日 有価証券報告書 第3期【沿革】
    • [184]2003年4月にニチメンと日商岩井が株式移転によりニチメン・日商岩井ホールディングスを設立し、普通株式を東京証券取引所および大阪証券取引所に上場した
    • [185]持株会社の普通株式が東京証券取引所および大阪証券取引所に上場された
    • [186]2004年4月に子会社のニチメンと日商岩井が合併し商号を双日とした
    • [187]日本綿花は1892年11月に設立され、1943年に日綿實業、1982年にニチメンへ商号を変更した

ニチメンの沿革1892〜2003年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
外商依存から脱するための綿花直輸入機関、日本綿花の設立神戸の外国商から買い続けるか、自前の輸入機関を持つか——在阪の紡績4社が100万円を掲げた1892年 詳細を読む★★★
米国綿の直買を開始★★
上海支店を開設し華中・満州へ綿糸布の輸出を開始★★
ボンベイ出張所を支店に昇格
資本金を5000万円に増資
欧州にメンカ・ゲゼルシャフトを設立し第三国間取引を拡大★★
会社の浮沈にかかわる大欠損を計上★★
喜多又蔵社長の死去にともない南郷三郎氏が社長に就任
潮崎喜八郎氏が社長に就任
日綿實業に商号変更★★
敗戦により在外資産の全てを喪失★★
朝鮮動乱を機に業績が急伸
資本金を4億円に増資
繊維商社・丸永の吸収合併と、資本金4億3000万円への増強同業を取り込んで規模を先に作るか、専門商社にとどまるか——総合商社化をめぐる最初の集中 詳細を読む★★★
南郷三郎相談役が訪中し毛沢東主席と会談
田附を合併★★
米マックレガー社の商品独占使用権を取得
3商社5銀行の出資でオリエントリース(現オリックス)を設立★★
ソ連・ポーランドと鉄鉱石・石炭の大量輸入契約を締結
非繊維の取扱比率が65%を占め総合商社化が進展★★
ニチメンに商号変更★★
子会社ニチメン・インフィニティが株式を上場
手形取引による最大100億円の損失計上と、事業仕分け「そうや」・カンパニー制の導入商社機能そのものである信用供与を、社内でどう管理し直すか——半年見逃された手形乱発の後始末 詳細を読む★★★
半林亨氏が社長に就任
トーメンの農薬事業と統合し合弁会社を設立★★
連結有利子負債が1兆0207億円に減少
出典・参考
  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-重い外商のクサリ」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-アジア市場にぎる」
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)5章 物産、商事の再興成る
  • 双日歴史館「日綿實業・ニチメン」
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」/私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)6章 高度成長期の商社活動
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」
  • 証券 1971年23(5)(266)「新規上場会社紹介 オリエントリース株式会社」
  • 週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨/ニチメン社長」
  • 日本産業史3(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-多様化でリスクに挑戦」
  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)4章 物産の解散と再出発
  • 日経ビジネス 1979年1月29日号 No.232「日綿実業。下位総合商社が示す“棲みわけ”の知恵」
  • 双日歴史館「日綿實業からニチメンへ」
  • 日本産業史4(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-新たなビジネスチャンスを求めて」
  • 週刊東洋経済 1998年12月26日号「2002年に勝ち残る会社の条件 商社」
  • 週刊東洋経済 1999年7月3日号「ニチメン巨額損失発生 手形事件の深い闇」
  • 週刊東洋経済 1999年12月25日号「ザ・トーク 渡利陽」
  • 週刊東洋経済 2001年1月20日号「崖っぷちのトーメンが主力の農薬をニチメンと統合」
  • 週刊東洋経済 2002年11月2日号「『生殺し』の過大借金企業」
  • 週刊東洋経済 2001年12月8日号「墜ちる会社 粘る経営」
  • 週刊東洋経済 2002年11月2日号「『生殺し』の過大借金企業」/同 2002年10月19日号「竹中ショック 市場が狙い撃つ5社レポート」
  • 週刊東洋経済 2002年6月1日号「ニチメン社長より14歳若いナンバー2誕生」
  • 双日 有価証券報告書 第3期【沿革】

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