ニチメン の歴史

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創業 1892年
創業者
創業地 大阪府
創業・決断・現況・競合について
創業
1892年11月10日、大阪で日本綿花が創立総会を開催した。摂津・平野・尼崎・天満の四紡績を中心に綿花商など有力財界人25名が発起人となり、公称資本金100万円で紡績各社の共同出資で綿花の直輸入機関を設立した。原料綿の輸入を神戸在留の外国商が握り、その値決めに従うほかない状態を変えるためである。設立の4年後、1896年に綿花輸入税が撤廃され、原綿の海外依存は決定的になった。1943年4月に綿花の二字を外して日綿實業へ、1982年には日綿の二字も外してニチメンへ改称している。二度の改称はどちらも事業構成の後追いであり、綿花商社という出自を手放した代わりに、この会社が何を得意とするのかを一語で示す手立ても失われた。
決断
事業の輪郭を決めたのは、いつも社外からの要請だった。設立が在阪紡績四社の共同出資だったのに続き、1954年11月には繊維商社の丸永を吸収合併し、資本金を4億3000万円へ増強した。政府が1952年から商社強化策を重要施策に据え、業界では関西五綿を主軸とする集中が動き出した局面での合併である。1960年に田附を合併し、1968年には非繊維の取扱比率が65%に達した。1982年の売上構成は金属・燃料34%、機械・建設25.4%、食糧14.4%と続き、創業以来の繊維は11.6%まで下がっている。総合商社の体裁は整ったが、どの商品で他社に優位を得るのかは最後まで定まらなかった。
現況
現在この社名を持つ法人は残っていない。1999年6月、手形取引で最大100億円の損失を計上し、カンパニー制へ組み替えた。1996年に取引を開始した相手をめぐって内部監査が疑いを持ちながら、担当課長は入れ替わりに別の取引先との手形を1998年11月から乱発し、本人が告白する1999年4月まで半年にわたって点検機関は異常を見逃していた。堅実な商社という評価はこの一件で崩れる。2002年3月に連結有利子負債を1兆0207億円まで縮めたものの単独では立ち行かず、2003年4月に日商岩井と共同持株会社を設立して上場を廃止した。翌2004年4月、日商岩井との合併で商号は双日となった。
競合
下位四社の一角として、規模でも収益力でも後退した。1985年9月のプラザ合意による円高不況を境に商社の序列は動き、1985年度に三菱商事三井物産伊藤忠商事住友商事丸紅日商岩井だった売上順位は、翌年度に伊藤忠・住友・丸紅・三井・三菱・日商岩井へ入れ替わった。1985年と1990年の経常利益を比べると、水準が上がったのは三菱・三井・住友の旧財閥系3社で、下がったのは日商岩井トーメン・ニチメン・兼松である。1977年に伊藤忠商事が銀行の求めで安宅産業を引き受けたように、下位の淘汰はすでに始まっていた。淘汰の順序を決めたのは商社どうしの業績差ではなく主力銀行の再編で、ニチメンは日商岩井と同じUFJの側に置かれた。
長期業績の推移 1949〜2003年
ニチメン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1957年3月期1985年3月期

1892年〜 外商の手から綿花を取り返すためにつくられた会社

1892年〜紡績四社が出資してつくった綿花の直輸入機関

1858年の通商条約以来、日本の貿易は開港場の居留地で外国商人と日本商人が向き合う商館貿易の形をとった。外商は外国銀行による貿易金融と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握り、治外法権と協定関税がそれを支えた。1881年に原善三郎氏ら生糸売り込み商が横浜へ連合生糸荷預所をつくって商権回復に挑んだときも、外商は預所からの買い付けを拒み、三か月の取引停止のすえ妥協的な条件で決着した。輸入の側でも事情は変わらず、1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功に続いて大規模紡績が相次いで生まれると、原料綿を神戸在留の外国商にたよる紡績業者は、その値決めに従うほかなかった。

  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-重い外商のクサリ」
    • [1]1858年6月に日米通商条約が結ばれ、翌年から開港場で貿易が始まった
    • [2]開港場の居留地で外商と日本商人が取引する形態を居留地貿易・商館貿易と呼んだ
    • [3]外商は外国銀行による貿易金融の掌握と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握った
    • [4]1881年に原善三郎らが横浜へ連合生糸荷預所を設立し、外商との取引が約3か月停止した
    • [5]1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功を機に明治20年前後から大規模紡績が続々と誕生した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [6]当時の紡績業者は神戸在留の外国商に綿花輸入をたより、その暴利のもとにあえいでいた

日本綿花は、この依存から抜けるためにつくられた綿花輸入機関である。摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり、綿花商などの有力財界人25名が発起人に名を連ねて、1892年11月10日に創立総会を開き、12月1日に開業した。公称資本金は100万円、払込は10万円で、創立事務所は大阪市西区靱北通りに置かれた。社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の合わせて19名という小さな陣容で始まり、第1期決算では9,286円余の純益をあげて1割の配当を行った。会社の側から見れば紡績資本の調達機関であり、紡績の側から見れば自前の輸入部門を切り出したものだった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [7]日本綿花は外商依存から脱却し日本人自らの手で直輸入するために設立された
    • [13]在阪の有力紡績会社と財界人の尽力により綿花の直輸入機関として設立された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [8]摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり綿花商など有力財界人25名が発起人となった
    • [9]1892年11月10日に創立総会を開き12月1日に開業した
    • [10]公称資本金100万円・払込10万円で創立事務所は大阪市西区靱北通りにあった
    • [11]創立時の人員は社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の計19名
    • [12]第1期決算で純益9,286円余をあげ1割配当を行った

開業の直後から中国綿とインド綿の取引に入り、1896年には米国綿の直買を始めた。同じ1896年に綿花輸入税が撤廃されて原綿の海外依存が決定的になり、日本の綿業もここから飛躍する。原料を外国商から買うほかなかった紡績業者に、産地から直に買う経路ができたからである。明治30年代には、世界的に品質のよいエジプト綿の輸入にも手を伸ばした。社名の"日本綿花"は綿花と綿糸布の二つを指しており、事業は原料の輸入だけにとどまらなかった。荷印には日の字を図案化した社章を用い、分銅マークと呼ばれたこの印は、海外では Battle axe の名で通っていた

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [14]開業後まもなく中国綿・インド綿の取引を始め1896年に米国綿の直買を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [15]1896年に綿花輸入税が撤廃され原綿の海外依存が決定的になった
    • [16]外国商に対抗する綿花輸入機関として日本綿花が設立された
    • [17]明治30年代に入りエジプト綿の輸入を始めた
    • [18]「日本綿花」という社名は綿糸布と綿花を示していた
    • [19]社章は日の字を図案化した分銅マークで海外では Battle axe と呼ばれた
  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-重い外商のクサリ」
    • [1]1858年6月に日米通商条約が結ばれ、翌年から開港場で貿易が始まった
    • [2]開港場の居留地で外商と日本商人が取引する形態を居留地貿易・商館貿易と呼んだ
    • [3]外商は外国銀行による貿易金融の掌握と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握った
    • [4]1881年に原善三郎らが横浜へ連合生糸荷預所を設立し、外商との取引が約3か月停止した
    • [5]1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功を機に明治20年前後から大規模紡績が続々と誕生した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [6]当時の紡績業者は神戸在留の外国商に綿花輸入をたより、その暴利のもとにあえいでいた
    • [8]摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり綿花商など有力財界人25名が発起人となった
    • [9]1892年11月10日に創立総会を開き12月1日に開業した
    • [10]公称資本金100万円・払込10万円で創立事務所は大阪市西区靱北通りにあった
    • [11]創立時の人員は社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の計19名
    • [12]第1期決算で純益9,286円余をあげ1割配当を行った
    • [15]1896年に綿花輸入税が撤廃され原綿の海外依存が決定的になった
    • [16]外国商に対抗する綿花輸入機関として日本綿花が設立された
    • [17]明治30年代に入りエジプト綿の輸入を始めた
    • [18]「日本綿花」という社名は綿糸布と綿花を示していた
    • [19]社章は日の字を図案化した分銅マークで海外では Battle axe と呼ばれた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [7]日本綿花は外商依存から脱却し日本人自らの手で直輸入するために設立された
    • [13]在阪の有力紡績会社と財界人の尽力により綿花の直輸入機関として設立された
    • [14]開業後まもなく中国綿・インド綿の取引を始め1896年に米国綿の直買を開始した

1903年〜上海と漢口に出て、綿糸布と工場を持った15年

1903年、日本綿花は華中と満州への綿糸布輸出に乗り出し、上海支店を開設した。翌1904年には漢口支店を開設し、綿糸布のほかに雑貨類の取り扱いも始めた。この二つの支店では商いだけでなく、繰綿と紡績、それに豆粕・綿実の工場も経営した。1911年には長江一帯へ出張員を配置し、天津と青島にも支店を開設して華北へ進出した。輸入商社として出発した会社が、十年あまりで日本製綿糸布の輸出者となり、さらに現地の加工業者にもなった。日露戦争後の日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出してインド綿糸と争っていた時期で、輸入商社が輸出と現地加工へ広がる順序は、当時の日本の商社に共通していたとみられる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [20]1903年に華中および満州への綿糸布輸出を始め上海支店を開設した
    • [22]上海・漢口両支店で繰綿・紡績ならびに豆粕・綿実工場を経営した
    • [23]1911年に長江一帯へ出張員を配置し天津・青島に支店を設けて華北へ進出した
    • [24]綿糸布の輸出と現地での繰綿・紡績・豆粕・綿実工場の経営を並行して行った
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [21]1904年に漢口支店を開設し綿糸布のほか雑貨類の取扱いを始めた
  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-アジア市場にぎる」
    • [25]日露戦争後に日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出しインド綿糸と競争した

支店網は中国の外へも伸びた。1906年にニューヨーク出張所、1907年には1897年開設のボンベイ出張所を支店へ昇格させ、綿花の産地と綿製品の市場の双方に拠点を開設した。1916年には南米とビルマへ進出し、羊毛・綿花・米穀の売買と生糸取引に着手した。ニューヨーク支店が扱った生糸は当時の日本の輸出品の筆頭であり、その取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった原料の輸入だけを目的に生まれた会社が、四半世紀のうちに繊維原料と繊維製品の双方を、地球の半分にまたがって動かす商社になっていた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [26]ニューヨーク出張所とボンベイ支店を開設し中国以外へも店を広げた
    • [27]1906年にニューヨーク出張所を開設した
    • [28]1907年にボンベイ支店を開設した(1897年開設の出張所を昇格)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [29]1916年に南米・ビルマへ進出し羊毛・綿花・米穀の売買および生糸取引に着手した
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
    • [30]ニューヨーク支店は生糸を扱っていた
    • [31]当時の日本の輸出の大宗は生糸であり日綿の取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [20]1903年に華中および満州への綿糸布輸出を始め上海支店を開設した
    • [22]上海・漢口両支店で繰綿・紡績ならびに豆粕・綿実工場を経営した
    • [23]1911年に長江一帯へ出張員を配置し天津・青島に支店を設けて華北へ進出した
    • [24]綿糸布の輸出と現地での繰綿・紡績・豆粕・綿実工場の経営を並行して行った
    • [29]1916年に南米・ビルマへ進出し羊毛・綿花・米穀の売買および生糸取引に着手した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [21]1904年に漢口支店を開設し綿糸布のほか雑貨類の取扱いを始めた
    • [26]ニューヨーク出張所とボンベイ支店を開設し中国以外へも店を広げた
    • [27]1906年にニューヨーク出張所を開設した
    • [28]1907年にボンベイ支店を開設した(1897年開設の出張所を昇格)
  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-アジア市場にぎる」
    • [25]日露戦争後に日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出しインド綿糸と競争した
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
    • [30]ニューヨーク支店は生糸を扱っていた
    • [31]当時の日本の輸出の大宗は生糸であり日綿の取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった

1917年〜大戦景気が生んだ第三国間取引と、その反動

第一次大戦の好況が会社の規模を一段と押し上げた。創立25周年にあたる1917年には10割の配当を行い、9月に資本金を5000万円へ増やした。この時期の伸びをつくったのは、創業直後に入社して1917年に社長となった喜多又蔵氏の働きであり、日本綿花は"喜多サンの会社"と呼ばれるまでになった。1920年春にはビルマで精米業に着手し、日本からの輸出だけでなく、米国・インド・中国など海外各店のあいだで完結する第三国間取引にも成果をあげた。欧州にはロンドン・リバプールとドイツのブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを設け、フランスとスペインには代理店を置いて三国貿易にあたらせた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [32]欧州大戦による好況に恵まれ業績が大いに上伸した
    • [35]1920年春にビルマで精米業に着手した
    • [36]米国・インド・中国など海外各店間における第三国間取引に成果を収めた
    • [37]ロンドン・リバプール・ブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを創設しフランス・スペインに代理店を設けた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [33]創立25周年の1917年に10割配当を行い9月に資本金を5000万円とした
    • [34]創業直後に入社し1917年に社長となった喜多又蔵の努力が初期の発展を支え、日本綿花は「喜多サンの会社」と呼ばれた

商いの拡大と並んで、事業会社の設立も続いた。1916年に朝鮮棉花を京城に、1917年に日華製油を漢口に、1920年に東亜製麻を上海に収め、1921年には辻紡績、1924年には漢口の泰安紡績を設立した。満州では協和染織を奉天に、登喜和百貨店を、満洲食品工業をハルピンに擁した。綿花を運ぶ商社から、綿花を紡ぎ、油を搾り、麻を織る会社群の親会社へと広がった20年である。もっとも、この拡大は大戦景気という一時の需要を前提としており、講和後の反動を受け止めるだけの厚みは、まだ会社になかった

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [38]朝鮮棉花・日華製油・東亜製麻・辻紡績・泰安紡績など傘下会社の設立が続いた
    • [39]1916年に朝鮮棉花(京城)、1917年に日華製油(漢口)、1920年に東亜製麻(上海)を傘下に収めた
    • [40]1921年に辻紡績、1924年に泰安紡績(漢口)を設立した
    • [41]満州では協和染織(奉天)・登喜和百貨店・満洲食品工業(ハルピン)などの傍系会社を擁した
    • [42]傘下には紡績(辻紡績・泰安紡績)・製油(日華製油)・製麻(東亜製麻)が並んだ
    • [43]大戦後の経済不況に遭遇したうえ関東大震災の被害も加わり経営不振となった

反動は1920年の戦後恐慌から始まり、1923年の関東大震災による被害がそこへ重なった。会社は経営不振に陥り、大戦中に広げた支店網と事業会社を抱えたまま収益の細る時期へ入った。外商から綿花の商権を取り返すという設立の目的そのものは、1896年の綿花輸入税撤廃と原綿の海外依存の確立によって、創立から4年で達せられた。その後に積み上げた華中の工場、欧州の三国貿易、南米の羊毛、ビルマの精米は、いずれも創立時の発起人が想定した業ではない。取り返した商権を元手に何を業とするのかという問いに、会社はまだ答えを出していなかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [44]大戦後の経済不況と関東大震災の被害により経営不振となった
    • [46]華中の工場経営・欧州での三国貿易・南米の羊毛・ビルマの精米業はいずれも創立後に加えた事業である
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [45]1896年の綿花輸入税撤廃で原綿の海外依存が決定的になった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [32]欧州大戦による好況に恵まれ業績が大いに上伸した
    • [35]1920年春にビルマで精米業に着手した
    • [36]米国・インド・中国など海外各店間における第三国間取引に成果を収めた
    • [37]ロンドン・リバプール・ブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを創設しフランス・スペインに代理店を設けた
    • [38]朝鮮棉花・日華製油・東亜製麻・辻紡績・泰安紡績など傘下会社の設立が続いた
    • [39]1916年に朝鮮棉花(京城)、1917年に日華製油(漢口)、1920年に東亜製麻(上海)を傘下に収めた
    • [40]1921年に辻紡績、1924年に泰安紡績(漢口)を設立した
    • [41]満州では協和染織(奉天)・登喜和百貨店・満洲食品工業(ハルピン)などの傍系会社を擁した
    • [42]傘下には紡績(辻紡績・泰安紡績)・製油(日華製油)・製麻(東亜製麻)が並んだ
    • [43]大戦後の経済不況に遭遇したうえ関東大震災の被害も加わり経営不振となった
    • [44]大戦後の経済不況と関東大震災の被害により経営不振となった
    • [46]華中の工場経営・欧州での三国貿易・南米の羊毛・ビルマの精米業はいずれも創立後に加えた事業である
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [33]創立25周年の1917年に10割配当を行い9月に資本金を5000万円とした
    • [34]創業直後に入社し1917年に社長となった喜多又蔵の努力が初期の発展を支え、日本綿花は「喜多サンの会社」と呼ばれた
    • [45]1896年の綿花輸入税撤廃で原綿の海外依存が決定的になった

1928年〜 日綿實業への改称と、丸永合併という商社統合の実験

1930年〜昭和恐慌が迫った海外支店の整理と、ニューヨークの残留

1926年、29歳の野田岩次郎氏が日本綿花に入った。三井物産で国際結婚を認められずに退いたあと、東京海上の平生釟三郎氏が喜多又蔵社長へ直接話をして入社の労をとった経緯である。横浜支店で生糸を学んだ野田氏はまもなくニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学で生糸の生産と鑑定法を半年学んだうえで、全米48州のほとんどを回って売り込みにあたった。それまで生糸の販売は現地のアメリカ人セールスマンに委ねられており、日本人が直接商談に出るのは新しい試みだった。会社を代表する日本人と契約したほうが安心だという空気が客先に生まれるまで、その土地で最も上等なホテルのロビーを商談の場に選び続けた

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
    • [47]1926年に29歳で日本綿花へ入社した
    • [48]平生釟三郎が喜多又蔵社長に直接話をして日綿への入社を取り持った
    • [49]横浜支店で生糸を学んだのちニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学に約半年通って生糸の生産・用途・鑑定法を学んだ
    • [50]生糸の売り込みで全米48州のほとんどを回り、従来アメリカ人セールスマンに任せていた販売を日本人が直接行った
    • [51]その土地の最高のホテルに泊まりロビーで商談する方法を採り、日本人と契約するほうが安心だという空気が生まれた

1930年、会社は浮沈にかかわる大欠損を出した。日本綿花が立てた再建策は、横浜正金銀行の意向をそのまま受けて海外各支店を閉鎖・縮小するというものだった。これに対して南郷三郎氏だけは、ニューヨーク支店を縮小しても開けておく方針を通し、帰朝中だった野田氏を支店長に登用する案を立てる二人は伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ね、ニューヨーク支店の存続を願い出た。頭取は閉鎖するのが当たり前かもしれないがやってみたまえと応じ、1931年、34歳の野田氏がニューヨーク支店長に就任した最大市場の窓口だけは残った。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [52]1930年に会社の浮沈にかかわる大欠損を出した
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
    • [53]再建策は正金銀行の言うままに海外各支店を閉鎖・縮小するものだった
    • [54]南郷三郎はニューヨーク支店は縮小しても開けておくべきだと主張し、帰朝中の野田岩次郎を支店長とする再建策を立てた
    • [55]伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ねて支店存続を陳情し、頭取は「やってみたまえ」と承知した
    • [56]1931年に34歳でニューヨーク支店長となった

1932年3月に喜多又蔵社長が世を去り、南郷三郎氏が社長を承継した。ここから経営はようやく軌道に乗るもっとも、この立て直しは商いの中身を変えたわけではなく、恐慌前に広げた綿花と生糸の商権を、支店網を薄くしながら残したものだった。1930年の欠損が突きつけたのは、綿花輸入の代行に収益を頼る構造では市況の急変を吸収できないという事実である。原料の値が振れれば口銭も振れ、産地と紡績のあいだに立つ会社には逃げ場がない。取扱商品を綿花の外へ広げる作業は、皮肉にも平時ではなく、戦時統制という別の圧力のもとで進んだ。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [57]1932年3月に喜多又蔵社長が逝去し南郷三郎が社長に就任して経営が軌道に乗った
    • [59]太平洋戦争期に取扱商品は当初の綿花売買のみにとどまらず広範にわたるに至った
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [58]1930年の欠損は会社の浮沈にかかわる規模だった
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
    • [47]1926年に29歳で日本綿花へ入社した
    • [48]平生釟三郎が喜多又蔵社長に直接話をして日綿への入社を取り持った
    • [49]横浜支店で生糸を学んだのちニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学に約半年通って生糸の生産・用途・鑑定法を学んだ
    • [50]生糸の売り込みで全米48州のほとんどを回り、従来アメリカ人セールスマンに任せていた販売を日本人が直接行った
    • [51]その土地の最高のホテルに泊まりロビーで商談する方法を採り、日本人と契約するほうが安心だという空気が生まれた
    • [53]再建策は正金銀行の言うままに海外各支店を閉鎖・縮小するものだった
    • [54]南郷三郎はニューヨーク支店は縮小しても開けておくべきだと主張し、帰朝中の野田岩次郎を支店長とする再建策を立てた
    • [55]伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ねて支店存続を陳情し、頭取は「やってみたまえ」と承知した
    • [56]1931年に34歳でニューヨーク支店長となった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [52]1930年に会社の浮沈にかかわる大欠損を出した
    • [58]1930年の欠損は会社の浮沈にかかわる規模だった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [57]1932年3月に喜多又蔵社長が逝去し南郷三郎が社長に就任して経営が軌道に乗った
    • [59]太平洋戦争期に取扱商品は当初の綿花売買のみにとどまらず広範にわたるに至った

1939年〜統制のなかで広がった商品と、在外資産の全喪失

日華事変の勃発後、繊維品の統制は段階を追って強まった。1939年9月に第二次欧州戦争が起こると、日本の欧州・アフリカおよび近東向け貿易は遮断され、国内でも諸統制令が施行された。それでも日本綿花は海外市場の拡充を続け、1941年6月には潮崎喜八郎氏が社長に就任した。同年末の開戦後も経営は進み、取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範な品目に及んだ。1943年4月、この実態に合わせて社名を日綿實業へ改める。綿花の一語を外した改称は、統制経済のもとで商品構成が綿花から離れていたことの追認であり、資本金も1945年4月に3000万円となった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [60]日華事変勃発後は漸次繊維品の統制が強化された
    • [61]1939年9月の第二次欧州戦争勃発で欧州・アフリカ・近東向け貿易が阻止され国内でも諸統制令が施行された
    • [62]1941年6月に潮崎喜八郎が社長に就任した
    • [63]太平洋戦争期も経営は順調に進展し取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範にわたった
    • [64]1943年4月に社名を日綿實業へ改めた
    • [65]資本金は1945年4月に3000万円となった

終戦とともに在外資産のすべてを失った。上海と漢口の工場、満州の事業会社、欧州と南米の店は一度に消え、会社は国内需給物資の取り扱いで営業をつないだ。敗戦後の2年間、日本に許された貿易は国民が生命をつなぐ食糧の輸入と、その外貨を稼ぐ輸出だけだった。それも政府機関の貿易公団がGHQの監視下で行い、商社は実務の代行を許されたにすぎない。1947年8月に民間貿易が再開されると、日綿實業はただちに旧来の海外取引関係を復活させ、国内取引の整備にも取りかかったニューヨーク支店を残した昭和恐慌時の判断が、ここで効いた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [66]終戦とともに在外資産のすべてを喪失し一時は国内需給物資の取扱で営業を維持した
    • [67]在外資産喪失後は一時国内需給物資の取扱によって営業を維持した
    • [71]民間貿易再開に伴いただちに旧来の海外取引関係を復活させ国内取引面も整備した
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [68]敗戦後2年間に許された貿易は生命をつなぐ食糧の輸入とその外貨を稼ぐ輸出だけだった
    • [69]敗戦後2年間の貿易は貿易公団がGHQの監視下で行い商社は実務の代行のみ許された
    • [70]1947年8月に民間貿易が再開された

敗戦は業界の順位も入れ替えた。1947年7月、三井物産三菱商事がGHQの直接指令で解体され、旧社員は100人以上が同じ会社に就職してはならないという徹底した条件が付いた。戦前に日本の貿易の3割近くを占めた二社が消えた空白へ、関西五綿と呼ばれた綿業商社が進み出る。1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠の4.7%を筆頭に日綿實業が4.3%で続き、丸紅東洋棉花が各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%と関西系が上位を占めた。第一物産は2%台にとどまった日綿實業がこの時期に業界二番手へ出たのは自力の伸長というより、最大手二社の消滅がつくった順位だった。

  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [72]三井物産・三菱商事の解体は業界の旧秩序を壊滅させ関西五綿の進出を招いた
    • [73]1947年7月に三井物産と三菱商事がGHQの直接指令で解体された
    • [74]解体の覚書には旧社員は100人以上、支店長級以上は2人以上が同じ会社に就職してはいけないという条件が付いた
    • [75]戦前の最盛期には三井物産と三菱商事の二社で日本の貿易の3割近くを占めていた
  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)5章 物産、商事の再興成る
    • [76]1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠4.7%、日綿実業4.3%、丸紅・東洋棉花各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%で関西系商社が上位を独占した
    • [77]同時期の第一物産のシェアは2%台にとどまった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [60]日華事変勃発後は漸次繊維品の統制が強化された
    • [61]1939年9月の第二次欧州戦争勃発で欧州・アフリカ・近東向け貿易が阻止され国内でも諸統制令が施行された
    • [62]1941年6月に潮崎喜八郎が社長に就任した
    • [63]太平洋戦争期も経営は順調に進展し取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範にわたった
    • [64]1943年4月に社名を日綿實業へ改めた
    • [65]資本金は1945年4月に3000万円となった
    • [66]終戦とともに在外資産のすべてを喪失し一時は国内需給物資の取扱で営業を維持した
    • [67]在外資産喪失後は一時国内需給物資の取扱によって営業を維持した
    • [71]民間貿易再開に伴いただちに旧来の海外取引関係を復活させ国内取引面も整備した
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [68]敗戦後2年間に許された貿易は生命をつなぐ食糧の輸入とその外貨を稼ぐ輸出だけだった
    • [69]敗戦後2年間の貿易は貿易公団がGHQの監視下で行い商社は実務の代行のみ許された
    • [70]1947年8月に民間貿易が再開された
    • [72]三井物産・三菱商事の解体は業界の旧秩序を壊滅させ関西五綿の進出を招いた
    • [73]1947年7月に三井物産と三菱商事がGHQの直接指令で解体された
    • [74]解体の覚書には旧社員は100人以上、支店長級以上は2人以上が同じ会社に就職してはいけないという条件が付いた
    • [75]戦前の最盛期には三井物産と三菱商事の二社で日本の貿易の3割近くを占めていた
  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)5章 物産、商事の再興成る
    • [76]1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠4.7%、日綿実業4.3%、丸紅・東洋棉花各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%で関西系商社が上位を独占した
    • [77]同時期の第一物産のシェアは2%台にとどまった

1950年〜商社統合のテスト・ケースとしての丸永合併

1950年6月の朝鮮動乱を機に業績は飛躍的に伸びた。日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから翌年12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ膨らみ、商社の取引量も軒並み急増する。だが1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した。日銀ユーザンス制度を使い備蓄の名目で思惑輸入を重ねていた商社は、ゴム・原皮・油脂原料の新三品だけで176億円の値下がり損を負い、中小商社の倒産が相次いだ。日綿實業も休戦後の反動期に苦境へ立たされた。動乱は綿製品の買い付けを日本へ集中させたぶん、その反転も大きかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [78]1950年6月の朝鮮動乱勃発を契機に業績が飛躍的に増大し休戦後の反動期に苦境に立った
    • [83]休戦後の反動期に際会し経営は苦境に立った
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [79]日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから1951年に12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ増えた
    • [80]1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した
    • [81]ゴム・原皮・油脂原料の新三品で商社の値下がり損は176億円に達した
    • [82]1951年夏から秋にかけ中小商社の倒産が続出し商社は戦後最大の危機に見舞われた
    • [84]動乱とともに日本へ集中した綿製品の買い付けは、その後減少し輸出価格も下落した

この危機のあと、政府は1952年から商社強化策を重要施策に据え、輸出所得控除などの税制措置と海外支店設置の助成、輸出入取引法の改正による過当競争の防止を進めた。業界の側でも再編が二つの流れで動き出す。ひとつは関西五綿を主軸とする集中で、専門商社から脱皮して総合商社をめざすもの、もうひとつは旧財閥商社の再統合だった。日綿實業は資本金を1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へと積み増し、1953年には輸出入の5%を取り扱って貿易商社の首位に立った。1951年11月には岡島美行氏が社長となり、1953年8月に中之島の新社屋へ移った。

  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [85]1952年に政府が商社強化策を重要施策として取り上げ、輸出所得控除や海外支店設置の助成、輸出入取引法改正による過当競争防止を進めた
    • [86]業界内部でも体質強化を目指す再編成の動きが出始めた
    • [87]業界内部の再編は関西五綿を主軸とする集中と旧財閥商社の再統合という二つの流れで進んだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [88]資本金は1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へ増額された
    • [90]1951年11月に岡島美行が社長に就任し1953年8月に中之島の新社屋へ移転した
    • [89]1953年に輸出入の5%を取扱い貿易商社中トップとなった

1954年11月、日綿實業は丸永を吸収合併した。"会社銀行八十年史"(東洋経済新報社、1955年)はこの合併を『商社統合のテスト・ケース』と記している。合併で資本金は4億3000万円となり、1955年8月には10億7500万円まで増えた。1954年の実績は輸出6030万ドル(全国比4.0%)、輸入1億3500万ドル(同6.9%)で、食糧と綿花の輸入では業界の一、二位を占めていた。合併の翌年からは機械・金属の輸出取扱高も急増し、ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を開設した。同種の合併はその後、1955年の丸紅と高島屋飯田、1955年8月の東洋棉花と鐘淵商事へと続き、テスト・ケースという当時の呼び方は結果として正しかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [91]1954年11月に丸永を吸収合併し資本金は4億3000万円となった
    • [92]会社銀行八十年史は丸永合併を「商社統合のテスト・ケース」と記している
    • [93]資本金は1955年8月に10億7500万円へ増額された
    • [94]1954年の輸出は6030万ドル(全国比4.0%)、輸入は1億3500万ドル(同6.9%)だった
    • [95]食糧および綿花の輸入で業界の一、二位を占め、機械・金属の輸出取扱高も激増していた
    • [96]ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を設置した
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」/私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)6章 高度成長期の商社活動
    • [97]1955年に丸紅と高島屋飯田、1955年8月に東洋棉花と鐘淵商事の合併が続いた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
    • [78]1950年6月の朝鮮動乱勃発を契機に業績が飛躍的に増大し休戦後の反動期に苦境に立った
    • [83]休戦後の反動期に際会し経営は苦境に立った
    • [88]資本金は1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へ増額された
    • [90]1951年11月に岡島美行が社長に就任し1953年8月に中之島の新社屋へ移転した
    • [91]1954年11月に丸永を吸収合併し資本金は4億3000万円となった
    • [92]会社銀行八十年史は丸永合併を「商社統合のテスト・ケース」と記している
    • [93]資本金は1955年8月に10億7500万円へ増額された
    • [94]1954年の輸出は6030万ドル(全国比4.0%)、輸入は1億3500万ドル(同6.9%)だった
    • [95]食糧および綿花の輸入で業界の一、二位を占め、機械・金属の輸出取扱高も激増していた
    • [96]ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を設置した
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
    • [79]日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから1951年に12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ増えた
    • [80]1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した
    • [81]ゴム・原皮・油脂原料の新三品で商社の値下がり損は176億円に達した
    • [82]1951年夏から秋にかけ中小商社の倒産が続出し商社は戦後最大の危機に見舞われた
    • [84]動乱とともに日本へ集中した綿製品の買い付けは、その後減少し輸出価格も下落した
    • [85]1952年に政府が商社強化策を重要施策として取り上げ、輸出所得控除や海外支店設置の助成、輸出入取引法改正による過当競争防止を進めた
    • [86]業界内部でも体質強化を目指す再編成の動きが出始めた
    • [87]業界内部の再編は関西五綿を主軸とする集中と旧財閥商社の再統合という二つの流れで進んだ
    • [89]1953年に輸出入の5%を取扱い貿易商社中トップとなった
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」/私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)6章 高度成長期の商社活動
    • [97]1955年に丸紅と高島屋飯田、1955年8月に東洋棉花と鐘淵商事の合併が続いた

1955年〜 繊維商社の総合化と、下位が選んだ棲みわけ

1955年〜繊維から機械金属へ、十年で入れ替えた商品構成

戦後の関西五綿は、代理商化した専門商社のままでは取引の妙味が薄れるという事情から多角化を始めた。終戦直後に援助物資の輸入で専門外の商品を扱わされたことも、その一因である。それでも1955年ごろまでは五綿の扱い高の7割から8割を繊維品が占めていた。総合商社化が本格的に進んだのはその後で、日本の産業構造が重化学工業へ移ったことが旧繊維商社を動かした。1965年ごろには五綿の扱い高に占める繊維の比率は30%台まで下がり、代わって1955年ごろは7、8%だった機械金属や化学品が30%以上へ上がった。十年で商品構成がそっくり入れ替わった

  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」
    • [98]戦後に代理商化した旧関西五綿など専門商社は従来の専門商品では取引のうま味がなくなり多角化を始めた
    • [99]終戦直後は援助物資の輸入などで専門外の商品も扱わねばならず多角化の一因になった
    • [100]1955年ごろまで五綿の扱い高の70〜80%は繊維品だった
    • [101]旧繊維商社が総合化に熱心だったのは日本の産業構造が重化学工業へ重点を移したためである
    • [102]1965年ごろには五綿の扱い高に占める繊維比率が30%台となり、1955年ごろ7〜8%だった機械金属や化学品が30%以上に上がった
    • [103]繊維比率は70〜80%から30%台へ下がり、機械金属・化学品は7、8%から30%以上へ上がった

商品構成の入れ替えは、合併と系列づくりの形で進んだ。1954年の日綿實業と丸永、1955年の丸紅と高島屋飯田は同じ繊維業者どうしの集中だったが、その後の丸紅飯田と第一鋼材・東通、伊藤忠と大洋物産・森岡興業、東洋棉花と南海興業、日商と白洋貿易、そして日綿實業と高田商会は、いずれも機械金属部門の強化を狙ったものである。日綿實業は1960年に田附を合併した。大手商社10社の年間取扱高は1955年3月期の9021億円から1966年3月期には4兆463億円へ、11年で4.5倍に膨らんでおり、日綿實業もその10社に数えられていた

  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」
    • [104]総合化は合併・系列化・集団化など再編成の形で進んだ
    • [105]1954年の日綿と丸永、1955年の丸紅と高島屋飯田は同じ繊維業者の集中だった
    • [106]丸紅飯田と第一鋼材・東通、伊藤忠と大洋物産・森岡興業、東棉と南海興業、日商と白洋貿易、日綿と高田商会の各合併は機械金属部門の強化を目的とした
    • [108]大手商社10社の取扱高合計は1955年3月期9021億円から1966年3月期4兆463億円へ約4.5倍になった
    • [109]大手商社10社は三井物産・三菱商事・丸紅飯田・伊藤忠・東棉・日綿・住友商事・日商・安宅・江商である
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [107]1960年に田附を合併した

1968年の日綿實業は、資本金75億円、従業員3600名、社長は神林正教氏という規模になっていた。取扱いに占める非繊維は65%、繊維は35%である。国内に30余りの営業店を持ち、海外ではホンコン・マニラ・バンコック・クァラルンプール・シンガポール・ラングーン・カルカッタ・ロンドンに支店を、ニューヨーク・ダラス・サンパウロ・ブエノスアイレス・ハンブルグ・パリ・ミラノ・カラチ・シドニーに現地法人を設立した。世界50数か所に支店か駐在員事務所があり、海外店勤務の社員は300名を超え、現地雇員は700名に達した。取扱品目は繊維原料と繊維製品にとどまらず、船舶・車輛・航空機・機械類・金属・鉱産物・化学品・木材・油脂・食品・セメントに及んでいる

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [110]1968年時点の資本金は75億円、従業員3600名、社長は神林正教だった
    • [111]重化学工業部門を中心とする非繊維の取扱割合は65%、繊維関係は35%だった
    • [112]国内に30余の営業店、海外にホンコンからロンドンまでの支店と9か所の現地法人を持っていた
    • [113]世界50数か所に支店ないし駐在員事務所があり、海外店勤務の社員は300名を超え現地雇員は700名に達した
    • [114]取扱品目は繊維原料・繊維製品のほか船舶・車輛・航空機・機械類・金属・鉱産物・化学品・木材・油脂・食品・セメントに及んだ
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」
    • [98]戦後に代理商化した旧関西五綿など専門商社は従来の専門商品では取引のうま味がなくなり多角化を始めた
    • [99]終戦直後は援助物資の輸入などで専門外の商品も扱わねばならず多角化の一因になった
    • [100]1955年ごろまで五綿の扱い高の70〜80%は繊維品だった
    • [101]旧繊維商社が総合化に熱心だったのは日本の産業構造が重化学工業へ重点を移したためである
    • [102]1965年ごろには五綿の扱い高に占める繊維比率が30%台となり、1955年ごろ7〜8%だった機械金属や化学品が30%以上に上がった
    • [103]繊維比率は70〜80%から30%台へ下がり、機械金属・化学品は7、8%から30%以上へ上がった
    • [104]総合化は合併・系列化・集団化など再編成の形で進んだ
    • [105]1954年の日綿と丸永、1955年の丸紅と高島屋飯田は同じ繊維業者の集中だった
    • [106]丸紅飯田と第一鋼材・東通、伊藤忠と大洋物産・森岡興業、東棉と南海興業、日商と白洋貿易、日綿と高田商会の各合併は機械金属部門の強化を目的とした
    • [108]大手商社10社の取扱高合計は1955年3月期9021億円から1966年3月期4兆463億円へ約4.5倍になった
    • [109]大手商社10社は三井物産・三菱商事・丸紅飯田・伊藤忠・東棉・日綿・住友商事・日商・安宅・江商である
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
    • [107]1960年に田附を合併した
    • [110]1968年時点の資本金は75億円、従業員3600名、社長は神林正教だった
    • [111]重化学工業部門を中心とする非繊維の取扱割合は65%、繊維関係は35%だった
    • [112]国内に30余の営業店、海外にホンコンからロンドンまでの支店と9か所の現地法人を持っていた
    • [113]世界50数か所に支店ないし駐在員事務所があり、海外店勤務の社員は300名を超え現地雇員は700名に達した
    • [114]取扱品目は繊維原料・繊維製品のほか船舶・車輛・航空機・機械類・金属・鉱産物・化学品・木材・油脂・食品・セメントに及んだ

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歴史年表 1892〜2003年

ニチメンの沿革1892〜2003年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1892〜1927年外商の手から綿花を取り返すためにつくられた会社外商依存から脱するための綿花直輸入機関

1892年11月10日、摂津・平野・尼崎・天満の四紡績を中心に、綿花商などの有力財界人25名が発起人となって日本綿花が創立総会を開き、12月1日に開業した。公称資本金は100万円、払込は10万円。輸入綿花の供給を握っていた外商への依存から脱し、日本人自らの手で綿花を直輸入するための機関として設けられた。

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★★★
米国綿の直買を開始★★
上海支店を開設し華中・満州へ綿糸布の輸出を開始★★
ボンベイ出張所を支店に昇格
喜多又蔵資本金を5000万円に増資
喜多又蔵欧州にメンカ・ゲゼルシャフトを設立し第三国間取引を拡大★★
1928〜1954年日綿實業への改称と、丸永合併という商社統合の実験喜多又蔵会社の浮沈にかかわる大欠損を計上★★
南郷三郎喜多又蔵社長の死去にともない南郷三郎氏が社長に就任
潮崎喜八郎潮崎喜八郎氏が社長に就任
潮崎喜八郎日綿實業に商号変更★★
潮崎喜八郎敗戦により在外資産の全てを喪失★★
潮崎喜八郎朝鮮動乱を機に業績が急伸
岡島美行岡島美行氏が社長に就任
岡島美行資本金を4億円に増資
岡島美行繊維商社・資本金4億3000万円への増強

1954年11月、日綿實業が繊維商社の丸永を吸収合併し、資本金を4億3000万円とした経営判断。朝鮮動乱の反動で商社が戦後最大の危機に見舞われ、政府が1952年から商社強化策を重要施策に据えた時期に、関西五綿の一角が同業を取り込んだ合併であった。当時の記録はこれを『商社統合のテスト・ケース』と記している(東洋経済新報社、1955年)。

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★★★
1955〜1981年繊維商社の総合化と、下位が選んだ棲みわけ岡島美行南郷三郎相談役が訪中し毛沢東主席と会談
岡島美行田附を合併★★
岡島美行米マックレガー社の商品独占使用権を取得
岡島美行3商社5銀行の出資でオリエントリース(現オリックス)を設立★★
岡島美行ソ連・ポーランドと鉄鉱石・石炭の大量輸入契約を締結
岡島美行非繊維の取扱比率が65%を占め総合商社化が進展★★
1982〜2003年ニチメンへの改称と、手形事件が露わにした与信管理岡島美行ニチメンに商号変更★★
岡島美行子会社ニチメン・インフィニティが株式を上場
岡島美行最大100億円の穴埋めを機に踏み切った、採算による選別とカンパニー制の導入

1999年6月、ニチメンが融通手形取引に巻き込まれ、最大100億円の損失を負うことが明らかになった一件と、これを受けて渡利陽社長が進めた事業の絞り込みおよび組織の組み替え。取引先への信用供与という商社機能の中核で、社内の与信管理が働かなかった事案である。

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半林亨半林亨氏が社長に就任
半林亨トーメンの農薬事業と統合し合弁会社を設立★★
半林亨連結有利子負債が1兆0207億円に減少
半林亨株式移転による共同持株会社の設立と、2660億円の優先株発行

2002年12月11日、日商岩井とニチメンが共同持株会社方式による経営統合の方針を発表し、2003年4月に株式移転でニチメン・日商岩井ホールディングスを設立した経営判断。2003年5月には取引金融機関6社と米国の投資銀行リーマン・ブラザーズに対し総額2660億円の優先株を発行し、2004年4月に傘下2社が合併して双日が発足した。

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出典・参考 10件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-重い外商のクサリ」
  • 日本産業史1(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「貿易-アジア市場にぎる」
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」/私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)6章 高度成長期の商社活動
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)5章 物産、商事の再興成る
  • 双日歴史館「日綿實業・ニチメン」

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