{"title":"ニチメンの歴史概略","sections":[{"start_year":1892,"end_year":1927,"main_title":"外商の手から綿花を取り返すためにつくられた会社","subsections":[{"title":"紡績四社が出資してつくった綿花の直輸入機関","text":"1858年の通商条約以来、日本の貿易は開港場の居留地で外国商人と日本商人が向き合う商館貿易の形をとった。外商は外国銀行による貿易金融と外国海運会社による航路の独占を背景に商権を握り、治外法権と協定関税がそれを支えた。1881年に原善三郎氏ら生糸売り込み商が横浜へ連合生糸荷預所をつくって商権回復に挑んだときも、外商は預所からの買い付けを拒み、三か月の取引停止のすえ妥協的な条件で決着した。輸入の側でも事情は変わらず、1883年に1万錘で発足した大阪紡績会社の成功に続いて大規模紡績が相次いで生まれると、原料綿を神戸在留の外国商にたよる紡績業者は、その値決めに従うほかなかった。\n\n日本綿花は、この依存から抜けるためにつくられた綿花輸入機関である。摂津・平野・尼崎・天満の四紡績が中心となり、綿花商などの有力財界人25名が発起人に名を連ねて、1892年11月10日に創立総会を開き、12月1日に開業した。公称資本金は100万円、払込は10万円で、創立事務所は大阪市西区靱北通りに置かれた。社長1名・取締役6名・監査役3名・社員7名・雇員1名・小使1名の合わせて19名という小さな陣容で始まり、第1期決算では9,286円余の純益をあげて1割の配当を行った。会社の側から見れば紡績資本の調達機関であり、紡績の側から見れば自前の輸入部門を切り出したものだった。\n\n開業の直後から中国綿とインド綿の取引に入り、1896年には米国綿の直買を始めた。同じ1896年に綿花輸入税が撤廃されて原綿の海外依存が決定的になり、日本の綿業もここから飛躍する。原料を外国商から買うほかなかった紡績業者に、産地から直に買う経路ができたからである。明治30年代には、世界的に品質のよいエジプト綿の輸入にも手を伸ばした。社名の「日本綿花」は綿花と綿糸布の二つを指しており、事業は原料の輸入だけにとどまらなかった。荷印には日の字を図案化した社章を用い、分銅マークと呼ばれたこの印は、海外では Battle axe の名で通っていた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）3編 企業の歴史「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史1（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「貿易－重い外商のクサリ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史1（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「貿易－アジア市場にぎる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"上海と漢口に出て、綿糸布と工場を持った十五年","text":"1903年、日本綿花は華中と満州への綿糸布輸出に乗り出し、上海支店を開いた。翌1904年には漢口支店を設け、綿糸布のほかに雑貨類の取り扱いも始めた。この二つの支店では商いだけでなく、繰綿と紡績、それに豆粕・綿実の工場も経営した。1911年には長江一帯へ出張員を配置し、天津と青島にも支店を置いて華北へ進出した。輸入商社として出発した会社が、十年あまりで日本製綿糸布の輸出者となり、さらに現地の加工業者にもなった。日露戦争後の日本綿糸が中国市場からイギリス品を追い出してインド綿糸と争っていた時期で、輸入商社が輸出と現地加工へ広がる順序は、当時の日本の商社に共通していたとみられる。\n\n支店網は中国の外へも伸びた。1906年にニューヨーク出張所、1907年には1897年開設のボンベイ出張所を支店へ昇格させ、綿花の産地と綿製品の市場の双方に拠点を置いた。1916年には南米とビルマへ進出し、羊毛・綿花・米穀の売買と生糸取引に着手した。ニューヨーク支店が扱った生糸は当時の日本の輸出品の筆頭であり、その取扱高は三井物産と肩を並べるほどだった。原料の輸入だけを目的に生まれた会社が、四半世紀のうちに繊維原料と繊維製品の双方を、地球の半分にまたがって動かす商社になっていた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）3編 企業の歴史「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史1（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「貿易－重い外商のクサリ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史1（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「貿易－アジア市場にぎる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"大戦景気が生んだ第三国間取引と、その反動","text":"第一次大戦の好況が会社の規模を一段と押し上げた。創立25周年にあたる1917年には10割の配当を行い、9月に資本金を5000万円へ増やした。この時期の伸びをつくったのは、創業直後に入社して1917年に社長となった喜多又蔵氏の働きであり、日本綿花は「喜多サンの会社」と呼ばれるまでになった。1920年春にはビルマで精米業に着手し、日本からの輸出だけでなく、米国・インド・中国など海外各店のあいだで完結する第三国間取引にも成果をあげた。欧州にはロンドン・リバプールとドイツのブレーメンにメンカ・ゲゼルシャフトを設け、フランスとスペインには代理店を置いて三国貿易にあたらせた。\n\n商いの拡大と並んで、事業会社の設立も続いた。1916年に朝鮮棉花を京城に、1917年に日華製油を漢口に、1920年に東亜製麻を上海に収め、1921年には辻紡績、1924年には漢口の泰安紡績を設立した。満州では協和染織を奉天に、登喜和百貨店を、満洲食品工業をハルピンに擁した。綿花を運ぶ商社から、綿花を紡ぎ、油を搾り、麻を織る会社群の親会社へと広がった二十年である。もっとも、この拡大は大戦景気という一時の需要を前提としており、講和後の反動を受け止めるだけの厚みは、まだ会社になかった。\n\n反動は1920年の戦後恐慌から始まり、1923年の関東大震災による被害がそこへ重なった。会社は経営不振に陥り、大戦中に広げた支店網と事業会社を抱えたまま収益の細る時期へ入った。外商から綿花の商権を取り返すという設立の目的そのものは、1896年の綿花輸入税撤廃と原綿の海外依存の確立によって、創立から4年で達せられた。その後に積み上げた華中の工場、欧州の三国貿易、南米の羊毛、ビルマの精米は、いずれも創立時の発起人が想定した業ではない。取り返した商権を元手に何を業とするのかという問いに、会社はまだ答えを出していなかった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）3編 企業の歴史「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史1（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「貿易－重い外商のクサリ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史1（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「貿易－アジア市場にぎる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1928,"end_year":1954,"main_title":"日綿實業への改称と、丸永合併という商社統合の実験","subsections":[{"title":"昭和恐慌が迫った海外支店の整理と、ニューヨークの残留","text":"1926年、29歳の野田岩次郎氏が日本綿花に入った。三井物産で国際結婚を認められずに退いたあと、東京海上の平生釟三郎氏が喜多又蔵社長へ直接話をして入社の労をとった経緯である。横浜支店で生糸を学んだ野田氏はまもなくニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学で生糸の生産と鑑定法を半年学んだうえで、全米48州のほとんどを回って売り込みにあたった。それまで生糸の販売は現地のアメリカ人セールスマンに委ねられており、日本人が直接商談に出るのは新しい試みだった。会社を代表する日本人と契約したほうが安心だという空気が客先に生まれるまで、その土地で最も上等なホテルのロビーを商談の場に選び続けた。\n\n1930年、会社は浮沈にかかわる大欠損を出した。日本綿花が立てた再建策は、横浜正金銀行の意向をそのまま受けて海外各支店を閉鎖・縮小するというものだった。これに対して南郷三郎氏だけは、ニューヨーク支店は縮小しても開けておかなければならないと主張し、帰朝中だった野田氏を支店長に据える案を立てる。二人は伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ね、ニューヨーク支店の存続を願い出た。頭取は閉鎖するのが当たり前かもしれないがやってみたまえと応じ、1931年、34歳の野田氏がニューヨーク支店長に就いた。最大市場の窓口だけは残った。\n\n1932年3月に喜多又蔵社長が世を去り、南郷三郎氏が社長を継いだ。ここから経営はようやく軌道に乗る。もっとも、この立て直しは商いの中身を変えたわけではなく、恐慌前に広げた綿花と生糸の商権を、支店網を薄くしながら残したものだった。1930年の欠損が突きつけたのは、綿花輸入の代行に収益を頼る構造では市況の急変を吸収できないという事実である。原料の値が振れれば口銭も振れ、産地と紡績のあいだに立つ会社には逃げ場がない。取扱商品を綿花の外へ広げる作業は、皮肉にも平時ではなく、戦時統制という別の圧力のもとで進んだ。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）3編 企業の歴史「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史2（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－産業資本に隷属化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（日本経済新聞社、1987年）5章 物産、商事の再興成る","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"双日歴史館「日綿實業・ニチメン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（日本経済新聞社、1987年）6章 高度成長期の商社活動","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"統制のなかで広がった商品と、在外資産の全喪失","text":"日華事変の勃発後、繊維品の統制は段階を追って強まった。1939年9月に第二次欧州戦争が起こると、日本の欧州・アフリカおよび近東向け貿易は遮断され、国内でも諸統制令が施行された。それでも日本綿花は海外市場の拡充を続け、1941年6月には潮崎喜八郎氏が社長に就いた。同年末の開戦後も経営は進み、取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範な品目に及んだ。1943年4月、この実態に合わせて社名を日綿實業へ改める。綿花の一語を外した改称は、統制経済のもとで商品構成が綿花から離れていたことの追認であり、資本金も1945年4月に3000万円となった。\n\n終戦とともに在外資産のすべてを失った。上海と漢口の工場、満州の事業会社、欧州と南米の店は一度に消え、会社は国内需給物資の取り扱いで営業をつないだ。敗戦後の2年間、日本に許された貿易は国民が生命をつなぐ食糧の輸入と、その外貨を稼ぐ輸出だけだった。それも政府機関の貿易公団がGHQの監視下で行い、商社は実務の代行を許されたにすぎない。1947年8月に民間貿易が再開されると、日綿實業はただちに旧来の海外取引関係を復活させ、国内取引の整備にも取りかかった。ニューヨーク支店を残した昭和恐慌時の判断が、ここで効いた。\n\n敗戦は業界の順位も入れ替えた。1947年7月、三井物産と三菱商事がGHQの直接指令で解体され、旧社員は100人以上が同じ会社に就職してはならないという徹底した条件が付いた。戦前に日本の貿易の三割近くを占めた二社が消えた空白へ、関西五綿と呼ばれた綿業商社が進み出る。1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠の4.7%を筆頭に日綿實業が4.3%で続き、丸紅と東洋棉花が各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%と関西系が上位を占めた。第一物産は2%台にとどまった。日綿實業がこの時期に業界二番手へ出たのは自力の伸長というより、最大手二社の消滅がつくった順位だった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）3編 企業の歴史「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史2（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－産業資本に隷属化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（日本経済新聞社、1987年）5章 物産、商事の再興成る","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"双日歴史館「日綿實業・ニチメン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（日本経済新聞社、1987年）6章 高度成長期の商社活動","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"商社統合のテスト・ケースとしての丸永合併","text":"1950年6月の朝鮮動乱を機に業績は飛躍的に伸びた。日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから翌年12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ膨らみ、商社の取引量も軒並み急増する。だが1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した。日銀ユーザンス制度を使い備蓄の名目で思惑輸入を重ねていた商社は、ゴム・原皮・油脂原料の新三品だけで176億円の値下がり損を負い、中小商社の倒産が相次いだ。日綿實業も休戦後の反動期に苦境へ立たされた。動乱は綿製品の買い付けを日本へ集中させたぶん、その反転も大きかった。\n\nこの危機のあと、政府は1952年から商社強化策を重要施策に据え、輸出所得控除などの税制措置と海外支店設置の助成、輸出入取引法の改正による過当競争の防止を進めた。業界の側でも再編が二つの流れで動き出す。ひとつは関西五綿を主軸とする集中で、専門商社から脱皮して総合商社をめざすもの、もうひとつは旧財閥商社の再統合だった。日綿實業は資本金を1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へと積み増し、1953年には輸出入の5%を取り扱って貿易商社の首位に立った。1951年11月には岡島美行氏が社長となり、1953年8月に中之島の新社屋へ移った。\n\n1954年11月、日綿實業は丸永を吸収合併した。『会社銀行八十年史』（東洋経済新報社、1955年）はこの合併を「商社統合のテスト・ケース」と記している。合併で資本金は4億3000万円となり、1955年8月には10億7500万円まで増えた。1954年の実績は輸出6030万ドル（全国比4.0%）、輸入1億3500万ドル（同6.9%）で、食糧と綿花の輸入では業界の一、二位を占めていた。合併の翌年からは機械・金属の輸出取扱高も急増し、ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を置いた。同種の合併はその後、1955年の丸紅と高島屋飯田、1955年8月の東洋棉花と鐘淵商事へと続き、テスト・ケースという当時の呼び方は結果として正しかった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）3編 企業の歴史「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史2（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－産業資本に隷属化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（日本経済新聞社、1987年）5章 物産、商事の再興成る","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"双日歴史館「日綿實業・ニチメン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（日本経済新聞社、1987年）6章 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: 明治百年（経済春秋社、1968年）3編 企業の歴史「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史2（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－進む大型化・総合化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史3（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－多様化でリスクに挑戦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年23(5)(266)「新規上場会社紹介 オリエントリース株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（日本経済新聞社、1987年）4章 物産の解散と再出発","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"双日歴史館「日綿實業・ニチメン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨／ニチメン社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年1月29日号 No.232「日綿実業。下位総合商社が示す“棲みわけ”の知恵」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"リースと中国、他社より先に取った二つの席","text":"日綿實業は1962年ごろから、米国最大のリース会社であるUSリーシング社を通じてリース事業の研究を始めていた。欧米で急速に伸びていた新しい業態の将来性に着目したもので、主力銀行である三和銀行の協力のもと、他の商社と銀行の参加を得て企業化にこぎつけた。1964年4月、日綿實業を中心に日商と岩井産業を加えた3商社、それに三和銀行・東洋信託銀行・日本興業銀行・神戸銀行・日本勧業銀行の5銀行が出資し、資本金1億円のオリエントリースが大阪市に設立された。1971年時点の大株主は日綿實業と日商岩井がそれぞれ20%、三和銀行が8%という構成である。同社は現在のオリックスにあたる。\n\n社会主義圏との商いでも先行した。1958年、南郷三郎相談役が中国を訪れて毛沢東主席と会談し、1960年には日本の大手商社として初めて中国友好商社の指定を受けた。国交回復前の中国市場は実態がつかめず、他の大手が動きにくい相手である。1967年にはソビエトおよびポーランドと鉄鉱石と石炭の大量輸入契約を結び、南ヤクート炭田の開発では日商岩井とともに主導する立場に立った。原料の輸入で外商に頼らないという設立時の発想は、このとき資源国との直接取引となって戻ってきた。のちに経営統合する相手と同じ案件で組んでいた点も、二社の距離をよく示していた。","references":[{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）3編 企業の歴史「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史2（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－進む大型化・総合化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史3（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－多様化でリスクに挑戦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年23(5)(266)「新規上場会社紹介 オリエントリース株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（日本経済新聞社、1987年）4章 物産の解散と再出発","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"双日歴史館「日綿實業・ニチメン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨／ニチメン社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年1月29日号 No.232「日綿実業。下位総合商社が示す“棲みわけ”の知恵」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"上位六社に届かなかった規模と、棲みわけという答え","text":"総合商社の将来には当時から疑いがかけられていた。1961年、東洋大学の御園生教授が「総合商社は斜陽であるか」と題する論文を発表し、売上高利益率が年々低下していること、産業資本が巨大化してメーカーが販売網を整えれば問屋が排除されることを理由に、コミッションマーチャントである総合商社は斜陽化せざるをえないと論じた。商社首脳は強い危機感を抱いたが、結果は逆に出る。1965年度から1974年度までの10年間に、三菱商事から兼松までのいわゆる九大商社の取扱高は年率24%で伸び、名目GNPの年率17%を大きく上回った。斜陽論が外れたのは、商社の機能を個別に切り離して見ていたためだとみられる。\n\n業界全体が伸びる一方で、社内順位は下がった。1957年に江商を抜いた住友商事は、1966年に日綿實業を追い抜いて六大商社の一つとなる。丸永と田附を合併して規模を積み増しても、財閥系の資金力と系列取引には届かなかった。日経ビジネスは日綿實業を「下位総合商社が示す棲みわけの知恵」（日経ビジネス 1979/1/29）と見出しに掲げた。上位を追うのではなく、上位が手を出しにくい商圏で稼ぐ会社という見立てである。中国とソビエト、リース、繊維の川下といった選び方は、規模で勝てない会社が採りうる合理的な道だった。この棲みわけが通用する条件は、商社の収益が取扱高ではなく個別の商権から生まれることにある。1980年代の環境変化は、まずこの前提のほうを崩した。","references":[{"title":"企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社、1968年）3編 企業の歴史「日綿実業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史2（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－進む大型化・総合化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史3（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－多様化でリスクに挑戦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年23(5)(266)「新規上場会社紹介 オリエントリース株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の商社昭和史（日本経済新聞社、1987年）4章 物産の解散と再出発","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"双日歴史館「日綿實業・ニチメン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨／ニチメン社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年1月29日号 No.232「日綿実業。下位総合商社が示す“棲みわけ”の知恵」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1982,"end_year":2003,"main_title":"ニチメンへの改称と、手形事件が露わにした与信管理","subsections":[{"title":"繊維11.6%での改称と、下位四社に落ちた収益力","text":"1982年、日綿實業は商号をニチメンへ改めた。1950年代から急ピッチで進めた総合商社化の結果、1982年の売上高比率は金属・燃料34%、機械・建設25.4%、食糧14.4%と続き、創業以来の繊維は11.6%まで下がっていた。創立90周年を控えての改称である。1943年に綿花の二字を外して日綿實業となり、1982年には日綿の二字も外れた。二度の改称はどちらも事業構成の後追いであり、社名が実態に合わなくなるたびに看板を書き換えてきた会社だった。もっとも、綿花商社としての出自を捨てたぶん、この会社が何を得意とするのかを一語で言い表す手立ても失われた。\n\n改称の3年後、商社の序列が動いた。1985年9月のプラザ合意で円が急騰し、日本経済は円高不況に入る。1985年度の売上順位は三菱商事・三井物産・伊藤忠商事・住友商事・丸紅・日商岩井だったが、翌1986年度には伊藤忠・住友・丸紅・三井・三菱・日商岩井へと劇的に入れ替わった。より重いのは収益力の差である。1985年と1990年の経常利益を比べると、水準が大きく上昇したのは三菱・三井・住友の旧財閥系3社で、低下したのは日商岩井・トーメン・ニチメン・兼松の下位四社だった。伊藤忠と丸紅はほぼ横ばいである。ニチメンはこの時期、規模でも収益力でも下位四社の一角に沈んだ。\n\n収益力の差を埋める手として、商社は金融へ向かった。金融自由化により内外を問わず低利の資金を調達して有利に運用できるようになり、各社は財務部門をコストセンターから利益を生む営業部門へ改めた。総合商社はマーチャント・バンクをめざすべきだという路線が掲げられ、財務活動を本体から切り離した専門の金融子会社をつくる動きも出る。しかしバブルが崩壊すると、第二の営業と期待した財務戦略はことごとく破綻し、各社は巨額の含み損を抱えた。1998年12月時点で、財務良好とされたニチメンでさえ株式の含み損は439億円あり、これを表面化させれば剰余金が消えてなくなる水準だった。渡利陽社長は当時、生き残るために何が必要かが経営の最重要ポイントだと語っている。","references":[{"title":"双日歴史館「日綿實業からニチメンへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史4（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－新たなビジネスチャンスを求めて」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年7月3日号「ニチメン巨額損失発生 手形事件の深い闇」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年12月25日号「ザ・トーク 渡利陽」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨／ニチメン社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月8日号「墜ちる会社 粘る経営」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年6月1日号「ニチメン社長より14歳若いナンバー2誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年11月2日号「『生殺し』の過大借金企業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"双日 有価証券報告書 第3期【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年12月26日号「2002年に勝ち残る会社の条件 商社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年1月20日号「崖っぷちのトーメンが主力の農薬をニチメンと統合」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"双日歴史館「日綿實業・ニチメン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"一〇〇億円の手形損失と、堅実という評価の崩れ方","text":"1999年6月、その評価が崩れた。ニチメンは複雑な手形取引に巻き込まれ、最大で100億円の損失を負うことになる。相手は大阪の機械メーカー、帝菱産業だった。1996年6月に取引を始めたが、1998年3月の内部監査で複数企業間の手形チェーン取引の疑いがかかり、この時点で取引は打ち切られたはずだった。ところが担当した課長は入れ替わりに、全身プリクラの製造会社トーワジャパンとの取引を始める。トーワジャパンは1999年5月に負債202億円を抱えて自己破産を申請しており、その背景には数十社を相手とする融通手形取引の破綻があった。帝菱産業も1999年6月17日に和議を申請し、この取引に深く関わっていた。\n\n問題は損失額ではなく、その通り方にあった。トーワジャパン周辺の業者が倒れ始めた1998年11月から、課長は自分の権限を超えて100本近い手形を乱発した。取引に実体がないことが明白になり、課長が会社へ告白したのは1999年4月だった。半年にわたってニチメンの点検機関は異常を見逃していたことになる。取引先への信用供与と金融仲介は商社機能そのものであり、そこで社内の与信管理が働かなかったという事実は、扱い高の大きさとは別の弱さを示していた。「あの堅い会社がなぜ」（週刊東洋経済 1999/7/3）が当時の業界の受け止め方である。事件はニチメン一社の不始末にとどまらず、デフレ下の商社にリスク管理能力があるのかという問いを業界へ投げ返した。\n\n事件の年、ニチメンは事業の絞り込みに入った。渡利陽社長は事業全般を本体で育てる、グループ会社に移す、やめるの三つに仕分ける「そうや」を全社で進め、繊維部門では本体の商いを高機能繊維の輸出に絞って人員を50%減らした。1999年9月中間決算は連結ベースの粗利率が過去最高となり、総合商社で唯一の連結純益増となる。渡利社長は総合商社を「あらゆるジャンルにアプローチする能力を持った企業体」（週刊東洋経済 1999/12/25）と定義し、普通鋼をやめても特殊鋼を続ければメーカーやユーザーとのパイプは維持できると説明した。2000年4月には営業部門を三つに束ねたカンパニー制を導入した。","references":[{"title":"双日歴史館「日綿實業からニチメンへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史4（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－新たなビジネスチャンスを求めて」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年7月3日号「ニチメン巨額損失発生 手形事件の深い闇」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年12月25日号「ザ・トーク 渡利陽」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨／ニチメン社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月8日号「墜ちる会社 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2000/10/28）と語り、事業の選択と集中と、他商社とのアライアンスによる収益力の向上を掲げた。半林社長の入社時に業界5位だったニチメンは、このとき売上規模で商社の8位、債務免除を受けた兼松とトーメンが専門商社集団へ転じたあとでは総合商社の最下位である。アライアンスは二つの相手で具体化した。2001年1月、トーメンは主力の農薬を含むライフサイエンス事業をニチメンの同部門と統合すると発表する。統合会社への出資は両社が各40%で、対象分野の2001年3月期の経常利益予想はトーメン58億円、ニチメン22億円だった。\n\nもう一方の相手は日商岩井だった。2000年9月、ニチメンは情報産業関連子会社をすべてITXへ売却し、得た資金420億円でITXに出資する。日商岩井がITX株をニチメンへ売り、ニチメンが子会社5社をITXへ売って、双方が約400億円の特別利益を計上した取引である。合成樹脂や化学品でも同じやり方が続き、両社が計上した特別利益は総額1270億円余り、自己資本の7割弱に達した。週刊東洋経済はこれを事業のキャッチボールと評し、決算対策ではないかといぶかる向きが多いと伝えた。同じ時期、ニチメンは2001年9月末の連結有利子負債1兆1599億円を1兆円へ圧縮する計画を掲げ、東京本社ビルの売却と500億円のコミットメントライン設定を準備した。残高は2002年3月末に1兆0207億円まで下がった。\n\n2003年4月、ニチメンと日商岩井は株式移転により共同の持株会社ニチメン・日商岩井ホールディングスを設立し、その完全子会社となった。両社の株式は上場を廃止され、持株会社の普通株式が東京証券取引所と大阪証券取引所に上場された。2004年4月、子会社となっていたニチメンと日商岩井は合併し、商号を双日とした。1892年に在阪の紡績四社と財界人がつくった日本綿花は、日綿實業、ニチメンと二度名を替えたのち、創立から111年目に上場を、その翌年に社名を失った。残ったのは商権と海外店網、そして人である。外商から綿花を取り返すためにつくられた会社は、最後はUFJ系列という共通項のもとで進んだ再編のなかで消えた。","references":[{"title":"双日歴史館「日綿實業からニチメンへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史4（日本経済新聞社、1994年）金融・商業「商社－新たなビジネスチャンスを求めて」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年7月3日号「ニチメン巨額損失発生 手形事件の深い闇」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年12月25日号「ザ・トーク 渡利陽」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨／ニチメン社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月8日号「墜ちる会社 粘る経営」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年6月1日号「ニチメン社長より14歳若いナンバー2誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年11月2日号「『生殺し』の過大借金企業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"双日 有価証券報告書 第3期【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年12月26日号「2002年に勝ち残る会社の条件 商社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 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