ニチメン手形取引による最大100億円の損失計上と、事業仕分け「そうや」・カンパニー制の導入
商社機能そのものである信用供与を、社内でどう管理し直すか——半年見逃された手形乱発の後始末
- 概要
- 1999年6月、ニチメンが融通手形取引に巻き込まれ、最大100億円の損失を負うことが明らかになった一件と、これを受けて渡利陽社長が進めた事業の絞り込みおよび組織の組み替え。取引先への信用供与という商社機能の中核で、社内の与信管理が働かなかった事案である。
- 背景
- 旧財閥系3社を除く総合商社の格付けは投資不適格に沈み、銀行は融資先の選別を強めていた。堅実な社風で知られたニチメンも例外ではなく、1998年7月に設立した投資顧問会社は顧客を集められずにいた。
- 内容
- 1996年6月に始めた帝菱産業との取引は1998年3月の内部監査で打ち切られたが、担当した課長は入れ替わりにトーワジャパンとの取引を始め、1998年11月から権限を超えて100本近い手形を乱発した。渡利社長は事業全般を「育てる・移す・やめる」に仕分け、繊維部門では本体の商いを高機能繊維の輸出に絞って人員を50%削減した。
- 含意
- 1999年9月中間決算は連結の粗利率が過去最高となり、総合商社で唯一の連結純益増益となった。2000年4月にはカンパニー制を導入している。管理部門の増強ではなく、与信の効かない商いを手放す形での立て直しであった。
減らすことで管理する
100本近い手形が半年のあいだ止まらなかった会社が最初に選んだのは、点検の手続きを重ねることではなく、扱う商いを減らすことであった。繊維本体を高機能繊維の輸出に絞って人員を50%削り、育てる・移す・やめるの三つに事業を仕分ける——渡利陽社長の「そうや」は、与信管理の失敗への答えとしては遠回りに見える。ただ、どこまで信用を出せるかを判断できるのは、その商いの中身を分かっている人間だけである。分からない商いを抱えたままでは、権限の線を引き直しても同じことが起きたとみられる。
2000年7月に手放したIT子会社5社の売却益400億円は、カントリーリスク債権と固定化債権の引当と償却に消え、株式と土地の含み損には手がつかないまま残った。この立て直しがニチメンの弱さを直したとは言い切れない。2000年10月に社長を継いだ半林亨氏が受け取ったのは、商社で8位、総合商社で最下位という順位である。商いを与信の届く範囲まで縮める判断は、縮めたあとの収益をどう取り戻すかまでは答えていなかったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
投資不適格に沈んだ商社と、堅いと呼ばれた会社
1990年代末の総合商社は、格付けの向上を最大の課題に置いていた。三井物産・三菱商事・住友商事の旧財閥系3社を除けば格付けは軒並み投資不適格で、連結自己資本比率も7%に届かない。銀行が融資のポートフォリオを本格的に点検し直すなかで、規模の大きい商社向け融資が資産効率の観点から選別にさらされるとみられていた。ムーディーズジャパンの鈴木陸生氏は、総合商社の格付けを考えるうえで国内の事業投資先をどう見るかが大事になってきたと述べている[1][2]。
ニチメンは、そのなかでも堅実な社風で知られた会社であった。大きな傷を負わずに総合商社の一角で健闘してきたという評価が、社外にはあった。一方、収益の細さは新しい事業でも表れていた。1998年7月に資本金3億円で設立した投資顧問会社クオンティス投資顧問は、1999年初めの時点で顧客がニチメンを除いてゼロだった。渡利陽社長は自社の位置を「ノンバンクなら、オリックスがうちより上」(週刊東洋経済 1999/3/6)と語っている[3][4]。
商社機能としての信用供与
取引先への信用供与と金融仲介は、商社機能そのものであった。仲介の口銭だけでは食えなくなった商社にとって、資金を立て替え、決済の時間差を埋める働きは収益の一部を成していた。裏を返せば、どの取引先にどこまで信用を出すかを見極める与信管理は、商社の本業に属する仕事でもあった。ニチメンが1996年6月に取引を始めた帝菱産業は、三菱電機の下請けとして出発し、電子制御システムなどを製造していた大阪の機械メーカーであった[5][6]。
その取引に最初の警告が出たのは、1998年3月である。ニチメンの内部監査は、複数の企業間で手形を回すチェーン取引が行われているのではないかとの疑いをかけ、取引に待ったをかけた。ニチメンはこの時点で帝菱産業との取引を打ち切ったはずだった。社内の点検機関は、少なくとも一度は異常を捉えていたことになる。事件が事件になったのは、その先で起きたことによる[7]。
決断
半年のあいだ止まらなかった手形
帝菱産業との取引を担当した課長は、入れ替わりに全身プリクラの製造会社トーワジャパンとの取引を始めた。トーワジャパン周辺の業者が倒れ始めた1998年11月から、課長は自分の権限を超えて100本近い手形を乱発する。取引に実体がないことが明白になり、問い詰められた課長が会社へ取引内容を告白したのは1999年4月であった。半年にわたって、ニチメンの点検機関は異常を見逃していたことになる[8][9]。
トーワジャパンは1999年5月に負債202億円を抱えて自己破産を申請し、その背景には数十社を相手とする融通手形取引の破綻があった。1999年6月17日には帝菱産業も和議を申請している。ニチメンが負う損失は最大で100億円に上った。同社は、取引先の資金作りに社員が巻き込まれて暴走したと説明し、当初は帝菱とトーワのつながりに気づいていなかったとの立場をとる。「あの堅い会社がなぜ」(週刊東洋経済 1999/7/3)が、業界の受け止め方であった[10][11]。
育てる、移す、やめる
渡利陽社長がこのあと採ったのは、管理部門を増やして点検の手続きを重ねる道ではなかった。事業全般を、本体で育てる・グループ会社に移す・やめる、の三つのくくりで見直す「そうや」という活動を全社で進めた。繊維部門では本体で手掛ける事業を高機能繊維の輸出に絞り、人員を50%削減している。渡利社長は鉄鋼・機械部門にもリストラすべき商売が残っているとし、1年ないし1年半のうちに徹底的に見直すと述べた[12]。
扱う商いを減らせば、ニチメンが手掛けられないビジネスが出る。渡利社長はそれを覚悟したうえで、総合商社という業態そのものは手放さなかった。渡利社長は総合商社を「あらゆるジャンルにアプローチする能力を持った企業体」(週刊東洋経済 1999/12/25)と定義していた。鉄鋼では普通鋼の扱いをやめても特殊鋼の商売を続ければメーカーやユーザーとのパイプは維持できるとし、それが難しければ他社と組んで顧客への接近力を確保するとした[13][14]。
結果
数字に出た絞り込み
1999年9月中間決算で、ニチメンの連結純益は総合商社で唯一の増益となった。渡利社長は、全社で「そうや」を進めた結果、連結ベースの粗利率が過去最高になったことが大きいと説明している。最大100億円の損失を出した年に、利幅の薄い商いを落とした効果が先に現れた形であった。2000年4月には営業部門を三つに束ねたカンパニー制を導入し、仕分けの速度を上げた[15]。
ただし、与信の甘さが残したものは手形だけではなかった。2000年7月、ニチメンはIT分野の子会社5社を売却して400億円の売却益を得る。この400億円は、カントリーリスク債権や固定化債権などへの上期300億円の引当と、下期100億円の償却に消えた。売却したのは携帯電話販売子会社をはじめとする稼ぎ手であり、株式と土地の含み損には手がつかないまま残った[16][17]。
縮めた先の順位
2000年10月、半林亨氏が社長に就いた。1959年に日綿実業へ入社した当時、ニチメンは商社業界で5位である。それが2000年には売上規模で商社の8位となり、債務免除を受けた兼松とトーメンが専門商社集団へ転じた後では、総合商社のなかで最下位に位置していた。半林社長は「一にも二にも営業力の強化だ」(週刊東洋経済 2000/10/28)と述べ、事業の選択と集中と、ほかの商社とのアライアンスで収益力を伸ばすとした[18][19]。
半林社長は、昇格が発表された2000年8月の時点で意中の人物を経営企画の担当に据え、翌年度からの2年計画を策定する体制を整えている。足りない分野は他社とのアライアンスで補うという方針は、削った商いを自前で埋め直さない点で、渡利社長の「そうや」の線をそのまま引き継ぐものであった。与信の届く範囲まで事業を縮め、縮んだ範囲を他社との組み合わせで広げる形が、事件後のニチメンの姿となった[20]。
- 週刊東洋経済 1999年3月6日号「総合商社 金融ビジネスに奔る先発組」
- 週刊東洋経済 1999年7月3日号「ニチメン巨額損失発生 手形事件の深い闇」
- 週刊東洋経済 1999年8月7日号「2003年勝ち組負け組 総合商社」
- 週刊東洋経済 1999年12月25日号「ザ・トーク 渡利陽」
- 週刊東洋経済 2000年7月29日号「虎の子ITも再編対象の商社業界」
- 週刊東洋経済 2000年10月28日号「トップの履歴書 半林亨/ニチメン社長」