この事件を、独占的地位に驕った企業の逸脱と読むだけでは足りない。ニプロにとって生地管は、1950年に日本電気硝子と取引を開始し、1954年に西日本総代理店となったところから続く事業の入口であった。狭い市場で川上を押さえ、加工機械を売って材料を買ってもらい、商品より先に技術を売る——その商法は、供給を握ることと表裏にある。輸入という別の入口が開けば、その商法の前提そのものが崩れる。ナイガイへの申し渡しは、事業の型を守ろうとした行為だったとみられる。
もっとも、守ろうとしたものの大きさに比べて、失ったものは小さくなかった。認容額1億33百万円は連結売上高2,000億円規模の会社にとって軽い金額だが、公正取引委員会に排除型私的独占を認定され、その記録が20年近く有価証券報告書のリスク項目に残った。かつて自社の加工機械で300軒を15社に絞った会社が、今度は価格と供給の操作で1社を締め上げている。同じ市場支配でも、技術で競争相手を減らすことと、供給を止めて選択肢を塞ぐことの間には、法が引いた線がある。その線の位置を、この事件は当事者に教える形になったといえる。