オリンパス の歴史

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創業 1919年
創業者 山下長
創業地 東京都渋谷区幡ヶ谷
創業
1919年10月12日、山下長氏は松方幸次郎氏の常盤商会や鈴木泰一氏らとともに、資本金30万円で株式会社高千穂製作所を東京渋谷区幡ヶ谷に創立した。第一次大戦でドイツからの顕微鏡の輸入が途絶え、国内での自給が急がれていた事情が背景にある。社名の高千穂は山でいえばギリシャのオリンパスにあたるという理由から英文でOLYMPUSと書き、1920年11月に商標を制定した。顕微鏡の開発が技術的な壁にぶつかると資本金を7万5000円へ減らし、1923年には体温計部門を手放して顕微鏡だけを残している。1936年4月に写真機の製造を始め、1942年に高千穂光学工業、1949年1月にオリンパス光学工業へ商号を改めた。
決断
本業の外で膨らんだ損失が、本業の選び直しを強いた。1950年に東京大学の医師の要請で胃カメラの開発に着手し、1963年に自社製の光学繊維でファイバースコープを完成させると、1969年3月に第三事業部を新設して内視鏡を顕微鏡・カメラに次ぐ投資対象に据えた。1985年のプラザ合意後の円高で輸出の採算が崩れると、1987年5月の常務会で金融資産運用の積極化を決めている。輸出で稼ぐ会社が運用で採算を補うこと自体は当時の判断として成り立つ。誤算は、含み損を確定させないまま2000年4月の時価会計導入をまたいだ点にあった。2011年10月に不透明な買収を調査した英国人社長ウッドフォード氏を解任すると、第三者委員会は簿外へ移した損失を1177億円と算定した。
現況
現在の利益は、内視鏡だけが出している。2026年3月期の連結売上高は1兆106億円で、初めて1兆円を超えた。内訳は消化器内視鏡ソリューション事業が6974億円で営業利益1364億円、サージカルインターベンション事業が3131億円で150億円の営業損失である。治療機器側は2024年3月期にも443億円の減損を計上して赤字に沈んだ。事件後の自己資本比率4%台からの再建では、2012年10月にソニーから500億円の出資を受け入れて医療合弁を設立し、2020年には101年続いたカメラ事業を日本産業パートナーズへ譲渡し、2023年に祖業の顕微鏡を担うエビデントをベインキャピタルへ4276億円で譲渡している。祖業も長年の主力も手放して残した内視鏡が、全社の営業利益971億円を一手に生んでいる。
競合
内視鏡で世界の8割を握った会社が、外科の治療機器では追う側にいる。軟性内視鏡では1993年時点で世界市場の約8割を占め、1955年の全国胃カメラ研究会から1983年の内視鏡医学研究振興財団まで、医師が集まる場そのものを自社で運営して臨床の要望を製品へ返してきた。外科では2008年の英ジャイラス買収と2019年からのバリューアクトを取締役へ迎えたメドテック企業への転換で領域を広げたが、2026年3月期も営業損失にとどまる。キヤノンが祖業のカメラを残したまま複写機で稼ぐ構成を選んだのに対し、オリンパスは祖業も主力も譲渡して一領域へ絞った。その集中が、内視鏡の優位をそのまま全社の損益に直結させている。

創業ストーリー 顕微鏡の国産化と、二つの事業を一つへ絞った創業期 (1919年〜)

体温計を手放して顕微鏡へ資源を寄せる

1919年10月12日、山下長氏は松方幸次郎氏の常盤商会や鈴木泰一氏らとともに、資本金30万円で株式会社高千穂製作所を東京渋谷区幡ヶ谷に創立[1]し、ただちに顕微鏡の製作を始めた。第一次世界大戦でドイツから輸入していた顕微鏡が途絶え[2]、国内での自給体制の確立が急がれていた事情が背景にある。社名の高千穂は、山でいえばギリシャのオリンパスに相当するという理由から英文でOLYMPUSと書き[3]、所在地の東京と組み合わせて凸レンズと凹レンズの型に図案化した商標を1920年11月に制定[4]した。顕微鏡の製作経験を持つ寺田枠吉氏を技師長に招き、1920年には国産顕微鏡『旭号』を完成させた。

顕微鏡の開発は比較的簡単にできると見込んで着手したものの技術的な壁にぶつかり、資本金を7万5,000円へ減資したうえ、体温計部門も仁丹へ譲渡[5]した。会社設立から3年間でレンズの開発費は合計30万円に達し、設立時の資本金と同額の費用が先行した。1923年の体温計事業の売却では、後のテルモにあたる譲渡先へ負債もあわせて移し、財務の立て直しをはかった。1928年には株主の森下仁丹が追加の資産譲渡と顕微鏡事業からの撤退を求め、山下氏は東京地方裁判所へ提訴した。1929年に和解が成立し、顕微鏡を自社で続ける基盤が残った。

1928年には1,500倍の顕微鏡を完成させ、大礼記念国産振興東京博覧会へ出品して大賞を獲得[6]した。1931年ごろからは色収差を除いた高級な対物レンズと接眼レンズを製造したが、これらはいずれも自社独自の設計ではなくドイツ製品の模倣であった[7]。自社設計にたどり着いたのはカメラ用のレンズからで、大阪の工業試験所が優秀なガラスを開発したことを受け、1936年にF1.5の明るいレンズを製作して商工省から9,000円の賞金を受けた[8]。同じ1936年4月には写真機の製造を始め[9]、ズイコー・レンズ75ミリF4.5、次いで日本で最初の50ミリF1.5レンズを完成させ、セミ・オリンパス第一号[10]を世に出した。

軍需への傾斜と、信州へ移した生産拠点

1933年12月に海軍省の指定工場として登録され[11]、顕微鏡を海軍病院へ納める販路を得た。資本金は1936年11月に100万円、1939年11月にはさらに200万円へ積み増し[12]、1940年にはF3.5レンズの完成とあわせてオリンパスシックスを世に出した[13]。戦争中は光学兵器や双眼鏡、磁気録音機といった軍需に直接関わる製品への転換[14]を迫られた。社長は1938年12月に創業者の山下長氏から茶谷保三郎氏へ代わった[15]。1944年6月には安宅産業社長の神田正吉[16]がオリンパスの社長を兼ねた。

1942年6月に社名を高千穂光学工業へ[17]改めた。戦争の激化にともなう軍需省の要請で、1943年12月に長野県岡谷市へ諏訪工場、1944年2月に長野県伊那市へ伊那工場をそれぞれ新設[18]し、同年に陸海軍の管理工場の指定を受けた[19]。1945年5月には本社および幡ヶ谷工場を空襲で焼失し、本社を渋谷区田毎町へ移した[20]。この焼失でそれまでの技術の結集であるデータを全部失い、戦後の再出発は初めの設計からやり直した[21]。生産の中心は信州の二工場へ移り[22]、そのまま終戦を迎えた。

終戦と同時に伊那工場で顕微鏡、諏訪工場でカメラの生産を始め、平和産業へ移った[23]。1946年にはオリンパス・シックスの企画を立てて翌1947年に発売し、あわせて懸案だったF2.8レンズを完成[24]させてF4.5レンズを退けた。1948年11月に資本金を700万円へ積み増し[25]、1949年1月には社名をオリンパス光学工業へ改めた[26]。同年には位相差顕微鏡の量産化に踏み切り、胃内撮影用のガストロカメラの試作も終えた[27]。1949年5月、東京証券取引所へ株式を上場[28]し、戦前の軍需メーカーから戦後の民需光学メーカーへ性格を変えた。

    • [23]終戦と同時に伊那工場で顕微鏡・諏訪工場でカメラを生産し平和産業へ移行
    • [24]1946年 オリンパス・シックスを企画し1947年に発売・F2.8レンズを完成
    • [25]1948年11月 資本金700万円へ増資
    • [27]1949年 位相差顕微鏡の量産化と胃内撮影用ガストロカメラの試作完了
  • オリンパス 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1949年1月 オリンパス光学工業へ商号変更
    • [28]1949年5月 東京証券取引所へ上場
    • [11]1933年12月 海軍省指定工場として登録
    • [12]1936年11月 資本金100万円・1939年11月 200万円へ増資
    • [13]1940年 F3.5レンズの完成とオリンパスシックスの発売
    • [15]1938年12月 社長が山下長から茶谷保三郎へ交代
    • [16]1944年6月 安宅産業社長の神田正吉が社長を兼務
    • [19]1944年 陸海軍の管理工場の指定
    • [22]戦後は信州の両工場で製品を生産して終戦を迎えた
    • [23]終戦と同時に伊那工場で顕微鏡・諏訪工場でカメラを生産し平和産業へ移行
    • [24]1946年 オリンパス・シックスを企画し1947年に発売・F2.8レンズを完成
    • [25]1948年11月 資本金700万円へ増資
    • [27]1949年 位相差顕微鏡の量産化と胃内撮影用ガストロカメラの試作完了
    • [14]戦争中は光学兵器・双眼鏡・磁気録音機など軍需品への転換を迫られた
    • [21]焼失で技術データを全て失い戦後は初めの設計からやり直した
  • オリンパス 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1942年6月 高千穂光学工業へ商号変更
    • [26]1949年1月 オリンパス光学工業へ商号変更
    • [28]1949年5月 東京証券取引所へ上場
    • [18]1943年12月 諏訪工場・1944年2月 伊那工場を新設
    • [20]1945年5月 本社および幡ヶ谷工場を戦災で焼失し渋谷区田毎町へ本社を移転

医師の依頼から始まった胃カメラと、その周りに置いた研究会

1950年、オリンパスは東京大学の医師からの要請に応じて世界初の胃カメラの開発に着手[29]し、顕微鏡で培った精密光学と小型カメラの技術を組み合わせて実用機にこぎ着けた。1952年5月には医療機器の製造を正式に開始[30]した。1955年には全国胃カメラ研究会の事務局を引き受け[31]、消化器科の医師が集まる場の運営そのものを自社で担った。臨床の要望を製品へ還す経路を会社の側に抱え込む形となり[32]、これが後年まで他社の参入を阻む条件になった。

  • 日経ビジネス 1993年10月4日号
    • [29]1950年 東京大学の医師の要請で世界初の胃カメラ開発に着手
    • [31]1955年 全国胃カメラ研究会が発足しオリンパスが事務局を担当
    • [32]医師コミュニティの運営を自ら担い臨床の声を製品へ還流させる仕組みが参入障壁になった
  • オリンパス 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1952年5月 医療機器の製造を開始

1955年時点の月産は顕微鏡が2,000万円、カメラが8,400万円で、顕微鏡は全国生産高の55%を占めた[33]。同年5月には株式会社高千穂商会の経営に参加して写真機の国内販売を強化[34]し、1954年に設立したオリンパス商事がカメラの国内総代理店の機能を担った[35]。1960年10月には測定機の製造を開始[36]し、同じ年に事業部制を敷いて社内体制を組み替えた[37]。資本金は1950年12月に3,000万円、1952年4月に6,000万円、同年12月に1億円、1954年4月に2億2,000万円[38]と段階的に積み増した。

ペンとファイバースコープが同時に伸びた十年

1961年7月に発売した『ペンEE』は自動露出装置を積んで撮影の工程をほぼ自動化した普及機で、ペンシリーズの累計販売台数は1963年8月までに100万台を超えた。1965年には販売台数で国内カメラのシェア首位に立ち、ペンサイズに限れば60%を超えるシェア[39]を押さえた。もっとも金額でみると2位にとどまり、これは主力がハーフサイズのペンだったため[40]である。1968年には累計300万台を突破[41]した。

同じ1963年には自社開発の光学繊維を用いてファイバースコープ付きガストロカメラを完成させ、胃がんの早期発見に用いられて輸出にも回った[42]。生産の受け皿として1963年8月に八王子事業場を新設[43]した。1967年時点の資本金は12億円、従業員は2,650人で、年産1,000億円規模の国内光学産業のなかで約10%のシェア[44]を占めた。国内顕微鏡のシェアは55%[45]に達している。

    • [42]1963年 自社開発の光学繊維によるファイバースコープ付ガストロカメラを完成/胃がんの早期発見に寄与し輸出も
    • [44]1967年時点 資本金12億円・従業員2,650人/国内光学産業1,000億円のうちシェア約10%
    • [45]1967年時点 国内顕微鏡シェア55%
  • オリンパス 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1963年8月 八王子事業場を新設

社長の内藤隆福氏は1967年の講演で、第1事業部が顕微鏡・測定機・ガストロカメラを、第2事業部がカメラを担い、両者の売上比率がほぼ50対50である[46]ことを説明した。カメラは景気が悪化すると売上が極端に落ちるのに対し、顕微鏡や測定機、ガストロカメラは主として政府の予算で購買されるため、景気が良かった時の予算で買われてカメラ不振の谷を埋める[47]。同業他社が無配へ転落した時期にもオリンパスが1割2分の配当を続けられた[48]理由がここにあった。過去10年の伸びをみると、カメラの4.5倍に対して顕微鏡は10.7倍[49]で、年ごとの変動が大きいカメラと違って顕微鏡は毎年伸びた。

    • [46]内藤隆福社長が1967年の講演で第1事業部(顕微鏡・測定機・ガストロカメラ)と第2事業部(カメラ)の売上比率がほぼ50対50と説明
    • [47]顕微鏡・測定機・ガストロカメラは政府予算で購買されるためカメラ不振の谷を埋めた
    • [48]同業他社が無配転落の時期にもオリンパスは1割2分の配当を継続
    • [49]過去10年の伸び カメラ4.5倍に対し顕微鏡10.7倍
    • [39]1965年 販売台数で国内カメラシェア首位/ペンサイズのシェアは60%超/金額では2位
    • [40]金額ベースの国内カメラシェアは2位(主力がハーフサイズのペンのため)
    • [42]1963年 自社開発の光学繊維によるファイバースコープ付ガストロカメラを完成/胃がんの早期発見に寄与し輸出も
    • [44]1967年時点 資本金12億円・従業員2,650人/国内光学産業1,000億円のうちシェア約10%
    • [45]1967年時点 国内顕微鏡シェア55%
    • [46]内藤隆福社長が1967年の講演で第1事業部(顕微鏡・測定機・ガストロカメラ)と第2事業部(カメラ)の売上比率がほぼ50対50と説明
    • [47]顕微鏡・測定機・ガストロカメラは政府予算で購買されるためカメラ不振の谷を埋めた
    • [48]同業他社が無配転落の時期にもオリンパスは1割2分の配当を継続
    • [49]過去10年の伸び カメラ4.5倍に対し顕微鏡10.7倍
    • [41]1968年時点でペンシリーズ累計300万台を突破
  • オリンパス 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1963年8月 八王子事業場を新設

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オリンパスの沿革1919〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1919〜1949年顕微鏡の国産化と、二つの事業を一つへ絞った創業期高千穂製作所を設立
東京幡ヶ谷に本社工場を新設
顕微鏡で「オリンパス」の商標取得
財務状況が悪化。体温計事業を仁丹テルモに譲渡★★
森下仁丹を提訴。和解へ
海軍省指定工場に登録・海軍病院に納入へ
安宅商会が経営支援。穏便に経営体制の変更へ
高千穂光学工業に商号変更
神田正吉オリンパス光学工業に商号変更
神田正吉東京証券取引所に株式上場
1950〜1968年胃カメラの受託開発と、ペンが広げた大衆的な認知神田正吉胃カメラを開発。医療機器に参入★★
高橋冏輸出基本方針を策定。カメラ輸出を本格化
中野撤夫カメラ「オリンパス・ペンEE」を発売。爆発的ヒットへ
中野撤夫八王子事業を新設・本社工場を移転
中野撤夫海外子会社を通じたカメラ輸出を本格化
内藤隆福販売法人Olympus Corporation of Americaを設立
1969〜2000年内視鏡の独立事業化と、本業の外側で膨らんだ含み損内藤隆福第三事業部の新設による内視鏡事業の本格化

1969年3月、オリンパス光学工業は第三事業部を新設し、1950年に医師の要請で始めた胃カメラ・内視鏡を、顕微鏡・カメラに次ぐ第三の事業として会社の投資対象に据えた経営判断。社長の内藤隆福氏は医療機械と情報の二領域を掲げ、ファイバー技術を共通の基盤に新事業を育てる方針を示した。

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★★★
神部健小型一眼レフカメラ「OM-1」を発売
北村茂男本社を西新宿に移転
北村茂男辰野事業所を開設
下山敏郎金融資産運用を積極化★★
下山敏郎日の出工場を新設
2001〜2026年粉飾決算の露呈と、医療機器専業への業態転換菊川剛5カ年の「経営基本計画」を策定
菊川剛オリンパスに商号変更
菊川剛映像・医療を会社分割で別法人化
菊川剛デジタルカメラ事業の構造改革による黒字転換

2005年4月、オリンパスは前年度に239億円の営業赤字へ転落したデジタルカメラ事業の再建に着手し、映像子会社オリンパスイメージングの社長に大久保雅治氏を据えた。製品ごとにバラバラだった部品を共通化する『プラットフォーム改革』を軸に構造改革を進め、2008年3月期には映像事業を黒字へ転換させた経営判断。

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★★★
菊川剛Gyrus Group PLCを買収★★
高山修一損失飛ばしの粉飾決算とウッドフォード社長解任(オリンパス事件)

2011年、オリンパスは1980年代の財テクで抱えた約1000億円の含み損を、連結対象外のファンドへ『飛ばし』で移し、損失計上を10年以上先送りしてきたことを公式に認めた。露呈のきっかけは、同年4月に社長へ就いた英国人マイケル・ウッドフォードが過去の買収を調査し、菊川剛会長らに説明と責任を求めたことにある。取締役会は逆に10月、ウッドフォード氏を解任した。その直後に粉飾が明るみに出た。

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★★★
笹宏行情報通信事業を売却★★
笹宏行ソニーとの資本業務提携と医療合弁の設立

2012年10月、粉飾決算で財務が悪化したオリンパスがソニーとの資本業務提携を発表し、ソニーから500億円の出資を受けて筆頭株主に迎え、あわせて外科用内視鏡の医療合弁会社を設立した経営判断。笹宏行社長のもと、資本の受け入れで自己資本を建て直しつつ、ソニーの映像技術を医療に接ぐ新たな成長の柱を探った。

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★★★
笹宏行医療・映像を本体に再吸収
笹宏行バリューアクトが大量保有報告書を提出
笹宏行バリューアクト受け入れとメドテック企業への転換

2019年、2011年の損失隠し事件で統治の立て直しを迫られたオリンパスが、物言う株主バリューアクトの社外取締役を排除でなく受け入れ、企業変革プラン『Transform Olympus』で医療への集中を打ち出した経営判断。竹内康雄社長のもと、担当科別に五つに分かれた事業を内視鏡・治療機器の二つの医療事業へ絞り込み、カメラと顕微鏡の祖業を売却して純医療機器企業へと転換した。

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★★★
竹内康雄祖業カメラからの撤退——映像事業の日本産業パートナーズへの譲渡

2020年、スマートフォンの普及でデジタルカメラ市場が縮み、3期連続で営業赤字となった映像事業(カメラ)を、オリンパスが投資会社の日本産業パートナーズ(JIP)へ譲渡した。6月に意向確認書、9月30日に譲渡契約へ合意し、2021年1月1日に手続きを完了。新会社OMデジタルソリューションズが『オリンパス・ペン』やOM-Dのブランドを継承した。1936年に始まった映像事業から退き、内視鏡を中心とする医療機器への集中を進めた判断である。

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★★★
竹内康雄イスラエルMedi-Tateを買収
シュテファン・カウフマン完全子会社エビデントを売却・顕微鏡領域から撤退★★
シュテファン・カウフマン整形外科事業をポラリス・キャピタルに譲渡★★
出典・参考

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