1919年10月12日、山下長氏は松方幸次郎氏の常盤商会や鈴木泰一氏らとともに、資本金30万円で株式会社高千穂製作所を東京渋谷区幡ヶ谷に創立[1]し、ただちに顕微鏡の製作を始めた。第一次世界大戦でドイツから輸入していた顕微鏡が途絶え[2]、国内での自給体制の確立が急がれていた事情が背景にある。社名の高千穂は、山でいえばギリシャのオリンパスに相当するという理由から英文でOLYMPUSと書き[3]、所在地の東京と組み合わせて凸レンズと凹レンズの型に図案化した商標を1920年11月に制定[4]した。顕微鏡の製作経験を持つ寺田枠吉氏を技師長に招き、1920年には国産顕微鏡『旭号』を完成させた。
顕微鏡の開発は比較的簡単にできると見込んで着手したものの技術的な壁にぶつかり、資本金を7万5,000円へ減資したうえ、体温計部門も仁丹へ譲渡[5]した。会社設立から3年間でレンズの開発費は合計30万円に達し、設立時の資本金と同額の費用が先行した。1923年の体温計事業の売却では、後のテルモにあたる譲渡先へ負債もあわせて移し、財務の立て直しをはかった。1928年には株主の森下仁丹が追加の資産譲渡と顕微鏡事業からの撤退を求め、山下氏は東京地方裁判所へ提訴した。1929年に和解が成立し、顕微鏡を自社で続ける基盤が残った。
1928年には1,500倍の顕微鏡を完成させ、大礼記念国産振興東京博覧会へ出品して大賞を獲得[6]した。1931年ごろからは色収差を除いた高級な対物レンズと接眼レンズを製造したが、これらはいずれも自社独自の設計ではなくドイツ製品の模倣であった[7]。自社設計にたどり着いたのはカメラ用のレンズからで、大阪の工業試験所が優秀なガラスを開発したことを受け、1936年にF1.5の明るいレンズを製作して商工省から9,000円の賞金を受けた[8]。同じ1936年4月には写真機の製造を始め[9]、ズイコー・レンズ75ミリF4.5、次いで日本で最初の50ミリF1.5レンズを完成させ、セミ・オリンパス第一号[10]を世に出した。
1933年12月に海軍省の指定工場として登録され[11]、顕微鏡を海軍病院へ納める販路を得た。資本金は1936年11月に100万円、1939年11月にはさらに200万円へ積み増し[12]、1940年にはF3.5レンズの完成とあわせてオリンパスシックスを世に出した[13]。戦争中は光学兵器や双眼鏡、磁気録音機といった軍需に直接関わる製品への転換[14]を迫られた。社長は1938年12月に創業者の山下長氏から茶谷保三郎氏へ代わった[15]。1944年6月には安宅産業社長の神田正吉氏[16]がオリンパスの社長を兼ねた。
1942年6月に社名を高千穂光学工業へ[17]改めた。戦争の激化にともなう軍需省の要請で、1943年12月に長野県岡谷市へ諏訪工場、1944年2月に長野県伊那市へ伊那工場をそれぞれ新設[18]し、同年に陸海軍の管理工場の指定を受けた[19]。1945年5月には本社および幡ヶ谷工場を空襲で焼失し、本社を渋谷区田毎町へ移した[20]。この焼失でそれまでの技術の結集であるデータを全部失い、戦後の再出発は初めの設計からやり直した[21]。生産の中心は信州の二工場へ移り[22]、そのまま終戦を迎えた。
終戦と同時に伊那工場で顕微鏡、諏訪工場でカメラの生産を始め、平和産業へ移った[23]。1946年にはオリンパス・シックスの企画を立てて翌1947年に発売し、あわせて懸案だったF2.8レンズを完成[24]させてF4.5レンズを退けた。1948年11月に資本金を700万円へ積み増し[25]、1949年1月には社名をオリンパス光学工業へ改めた[26]。同年には位相差顕微鏡の量産化に踏み切り、胃内撮影用のガストロカメラの試作も終えた[27]。1949年5月、東京証券取引所へ株式を上場[28]し、戦前の軍需メーカーから戦後の民需光学メーカーへ性格を変えた。
1950年、オリンパスは東京大学の医師からの要請に応じて世界初の胃カメラの開発に着手[29]し、顕微鏡で培った精密光学と小型カメラの技術を組み合わせて実用機にこぎ着けた。1952年5月には医療機器の製造を正式に開始[30]した。1955年には全国胃カメラ研究会の事務局を引き受け[31]、消化器科の医師が集まる場の運営そのものを自社で担った。臨床の要望を製品へ還す経路を会社の側に抱え込む形となり[32]、これが後年まで他社の参入を阻む条件になった。
1955年時点の月産は顕微鏡が2,000万円、カメラが8,400万円で、顕微鏡は全国生産高の55%を占めた[33]。同年5月には株式会社高千穂商会の経営に参加して写真機の国内販売を強化[34]し、1954年に設立したオリンパス商事がカメラの国内総代理店の機能を担った[35]。1960年10月には測定機の製造を開始[36]し、同じ年に事業部制を敷いて社内体制を組み替えた[37]。資本金は1950年12月に3,000万円、1952年4月に6,000万円、同年12月に1億円、1954年4月に2億2,000万円[38]と段階的に積み増した。
1961年7月に発売した『ペンEE』は自動露出装置を積んで撮影の工程をほぼ自動化した普及機で、ペンシリーズの累計販売台数は1963年8月までに100万台を超えた。1965年には販売台数で国内カメラのシェア首位に立ち、ペンサイズに限れば60%を超えるシェア[39]を押さえた。もっとも金額でみると2位にとどまり、これは主力がハーフサイズのペンだったため[40]である。1968年には累計300万台を突破[41]した。
同じ1963年には自社開発の光学繊維を用いてファイバースコープ付きガストロカメラを完成させ、胃がんの早期発見に用いられて輸出にも回った[42]。生産の受け皿として1963年8月に八王子事業場を新設[43]した。1967年時点の資本金は12億円、従業員は2,650人で、年産1,000億円規模の国内光学産業のなかで約10%のシェア[44]を占めた。国内顕微鏡のシェアは55%[45]に達している。
社長の内藤隆福氏は1967年の講演で、第1事業部が顕微鏡・測定機・ガストロカメラを、第2事業部がカメラを担い、両者の売上比率がほぼ50対50である[46]ことを説明した。カメラは景気が悪化すると売上が極端に落ちるのに対し、顕微鏡や測定機、ガストロカメラは主として政府の予算で購買されるため、景気が良かった時の予算で買われてカメラ不振の谷を埋める[47]。同業他社が無配へ転落した時期にもオリンパスが1割2分の配当を続けられた[48]理由がここにあった。過去10年の伸びをみると、カメラの4.5倍に対して顕微鏡は10.7倍[49]で、年ごとの変動が大きいカメラと違って顕微鏡は毎年伸びた。
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|---|---|---|---|---|
| 1919〜1949年顕微鏡の国産化と、二つの事業を一つへ絞った創業期 | 高千穂製作所を設立 | ★ | ||
| 東京幡ヶ谷に本社工場を新設 | ★ | |||
| 顕微鏡で「オリンパス」の商標取得 | ★ | |||
| 財務状況が悪化。体温計事業を仁丹テルモに譲渡 | ★★ | |||
| 森下仁丹を提訴。和解へ | ★ | |||
| 海軍省指定工場に登録・海軍病院に納入へ | ★ | |||
| 安宅商会が経営支援。穏便に経営体制の変更へ | ★ | |||
| 高千穂光学工業に商号変更 | ★ | |||
| 神田正吉 | オリンパス光学工業に商号変更 | ★ | ||
| 神田正吉 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 1950〜1968年胃カメラの受託開発と、ペンが広げた大衆的な認知 | 神田正吉 | 胃カメラを開発。医療機器に参入 | ★★ | |
| 高橋冏 | 輸出基本方針を策定。カメラ輸出を本格化 | ★ | ||
| 中野撤夫 | カメラ「オリンパス・ペンEE」を発売。爆発的ヒットへ | ★ | ||
| 中野撤夫 | 八王子事業を新設・本社工場を移転 | ★ | ||
| 中野撤夫 | 海外子会社を通じたカメラ輸出を本格化 | ★ | ||
| 内藤隆福 | 販売法人Olympus Corporation of Americaを設立 | ★ | ||
| 1969〜2000年内視鏡の独立事業化と、本業の外側で膨らんだ含み損 | 内藤隆福 | 第三事業部の新設による内視鏡事業の本格化 1969年3月、オリンパス光学工業は第三事業部を新設し、1950年に医師の要請で始めた胃カメラ・内視鏡を、顕微鏡・カメラに次ぐ第三の事業として会社の投資対象に据えた経営判断。社長の内藤隆福氏は医療機械と情報の二領域を掲げ、ファイバー技術を共通の基盤に新事業を育てる方針を示した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 神部健 | 小型一眼レフカメラ「OM-1」を発売 | ★ | ||
| 北村茂男 | 本社を西新宿に移転 | ★ | ||
| 北村茂男 | 辰野事業所を開設 | ★ | ||
| 下山敏郎 | 金融資産運用を積極化 | ★★ | ||
| 下山敏郎 | 日の出工場を新設 | ★ | ||
| 2001〜2026年粉飾決算の露呈と、医療機器専業への業態転換 | 菊川剛 | 5カ年の「経営基本計画」を策定 | ★ | |
| 菊川剛 | オリンパスに商号変更 | ★ | ||
| 菊川剛 | 映像・医療を会社分割で別法人化 | ★ | ||
| 菊川剛 | デジタルカメラ事業の構造改革による黒字転換 2005年4月、オリンパスは前年度に239億円の営業赤字へ転落したデジタルカメラ事業の再建に着手し、映像子会社オリンパスイメージングの社長に大久保雅治氏を据えた。製品ごとにバラバラだった部品を共通化する『プラットフォーム改革』を軸に構造改革を進め、2008年3月期には映像事業を黒字へ転換させた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 菊川剛 | Gyrus Group PLCを買収 | ★★ | ||
| 高山修一 | 損失飛ばしの粉飾決算とウッドフォード社長解任(オリンパス事件) 2011年、オリンパスは1980年代の財テクで抱えた約1000億円の含み損を、連結対象外のファンドへ『飛ばし』で移し、損失計上を10年以上先送りしてきたことを公式に認めた。露呈のきっかけは、同年4月に社長へ就いた英国人マイケル・ウッドフォードが過去の買収を調査し、菊川剛会長らに説明と責任を求めたことにある。取締役会は逆に10月、ウッドフォード氏を解任した。その直後に粉飾が明るみに出た。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 笹宏行 | 情報通信事業を売却 | ★★ | ||
| 笹宏行 | ソニーとの資本業務提携と医療合弁の設立 2012年10月、粉飾決算で財務が悪化したオリンパスがソニーとの資本業務提携を発表し、ソニーから500億円の出資を受けて筆頭株主に迎え、あわせて外科用内視鏡の医療合弁会社を設立した経営判断。笹宏行社長のもと、資本の受け入れで自己資本を建て直しつつ、ソニーの映像技術を医療に接ぐ新たな成長の柱を探った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 笹宏行 | 医療・映像を本体に再吸収 | ★ | ||
| 笹宏行 | バリューアクトが大量保有報告書を提出 | ★ | ||
| 笹宏行 | バリューアクト受け入れとメドテック企業への転換 2019年、2011年の損失隠し事件で統治の立て直しを迫られたオリンパスが、物言う株主バリューアクトの社外取締役を排除でなく受け入れ、企業変革プラン『Transform Olympus』で医療への集中を打ち出した経営判断。竹内康雄社長のもと、担当科別に五つに分かれた事業を内視鏡・治療機器の二つの医療事業へ絞り込み、カメラと顕微鏡の祖業を売却して純医療機器企業へと転換した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 竹内康雄 | 祖業カメラからの撤退——映像事業の日本産業パートナーズへの譲渡 2020年、スマートフォンの普及でデジタルカメラ市場が縮み、3期連続で営業赤字となった映像事業(カメラ)を、オリンパスが投資会社の日本産業パートナーズ(JIP)へ譲渡した。6月に意向確認書、9月30日に譲渡契約へ合意し、2021年1月1日に手続きを完了。新会社OMデジタルソリューションズが『オリンパス・ペン』やOM-Dのブランドを継承した。1936年に始まった映像事業から退き、内視鏡を中心とする医療機器への集中を進めた判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 竹内康雄 | イスラエルMedi-Tateを買収 | ★ | ||
| シュテファン・カウフマン | 完全子会社エビデントを売却・顕微鏡領域から撤退 | ★★ | ||
| シュテファン・カウフマン | 整形外科事業をポラリス・キャピタルに譲渡 | ★★ |
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事実根拠:出所(オリンパス)