胃カメラを開発。医療機器に参入
東大医師の熱意ある要請が開いた医療機器参入の経路
戦前を通じてオリンパスは病院向けに顕微鏡を納入しており、医療現場との接点を持っていた。この縁から、東京大学第一内科の医師がオリンパスに対して「胃カメラ」の開発を要請した。要請の手法は型破りであり、オリンパス社員が乗る中央線の列車に医師が乗り込み、旅程の数時間にわたって胃カメラの構想と開発の必要性を説くものであった。顕微鏡メーカーに過ぎなかったオリンパスに医療機器の開発を求めた背景には、光学系と精密機械の技術が胃カメラの開発に転用可能であるという医師側の見立てがあった。
オリンパスはこの要請を受けて胃カメラの開発に着手し、1950年までに試作機を完成させた。1952年には内視鏡の開発にも進み、医療機器としての製品化を進めた。ただし、1950年代を通じて医療機器のニーズは限定的であり、当時の成長市場はカメラであった。オリンパスの経営判断としてはカメラに経営資源を集中させる方針を採り、内視鏡への本格投資は見送りとなった。
社内において内視鏡の開発は一部の技術者と医師の協力関係に依存しており、全社戦略として医療機器に参入するという意思決定は存在しなかった。のちにオリンパスの経営幹部が「経営的な戦略などは何もなかった」と振り返っているように、医療機器事業は顧客である医師の側から推進された事例であった。
学会事務局の担当と医師ネットワークの構築による販路形成
1955年に全国胃カメラ研究会が各地の医師によって発足すると、オリンパスはその事務局を担当した。同研究会はのちに日本消化器内視鏡学会へと発展し、内視鏡を使用する全国の医師が集まる場となった。オリンパスが事務局を務めたことで、ユーザーである医師とのコネクションを組織的に確保する構造が生まれ、製品の知名度向上と改良のためのフィードバックを得る回路が確立された。
この学会を軸とした医師ネットワークの形成は、オリンパスの内視鏡が市場を占有する契機となった。新型機の展示や臨床報告を通じて、医師の間でオリンパス製品が標準的な選択肢として定着していった。市場の形成段階から学会運営に関与することで、製品開発と販路構築を同時に進める仕組みが構築された。
1960年からオリンパスはグラスファイバーによる紡糸の研究に着手し、ファイバースコープを用いた内視鏡の開発に取り組んだ。コーティングや結束などの技術的課題を克服し、1963年にファイバースコープ内視鏡を完成させた。この技術の蓄積が、のちの内視鏡市場におけるオリンパスの技術的優位の源泉となった。
ファイバースコープの実用化と内視鏡量産体制の確立
ファイバースコープの内視鏡は、従来の胃カメラで必要だった写真撮影と現像の工程を省き、リアルタイムで患者の胃の状態を観察できる点で従来型とは本質的に異なる製品であった。これにより、従来型の胃カメラ市場はファイバースコープ内視鏡に置き換えられる流れが生まれた。オリンパスは試作機を大阪医学会や内視鏡学会に展示し、従来とは次元の異なる医学的成果が期待されたことから、学会に所属する医師に大きな反響を呼んだ。
この反響を受けて、1964年からオリンパスは八王子事業所でファイバースコープ内視鏡の量産を開始した。大量生産体制を整えることで外国製品の内視鏡に対する価格競争力を確保するとともに、ファイバー系の生産技術が持つ難易度の高さが、他社にとっての参入障壁として機能した。オリンパスは光学技術に加えてファイバー系の製造技術という二重の技術基盤を確立した。
ただし、1960年代の時点でオリンパスが内視鏡を主力事業として位置づけていたわけではなかった。会社としての本格投資が開始されたのは1969年の「第三事業部」発足以降であり、1950年代から1960年代にかけての内視鏡事業は、全社戦略の枠外で医師と技術者の協力により推進された特殊な事業展開であった。