重要な意思決定
191910月

株式会社高千穂製作所を設立

背景

ドイツ製光学機器の輸入途絶が促した精密機器の国産化

第一次世界大戦の勃発により、ドイツのツァイス社やライツ社が製造する光学機器の日本への輸入が途絶した。戦前の日本は顕微鏡をはじめとする精密光学機器の大半を欧州からの輸入に頼っており、大戦の長期化に伴い国産化の必要性が各方面で認識され始めた。とりわけ顕微鏡は医学や農学の研究現場で不可欠な基盤機器であったため、研究機関や各地の試験場において機器不足が顕在化し、代替となる国産品の供給が求められた。こうした環境が、山下長氏による顕微鏡の国産化事業を後押しする社会的な背景となった。

山下長氏は政治家・松方正義氏の縁戚にあたる人物であった。東京帝国大学の在学中から起業に関心を持ち、大企業への就職ではなく独立した事業の立ち上げを志向した。大学卒業後は松方家が経営する貿易会社「常盤商会」に入り、砂糖の貿易業務に従事した。第一次世界大戦の好況もあって山下氏は常盤商会に利益をもたらし、オーナーの松方幸次郎氏から「何か褒美をやろう」と声がかかることになる。

山下氏はこの申し出を活かし、かねてから構想していた顕微鏡の国産化事業の支援を求めた。松方幸次郎氏のほか鈴木泰一氏らが出資者として名を連ね、共同出資の形態で会社設立が具体化した。山下氏が起業を決断した当時の年齢は30歳であり、常盤商会での実務経験と松方家との人脈が、事業の立ち上げにおける基盤となった。

決断

寺田枠吉氏の招聘と光学部・計器部の二部門体制による発足

1919年10月12日、山下長氏は株式会社高千穂製作所を資本金30万円で設立した。設立にあたり、顕微鏡の製作経験を有する技術者の寺田枠吉氏を技師長として招聘した。山下氏は大学在学中から寺田氏が顕微鏡製作に従事していることを知っており、旧知の関係にあった。寺田氏が経営していた「寺田製作所」から製造設備一式を5.2万円で取得し、技術と設備の両面を確保した。

寺田氏がオリンパスに合流した背景には、同氏自身の事情も絡んでいた。寺田氏は体温計の製造工場の起業を計画していたが、宅地に工場を建設しようとしたところ警視庁から認可が下りず、計画が頓挫していた。この結果、寺田氏は自らの体温計製造の構想をオリンパスに持ち込む形となり、オリンパスは創業時点で「体温計の製造設備」と「顕微鏡の開発ノウハウ」という二つの技術基盤を同時に獲得した。

資本政策において、オリンパスは創業者の山下氏による同族経営ではなく、共同出資に基づく会社運営の形態を採用した。設立後も山下氏は自社株式を買い集めることをせず、上場前の段階から株主構成が分散する構造が形成された。この資本政策の選択は、のちのオリンパスの経営における所有と経営の分離を方向づけるものとなった。

結果

国産顕微鏡「旭号」の完成と養蚕試験場を軸にした販路形成

1919年の会社設立時点で、オリンパスは「光学部」と「計器部」の二部門構成で発足した。計器部では寺田氏が開発を進めていた体温計の製造に従事し、光学部では顕微鏡の国産化に向けた研究開発を開始した。翌1920年3月にはオリンパス初の国産顕微鏡「旭号」を完成させ、精密光学機器メーカーとしての事業を本格的に始動させた。

「旭号」の主な販売先は養蚕業の試験場であった。群馬県・福島県・茨城県などの原蚕種試験場に出荷され、蚕の品種改良や病害研究に用いられた。当時の日本では養蚕業が主要な輸出産業の一つであり、研究用の顕微鏡に対する需要が存在していた。ただし、市場ではドイツ製の輸入品が品質の基準として定着しており、国産品に対する評価は厳しく、販売面では苦戦が続いた。

経営体制としては、寺田枠吉氏の知人である川上謙三郎氏が社長に就任し、山下長氏は専務に就任した。ただし、実際の経営判断は山下氏が担っており、川上社長の経営関与は限定的で名義上の社長であった。創業時の従業員数は約80名であり、精密部品の加工やレンズの研磨など高度な生産技術を持つ職工が組織の中核を占めた。レンズの生産工程は秘匿化され、関係者以外は立ち入れない部屋で研磨が行われていたという。