ニプロスーパーマーケット・ドラッグストア子会社の譲渡と小売事業からの撤退

多角化を統治力と呼んだ4年後に、なぜ創業以来の三本柱の一角を手放したのか

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時期 2006年6月
意思決定者(推定) 佐野實 社長
論点 事業ポートフォリオと経営資源の配分
概要
2006年、ニプロがスーパーマーケットを営む株式会社ニッショーの全株式を阪急百貨店へ、ドラッグストアを営む株式会社ニッショードラッグの保有株式をキリン堂へ譲渡し、1963年から43年続けた小売事業から撤退した経営判断。譲渡理由を有価証券報告書は、経営資源の投入を医療機器および医薬品部門へ重点的に行うためと記している。
背景
ニプロの小売事業は1963年、硝子加工の技術で生鮮食品の鮮度向上に貢献できるという判断から始まった。器材・ストア・医療の三部門を並べる構成は1987年の株式上場を可能にした条件でもあり、佐野實社長は2002年の時点でも、低収益を理由にした小売撤退を退けていた。
内容
2006年6月23日に阪急百貨店とニッショー全株式4万株の譲渡契約を締結し、7月31日に譲渡。同年11月17日にはキリン堂とニッショードラッグ株600株(所有割合72.4%)の譲渡契約を結び、12月15日に引き渡した。譲渡前年度のストア部門売上高は672億61百万円で、連結売上高の約3分の1を占めていた。
含意
2007年3月期の連結売上高は1,843億62百万円へ前期比10.9%減った一方、営業利益は5.9%増の130億53百万円、当期純利益は子会社株式の譲渡益を含めて85億55百万円と前期比89.6%増となった。売上規模を手放して利益率を取る構成へ、事業の組み合わせが変わった。
筆者の見解

43年続けた事業を畳むということ

この撤退を、低収益事業の整理という言葉で片づけるのは早い。営業利益率1.6%という数字は2002年から動いておらず、それを理由に撤退を求める声も同じだけ長く続いていた。それでも佐野實社長は当時、長期と短期のバランスを考えて事業を行い投資をするのが経営者の役目だと答えて退けている。4年後に同じ事業を手放したとき、同社が挙げた理由は収益性ではなく、医療機器と医薬品への経営資源の集中であった。畳む理由が変わったのではなく、畳んでよい条件が整ったとみることができる。

もっとも、この判断が正しかったと言えるのは、医療と医薬が実際に伸びた後を知っているからにすぎない。撤退時点で連結売上高の3分の1にあたる672億円と、京阪神の店舗で働く従業員を手放しており、失敗すれば規模だけを失う判断でもあった。1963年に生鮮三品の鮮度で貢献できるかと問うて始めた事業を、43年後に医療への集中を理由に外す——器材が稼ぐ間に小売を育て、小売が稼ぐ間に医療を育てるという順送りの構図が、ここで最後の一巡を終えたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

硝子商が食品小売に出た理由

ニプロの小売事業は、余った資金の置き場所として始まったものではなかった。1963年11月、同社は大阪府豊中市服部に食料品中心のニッショーストア服部店を開き、スーパーマーケット業界に入っている。参入の判断について佐野實社長は、新規参入にあたってはその業界の発展に寄与できるかを検討したうえで決めると述べ、スーパーについては生鮮三品の鮮度落ちを防ぐことに技術で貢献できると考えたと説明していた。硝子加工の機械化で身を立てた会社が、同じ技術志向を食品の鮮度に向けた形であった[1][2]

価格でなく品質で売るという方針も、参入当初から明確であった。安く買い叩いて安く売るのが当時のスーパーの常識だったなかで、同社は仕入れをオーソドックスに保ちつつ、正当な値段で等級の高い品を仕入れさせた。結果として生まれたのが、ニッショーの品物は高いけれども品質は良いという評判であった。佐野社長はストアを一種の工場と捉え、鮮度を上げ保持し品質を向上させる仕組みを作る場と位置づけている。器材・ストア・医療の三部門は、性格こそ異なるが同じ技術志向で束ねられていた[3][4]

小売があったから上場できたという事実

三部門を並べる構成は、株式公開の要件そのものを支えていた。のちに佐野社長は、小売事業があればこそ規模の基準をクリアして上場を果たせたと語り、当時は医療用器具が赤字だったため、アナリストからは医療をやめろと言われたと明かしている。1986年3月期の経常利益の構成比は医療事業部門35.0%、器材事業部門33.6%、ストア事業部門31.4%で、三つはほぼ拮抗していた。1987年2月の大阪証券取引所第二部への上場は、この均衡の上に立っていた[5][6]

2002年の時点で、この構成は外部から強い批判を受けていた。医療用器具事業の営業利益率19%に対し、小売事業は1.6%にとどまり、証券アナリストからは小売をやめろと繰り返し言われている。佐野社長はこれを退け、変化する世の中に対応するために現状の利益だけを考えていては駄目で、長期と短期のバランスを考えて事業を行い投資をするのが経営者の役目だと答えた。同社は前年の2001年6月にスーパー部門を会社分割し、新設の株式会社ニッショーへ移していた。手放すためではなく、独立採算で鍛えるための分社であった[7][8]

決断

二つの譲渡契約

撤退は半年のうちに二段階で実行された。ニプロは2006年6月23日、連結子会社である株式会社ニッショーの全発行済株式4万株、所有割合100.0%の譲渡契約を株式会社阪急百貨店との間で締結し、7月31日に株式を譲渡している。続いて同年11月17日、株式会社ニッショードラッグの全保有株式600株、所有割合72.4%の譲渡契約を株式会社キリン堂と結び、12月15日に引き渡した。スーパーとドラッグストアの双方を、それぞれ関西の同業へ渡す形であった[9][10]

手放したのは小さな事業ではなかった。譲渡前年度にあたる2006年3月期のストア部門売上高は672億61百万円で、同期の連結売上高2,068億01百万円の約3分の1を占めている。同部門の営業利益は5億77百万円と薄かったものの、前期比では403.5%増と改善の途中にあった。京阪神地区で生鮮食品を主体としたスーパーマーケットを営むニッショーと、阪神地区で医薬品・日用雑貨を扱うニッショードラッグが、連結から同時に外れた[11][12]

医療と医薬へ資源を寄せるという説明

ニプロは撤退の理由を、収益性ではなく資源配分の言葉で説明した。有価証券報告書は、引き続き技術革新を心がけ革新的な製品を生み出す努力を続けるとともに、今後は経営資源の投入を医療機器および医薬品部門に重点的に行うこととし、ストア部門の連結子会社の株式譲渡を行ったと記している。小売の不振を理由に畳んだのではなく、医療と医薬に寄せるために外したという整理であった。低収益を理由とする撤退論を4年前に退けた経営者が、別の理由を立てて同じ結論に至った形になる[13]

資源を寄せる先には、すでに育ちつつある事業があった。2002年の時点で医療用器具は売上高の45%、営業利益の8割弱を稼ぎ、人工透析用のダイアライザは世界シェア約3割で首位を走っている。赤字に目をつぶって毎年10億円以上を投じてきた医薬品事業も1999年3月期に黒字化し、以後は年平均で二桁の成長を続けていた。器材と小売が稼ぐ間に医療と医薬を育てるという順序が、この時点で一巡していたとみることができる[14][15]

結果

売上を落として利益を取る決算

撤退の影響は、その期の決算にそのまま表れた。2007年3月期の連結売上高は1,843億62百万円と前期比10.9%減った一方、営業利益は前期比5.9%増の130億53百万円となっている。当期純利益は子会社株式の譲渡に伴う特別利益の計上などにより85億55百万円と、前期比89.6%の増加となった。譲渡が7月と12月であったためストア部門の売上は309億73百万円しか計上されておらず、規模の縮小と利益の改善が同じ期に現れる決算となった[16][17]

通期で影響が出たのは翌期であった。2008年3月期の連結売上高は1,721億13百万円へさらに縮み、有価証券報告書は減収の主因を小売部門の撤退と説明している。ピークの2006年3月期に2,068億01百万円あった売上高は、2年で約3割減った。もっとも、この水準からの回復は速く、2012年3月期には2,120億13百万円と撤退前を上回っている。売上規模の空白は、医療と医薬の伸びと海外展開が5年ほどで埋めた[18][19]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1987年3月号「ニッショー」
  • 証券アナリストジャーナル 1988年5月号「ニッショー」
  • 週刊東洋経済 2002年11月2日号「[特集]生き残る会社の条件「反」常識A:ニプロ不採算部門を捨てない「多角」が成立する統治力」
  • ニプロ 有価証券報告書 第53期(2006年3月期)
  • ニプロ 有価証券報告書 第54期(2007年3月期)
  • ニプロ 有価証券報告書 第55期(2008年3月期)

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