エバラ食品工業冷凍食品・広告代理店・物流へ広げた周辺事業からの全面撤退

「たれ」で稼いだ資金をどこへ置くか——総合食品メーカーへの脱皮か、調味料への一点集中か

時期 2006年3月
意思決定者(推定) 森村忠司(社長)・森村国夫 会長
論点 多角化と事業構成の絞り込み
概要
1981年の日本冷食子会社化を皮切りに、エバラ食品工業は冷凍食品・広告代理店・物流・外食へ事業を広げたが、いずれも本業の焼肉のたれに並ぶ収益源には育たず、2006年3月の日本冷食株式譲渡をもって周辺事業から退いた経営判断。
背景
焼肉のたれで国内シェア6割を握った一方、たれ以外の商品では販売力が及ばず、1990年代には牛肉輸入自由化を控えて大手食品メーカーの参入も相次いだ。稼いだ資金の置き場所として、総合食品メーカーへの脱皮が掲げられた。
内容
1981年10月に日本冷食を子会社化して冷凍食品へ、1984年11月に宣伝部門を分離して広告代理店業へ、1990年5月にエバラ物流を設立して物流へ進んだ。1996年から2006年にかけて米国・外食・冷凍食品を順に手放し、調味料と本業に付随する機能子会社だけが残った。
含意
撤退後も広告と物流の子会社は残り、2020年代の買収は業務用調味料の周辺に絞られている。多角化の失敗として畳んだのではなく、本業と接続しない事業を選り分けた結果とみることができる。
筆者の見解

一点集中の強さと、その裏側

焼肉のたれという商品を自ら作り出した会社が、その成功の資金で次の柱を探した経緯そのものは、成長の作法として珍しいものではない。ただエバラ食品工業の場合、選ばれた先が冷凍食品・広告・外食・米国と広く散り、いずれも精肉店と食品問屋という自社の販路や、たれの味を作る技術と直接には結びついていなかった。大手スーパーが指摘した「たれ以外ではマーケティング力が劣る」という評価は、商品の力ではなく、届け方の力が特定の商品と結びついていたことを指していたようにも読める。

撤退の判断そのものは早い。米国は8年、外食は11年、冷凍食品も損失の累積を待たずに他社へ渡している。長く抱えて傷を広げるより、収益貢献を見通せない段階で手放す運びが繰り返された。一方で、広げるより絞る選択を続けた結果、連結売上高は20年にわたり500億円前後にとどまっている。稼ぐ力のある狭い市場を持つ会社が、その外側へどこまで出るべきか——2020年代の東南アジア展開や業務用周辺の買収にも、同じ問いが引き継がれているとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

一点集中が生んだ資金と、その置き場所

1967年に発売した焼肉のたれと、1978年に加えた「黄金の味」で、エバラ食品工業は狭い商品カテゴリーの首位を固めた。単体の売上高は1968年3月期の1.5億円から1981年3月期の171億円へ伸び、13年でおよそ114倍となった。1979年の時点で焼肉のたれの市場規模は約200億円と推定され、同社はそのおよそ5割を握っていた。神奈川県伊勢原と横浜に自動化工場を持つほかは各地の協力工場に製造ラインを設計してリースする方式を採り、設備の負担を抑えた身軽な経営で、借入は金融機関との付き合い程度にとどまっていた[1][2]

稼いだ資金の置き場所は、早い時期から経営の論点であった。1979年の資本金は2730万円にとどまり、その年の売上高は資本金の400倍に達していた。森村国夫社長は「売上高の伸びに対して、払い込み資本増加のテンポが追いつかないだけ」と述べ、剰余金を含む実質的な資本は11億円程度あると説明している。製造まで担う食品メーカーとしては異例の過小資本であり、蓄えた資金を本業の外へ振り向けるか、たれの生産と販売に重ねて投じるかという選択が残されていた[3]

総合食品メーカーへの脱皮という構想

本業の側にも、そのまま伸ばし続けにくい事情があった。1970年代後半には味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品といった大手が焼肉のたれへ相次いで進出し、スーパーでの安売り合戦が精肉店ルートの値崩れにまで波及した。1991年には牛肉の輸入自由化を控えて調味料各社がたれの開発と販売強化に動き、モランボンは輸入牛肉専用の焼肉のたれを、中埜酢店は「味ぽん」の拡販を進めていた。大手スーパーからは「たれ以外ではマーケティング力が劣る」という評価も向けられていた[4][5]

そこで掲げられたのが、総合食品メーカーへの脱皮であった。1987年にはスープ類生産の拠点である群馬工場へ10億円を投じてラインを増設し、生産能力を2倍へ引き上げた。森村国夫社長は「あらゆる食品のベースに使用できるスープから強化した」と語っている。1990年4月には岡山県津山市に約4万8000平方メートルの工場用地を取得し、土地代を含め53億円強を投じて1993年春の操業を目指した。たれ一本の会社から、複数の食品を扱う会社へ移ろうとする投資が同時に走っていた[6]

決断

冷凍食品・広告・物流へ広げた10年

周辺事業への進出は1981年10月に始まった。エバラ食品工業は冷凍食品の製造販売を手がける日本冷食の株式を取得して子会社とし、調味料以外の食品分野に足を掛けた。1991年7月には冷凍食品の販売会社であるグロリア・フードも子会社に加え、同社は1997年10月に商号をエバレイへ改めている。もっとも冷凍食品は保管と輸送に冷凍設備を要し、常温で運べる調味料とは物流も取引先も重ならない。焼肉のたれで築いた精肉店と食品問屋の販路を、そのまま生かせる事業ではなかった[7][8]

1984年11月には宣伝部門を独立させ、総合広告代理店として横浜エージェンシーを設立した。同社はエバラ食品工業のCMを一手に引き受けるほか、外部10社の広告も手がけていた。テレビCMで市場を開いてきた会社が、その制作機能を自前で抱え込む形であった。1990年5月には物流子会社のエバラ物流を設立している。多頻度・小口配送と取扱品目の増加に備え、それまで全面委託していた配送業務を自社で細かく管理する狙いで、運送会社の丸岩商事との共同出資による設立であった[9][10]

順に畳まれた周辺事業

広げた事業のうち、本業と離れたものから順に整理が進んだ。1996年3月に米国法人US EBARA FOODS INC.を清算し、1999年12月にはエバラコーポレーションを解散して外食事業から退いた。総合食品メーカーへの脱皮を支える柱として期待された二つの拡張が、進出から8年と11年で終わったことになる。1995年に社長を継いだ森村忠司氏の体制で、本業以外の事業は収益貢献を確かめられる段階に至らないまま処理された[11][12]

残った冷凍食品も、2000年代に入ると法人の整理が続いた。2000年3月にエバレイを設立し、2001年4月には単位株制度の採用を目的として同社の商号をエバラ食品工業へ改めたうえで合併、2003年4月に改めてエバレイを吸収合併している。そして2006年3月、日本冷食の全株式を北海道のサンマルコ食品へ譲渡した。譲渡された北海道津別町の工場は、その後もサンマルコ食品の主力工場として道産ジャガイモを使う冷凍コロッケなど約250品目を製造し、2012年には28億円を投じて建て替えられている。1981年に始まった冷凍食品事業は25年で他社の手に渡った[13][14]

結果

調味料へ戻った事業構成

周辺事業の整理を終えた2006年3月期の連結売上高は471億円、営業利益15億円、経常利益16億円、当期純利益4億円であった。1981年度の単体171億円からは2.7倍になっているが、四半世紀を要しており、1970年代の年率6割という伸びとは性格が異なる。冷凍食品・外食・海外を並べて総合食品メーカーを目指した構想は、売上高の規模としてはほとんど跡を残さなかった。以後の連結売上高は500億円前後で推移し、家庭用と業務用の調味料が収益の中心を占めている[15][16]

もっとも、広げたものすべてが消えたわけではない。広告子会社の横浜エージェンシーは残り、2014年4月に人材派遣のサンリバティー横浜を吸収合併したうえで、翌5月に横浜エージェンシー&コミュニケーションズへ商号を改めている。物流子会社も存続した。畳まれたのは冷凍食品・外食・米国という本業と取引先を共有しない事業であり、宣伝と配送という調味料の販売そのものを支える機能は手元に残された。2022年以降に取得したスギショーテクニカルフーズ・ヤマキン・丸二も、いずれも業務用食品の周辺にある[17][18]

出典・参考

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