1958年5月、創業者の森村国夫氏(当時39歳)[1]は横浜市神奈川区松見町で荏原食品株式会社を設立した[2]。国夫氏は兄弟が経営するキンケイ食品(フルーツソースやケチャップを製造する大阪の食品メーカー)の大阪営業所長を務めた経験があり、同じ調味料業界での独立を選んだ。設立当初の事業は『キンケイ』ブランドの業務用ソース・ケチャップ製造[3]と、即席ラーメン向けスープ調味料の受託製造であり、外食店や食品メーカーへの納入を主力とする業務用調味料の下請けに近い位置取りだった。
業務用ソースの市場はブルドックソースやカゴメといった先発の大手が押さえており、横浜の中小食品メーカーが価格と納入規模で対抗するのは容易ではなかった。1965年9月に国夫氏が荏原食品の経営に専念し始めた時点では、会社は田中忠一郎氏の家屋敷を間借りした従業員10人足らずの町工場で、月商は100万円以下、銀行から見離されて個人から月利5%という高利で400万円の借金を抱えていた[4]。ソース・ケチャップ製造は銘柄商品に押されて食堂向けの中身しか出荷できず、先細りが見えていた。1968年度時点の荏原食品の売上高は1.5億円にとどまり[5]、創業から10年近く経っても、ソース・ケチャップという既存カテゴリーで先発大手との競合構造を覆す手立ては見出せていなかった。
国夫氏が選んだ次の一手は、既存カテゴリーでの正面突破ではなく、まだ商品ジャンルとして確立していない調味料領域への参入だった。先に投入したみそラーメンのスープが中華料理店向けに伸び始めた時期、街頭で焼肉店が次々と開店し若い客層が押し寄せる光景を国夫氏は見ていた[6]。みそラーメンのスープが中華料理店・ラーメン屋を販路としたのに対し、焼肉のたれは精肉店を販路に取れるため、自社既存品と販路が衝突しない。1962年にカゴメが『カゴメバーベキューソース』を発売しており、肉用たれという市場の存在は確認されたものの、家庭料理として焼肉が定着していない日本でこの商品は普及していなかった。国夫氏は東京・横浜の焼肉店を数十店回り[7]、高級店ではなく庶民的で繁盛している店に足を運んで大衆が旨いと感じる味を探した[8]。家庭で焼肉を作るときの味付けの難しさと『たれ』の役割の重要性も、そこで見出した。
1967年、エバラ食品は『焼肉のたれ』を発売した。当時の日本では家庭での焼肉という食習慣は確立していなかったが、スーパーマーケットの普及と家庭用冷蔵庫の保有率上昇によって、安価な生肉を購入して家で焼く食生活が広がる兆しはあった。1962年にカゴメが先発して『カゴメバーベキューソース』を投入していたが、カゴメ自体は本業のケチャップへの投資に注力したため焼肉のたれカテゴリーへの販売促進は限定的にとどまった。荏原食品は後発参入でありながら、競合が積極投資しないカテゴリーで先発の知名度を獲得する好機を得た。
1968年4月、キンケイブランドからエバラブランドへの切り替えを実施し[9]、同年7月には商号を『エバラ食品工業株式会社』へ変更した。[10]焼肉のたれの商品ブランドと社名を統一する経営判断だった。家庭用市場への販路を切り拓くため、関東地区から営業拠点を順次設置し、1980年代までに全国を11ブロックに分割する販売網を作り上げた。1ブロックあたり1〜2社の食品問屋と特約店契約を結び、特約店から二次問屋・小売店・消費者へ商品を流す多段階流通の体制を整えた。
販売戦略の特徴は、当時の主流だったスーパー販売よりも、精肉店ルートへの集中投資にあった。馴染みのない調味料を消費者に試してもらうため、精肉店での試食販売を繰り返し、肉売場のレジ脇に『焼肉のたれ』を置いてもらう棚を獲得する地道な作業に時間を割いた。1970年時点のエバラ食品工業は売上高2.5億円・従業員数34名の中小企業であり、メインバンクは横浜銀行妙蓮寺支店という地方銀行だった。
エバラ食品工業が『焼肉のたれ』で採用した経営判断は、後発参入でありながら先発の知名度を奪うという非対称戦略の典型例だった。先発のカゴメは1962年に『カゴメバーベキューソース』を発売したが、本業のケチャップ事業への投資を優先したため、焼肉のたれカテゴリーへの販売促進投資は限定的だった。エバラ食品工業はこの先発の手薄を見抜き、先発企業が積極投資しないカテゴリーに後発で参入して認知獲得競争で先んじる戦略を取った。
販売チャネルの選択も非対称だった。家庭用調味料の主戦場はスーパーマーケットの食品売場であり、ここでは先発のブルドックソース・カゴメが棚を押さえていた。エバラ食品工業はあえて精肉店という肉売場の現場へ営業を集中させ、消費者が肉を購入する瞬間に『焼肉のたれ』を選択肢として提示する位置取りを確保した。精肉店は食品スーパーよりも商品回転が早く、生肉購入と同時に調味料を勧められる消費者接点だった。この販売動線の選び方が、先発大手の流通網との直接対決を避けつつ、家庭の肉料理での焼肉のたれ使用習慣を消費者に定着させた。
『モグラ作戦』と呼ばれたステルス営業は、競合の先手反応を遅らせる時間稼ぎの効果も持った。1968年から1970年の3年間は、エバラ食品工業が大手の警戒網の下を潜って精肉店ルートで焼肉のたれの棚を獲得し、家庭での試食機会を積み上げる準備期間だった。1970年のTVCM全国投下による広告先行は、この精肉店ルートで作った下地を活かして、家庭への認知を一気に押し上げる第二段ロケットの位置づけだった。
1970年、エバラ食品工業はテレビCMによる『焼肉のたれ』の全国販売拡大を決断した。同年度の売上高4.5億円の中小企業が、社運をかけてTVCM広告費を投じる経営判断だった。最初の出稿地は静岡県で、首都圏文化圏にも関西文化圏にも属さずマーケティング検証地として最適と国夫氏が判断したためである。藤村俊二氏を起用し、同年末からはフジテレビ経由で首都圏へ展開、メインタレントを月の家円鏡氏(後の橘家圓蔵)に切り替えた。CM出稿は地域ごとに2クール6か月の集中投下とし、店頭でのマネキン販売・試食・ポップ広告・大量陳列を連動させて消費者の認知から購買までを一気通貫で押し上げる方法を取った。先発のカゴメは本業のケチャップへの投資を優先したため焼肉のたれカテゴリーでのCM対抗をせず、エバラ食品工業はCM先行で家庭への認知を他社に先んじて広げた。
1973年度に売上高は23億円へ到達し[11]、『焼肉のたれ=エバラ』というブランド認知が市場に定着した。エバラ食品工業の急成長を見た食品メーカー各社は1970年代前半に焼肉のたれカテゴリーへ相次いで参入し、参入企業数は100社に及んだとされる[12]。1974年には桃屋が『焼肉のたれ』を発売し、1979年時点でシェア2[13]位の座を確保するまでに育てた。1970年代前半のこの時期は『第一次タレ戦争』と呼ばれ、エバラ食品工業はTVCMの先行投資で築いた関東圏の知名度を盾に、後発勢の追い上げを抑え込んだ。
TVCMの広告投資は、関東圏でカバーできる営業拠点の範囲内でスポット出稿を続けた段階から、1973年以降は出稿地域を順次拡大して全国認知を狙う形へ進化した。1968年から1973年までの5年間でエバラ食品工業の売上高は1.5億円から23億円へと約15倍に伸び[14]、年率60%超の急成長を実現した。この成長率は中小食品工業として異例の水準で、TVCMの広告先行投資と精肉店ルートでの試食販売、家庭用焼肉文化の普及という3つの要素が連結して機能した結果だった。1972年7月、神奈川県伊勢原市に伊勢原工場を稼動させ[15]、生産能力を引き上げた。1975年2月には本社を横浜市神奈川区沢渡へ移転し[16]、1980年3月に横浜工場を閉鎖して跡地を研究所として活用する形へ整えた[17]。同年7月、群馬県伊勢崎市に群馬工場を稼動させ[18]、関東圏の生産拠点を西へ広げた。1981年10月には株式会社日本冷食を子会社化して冷凍食品分野へ進出し[19]、1984年4月に栃木県さくら市の栃木工場を稼動させて伊勢原工場を閉鎖した。[20]
1978年、エバラ食品工業は焼肉のたれの新ブランド『黄金の味』を発売した。それまでの焼肉のたれは醤油ベースの味付けが主流だったが、黄金の味はりんご・桃・梅・マンゴをベースに用いてマイルドな味と肉を柔らかくする効果、加えて高級感のあるトロ味を実現した。価格設定は従来の180g・150円から210g・300円へと一気に倍へ引き上げる挑戦で、営業部門が『倍では売れない』と販売予想に小さな数字しか出さなかったところを国夫氏が東和ホテルに各営業所長を集めて全数字の書き換えを命じ、社内合意を形成した。1978年6月、エバラ食品工業は黄金の味を全国一斉発売し、結果として営業の予想を上回る2倍超の受注が返った。1978年時点で関西圏では関東圏ほどのエバラブランド認知が確立しておらず、フルーツベースの新味は関西市場の攻略を意識した商品設計でもあった。
『黄金の味』はTVCMの全国放送と同時投下によって発売初年度に26億円の売上高を達成し、エバラ食品工業の主力商品の座を『焼肉のたれ』と二分する地位へ駆け上がった。1979年には焼肉のたれカテゴリーの上位メーカーがエバラ食品工業(シェア50%)・桃屋(シェア20%)・大昌食品(シェア14%)・カゴメ(シェア8%)という構成となり[21]、『第二次タレ戦争』として業界誌の注目を集めた。1980年に群馬工場を増設し、生産能力で後発勢を圧倒する体制を作ったエバラ食品工業に対し、桃屋を含む下位メーカーは1980年代を通じて焼肉のたれ事業からの撤退を選んだ。
1981年度にはエバラ食品工業の売上高が171億円へ達し[22]、1968年の1.5億円から13年で約114倍の急成長を実現した。1984年に『すき焼きのたれ』を発売し、1987年に関西風醤油ベースの『すき焼きのたれマイルド』を投入して全国カバーの体制を整え、1994年4月には岡山県津山市に津山工場を稼動させて西日本生産拠点を確立した。[23]1988年3月にUS EBARA FOODS INC.を米国に設立[24]したが、1996年3月に清算して米国市場からは一度撤退した。1988年4月に株式会社エバラコーポレーションを設立[25]して外食事業へ進出したものの、1999年12月に同社を解散して外食事業からも撤退した。本業の家庭用調味料以外に手を広げた事業からは、収益が見通せない段階で早期に撤退する判断が継続した。
エバラ食品工業は1980年代から1990年代にかけて、焼肉のたれ・黄金の味で稼いだ利益を周辺事業へ投入したが、本業以外の多角化はいずれも収益貢献を確保できないまま撤退・縮小に向かった。1981年10月に株式会社日本冷食を子会社化して冷凍食品分野へ進出したが[26]、冷凍食品の物流網と販売チャネルは焼肉のたれの流通網と異なり、競争優位を確保できなかった。1984年11月に宣伝部門を独立させて株式会社横浜エージェンシーを設立し総合広告代理店業へ進出したが[27]、本業の販売促進業務を内製化する目的にとどまり、外部受託で稼ぐ広告代理店としての成長は限定的だった。
1988年4月に設立した株式会社エバラコーポレーションによる外食事業進出は[28]、焼肉のたれの認知を活かして焼肉専門店チェーンを展開する構想だった。同年3月の米国法人US EBARA FOODS INC.も、米国市場での『焼肉のたれ』販売を狙った海外展開だった。だが外食事業は1999年12月の解散で本格撤退、米国法人は1996年3月に清算となり[29]、いずれも10年前後で本業外の事業が継続困難と判断された。1991年7月に子会社化した株式会社グロリア・フード(冷凍食品販売)[30]も1997年10月に商号をエバレイへ変更して姿を消し、1981年から続いた冷凍食品事業は2006年3月の日本冷食全株式譲渡で本格撤退となった。
本業の焼肉のたれ・黄金の味は1990年代に入っても主力商品として国内シェア60%水準を維持したが、周辺事業からの収益貢献を取り込めなかったため、グループ売上高の伸長は本業の市場成熟度に左右される構造のまま固定された。創業者の森村国夫氏が確立した[31]『焼肉のたれ専業』の事業構造は、強みであると同時に、本業以外で稼ぐ事業を育てる経営課題を残す両刃の構造でもあった。
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|---|---|---|---|---|
| 1958〜1969年業務用ソース下請けから「焼肉のたれ」発売・モグラ作戦による精肉店ルート開拓まで | 荏原食品設立、キンケイブランドのソース・ケチャップ製造開始 | ★ | ||
| キンケイブランドをエバラブランドに変更 | ★ | |||
| エバラ食品工業に商号変更 | ★ | |||
| 1970〜1999年第一次・第二次タレ戦争と「黄金の味」全国TVCMで国内シェア60%を確保するまで | 伊勢原工場稼動 | ★ | ||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 群馬工場稼動 | ★ | |||
| 日本冷食を子会社化 | ★ | |||
| 栃木工場稼動、伊勢原工場閉鎖 | ★ | |||
| 米国法人の設立と外食チェーンへの進出、そして二つの撤退 1988年3月に米国法人US EBARA FOODS INC.を、翌4月にエバラコーポレーションを設立し、エバラ食品工業は同じ年に米国市場と外食事業の二つへ同時に進出した。前者は1996年3月に清算、後者は1999年12月に解散し、どちらも撤退で終わった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 外食事業に参入 | ★★ | |||
| 物流事業に参入 | ★ | |||
| グロリア・フードを子会社化 | ★ | |||
| 津山工場稼動 | ★ | |||
| 森村忠司 | US EBARA FOODS INC.を清算 | ★ | ||
| 森村忠司 | エバラコーポレーションを解散し外食事業から撤退 | ★★ | ||
| 2000〜2025年ジャスダック上場・宮崎遵社長の収益性重視と森村剛士体制の海外・ポーション戦略まで | 森村忠司 | 形式上の存続会社エバレイの商号をエバラ食品工業に変更し合併 | ★★ | |
| 森村忠司 | 日本証券業協会に株式を店頭登録 | ★ | ||
| 森村忠司 | 店頭登録を経てジャスダック証券取引所へ株式を上場 2003年11月に日本証券業協会へ株式を店頭登録し、2004年12月に店頭登録を取り消してジャスダック証券取引所へ上場した経営判断。1958年の創業から46年、焼肉のたれで国内シェア6割を握る調味料メーカーが、非上場のまま通してきた資本のあり方を改めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 森村忠司 | 荏原食品(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 森村忠司 | 冷凍食品・広告代理店・物流へ広げた周辺事業からの全面撤退 1981年の日本冷食子会社化を皮切りに、エバラ食品工業は冷凍食品・広告代理店・物流・外食へ事業を広げたが、いずれも本業の焼肉のたれに並ぶ収益源には育たず、2006年3月の日本冷食株式譲渡をもって周辺事業から退いた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 藤川雍中 | エバラCJフレッシュフーズを合弁会社として設立 | ★★ | ||
| 宮崎遵 | 荏原食品香港有限公司を設立 | ★ | ||
| 宮崎遵 | 東京証券取引所市場第一部に指定 | ★ | ||
| 宮崎遵 | 台灣荏原食品股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 宮崎遵 | EBARA SINGAPORE PTE. LTD.を設立 | ★ | ||
| 森村剛士 | エバラCJフレッシュフーズの株式を譲渡 | ★★ | ||
| 森村剛士 | スギショーテクニカルフーズの株式を取得 | ★ | ||
| 森村剛士 | EBARA FOODS MALAYSIA SDN. BHD.を設立 | ★ | ||
| 森村剛士 | 丸二の株式を取得 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(エバラ食品工業)