エバラ食品工業米国法人の設立と外食チェーンへの進出、そして二つの撤退

焼肉のたれを作った会社は、焼肉の食卓そのものを海外と店舗へ持ち出せるか

時期 1988年4月
意思決定者(推定) 森村国夫 社長
論点 海外進出と外食への事業拡張
概要
1988年3月に米国法人US EBARA FOODS INC.を、翌4月にエバラコーポレーションを設立し、エバラ食品工業は同じ年に米国市場と外食事業の二つへ同時に進出した。前者は1996年3月に清算、後者は1999年12月に解散し、どちらも撤退で終わった経営判断。
背景
焼肉のたれで国内シェア6割を確保した一方、たれ以外の商品では販売力が及ばず、牛肉輸入自由化を控えて競争は強まっていた。「日本の食生活文化を変革する」を掲げた会社にとって、家庭の食卓で作った焼肉文化を店舗と海外へ広げる構想が残されていた。
内容
米国では現地法人を置いて焼肉のたれの販売を図り、外食ではパーティー専用レストラン「遊彩食」を東京・自由が丘と大阪・阿倍野に構え、1991年4月の仙台店・甲府店を皮切りに全国展開する計画を立てた。
含意
進出から8年と11年で二つとも畳まれた。2005年以降の海外展開は上海と東南アジアへ対象を移し、国内工場で生産した商品を現地の販売拠点から流す形が採られている。
筆者の見解

食文化は輸出できるか

焼肉のたれという商品は、日本の家庭に「肉を焼いてたれで食べる」という食べ方を根づかせることで市場そのものを作った。その成功の型をそのまま持ち出せば、米国でも店舗でも同じことが起きる——1988年の二つの設立には、そうした見立てがあったように読める。ただ、家庭の食卓に食べ方を広げる仕事と、店を構えて客に食事を出す仕事、あるいは食習慣の異なる国で棚を取る仕事は、必要になる能力が重なりにくい。精肉店を一軒ずつ回って試食を重ねた売り方は、国内の肉売場という具体的な場所と結びついていた。

二つの撤退から20年を経て、同社は再び海外へ出ている。今度は現地生産を伴わず、国内の工場で作った商品を現地の販売拠点から外食と小売へ流す形が採られ、中期経営計画では海外売上高比率5%以上という控えめな目標が置かれている。1988年の判断は、規模の大きさではなく、進み方の設計に課題を残したとみることもできる。自社が作った食文化をどこまで外へ持ち出せるかという問いは、東南アジアの市場で改めて確かめられている段階にある。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

国内で首位を固めたあとの課題

1978年に投入した「黄金の味」が関西市場を開き、エバラ食品工業は焼肉のたれで全国シェア6割を確保した。1981年3月期の単体売上高は171億円に達し、下位のメーカーは1980年代を通じてこのカテゴリーから退いていった。ただ首位を固めるほど、次の伸びしろは同じ商品の中では見つけにくくなる。小売りベースでみた焼肉のたれの市場規模は1990年度で約470億円と業界で推定され、エバラ食品工業はそのおよそ6割強を占めていた。市場そのものの大きさが、事業の上限を決める形になっていた[1][2]

競争環境も変わりつつあった。1991年の牛肉輸入自由化を控えて調味料各社はたれの開発と販売強化を進め、大手の総合食品メーカーも参入を狙っていた。エバラ食品工業の側には「たれ以外ではマーケティング力が劣る」という大手スーパーの評価があり、たれ以外の商品で同じ売り方が通じるという確証は持てなかった。1990年3月期の売上高は301億円、従業員は470人で、資本金は4326万円にとどまっていた。森村国夫社長は当時72歳であった[3][4]

食文化を作ったという自負

エバラ食品工業には「日本の食生活文化を変革する」という標語があった。1960年代後半、街に焼肉店が増えて若い客が集まる様子を見た森村国夫社長が、家庭でも同じ味を再現できる調味料を作ろうと考えたところから焼肉のたれは生まれている。1979年の時点で、この標語は焼肉ブームの一助になりつつあると同時代の誌面に評されていた。商品を売るのではなく食べ方を売る、という自己認識が社内に共有されていた[5]

その自己認識は、たれの外側へ出る動きにつながった。1986年、同社はパーティー専用レストラン「遊彩食」を東京・自由が丘に開いている。店は消費者の声が直に伝わってくる場として位置付けられ、大阪・阿倍野の店と合わせてアンテナショップの役割を担った。取引先のイトーヨーカ堂からは「日本流の焼肉文化を築きあげてきた」、花正の小野博社長からは「肉のいろんな食べ方を追求することで、国内の肉需要を喚起してくれた」という評価も寄せられていた[6][7]

決断

1988年、同じ年に始めた二つの拡張

1988年3月、エバラ食品工業は米国に現地法人US EBARA FOODS INC.を設立した。米国市場での焼肉のたれ販売を目指した進出であり、輸出商社を介さず現地に法人を置く形が選ばれている。同社にとって初めての海外拠点であった。国内では味の素や日本ハムといった大手の参入が続いていた時期にあたり、国内市場の外側に成長余地を求める動きでもあった[8][9]

翌4月には、外食事業を担うエバラコーポレーションを設立した。焼肉のたれの認知を土台に、焼肉を出す店舗を自社で持つ構想であった。同社が期待をかけたのは、総合食品メーカーへ移るための弱点補強という役割でもあった。たれ以外の商品を作る力を得るには消費者の反応を掴む必要があり、店舗はその接点になり得た。海外での販売と、国内での店舗——性格の異なる二つの拡張が、同じ年度に並んで始まった[10][11]

アンテナショップから全国チェーンへ

外食事業の設計は、1991年時点の誌面に具体的に残っている。阿倍野店の店舗面積は約300平方メートルとさほど広くはないが、カラオケ設備を備えた個室を置くなど、若い客の関心を引く配慮がなされていた。エバラ食品工業はこの「遊彩食」を、1991年4月の仙台店と甲府店を皮切りに全国へ展開する計画を立てていた。店舗を通じて消費者の声が生で伝わることを見込み、消費者に学びながら総合食品メーカーを目指すという道筋が描かれていた[12]

同じ時期、生産と物流の体制もたれの外側へ広げられていた。1987年には群馬工場へ10億円を投じてスープ類のラインを増設し、生産能力を2倍に高めている。1990年5月にはエバラ物流を設立し、多頻度・小口の配送を自社で管理する体制を整えた。米国法人と外食会社の設立は、こうした一連の投資と同じ流れの中に置かれていた。たれ一本の会社から離れようとする資金の使い方が、1980年代後半に集中していた[13][14]

結果

8年と11年で終わった二つの事業

米国法人は1996年3月に清算された。設立から8年であり、米国市場での焼肉のたれ販売はここでいったん途切れた。外食事業も1999年12月にエバラコーポレーションを解散して終えている。設立から11年、全国展開の計画が公表されてからは8年であった。撤退にあたって公表された損益の内訳は残っていないが、いずれも本業に並ぶ収益源へは育たないまま処理された。1995年に社長を継いだ森村忠司氏の体制で、1980年代後半に広げた事業の整理が進んだことになる[15][16]

海外への進出そのものは、対象と方法を変えて再び始まった。2005年4月に荏原食品(上海)有限公司を設立し、2012年11月に荏原食品香港有限公司、2017年1月に台灣荏原食品股份有限公司、2018年8月にEBARA SINGAPORE PTE. LTD.と、東アジアから東南アジアへ拠点を並べている。1988年の米国法人が現地での販売網構築を伴ったのに対し、この系列の拠点は国内工場で生産した商品を現地の販売会社経由で外食・小売へ流す形を採り、撤退する場合の負担を抑える設計になっている[17][18]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1979年5月21日号「店頭の死角ついた『焼き肉のたれ』」
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号「総合食品めざす『たれの王者』」
  • エバラ食品工業 有価証券報告書【沿革】
  • エバラ食品工業 公式サイト「沿革」

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