豊田自動織機メキシコ豊田の設立と経営移譲——国家的保護を前提にした初の海外進出

大統領の保護約束に賭けた海外事業は、なぜ足掛け8年で幕を閉じたのか

時期 1953年12月
意思決定者(推定) 石田退三 豊田自動織機製作所 社長
論点 祖業の不況下での海外進出と、その撤退
概要
1954年6月、豊田自動織機製作所はメキシコ政府の要請を受け、同国イダルゴー州イロロ村に資本金5,000万ペソ(円貨14億4,000万円)のメキシコ豊田株式会社を設立した。国税・地方税・輸入税の10年免除と、操業開始後の紡織機輸入禁止を政府から確約されたうえでの進出だった。しかし輸入禁止の立法は紡績業界の反対で公布1カ月余りで廃止され、資金繰りが行き詰まって1959年11月、全株式をメキシコ側へ譲渡した。
背景
朝鮮特需の減退で国内の紡織機受注は落ち込み、操業は低下の一途をたどっていた。同じ時期に社内では自動車エンジンの製作や共和工場の買収といった多角化が進んでおり、海外進出もその一環として関心を集めた。一方のメキシコは紡機約100万錘・織機約4万台を持つ綿産国でありながら、その過半が40年以上を経た老朽機で、繊維機械の95%を中古の米国製に頼っていた。
内容
1952年夏、日本工業使節団の一員として中南米を視察していた松井伊作常務がメキシコ政府から工場設立の要請を受けた。1953年12月に石田退三氏らが渡墨してルイス・コルティネス大統領の全面的支援を取り付け、翌1954年6月4日に設立を登記した。豊田自動織機製作所は2,900万ペソ相当の機械設備を現物出資し、メキシコ開発銀行(NF)が現地資金を出資・融資保証する枠組みだった。
含意
事業の採算は「操業開始後に紡織機の輸入を禁止する」という政府の約束に依存していた。その立法が業界の反対で覆った時点で前提が崩れ、以後は増資と借入で延命する展開になった。1958年末の大統領交代で保護の後ろ盾も失われ、1959年11月に経営を移譲した。海外進出そのものではなく、他国政府の保護を採算の前提に置いた設計に無理があった。
筆者の見解

他国の保護を採算の前提に置くということ

この事業の採算は、はじめから「操業開始後に紡織機の輸入を禁止する」という他国政府の約束の上に組み立てられていた。老朽機が過半を占める市場で唯一の国産メーカーになれば独占できるという読みは、その約束が守られる限りにおいて正しい。だが約束の相手は政府であり、その政府を動かすのは現地の紡績業界だった。輸入禁止の立法が公布1カ月余で廃止された時点で、事業の前提そのものが失われている。工場建設の遅延もペソ切下げも現地工員の能率も、それ単独なら時間が解決する種類の問題だった。

取り返しがつかなかったのは、資金の出し手と事業の保護者が同一だったことである。NFは出資者であり融資保証者であり、同時に政府の意向を体現する存在でもあった。1959年4月に金融が止まった時点で、経営権を手放す以外の道はほぼ消えている。豊田自動織機製作所が最終的に株式譲渡を選んだ理由も、追加出資の可否ではなく「保護なしには再建できない」という判断だった。海外で事業を持つとはどういうことかを、この8年は最も高い授業料で教えている。BTインダストリーズを買収して欧州へ入る2000年まで、同社が海外に生産拠点を構えることはなかった。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

祖業の不況と、綿産国メキシコの事情

1950年代のはじめ、豊田自動織機製作所は祖業の不振に直面していた。朝鮮特需の減退もあってデフレの様相が深まり、1950年以来の国内繊維設備の拡張ブームが一段落したうえ、その後の繊維産業の操短が影響して受注は減退し、操業は低下の一途をたどった[1]。これを打開するため、社内では経営の多角化が真剣に企図され、自動車のエンジンならびに部品の製作や共和工場の買収といった計画が進んでいた[2]。海外進出への関心も、この延長線上にあった。

メキシコは世界有数の綿産国で、その繊維工業は1830年代の工場がなお稼働をつづける古い産業だった。1952年時点で紡機約100万錘・織機約4万台を保有していたが、その過半数はすでに40年以上を経過した老朽機械[3]で、製品は粗悪なうえ高価だった。繊維機械は全量を輸入に頼り、そのうち95%が米国製で、いずれもほとんど中古品である[4]。メキシコ政府は繊維工業の設備近代化を10年以内に果たす計画を持ち、輸入に依存すれば20億ペソ(円貨576億円)の外貨が流出するとして、繊維機械の国産化をあわせてはかろうとしていた[5]

決断

大統領の保護約束を前提にした進出

1952年夏、日本工業使節団の一員として中南米を視察していた松井伊作常務が、メキシコ政府から繊維機械製造工場設立の要請を受けた[6]。翌1953年1月に社員を派遣して現地調査にあたらせ、同年4月には日本商業使節団団長としてキューバを訪れていた伊藤忠兵衛氏がメキシコへ立ち寄り、経済大臣との会見を経て話が急速に進んだ[7]。9月にはメキシコ開発銀行の振興局長アルバラード氏一行が来日して豊田自動織機製作所の繊維機械を検討し、性能と経済性を確認している。

1953年12月はじめ、伊藤忠兵衛氏・石田退三社長・原田梅治取締役らが渡墨して最終交渉にあたった。ルイス・コルティネス大統領は工場を全面的に支援すると約束し[8]、経済省からは国税・地方税・輸入税の10年間免除、ナショナル・フィナンシエラ(NF)からの5,000万ペソ以内の資金貸付け、そして操業開始後における紡織機の輸入禁止という三つの優遇保護措置が確約された[9]。海外事業に多大な不安を持っていた豊田自動織機製作所も、これだけの国家的援助があれば老朽機で占められたメキシコ市場を容易に独占できると判断した[10]

現物出資による設立と、1年の操業遅延

1954年6月4日、イダルゴー州バチューカ市の公証人役場でメキシコ豊田株式会社(Toyoda de Mexico S.A.)の設立が登記された[11]。資本金は5,000万ペソ(円貨14億4,000万円)で、豊田自動織機製作所が2,900万ペソ相当の機械設備を全額現物出資し、現地のホセ・ラモネダ氏が600万ペソ、NFが1,500万ペソを引き受けた[12]。社長には松井伊作氏が就き、常勤役員はすべて日本人とした。工場はメキシコ市の東北約120キロ、海抜2,580メートルの高原にあるイロロ村へ置き、1956年6月21日に来賓約1,500名を集めて竣工式を挙げた[13]

設立の登記から全面操業までに2年を要した。現地の工場建設が手間取り、操業開始は当初計画より約1年遅れた。現地採用工員約1,000名の技術習得も予期に反して進まず、こちらも約1年半の遅れとなった[14]。さらに設立直前の1954年4月にペソが切り下げられ、物価と労賃の騰勢がいちじるしく、建設費は当初予算を約1,700万ペソ超過した[15]。固定設備・創業費・損失金をあわせた予算超過は3,299万ペソ(円貨9億5,011万円)に達し[16]、資金の効率を阻害したうえ多額の創業費を計上する結果となった。

結果

前提だった輸入禁止が、1カ月余で廃止される

操業が本格化すると、メキシコ豊田は事業の成否がかかるといわれた紡織機の輸入禁止を政府へ正式に申請した。政府は1957年2月に立法の手続きを済ませ、公布するばかりとなったが、その寸前に紡績協会が独占反対・輸入禁止反対を各紙へ大きく掲載した[17]。同社は創業早々に紡織業者と争う不利を考えて立法運動をさしひかえ、以後も業界の一部に反メキシコ豊田の空気が残った。1958年5月にようやく新品機械の輸入禁止措置が立法公布されたものの、外国メーカーと深い関係にあった紡織業者の反対運動により、公布後わずか1カ月余で廃止された[18]

保護を失った市場で、メキシコ豊田は世界各国の有力メーカーと正面から競った。米国のサコロウェル、英国のプラット、スイスのリーターらは1956年末からにわかに売り込みを強め、価格の引下げに加えて5年から8年・金利年4〜5%の長期延払を条件に出した[19]。当初は現金販売を建前としていたメキシコ豊田もやむなく長期延払を受け入れたが、金利差はかけ離れており、乏しかった運転資金はたちまち底をついた。国内需要も予測と異なり年間5〜6万錘にすぎず、唯一の国産メーカーという立場をもってしても獲得は需要量の40%が限度だった[20]

NFの金融停止と、経営移譲という選択

1957年に入って資金難は深刻になった。同年6〜7月には約1,000万ペソの資金不足をきたし、NFへ融資を懇請したところ、NFは資本金より多くの出資や融資保証はできないとして態度を一変させ、増資を主張した[21]。豊田自動織機製作所は同年9月に1,000万ペソ、12月にさらに1,000万ペソの増資を実行している。並行して同年6月と9月の二度にわたり人員を整理し、従業員は1,322名から633名へ半減した[22]。生産能力の半分を鉄道車両用鋳鋼品とミシンに振り向けた転換も進み、1959年5月にはミシンの生産が順調になって待望の黒字を計上するに至った[23]

再建の兆しは政権交代で断たれた。1958年12月にコルティネス大統領が任期満了で退き、ロペス・マテオス大統領が就任すると、前政権が多額の政府資金を投じた企業への批判が高まり、これを管理監督する国有財産庁が設けられた[24]。1959年4月、NFは突如として金融の道を絶ち、原材料の仕入れも賃金の支払いも困難な事態に立ち至った[25]。同年10月13日、NFは総裁・副総裁連名の公文書で投融資・保証債務いっさい約640万ドルの肩代わりを要求し、①肩代わり②持株の全部譲渡③清算のいずれかを選ぶよう求めた[26]

豊田自動織機製作所は三案を検討した。肩代わりを選んでも、メキシコ政府とNFと絶縁しての経営は成り立たず、部品の輸入許可や技術者の出入国手続き、減免税といった国家的保護なしには再建できないと判断した[27]。清算を選べば担保を持つNFは権利を守れるが、豊田自動織機製作所は全損となるおそれがあった。株式の一部譲渡が比較的有利であるとして、1959年11月9日に株式譲渡・経営移譲の協定へ調印し、翌10日の株主総会で豊田側の役員は全員退任した[28]。同月11日にメキシコ豊田は全面的に譲渡され、社名はSiderurgica Nacional S.A.(SIDENA)へ改称された[29]

出典・参考
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第二節 メキシコ豊田株式会社(Toyoda de Mexico S.A.)
  • 豊田自動織機 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】

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