メキシコ豊田を設立(1954年・豊田自動織機の決断)
何をなぜ決めたか:経営移譲を前提にした、国家的保護に依存する初の海外進出
概要
1954年6月、豊田自動織機製作所はメキシコ政府の要請を受け、同国イダルゴー州イロロ村に資本金5,000万ペソ(円貨14億4,000万円)のメキシコ豊田株式会社を設立した。国税・地方税・輸入税の10年免除と、操業開始後の紡織機輸入禁止を政府から確約されたうえでの進出だった。しかし輸入禁止の立法は紡績業界の反対で公布1カ月余りで廃止され、資金繰りが行き詰まって1959年11月、全株式をメキシコ側へ譲渡した。
背景
メキシコは紡機約100万錘・織機約4万台を抱える綿の産地だったが、その半分以上が40年を超えて使われた老朽機で、繊維機械の95%を米国製の中古に依存していた。一方の国内では、朝鮮特需が減少したことで紡織機の受注が減少し、工場の稼働はひたすら低下していた。そのころ社内では自動車エンジンの製作や共和工場の買収など多角化が進められていた。海外への進出も、その一環として関心を集めた。
内容
1952年夏、日本工業使節団の一員として中南米を視察していた松井伊作常務がメキシコ政府から工場設立の要請を受けた。1953年12月に石田退三氏らが渡墨してルイス・コルティネス大統領の全面的支援を取り付け、翌1954年6月4日に設立を登記した。豊田自動織機製作所は2,900万ペソ相当の機械設備を現物出資し、メキシコ開発銀行(NF)が現地資金を出資・融資保証する枠組みだった。
沿革:意思決定前後の出来事8件
考察:他国の保護を採算の前提に置くということ
考察:他国の保護を採算の前提に置くということ
この事業の採算は、はじめから『操業開始後に紡織機の輸入を禁止する』という他国政府の約束の上に組み立てられていた。老朽機が過半を占める市場で唯一の国産メーカーになれば独占できるという読みは、その約束が守られる限りにおいて正しい。だが約束の相手は政府であり、その政府を動かすのは現地の紡績業界だった。輸入禁止の立法が公布1カ月余で廃止された時点で、事業の前提そのものが失われている。工場建設の遅延もペソ切下げも現地工員の能率も、それ単独なら時間が解決する種類の問題だった。
取り返しがつかなかったのは、資金の出し手と事業の保護者が同一だったことである。NFは出資者であり融資保証者であり、同時に政府の意向を体現する存在でもあった。1959年4月に金融が止まった時点で、経営権を譲渡する以外の道はほぼ消えている。豊田自動織機製作所が最終的に株式譲渡を選んだ理由も、追加出資の可否ではなく『国家的保護なくしては再建不可能』という判断だった。海外で事業を持つとはどういうことかを、この8年は最も高い授業料で教えている。BTインダストリーズを買収して欧州へ入る2000年まで、同社が海外に生産拠点を開設することはなかった。
参考文献
参考文献
参考
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第二節 メキシコ豊田株式会社(Toyoda de Mexico S.A.)
- 豊田自動織機 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】