この創業が示すのは、発明を量産へ移す過程で、織機製造を紡績本業から切り出して専業会社へ移した選択の意味である。紡績と織機を同じ法人に同居させたままでは、量産の責任と採算の管理が混じり合い、国際水準に達したG型を継続して出荷する体制を構築しにくかっただろう。刈谷での分社が、佐吉氏の発明を安定した量産事業へ橋渡しする受け皿になっていた。
もう一つ見えてくるのは、織機で得た特許対価が次の事業の原資へ振り向けられた経路である。プラット社からの譲渡金を自動車事業の元手とする佐吉氏の遺志は、喜一郎氏の自動車部設置とトヨタ自動車工業の分離独立へ受け継がれ、織機会社の内部で育った自動車事業が独立法人として送り出された。織機の量産責任を分社した最初の判断が、戦後のトヨタグループが形づくられる出発点になっていったといえる。