豊田自動織機 の歴史

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創業 1926年
創業者 豊田佐吉
創業地 愛知県刈谷市
創業
1926年11月、豊田佐吉が発明した自動織機を量産するため、愛知県刈谷市に豊田自動織機製作所が設立された。1929年に紡機の製造を始め、同じ年には英プラット社へG型自動織機の特許実施権を供与している。1933年9月に社内へ自動車部を置き、1937年8月にはこれを分離独立させてトヨタ自動車工業を設立した。1940年3月には製鋼部も分離して豊田製鋼(現愛知製鋼)とし、1949年5月に東京・名古屋・大阪の各証券取引所へ上場する。織機会社は自らの内部で二つの会社を興し、いずれも手元に残さなかった。
決断
祖業が細るたび、他社向けの生産で工場を埋め直してきた。1937年に自動車部をトヨタ自動車工業として分離独立させたのに続き、朝鮮特需が終わって繊維機械が長期の不況に沈むと、紡機・織機に従事する約1,600名が余剰になった。両社社長を兼ねた石田退三氏は人員削減を選ばず、1952年12月にトヨタ向けS型エンジンの製造へ着手している。1954年に参入した農業機械は需要の頭打ちで行き詰まったが、1956年3月に始めたフォークリフトは残り、2000年6月にはスウェーデンのBTインダストリーズを買収して産業用運搬機器の世界首位に立った。祖業の縮小を他社向けの受注で吸収し続けたことが、受託生産と産業車両という二つの収益源を並べた。
現況
売上の7割は織機でも自動車でもなく、フォークリフトが占めている。2026年3月期の売上収益4兆3,695億円のうち産業車両が3兆452億円、トヨタ向けの車両組立とエンジン・カーエアコン用コンプレッサーからなる自動車が1兆2,125億円、祖業の繊維機械は749億円で赤字である。セグメント利益は産業車両の1,135億円に対し自動車が171億円で、売上の3割弱を占める自動車が利益では1割強にとどまる。営業利益1,370億円に対して受取配当金などの営業外収益は1,533億円あり、本業の利益を上回った。祖業と受託の採算が薄いことが、産業車両を海外へ広げる動機を残した。
競合
豊田自動織機が最後に対峙した相手は、同業他社ではなく株主だった。産業車両では2000年のBT買収以来の世界首位を保ち、2013年の米カスケード、2017年の米バスティアンソリューションズとオランダのファンダランデの買収で物流システムまで扱う範囲を広げた。一方で時価総額のおよそ半分をトヨタ株が占める状態が続き、2025年6月にトヨタ不動産と豊田章男会長のSPCが非公開化を提案した。これに対し米エリオットは、過小評価の原因が自動車事業への過剰投資と持合い株にあると主張して反対し、買付価格は16,300円から2万600円へ二度上がった。2026年3月に応募比率63.60%でTOBが成立し、同年6月に上場を廃止している。少数株主が消えたことが、産業車両の投資判断をトヨタグループ内部の話に変えた。

創業ストーリー G型自動織機の量産と、占領政策が残したもの (1926年〜)

G型自動織機の量産と、占領政策が残したもの

量産の責任を紡績本業から切り出す

豊田佐吉氏は1890年に木製人力織機の特許を取得し[1]、以後30年余りを織機の発明に費やした。共同出資で設立した会社から繰り返し身を退く挫折を経て、1918年に独立資本で豊田紡織を設立し、自前の試験工場を持った[2]。長男の豊田喜一郎氏を技術部門に迎え、1924年に無停止杼換式のG型自動織機を実用化している[3]。設立の準備は豊田紡織の日置工場における織機の製作から[4]始まった。1926年11月、佐吉氏は豊田紡織の子会社として愛知県碧海郡刈谷町に資本金100万円で株式会社豊田自動織機製作所を設立[5][6]、初代社長には女婿の豊田利三郎氏が就いた[7]

1929年、英国の紡織機械大手プラット・ブラザーズ社へ杼換式自動織機の外国特許実施権を約10万ポンドで譲渡した[8]。その対価は佐吉氏が次の主題に据えた国産自動車事業の資金として留保され[9]ている。豊田喜一郎氏は1933年9月に社内へ自動車部を設け[10]、車体の組立だけでなく特殊鋼と工作機械の製造まで自社で始めている[11]。1936年に月産2,000台の量産許可を得たものの、工場建設に要する3,000万円は資本金600万円の織機会社の資金力を超えており[12]、1937年8月、資本金1,200万円のトヨタ自動車工業株式会社として自動車部門を分離独立させた[13]

    • [8]1929年 英プラット・ブラザーズ社へ杼換式自動織機の外国特許実施権を譲渡
    • [9]特許譲渡の対価が国産自動車事業の資金として留保された
  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1933年9月 社内に自動車部を新設
    • [13]1937年8月 自動車部をトヨタ自動車工業株式会社として分離独立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]自動車の国産化にあたり特殊鋼と工作機械の製造も自社で開始
    • [12]工場建設に要する3,000万円が資本金600万円の織機会社の資金力を超えていた

戦時体制と賠償による工場の接収

分社は自動車だけで終わらず、1940年3月には製鋼部門を分離して豊田製鋼(現・愛知製鋼)を設立し[14]、素材部門も本体から出ている。戦時体制のもとで織機の生産は配給統制を受けて順次停止され、刈谷・大府・栄生の各工場は軍需品の製造へ転換した[15]。終戦後は祖業の織機と紡機の生産を速やかに再開したが、GHQは日本経済の非軍事化と民主化をめざし、賠償・財閥解体・軍需補償の打ち切りに関する指令を相次いで発した[16]

1946年2月10日、GHQは大府工場と栄生工場を賠償接収工場の対象として保全を命じた[17]。主力の刈谷工場は賠償指定を免れ、折から始まった見返り輸出織機800台の生産に支障は出[18]なかった。米ソ関係の変化を受けて対日賠償の方針は緩み、1947年4月に栄生工場の土地建物の一部が、1948年3月には栄生・大府の両工場が全面的に指定を解除された[19]。それでも紡機約8万錘と織機約670台は賠償物資の一部として政府に買い付けられ、インドネシアやフィリピンへ積み出されている[20]

財閥解体と、売り残したトヨタ株

資本の側の再編はさらに深く及び、1947年9月には豊田産業が豊田系諸事業の持株会社とみなされて指定を受け解体され、その商事部門を継承した日新通商(現・豊田通商)が翌1948年7月に発足した[21]。豊田自動織機製作所自身も1948年2月7日に過度経済力集中排除法の指定を受け、刈谷・大府・栄生の3工場をそれぞれ独立させる再編成を命[22]じられた。3工場は素形材と部品で密接に結びついており、分割すれば能率・品質・原価に悪影響が及ぶと説明して解除を申請し、保有有価証券の処分を条件に同年11月19日、指定は解除された[23]

処分の対象には、豊田自動織機製作所が保有していたトヨタ自動車工業の株式29万9,360株、総株数の21.0%が含まれていた[24]。豊田自動織機製作所は売却を始めたが、米国の対日占領政策が緩む動きは集排法の運用にも及び、1949年2月、トヨタ自動車工業株10万7,960株を売り残したまま株式処分を打ち切った[25]。同年5月には東京証券取引所の再開に合わせて株式を上場[26]している。祖業の紡織機は1950年からの設備拡張と朝鮮特需で沸いたものの、1951年の特需終焉とともに需要は長期の低迷へ転じた[27]

祖業の斜陽と、同時に走った三つの多角化

トヨタ向けOEMとフォークリフト

繊維機械の売上高は1952年3月期の73.7億円から1954年3月期には29.6億円へ落[28]ち込んだ。社長の石田退三氏のもとで経営の合理化と近代化が進められ[29]、次の柱としてトヨタ自動車向けの受託生産が選ばれた。1952年12月に乗用車用S型エンジンの製造を始め[30]、1953年8月には共和工場を新設して車両組立へ参入している[31]。あわせて車両部を発足させ、豊田車両整備を設立して修理の体制[32]も整えた。

1956年3月にはフォークリフトの自社生産を始めた[33]。トヨタ自動車販売が既に築いていた全国の販売網をそのまま販路として使えたため、短期間で国内首位を確保し[34]ている。続いてトーイングトラクター、ショベルローダーへと品目を広げ、フォークリフト部門は事業部として独立するまでに育った[35]。同じ時期の社内では、各種の新製品の研究開発が進められ、中途で挫折したものも多かったなかで、フォークリフトと農業機械は独立の部門にまで成長した[36]

メキシコと農業機械——保護と時間を読み違えた二つ

1952年夏、日本工業使節団の一員として中南米を視察していた松井伊作常務が、メキシコ政府から繊維機械製造工場設立の要請を受けた[37]。同国は紡機約100万錘・織機約4万台を持つ綿産国でありながら、その過半が40年以上を経た老朽機で、繊維機械の95%を中古の米国製に頼[38]っていた。1953年12月、伊藤忠兵衛氏・石田退三氏らが渡墨してルイス・コルティネス大統領の全面的支援を取り付け、経済省から国税・地方税・輸入税の10年間免除と、操業開始後における紡織機の輸入禁止を確約された[39]。1954年6月4日、資本金5,000万ペソのメキシコ豊田株式会社を設立し、豊田自動織機製作所は2,900万ペソ相当の機械設備を現物出資した[40]

    • [37]1952年夏 松井伊作常務が中南米視察中にメキシコ政府から工場設立の要請を受けた
    • [38]メキシコは紡機約100万錘・織機約4万台を保有し、繊維機械の95%を中古の米国製に依存していた
    • [39]1953年12月 石田退三氏らが渡墨し、税の10年免除と操業開始後の紡織機輸入禁止を確約された
    • [40]1954年6月4日 資本金5,000万ペソでメキシコ豊田株式会社を設立、豊田自動織機製作所は2,900万ペソ相当を現物出資

採算の前提だった輸入禁止は実現せず、1957年2月には立法手続きが済んだ段階で紡績協会が反対を各紙に掲載し、1958年5月にようやく公布された新品機械の輸入禁止措置も、外国メーカーと関係の深い紡織業者の反対でわずか1カ月余りで廃止された[41]。保護を失った市場で外国勢は5年から8年の長期延払を武器に攻勢をかけ、運転資金は底をついた[42]。1959年4月、合弁相手のメキシコ開発銀行(NF)が金融の道を絶ち、同年10月13日には投融資と保証債務あわせて約640万ドルの肩代わりを要求した[43]。豊田自動織機製作所は11月9日に株式譲渡と経営移譲の協定へ調印し、同月11日、メキシコ豊田はSiderurgica Nacional S.A.へ改称[44]された。

もう一つの多角化は農業機械で、1954年12月末に売れ行きの振るわなかったS型エンジンの転用先として農用トラクターの研究へ着手し[45]、1955年7月には日本の零細農業にそのまま入る耕うん機へ軸を移した。販売は当初豊田通商へ委ねたが、農村市場での経験と技術指導に商社としての限界があったため総代理店契約を打ち切り、1960年8月の東北トヨタ農機を皮切りに1962年末までに8社の販売会社を自前で設立している[46]。1961年4月には事業部制の全面実施にあわせて農業機械事業部が生まれた[47]。しかし全国網が完成した1962年、業界の耕うん機生産は48万台でピークを打ち、翌年から横ばいに転じた[48]。豊田自動織機製作所は耕うん機専門工場の新設計画を中止し、量産による原価低減を断念[49]した。

受託生産の拡大と、合弁による海外展開の再開

長草工場から始まるトヨタ車の受託生産

1967年5月、愛知県大府市で長草工場が操業を始め[50]、トヨタ自動車の車両を受託生産する専業工場が社内に置かれた。1970年9月には高浜工場[51]、1982年1月にはエンジンを専門とする碧南工場が操業に入り[52]、受託の受け皿が次々と増えている。産業用車両の売上高はFY1966の57億円からFY1977に477億円へ伸び、同じ期間に繊維機械が62億円から207億円の伸びにとどまった[53]のと対照をなした。1988年10月には米国で産業車両を製造する合弁会社を設け[54]、生産の場は国内にとどまらなくなった。

  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [50]1967年5月 愛知県大府市で長草工場が操業開始
    • [51]1970年9月 高浜工場が操業開始
    • [52]1982年1月 エンジンを専門とする碧南工場が操業開始
    • [54]1988年10月 米国で産業車両製造のためトヨタ自動車との合弁会社を設立
  • 豊田自動織機製作所 会社年鑑(売上構成 1967年3月期・1978年3月期)
    • [53]産業用車両はFY1966の57億円からFY1977に477億円へ伸び、繊維機械は62億円から207億円にとどまった

祖業の側も手を止めてはおらず、1980年5月にエアジェット織機の製造を始め[55]、杼を使わない無杼織機の分野で製品を刷新している。1995年12月にはインドでキルロスカグループとの合弁によりキルロスカトヨダテキスタイルマシナリーを設立し[56]、繊維機械の現地生産へ入った。1997年10月にはソニーとの合弁で液晶表示装置を製造するエスティ・エルシーディを[57]、1998年10月にはイビデンとの合弁でICチップ用プラスチックパッケージ基板の製造会社を設けており[58]、機械以外の分野へも手を伸ばした。

  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [55]1980年5月 エアジェット織機の製造を開始
    • [56]1995年12月 インドでキルロスカグループとの合弁によりキルロスカトヨダテキスタイルマシナリーを設立
    • [57]1997年10月 ソニーとの合弁で液晶表示装置を製造するエスティ・エルシーディを設立
    • [58]1998年10月 イビデンとの合弁でICチップ用プラスチックパッケージ基板の製造会社を設立
  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [50]1967年5月 愛知県大府市で長草工場が操業開始
    • [51]1970年9月 高浜工場が操業開始
    • [52]1982年1月 エンジンを専門とする碧南工場が操業開始
    • [54]1988年10月 米国で産業車両製造のためトヨタ自動車との合弁会社を設立
    • [55]1980年5月 エアジェット織機の製造を開始
    • [56]1995年12月 インドでキルロスカグループとの合弁によりキルロスカトヨダテキスタイルマシナリーを設立
    • [57]1997年10月 ソニーとの合弁で液晶表示装置を製造するエスティ・エルシーディを設立
    • [58]1998年10月 イビデンとの合弁でICチップ用プラスチックパッケージ基板の製造会社を設立
  • 豊田自動織機製作所 会社年鑑(売上構成 1967年3月期・1978年3月期)
    • [53]産業用車両はFY1966の57億円からFY1977に477億円へ伸び、繊維機械は62億円から207億円にとどまった

合弁による海外生産の再開とコンプレッサー

カーエアコン用コンプレッサーの製造は1960年1月に始ま[59]っていた。国内でデンソー向けの供給を積み上げたのち、1989年1月には米国でカーエアコン用コンプレッサーを製造するため日本電装(現・デンソー)との合弁会社を設立した[60]。1998年9月にはドイツでも同じくデンソーとの合弁で製造会社を設けている[61]。もともとは紡織機部門のなかで、カークーラー用コンプレッサーと摩擦溶接機の製造販売が新製品として立ち上がった[62]ものだった。

  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [59]1960年1月 カーエアコン用コンプレッサーの製造を開始
    • [60]1989年1月 米国でカーエアコン用コンプレッサー製造のため日本電装(現・デンソー)との合弁会社を設立
    • [61]1998年9月 ドイツでデンソーとの合弁によりカーエアコン用コンプレッサーの製造会社を設立
    • [62]紡織機部門のなかでカークーラー用コンプレッサー・摩擦溶接機の製造販売が立ち上がった

産業車両でも海外生産が動き、1988年10月には米国で産業車両を製造するためトヨタ自動車との合弁によりトヨタインダストリアルイクィップメントを設立している[63]。1959年にメキシコ豊田の経営を手放してから29年を経て[64]、豊田自動織機製作所は再び海外に生産拠点を持った。1994年8月には中国で素形材を製造するため六和機械(台湾)・豊田通商との合弁会社を[65]、1995年3月にはフランスで産業車両を製造するためマニトウB.F.・トヨタ自動車との合弁会社を設けている[66]

  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [63]1988年10月 米国で産業車両製造のためトヨタ自動車との合弁によりトヨタインダストリアルイクィップメントを設立
    • [65]1994年8月 中国で素形材製造のため六和機械(台湾)・豊田通商との合弁会社を設立
    • [66]1995年3月 フランスで産業車両製造のためマニトウB.F.・トヨタ自動車との合弁会社を設立
    • [64]1959年のメキシコ豊田の経営移譲から29年を経て海外生産を再開
  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [59]1960年1月 カーエアコン用コンプレッサーの製造を開始
    • [60]1989年1月 米国でカーエアコン用コンプレッサー製造のため日本電装(現・デンソー)との合弁会社を設立
    • [61]1998年9月 ドイツでデンソーとの合弁によりカーエアコン用コンプレッサーの製造会社を設立
    • [63]1988年10月 米国で産業車両製造のためトヨタ自動車との合弁によりトヨタインダストリアルイクィップメントを設立
    • [65]1994年8月 中国で素形材製造のため六和機械(台湾)・豊田通商との合弁会社を設立
    • [66]1995年3月 フランスで産業車両製造のためマニトウB.F.・トヨタ自動車との合弁会社を設立
    • [62]紡織機部門のなかでカークーラー用コンプレッサー・摩擦溶接機の製造販売が立ち上がった
    • [64]1959年のメキシコ豊田の経営移譲から29年を経て海外生産を再開

産業車両の世界首位から、上場の外へ

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豊田自動織機の沿革1926〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1926〜1951年G型自動織機の量産と、占領政策が残したもの豊田自動織機創業——G型自動織機の量産分社からトヨタ自動車の独立へ

1926年11月、豊田佐吉氏はG型自動織機の量産責任を紡績本業から切り出すため、豊田紡織の子会社として愛知県碧海郡刈谷町に資本金100万円で株式会社豊田自動織機製作所を設立した。初代社長には佐吉氏の女婿・豊田利三郎氏が就き、長男の喜一郎氏が技術部門を統括した。1929年に英プラット社へG型の特許実施権を約10万ポンドで譲渡し、その対価が長男・喜一郎氏の自動車事業の元手となり、1937年のトヨタ自動車工業の分離独立へつながった。

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★★★
プラット社にG型織機の特許実施権の譲渡契約
自動車部を新設(トヨタ自動車の創業)★★
織機会社の内部で自動車事業を興し、トヨタ自動車工業として分離独立

1933年、豊田自動織機製作所は社内に自動車部を設けて国産乗用車・トラックの開発に着手し、1937年8月に自動車部門を資本金1,200万円のトヨタ自動車工業株式会社として分離独立させた経営判断。祖業のG型自動織機で得た特許収入を元手に、豊田喜一郎氏が主導した。

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★★★
製鋼部を分離独立し豊田製鋼を設立
軍需品の製造にシフト
石田退三東京証券取引所に株式上場
1952〜1969年祖業の斜陽と、同時に走った三つの多角化石田退三トヨタ向けOEM生産への参入による織機会社の構造転換

1950年代前半、朝鮮特需の反動で祖業の繊維機械が長期低迷に沈むなか、豊田自動織機製作所がトヨタ自動車向けの自動車部品・車両のOEM生産に参入し、あわせてフォークリフトの自社生産を始めて、織機専業から自動車関連の総合機械メーカーへ事業構造を転換した経営判断。石田退三氏が社長として率いた。

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★★★
石田退三メキシコ豊田の設立と経営移譲——国家的保護を前提にした初の海外進出

1954年6月、豊田自動織機製作所はメキシコ政府の要請を受け、同国イダルゴー州イロロ村に資本金5,000万ペソ(円貨14億4,000万円)のメキシコ豊田株式会社を設立した。国税・地方税・輸入税の10年免除と、操業開始後の紡織機輸入禁止を政府から確約されたうえでの進出だった。しかし輸入禁止の立法は紡績業界の反対で公布1カ月余りで廃止され、資金繰りが行き詰まって1959年11月、全株式をメキシコ側へ譲渡した。

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★★★
石田退三農業機械への参入——S型エンジンの転用から始まった多角化の躓き

1954年12月末、豊田自動織機製作所は農用トラクターの研究に着手した。祖業の紡織機に不安を抱えるなか、最初に手がけたS型エンジンの需要が振るわず、その転用先として選んだ新製品だった。トラクターは時期尚早と判断して耕うん機へ切り替え、販売会社8社を全国に置くところまで体制を整えたが、業界の需要が頭打ちになった時期と重なり、事業部は苦境に陥った。

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★★★
石田退三新規事業による多角化★★
石田退三カーエアコン用コンプレッサーの製造を開始★★
石田退三長草工場を新設
1970〜1999年受託生産の拡大と、合弁による海外展開の再開権田銈次高浜工場を新設
豊田芳年カーエアコン部品の量産を開始
豊田芳年エアジェット織機の製造開始
豊田芳年碧南工場を新設
豊田芳年受託生産車種の拡大
豊田芳年子会社を設立
豊田芳年デンソー合弁のコンプレッサー生産を開始
磯谷智生子会社を設立
石川忠司トヨタ向け「ヴィッツ」の生産開始
2000〜2026年産業車両の世界首位から、上場の外へ石川忠司スウェーデンBTインダストリーズの買収による産業車両の世界首位

2000年、豊田自動織機製作所が、屋内用小型運搬機器で世界首位のスウェーデンBTインダストリーズを買収した経営判断。まず発行済株式の25.1%を取得し、段階的に90%超まで買い増して子会社化した。フォークリフト生産台数で世界一だった同社は、この買収で産業用運搬機器の全般でも世界トップシェアを確立した。

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★★★
石川忠司トヨタからL&F販売部門を譲受★★
石川忠司豊田自動織機に商号変更
石川忠司アイチコーポレーションを子会社化
豊田鐵郎最終赤字に転落(2期連続)★★
豊田鐵郎カスケード社を買収
大西朗バスティアンソリューションズを子会社化
大西朗Vanderlande Industries HDを買収★★
大西朗石浜工場を新設
伊藤浩一トヨタグループ主導による豊田自動織機の非公開化

2025年6月、トヨタ不動産と豊田章男会長が出資するSPCが、トヨタグループの源流企業・豊田自動織機を1株16,300円のTOBで非公開化すると提案し、豊田自動織機の取締役会が賛同した経営判断。当初価格が市場を下回る逆プレミアムだったことや米エリオットの反対で価格は2万600円へ引き上げられ、2026年3月にTOBが成立、総額約5兆9000億円は日本企業同士のM&Aとして史上最大となった。

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★★★
伊藤浩一SPCが1株18,800円でTOBを開始、米エリオットが割安として反対★★
出典・参考

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