トヨタ向け自動車エンジンの生産開始
朝鮮特需の終焉と繊維機械の需要低迷
終戦後に織機・紡機の生産を再開した豊田自動織機は、1950年の朝鮮戦争による特需景気で好業績を記録した。繊維業界の設備投資が活発化し、繊維機械への引き合いが強まった。しかし、繊維業界は景気変動に左右されやすく、朝鮮特需が終焉すると織機・紡機の需要は再び低迷に転じた。1954年6月には能率給の20%カットを実施し、1957年7月には全社で「不況対策」を宣言して臨時工の雇い止めに踏み切るなど、繊維不況の影響は深刻であった。
豊田自動織機とトヨタ自動車の社長を兼任していた石田退三氏は、1950年代前半の時点で繊維機械の需要が長期的に低迷すると洞察していた。とりわけ問題となったのは、紡機・織機の生産に従事する従業員のうち約1,600名が余剰人員になる可能性があったことであった。繊維機械に頼らない事業の創出が至上命題となり、人員削減ではない解決策が求められた。
トヨタ自動車向けの下請け生産への参入
石田退三社長が選んだのは、トヨタ自動車からの自動車部品・車両組立のOEM生産への参入であった。当時は自動車の需要が増大しつつあったが、トヨタ自動車単独では増産に対応しきれない状況にあった。豊田自動織機が下請けとして自動車関連製品を生産することで、繊維機械で余剰となった人員を自動車に振り分け、雇用を維持しつつ繊維機械の原価低減も図る構想であった。
1952年12月にトヨタ自動車向けのS型エンジン製造に着手し、翌1953年8月には名機製作所の大府工場を買収して「共和工場」を新設した。1953年10月には車両組立にも参入し、1955年9月に「車両部」を正式に発足させた。繊維機械メーカーから自動車部品・車両組立メーカーへの転換が、共和工場の新設を起点として本格化した。
繊維機械の縮小と自動車事業の拡大
自動車事業の拡大と並行して、繊維機械の生産体制は縮小に向かった。1958年に織機・紡機の生産拠点であった栄生工場の閉鎖を決定し、繊維機械の製造は本社の刈谷工場に集約された。繊維機械が豊田自動織機の主力事業であった時代は、共和工場の新設からわずか数年で終わりを迎えた。
石田退三社長の判断の要点は、余剰人員を削減ではなく事業転換で吸収した点にある。繊維機械の需要低迷という構造的な問題に対し、トヨタ自動車という身近な顧客への下請け生産で対応するという選択は、トヨタグループの企業間関係があってこそ成立した。織機メーカーとして創業した豊田自動織機が、自動車関連メーカーへと事業構造を転換する起点となったのが共和工場の新設であった。