1926年 株式会社豊田自動織機製作所を創業

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豊田佐吉が、G型自動織機の量産責任を紡績本業から切り出すため、1926年11月に豊田紡織の子会社として愛知県碧海郡刈谷町に資本金100万円で設立。1929年に英プラット社へ特許実施権を譲渡し、その対価が長男・喜一郎の自動車事業の元手となった。

創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?

  • 豊田佐吉は1890年に木製人力織機の特許を取得して以来30年以上にわたり織機の発明に没頭し、1918年に豊田紡織を設立して自前の試験工場を持った。G型自動織機の実用化を機に1926年11月、量産責任を独立させるため豊田紡織の子会社として愛知県碧海郡刈谷町に株式会社豊田自動織機製作所を設立し、初代社長には女婿の豊田利三郎が就任した。
  • 1929年に英プラット社へG型自動織機の特許実施権を約10万ポンド(当時の邦貨で約100万円相当)で譲渡し、対価は豊田家が次の主題と位置付けていた国産自動車事業への着手資金として留保された。1930年10月に佐吉は63歳で死去したが、特許譲渡金を自動車事業の元手とせよという遺志は長男の喜一郎に引き継がれた。
  • 喜一郎は1933年9月に豊田自動織機製作所の社内に自動車部を設置し、米国製シボレーの分解調査からトラック・乗用車の試作を進めた。1935年にG1型トラックとA1型試作乗用車を完成し、1936年の自動車製造事業法による政府助成対象選定を経て、1937年8月に自動車部をトヨタ自動車工業株式会社として分離独立させた。創業から11年で織機メーカーが自動車事業を独立法人として送り出し、戦後のトヨタグループ形成の起点となった。
創業
上場
経営方針 何を目指していたか?

G型自動織機の量産責任を豊田紡織から切り出して1926年に法人化し、1929年のプラット社特許譲渡で得た資金を自動車事業の元手として留保、1933年に社内自動車部を設置し1937年にトヨタ自動車工業として分離独立させた。

1926.11 豊田紡織から分社
1933.9 自動車部を社内設置
1935 豊田綱領を制定
1937.8 自動車部を分離独立
1940.3 製鋼部を分離独立
資金調達 どう資金を工面したか?

1926年に資本金100万円で豊田紡織の子会社として発足、1929年にプラット社へG型特許実施権を約10万ポンド(約100万円相当)で譲渡して自動車事業の着手資金を確保、1949年5月に東京・名古屋証券取引所へ株式上場した。

1926.11 資本金100万円
1929 プラット社特許譲渡
1937.8 自動車事業の独立資本へ移管
1949.5 東証・名証に株式上場
製品サービス 何を作って売ったか?

1924年完成のG型自動織機を1926年から量産、1929年にプラット社が特許実施権を譲り受ける国際水準の技術を確立、1935年にG1型トラックとA1型試作乗用車を社内で完成させた。

1924 G型自動織機完成
1926 G型自動織機の量産開始
1933.9 自動車の試作研究着手
1935 G1型トラック・A1型試作乗用車
主要顧客 誰に売ったか?

国内紡績各社向けにG型自動織機を供給して始まり、1929年のプラット社契約で英米仏独以外の海外市場にも特許経由で進出、1937年以降は陸軍向け軍用トラックがトヨタ自動車工業の主力顧客となった。

1926 国内紡績各社
1929 英プラット社(特許経由)
1936 政府助成対象に選定
1937 陸軍向け軍用トラック
従業員数 誰と作っていたか?

1926年の発足時は数百名規模、1933年の自動車部設置以降に試作・量産要員が加わり、1937年のトヨタ自動車工業分離時には自動車部門の従業員が独立法人へ移籍した。

1926 数百名規模
1933 自動車部要員を増強
1937.8 自動車部員が新会社へ移籍
設備投資 どこで作っていたか?

1926年の刈谷町本社工場で創業、1933年に自動車部の試作工場を社内に設け、1937年の分離独立を経て1938年には挙母町(現豊田市)に約200万㎡の本社工場が竣工した。

1926.11 刈谷本社工場
1933 刈谷組立工場
1938 挙母本社工場(トヨタ自動車工業)

豊田自動織機 創業地の主な拠点全国 の地理(豊田自動織機製作所 刈谷本社工場 → トヨタ自動車工業 挙母本社工場)

日本地図 1926年 豊田自動織機製作所 刈谷本社工場 愛知県碧海郡刈谷町豊田町1番地(現・愛知県刈谷市豊田町2丁目1番地) 創業地 1933年 自動車部試作工場(刈谷組立工場) 愛知県碧海郡刈谷町(豊田自動織機製作所内) 自動車部の試作・組立拠点(社内設置) 1938年 トヨタ自動車工業 挙母本社工場 愛知県西加茂郡挙母町(現・愛知県豊田市トヨタ町1番地) 分離独立後の自動車本社工場(敷地約200万㎡)

創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部

1926年 なぜ豊田佐吉は1926年に豊田自動織機製作所を別会社として独立させたのか?

G型自動織機の量産には専用工場と専門組織が必要で、紡績本業と織機製造を同居させていた豊田紡織の内部では責任と採算が混在するため、織機製造を別法人として切り出し量産責任を独立させた。

豊田佐吉は1890年に木製人力織機の特許を取得して以来、共同出資形態で設立した会社から繰り返し身を退くという挫折を経たうえで、1918年に独立資本で豊田紡織を設立して自前の試験工場を持っていた。長い研究の末にG型自動織機(無停止杼換式)を実用化すると、紡績本業の生産ラインと織機製造ラインを同じ法人内に置く構造では量産責任と採算管理が混在する問題が表面化した。

1926年11月、豊田紡織の子会社として愛知県碧海郡刈谷町に株式会社豊田自動織機製作所を設立し、織機製造専業の量産工場を独立させた。発明と試作の段階を出て国際水準の自動織機を継続的に出荷する事業段階に入ったための法人分離であり、初代社長には佐吉の女婿で豊田紡織を率いていた豊田利三郎が就いた。

1929年 なぜG型自動織機は英プラット社が特許実施権を譲り受けるほどの注目を集めたのか?

杼(緯糸を運ぶ部品)が空になっても織機を止めずに自動交換する無停止杼換式が世界初の機構で、織布工程の連続稼働と1人あたり管理台数の大幅増を実現したため、世界最大手のプラット社が国際市場での独占権を求めた。

G型自動織機は緯糸が尽きると瞬時に新しい杼へ自動的に交換する機構を世界で初めて織機に組み込み、1台あたりの停止時間を大幅に削減した。1人の織工が担当できる織機台数が従来の数台から数十台に拡大し、織布工程の労務生産性を一段引き上げる水準にあった。

1929年、英国の紡織機械大手プラット社が日本以外の地域でG型を製造販売する特許実施権を譲り受ける契約を申し入れ、英米仏独以外の地域を対象に約10万ポンド(当時の邦貨で約100万円相当)で特許実施権譲渡契約が成立した。日本のメーカーが欧米の老舗紡織機械メーカーから特許対価を受け取る稀有な事例で、契約金は豊田家が次の主題に位置づけていた国産自動車事業への着手資金として留保された。

1933年9月 なぜ豊田喜一郎は1933年に自動車部を社内に設置したのか?

プラット社特許譲渡で得た資金を自動車研究費に充てつつ、織機メーカーの工作機械・鋳造技術・量産経験を流用できる社内に開発拠点を置けば、新会社を別途設立するより短期間で試作と量産設備の構築を進められた。

豊田佐吉の長男・豊田喜一郎は、1929年のプラット社特許譲渡で得た資金を自動車の研究開発費に充て、約3年にわたり工場の片隅で極秘に開発を続けた。1933年9月、豊田自動織機製作所の社内に自動車部を設置し、米国製シボレーを分解調査する形で本格的な開発研究に着手した。

取締役会の正式な承認は翌1934年1月の臨時株主総会で事後的に得る形となり、喜一郎は新事業を既成事実として押し通した。社内には織機事業で稼いだ利益を先行きの不確実な自動車事業に投入することへの反発もあったが、社長の豊田利三郎が関連会社を含むグループの利益を投じて資金面で支援し、1935年にG1型トラックとA1型試作乗用車を完成させている。

1937年8月 なぜ1937年に自動車部を分離してトヨタ自動車工業を独立させたのか?

1936年の自動車製造事業法で政府助成対象に選定され、軍用トラックの量産投資が織機本体の財務リスクを大きく超える規模に達したため、設備投資と借入を独立法人に切り分け織機本体の信用と切り離す必要があった。

1936年に日本政府は軍需の拡張を目的とした自動車国産化推進政策(自動車製造事業法)を打ち出し、豊田自動織機製作所の自動車部を政府の助成対象として選定した。この政策的な追い風が大規模量産設備への投資を不可避とし、織機本体の信用と財務基盤に過大な負荷をかける規模の設備投資が現実の課題として浮上した。

1937年8月28日、自動車部をトヨタ自動車工業株式会社として分離独立させた。翌1938年に挙母町(現豊田市)に竣工した本社工場は敷地面積が約200万㎡に達し、それまでの刈谷組立工場の約50倍という広大な規模で、トラックの本格量産に必要な設備と土地を一挙に取得した。自動車事業の利益を一族で独占しないという豊田家の判断が分離独立の精神的支柱となり、独立法人としての資金調達と意思決定の道が開かれた。

1930年 なぜ佐吉は「研究と創造」の家訓を残したのか?

1930年10月に佐吉が63歳で死去する直前、特許譲渡で得た資金を自動車事業の元手とせよと喜一郎に託したと伝えられ、発明から量産へ、織機から自動車へという事業の系譜を次世代に委ねる遺志が後の豊田綱領の中核となった。

豊田佐吉は1930年10月30日に63歳で死去した。1926年の豊田自動織機製作所設立、1929年のプラット社特許譲渡という事業の節目を踏んだ直後の没年で、自動車事業の本格的な立ち上げを見届けることはなかった。

生前、佐吉が長男の喜一郎に対してプラット社特許譲渡金を自動車事業の元手とすることを勧めたと社史は伝えている。1935年に豊田利三郎・喜一郎の連名で発表された「豊田綱領」は、研究と創造に没頭し常に時流に先んずるという佐吉の事業観を成文化したもので、織機から自動車への事業転換を支える理念的な背骨となった。発明家個人の試行錯誤を量産企業の規律へ橋渡しする役割が、佐吉の遺志を介して喜一郎の世代に引き継がれた。

歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について

豊田自動織機製作所

1967年(昭和41年)の創立40周年に際し、佐吉が手織機改良に着手した明治16年(1883年)ごろからの40余年を当社創立の前史として総括した冒頭記述

「この昭和四十一年に、創立四十周年をむかえたわが豊田自動織機製作所は、豊田佐吉がその生産をかけて発明完成した自動織機を企業化するために、大正十五年十一月十八日、愛知県碧海郡刈谷町(現刈谷市)に資本金一〇〇万円をもって創立された。佐吉が手織機の改良を志したのが明治十六年ごろであったから、自動織機の完成には四十余年の歳月が必要であったわけである。 佐吉が発明家として、また事業家として、幾多の苦難をしのいできたこの四十余年の歴史に触れることなく、当社の創立およびその後の発展を理解することはできない。当社ならびに豊田系諸事業の今日の繁栄の基礎は、精神的にも経済的にも、すでにこの時代からつちかわれたものであり、当社の歴史がその創立をはるかにさかのぼって、豊田佐吉の生い立ちのころより説きおこされなくてはならないのも、またそのためである。」
有価証券報告書

1937年8月の自動車部分離独立に関する公式記述

「自動車部を分離独立し、トヨタ自動車工業株式会社(現トヨタ自動車)を設立した。豊田自動織機の自動車事業を独立法人として切り出し、後のトヨタグループ形成の起点となった。」
有価証券報告書

1940年3月の製鋼部分離独立に関する公式記述

「製鋼部を分離独立して豊田製鋼株式会社(現愛知製鋼株式会社)を設立した。鉄鋼領域もトヨタ自動車に続いて独立法人化され、グループ分業の体制が整った。」

参考文献

  • 有価証券報告書
  • 豊田自動織機製作所40年史
  • 豊田佐吉伝
  • 6201-05-timeline.csv
  • トヨタ自動車75年史
  • 豊田自動織機四十年史(1967)
  • 豊田自動織機 有価証券報告書(沿革)