重要な意思決定
192611月

株式会社豊田自動織機製作所を設立

背景

発明家・豊田佐吉の織機開発と企業化の挫折

豊田佐吉氏は明治時代を通じて織機の発明に生涯を賭けた。1890年に木製人力織機の特許を取得したのを皮切りに、1896年には日本初の動力織機を開発し、1903年には鉄製自動織機(T型)を発明するなど、織機の国産化に一貫して取り組んだ。特に1924年に完成した「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」は、運転中によこ糸を自動補給する機構を備え、工場の生産性を飛躍的に高める画期的な発明であった。

しかし、発明家としての実績に対して、経営者としての道のりは平坦ではなかった。佐吉氏は複数の企業を設立したが、いずれも他人資本を入れた共同出資の形態をとっていた。1892年に東京台東区で開業した織布工場は1年で閉鎖、1899年に三井物産と共同設立した織機製造会社も不況で辞任、1907年に設立した豊田式織機(現・豊和工業)も同様に経営不振の責任を取って退いた。発明した織機を扱う企業が複数生まれる一方、佐吉氏自身は経営権を維持できない状態が繰り返された。

決断

独立資本による豊田紡織の設立と自動織機の実用化

共同出資形態での挫折を経て、1918年に佐吉氏は独立資本による繊維工場「豊田紡織」を設立した。自ら出資して経営権を握ることで、経営から追い出されない資本形態を選んだ。豊田紡織の設立の狙いは、織機量産のための試験工場の確保にあった。自動織機を実際の量産工場で稼働させて試験を行う必要があり、自らが紡織経営に携わる道を選択した。

この試験工場での実績を踏まえ、1926年11月に織機の製造を専業とする「株式会社豊田自動織機製作所」を豊田紡織の子会社として設立した。工場は、豊田紡織が拠点を構えていた愛知県刈谷町に新設された。刈谷町長の大野一造氏が地域雇用の観点から工場誘致を推進した経緯があり、この関係が後にトヨタグループと西三河地区の結びつきの起点となった。

結果

G型織機の量産と世界的評価の獲得

豊田自動織機はG型織機の量産に着手し、設立直後から売上を拡大した。G型織機の技術水準は世界的に見ても高く、繊維産業の本場であったイギリスのプラット社に対して特許実施権を付与するに至った。日本の発明家が開発した織機の特許を、産業革命以来の繊維機械の伝統を持つイギリス企業が導入したことは、G型織機の技術的優位を示すものであった。

豊田佐吉氏が共同出資形態で繰り返し挫折した末に、独立資本での経営と試験工場の自前化という道筋を経てたどり着いたのが豊田自動織機の設立であった。発明の企業化に30年以上を要した過程は、技術の優位だけでは事業が成立しないこと、そして資本政策と経営権の設計が企業の存続を左右することを示している。