豊田自動織機農業機械への参入——S型エンジンの転用から始まった多角化の躓き

販売会社8社まで整えた農機事業は、なぜ苦境を脱せなかったのか

時期 1954年12月
意思決定者(推定) 取締役会 豊田自動織機製作所
論点 祖業の斜陽下での新規事業と、その採算
概要
1954年12月末、豊田自動織機製作所は農用トラクターの研究に着手した。祖業の紡織機に不安を抱えるなか、最初に手がけたS型エンジンの需要が振るわず、その転用先として選んだ新製品だった。トラクターは時期尚早と判断して耕うん機へ切り替え、販売会社8社を全国に置くところまで体制を整えたが、業界の需要が頭打ちになった時期と重なり、事業部は苦境に陥った。
背景
国内の紡織設備には過剰の気配が濃くなり、豊田自動織機製作所は本業の紡織機生産の将来に不安を感じて多角経営へ動いていた。しかしその第一手であるS型エンジンの需要は予期に反して振るわず、同エンジンを利用した各種の新製品開発が求められた。農用トラクターはその一つで、戦時中に飛行場建設用トラクターを製作した経験を持つトヨタ自動車工業から技術の援助を受けられる利点もあった。
内容
1956年5月に17馬力トラクターの試作車3台を完成させ、北海道大学で性能試験を重ねたが、当時の日本の農家は大部分が人力に頼っており商品化は時期尚早と判断した。そこで零細農業にそのまま導入できる耕うん機へ切り替え、1959年12月にKB型を完成させて翌年から市販した。販売は当初豊田通商の総代理店に委ねたが、農村市場の経験と技術指導に商社としての限界があり、契約を打ち切って全国8社のブロック販売会社を自前で設立した。
含意
本格的な生産販売体制が整った1962年は、耕うん機の生産が48万台でピークを打った年でもあった。翌年以降は横ばいに転じ、豊田自動織機製作所は専門工場の新設計画を中止して過剰投資を避けたが、その代わりに量産によるコストダウンを失って価格面で不利に立った。独自機構の直結型は使いやすさで従来型に劣り、アフターサービスの負担も重かった。1967年の時点でも耕うん機の不振は解消せず、農機事業部は苦境のなかにあった。
筆者の見解

販路の有無では説明できない

この事業の失敗は、しばしば「販路を持たなかったから」と説明されてきた。同時期に始めたフォークリフトがトヨタ自販の全国網に乗って国内首位を取ったのに対し、農機はヤンマーやクボタが押さえる農協ルートに入れなかった、という対比である。だが実際の経緯はその読み方を支えない。豊田自動織機製作所は豊田通商との総代理店契約を自ら打ち切り、全国を数ブロックに分けて販売会社8社を設立し、1962年末には全国網を完成させている。販路は与えられなかったのではなく、時間と資本を投じて自前で築いたものだった。

躓いたのはむしろ時間の読みである。参入を決めた1954年の耕うん機は年6万台の市場だったが、体制が整った1962年には48万台でピークを打ち、翌年から横ばいに転じた。8年をかけて全国網を築き上げた年が、業界が縮小へ向かう年と重なっている。専門工場の新設中止は過剰投資を避ける判断として正しかったが、量産の規模を放棄した以上、価格で競う土俵からは降りることになる。フォークリフトとの分かれ目は販路の有無ではなく、事業が立ち上がる速さと市場が伸びる速さの噛み合いにあった。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

売れなかったS型エンジンの、転用先を探す

豊田自動織機製作所が農用トラクターの研究に着手したのは1954年12月末である[1]。そのころの国内紡織設備にはすでに過剰の気配が濃くなり、豊田自動織機製作所は本業である紡織機生産の将来に不安を感じて、いちはやく多角経営へ一歩を踏み出していた[2]。しかし最初に手がけたS型エンジンの需要は、初めのころ予期に反して振るわなかった。そこで同エンジンを利用した各種の新製品開発を行うこととなり、その一つとして取り上げられたのが農用トラクターである[3]

参入の下地はグループ内にあった。トヨタ自動車工業は戦時中に軍の要求で飛行場建設用のトラクターを製作した経験を持ち、戦後はこれを近くの猿投農場で農耕用に使ったこともあって、豊田自動織機製作所は開発にあたり同社の援助を受けることができた[4]。市場の側にも見込みがあった。北海道では1951年以来、政府が7カ年計画でトラクターの導入を進めていたが、1951年から1954年までの4年間に入ったのはフォードソンやインターナショナルなど外国メーカーの機械がわずか200余台にすぎず、価格とサービスに多くの難点を抱えていた[5]

決断

トラクターを見送り、耕うん機へ切り替える

開発は速かった。1955年5月にはS型エンジンを積んだ前進4段・後進1段、自重1トンの油圧昇降式17馬力トラクターの設計を終え、翌1956年5月に試作車3台を完成させた[6]。うち1台を北海道大学へ送り、出力・牽引力の試験から回行性能・作業能力の調査まで数次にわたって繰り返した結果、営農用として使用に耐えることが証明された[7]。しかし当時、トラクターによる機械化農業は北海道の一部で行われているにすぎず、日本の農家の大部分は最も重い耕種作業をなお人力に頼っていた。

豊田自動織機製作所はトラクターの実用化をしばらく見送り、耕うん機の開発へ力を注ぐこととした。耕うん機はトラクターと異なり日本の零細農業にそのまま導入できる利点を持っていた[8]からである。研究への着手は1955年7月にさかのぼる。1958年9月にKC型を完成させ、1959年12月にはより安く軽い牽引型のKB型を仕上げて翌1960年から市販した[9]が、この年の出荷は781台にとどまった[10]。1960年11月には5馬力の二サイクル空冷エンジンを積んだ直結型のKA型を試作し、翌年2月から出荷を始めている。

総代理店を切り、販売会社8社を自前で置く

耕うん機は長年手がけてきた紡織機と違い、本格的な大量生産と大量販売を必要とする商品だった。その経験を持たない豊田自動織機製作所は、まず総販売代理店を豊田通商へ依頼し[11]、同社を通じて全国の有力農機具販売店に働きかけた。しかし豊田通商は農村市場という特異な分野での販売経験に浅く、サービスと技術指導の面でも商社としての限界があったため、豊田自動織機製作所は総代理店契約を打ち切った[12]。全国に散在する多数の販売店と直接取引することは実務上不可能に近く、既存の有力販売店を各地区の総代理店とする案も後発メーカーには不利が多かった。

そこで全国を数ブロックに分け、ブロックごとに販売会社を設けてその下に販売店を置く制度を採った。1960年8月に福島県郡山市の東北トヨタ農機を皮切りとし、1961年2月に東海トヨタ農機販売が続き、1962年末までに8社が相次いで設立されて全国の販売網が完成した[13]。社内の体制も、1958年10月に営業部へ一般機械課、1959年2月に工務部へ耕うん機課を設け、1960年9月には耕うん機課が部へ昇格した。1961年4月の事業部制の全面実施では、紡織機・車両・フォークリフトと並んで農業機械事業部が誕生している[14]。出荷は1960年の1,325台から1961年に7,800台、1962年には1万2,000台を超えた[15]

結果

体制が整った年が、業界のピークだった

豊田自動織機製作所の販売増加は、1960年に始まった耕うん機ブームに支えられたものだった。業界の生産台数は1959年の16万台から1960年に31万台へ倍増し、1962年には48万台を超えてピークに達した[16]。しかし翌1963年以降は44万台の線で横ばいに転じ、各メーカーの間でシェア維持をめぐる激しい販売競争が始まった。好況時に過剰な設備投資を行ったメーカーの多くは軒並み経営不振に陥り、倒産や転業が相次いだ。1955年に100社を数えた耕うん機メーカーは、1963年には5分の1の20社を残すのみとなっている[17]

本格的な生産販売体制を確立した豊田自動織機製作所は、これからというときにこの情勢へ直面した。ただちに耕うん機専門工場の新設計画を中止して不況にそなえたため過剰投資による損害は避けられたが、その反面で量産によるコストダウン効果を犠牲にし、以後は価格面で不利な立場に立った[18]。加えて豊田自動織機製作所の耕うん機は直結型と呼ばれる独自の機構を備えていたため、使いやすさの点で従来型に一歩を譲らざるを得ず、商品として安定するまでのクレーム対応にアフターサービスの力が割かれた[19]

こうした不利な条件のなかで販売拡大の要請は強まり、無理な販売と長期年賦による販売が行われた。販売会社と販売店の資金繰りは急速に悪化し、豊田自動織機製作所の耕うん機の売上げは減少に転じ、それがまた販売会社と販売店の経営を圧迫するという悪循環を生んだ[20]。取扱機種を増やすため、1964年から1965年にかけて鈴江農機・マメトラ農機・野田産業・小坂製作所と結び、各社が製作する搭載型耕うん機を自社ブランドで販売した[21]。1967年の時点でも耕うん機の不振は解消せず、農機事業部は苦境のなかにあった[22]

出典・参考

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