三菱重工業の自動車部門は1960年代にトヨタ・日産に乗用車販売で劣勢にあり、事業拡大には独立した経営体制が必要であるという判断が社内で共有されていた。一方、米国のクライスラー・コーポレーションは日本進出の足場を求めており、1969年に三菱重工業との間で合弁設立の合意に至る。1970年4月、三菱重工業の全額出資によって三菱自動車工業が設立され[1]、同年6月には三菱重工業から京都製作所の一部(現・京都工場)、名古屋自動車製作所(現・岡崎製作所)、水島自動車製作所(現・水島製作所)など計4製作所を譲り受けて営業を開始した。[2]1971年にはクライスラーが三菱自動車の株式15%を取得する資本提携が正式に成立し[3]、日米資本による自動車メーカーとして再出発する体制が整った。
しかし資本提携と同時に締結された『合衆国流通契約』の条件は、三菱自動車にとって構造的に不利だった。同契約のもとで北米市場では2ドア車限定かつクライスラーの独占販売という制約を受け、主力商品である4ドア小型車の米国市場への輸出は事実上封じられ、自社販売網の構築も認められないという『不平等条約』として働いた。当時の久保富夫社長は後に『非常に縛られるような提携はやめるべき』[引用元]と述懐しており、経営陣の間では契約の見直しが早期から課題として意識されていた。1981年の契約改定までの約10年間[4]、北米事業は構造的に制約され、提携先との力関係に経営が左右される構造が創業時点で胚胎した。
1973年に社長へ就いた久保富夫は、分離直後の三菱自動車が抱えた不利を率直に語っている。工場はもともと航空機を造っていた設備の流用で、東京・名古屋・岡崎と事業所が分散していたため車種ごとの繁閑を調整できず、間接費と運搬費が余分にかかっていた[5]。高度成長期に十分な採用ができなかったことから平均年齢は34.5歳と高く、一人当たりの賃金は同業他社に比べて突出していた[6]。さらに分離に際して自動車部門にあった内部留保は三菱重工側に残されたため、利益の出ない状態でゼロから借金経営を始めざるをえなかった[7]。久保は、社員が三菱を知りすぎていて新しいことに挑むより無難に過ごす風土が染みついていると見て、年功序列を崩す人事から着手した[8]。
1977年8月に名古屋自動車製作所岡崎工場を新設し[9]、1979年12月には京都製作所滋賀工場を新設する[10]ことで、乗用車とエンジンの量産体制を順次整えた。1980年10月には三菱商事と共同出資でミツビシ・モーターズ・オーストラリア・リミテッドを設立し[11]、1981年12月には同じく三菱商事との共同出資でミツビシ・モーター・セールス・オブ・アメリカ・インクを設立して[12]、米国市場への自社販売網の構築に着手した。1982年に発売したSUV『パジェロ』[13]はパリ・ダカールラリーでの輝かしい実績とともに海外市場での知名度を高め、三菱自動車にとって最も象徴的な商品としての地位を長年にわたって保ち、ブランドの顔としての役割を果たした。
1985年10月にはクライスラーとの合弁会社ダイヤモンド・スター・モーターズ・コーポレーションを米国に設立し[14]、北米での現地生産に乗り出した。1985年にはクライスラーが三菱自動車の株式出資比率を20%に引き上げ[15]、両社の関係は一段と深まった。1988年12月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所の市場第一部に株式を上場し[16]、日本の主要自動車メーカーとしての地位を名実ともに得た。1995年7月にはダイヤモンド・スター・モーターズを『ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカ』へ商号変更し[17]、1997年8月にはタイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得して[18]、東南アジアを軸とした海外生産基盤づくりへと方針を定めた。
海外での自立は、提携先の破綻が引き金となって進んだ。豪州では1971年からギャランの現地生産を続けていたが、1977年に投入したシグマの評判が良かったことを機に、1979年5月、三菱自動車と三菱商事がクライスラー・オーストラリアへ6分の1ずつ資本参加した[19]。同社は1979年度に設立以来初めての黒字と配当を発表し、現地では奇跡として受け止められた[20]。1980年4月末には屋台骨の揺らいだ米クライスラーから肩代わりを要請されて全株式を譲り受け、同年10月に豪州三菱自動車工業へ改称している[21]。一方で1981年の日米政府間交渉により乗用車の対米輸出は182万台から168万台へ削減され[22]、輸出に頼る体制そのものが行き詰まった。
クライスラーとの資本関係は、提携先の事情によって先に薄まった。1989年7月、クライスラーは設備資金の確保を理由に保有株7500万株を売却し、持株比率は21.8%から12.1%へ下がった[23]。市場の混乱を避けるため既存株主である金融機関25社が引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上がって株主構成は一般の上場企業並みになった[24]。舘豊夫会長は、経営面での干渉はすでになく実質的には対等な関係だったものが形の上でもそうなっただけだと説明している[25]。1988年12月の株式上場は公募増資による自己資本比率の改善をもたらし、閉ざされた非公開企業という意識から脱する契機にもなった[26]。
1989年に社長へ就いた中村裕一のもとで、三菱自動車はRVブームの波に乗った。中村は1991年度に自社のRVが7割近く伸びたとし、翌年もさらに3割の伸びを見込んでいた[27]。ヒット車の連続で最も救われたのは販売会社で、1991年度の販社全体の経常利益は610億円とトヨタ系に次ぐ2位、売上高経常利益率は3%に達した[28]。1991年にはクライスラーの持分を買い取り、合弁で設立したダイヤモンド・スター・モーターズを完全子会社としている[29]。もっとも軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位にとどまり、中村自身も国際競争に生き残るには規模が足りないと認めていた[30]。
しかし売上高2兆5000億円に対する利益は三菱重工や新日本製鉄の2分の1から3分の1という薄さで[31]、規模の拡大が収益に結びつかない構造は残ったままだった。拡大最優先の号令は、新車投入を遅らせるような報告が社内で握り潰される空気を生み[32]、1996年に表面化した米国子会社でのセクハラ問題、1997年の総会屋利益供与事件と、絶頂の裏で法令順守の基盤が崩れていった[33]。
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| 1960〜1997年三菱重工からの分離とクライスラー提携の制約 | 三菱自動車工業の設立とクライスラーとの資本提携 1970年4月、三菱重工業が乗用車で劣勢の自動車部門を分離し、全額出資で三菱自動車工業を設立した経営判断。翌1971年に米クライスラーが株式15%を取得して資本参加し、日米資本の完成車メーカーとして再出発した。派遣役員は1人で、実質は重工の子会社としての船出であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三菱重工業の自動車部門を譲受け営業開始 | ★★ | |||
| クライスラーが株式取得 | ★ | |||
| 岡崎工場を新設 | ★ | |||
| 東洋工機で四輪車生産を開始(パジェロ製造) | ★ | |||
| 三菱商事と海外販売で協業 | ★ | |||
| SUV「パジェロ」を発売 | ★ | |||
| クライスラーと合弁基本契約を解消 | ★★ | |||
| クライスラーと合弁で米国現地生産法人を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所第1部に株式上場 | ★ | |||
| ダイヤモンド・スター・モーターズ全株式を取得 | ★ | |||
| 米国法人でセクハラ民事訴訟 | ★★ | |||
| 総会屋利益供与事件と中村院政の終焉 木村雄宗社長が1年余りで会長へ退き、社長候補に挙がったことのなかった河添克彦が上席役員を越えて社長に就き、中村裕一会長の院政の打破と社風改革に着手した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 河添克彦氏が社長に就任 | ★ | |||
| 1998〜2015年ダイムラー提携と二度のリコール隠しによる経営危機 | ボルボと資本提携・協業推進の基本合意 | ★★ | ||
| ダイムラークライスラーとの資本提携 2000年3月、フルライン戦略の破綻と巨額の有利子負債で自力再建の限界に達した三菱自動車工業が、独ダイムラークライスラーに株式34%を握らせる資本提携を選んだ経営判断。前年に手を組んだばかりのスウェーデン・ボルボを商用車パートナーへ追いやり、乗用車の命運をダイムラーに委ねた。だが提携の直後にリコール隠しが露呈し、二度目の発覚でダイムラーは追加支援を拒み、三菱グループの資本注入で辛うじて命脈をつないだ。 詳細を読む | ★★★ | |||
| ダイムラー主導のターンアラウンド——エクロートによる聖域なき構造改革 2000年のリコール隠しで信頼を失った三菱自動車は、筆頭株主となった独ダイムラークライスラーからロルフ・エクロート氏を再建の指揮官として迎え入れた。2001年に着手した再建計画『ターンアラウンド』のもと、品質管理の刷新、工場閉鎖と人員削減、部品協力会の解散、三菱グループとの取引見直しまで踏み込む聖域なき構造改革を進めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 三菱ふそうを売却 | ★ | |||
| リコール隠しが発覚(2回目) | ★ | |||
| ダイムラー撤退後の三菱グループ主導による自主再建 2004年4月に筆頭株主ダイムラークライスラーが増資不参加と支援打ち切りを表明したことを受け、三菱自動車は同年5月21日、岡崎工場の閉鎖と7600人の人員削減を柱とする自主再建計画を発表した。三菱重工業・三菱商事・東京三菱銀行の主要3社を中心に優先株増資で資金を確保し、外資に委ねてきた再建を国内資本の手に取り戻した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 益子修 | ダイムラークライスラーと提携解消 | ★ | ||
| 益子修 | プジョー・シトロエンと合弁ピーシーエムエー・ルスをロシアに設立 | ★ | ||
| 益子修 | 三菱商事と共同で広汽三菱汽車を設立 | ★ | ||
| 相川哲郎 | 三菱商事と共同でインドネシア生産合弁を設立 | ★ | ||
| 相川哲郎 | 米国生産からの撤退とイリノイ工場の生産終了 2015年7月、三菱自動車が米国内で唯一の組立拠点であるイリノイ州の工場について、2015年11月末をもって生産を終了し、米国での車両生産から撤退する方針を発表した経営判断。相川哲郎社長のもとで進めた『選択と集中』の一環であり、稼働率が5割台にとどまる過剰設備を一掃するものであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2016〜2026年日産アライアンス参画と日産・ホンダとの3社統合協議 | 相川哲郎 | 燃費データ不正の発覚と日産傘下入り 2016年4月、日産と共同開発した軽自動車の燃費データ不正が発覚した三菱自動車が、益子修会長兼CEOの判断で日産による34%出資を受け入れ、ルノー・日産アライアンスに編入された経営判断。自力での信頼回復と資金確保を断念し、会見の翌日にカルロス・ゴーン会長へ支援を求めたことが日産傘下入りの発端であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 加藤隆雄 | 全方位の拡大から東南アジア集中へ——欧州縮小・パジェロ生産終了を伴うコロナ危機下の構造改革 2020年7月27日、三菱自動車が2022年度までの新中期経営計画『Small but Beautiful』を発表し、欧州での新車開発を凍結して事実上撤退へ向かう一方、得意とする東南アジアへ経営資源を集中する方針を打ち出した経営判断。岐阜県のパジェロ製造閉鎖と主力車パジェロの生産終了を伴い、加藤隆雄CEOが主導した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 加藤隆雄 | 最終赤字に転落 | ★★ | ||
| 加藤隆雄 | 車両生産事業から撤退 | ★★ | ||
| 加藤隆雄 | 日産・ホンダ・三菱自動車の経営統合を発表 | ★ |
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事実根拠:出所(三菱自動車)