三菱自動車 の歴史

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創業 1970年
母体 三菱重工業
創業地 東京都港区
創業
1970年4月、三菱重工業の全額出資で三菱自動車工業が設立され、同年6月に重工の自動車部門を譲り受けて東京都港区で営業を始めた。乗用車ではトヨタ・日産に対して劣位にあり、単独で北米を開拓する販売網も資本も持たない。翌1971年、米クライスラーが株式15%を取得して日米資本のメーカーとして再出発した。ただし同時に結んだ合衆国流通契約は、北米向けを2ドア車に限り、クライスラーの独占販売として自社販売網の構築を禁じるものだった。株式を市場へ公開したのは1988年12月、設立から18年後である。
決断
筆頭株主が三度入れ替わり、そのたびに売る地域を決め直してきた。1971年のクライスラー15%に始まり、1997年の総会屋利益供与事件で経営陣が交代したのち、2000年10月にはダイムラークライスラーへ株式34%を渡し、乗用車の経営を委ねた。ダイムラーは2004年に支援を打ち切り、三菱グループ3社とファンドを引受先とする優先株増資で自主再建へ切り替えた。2015年には稼働率が5割台へ低下した米イリノイ工場を閉鎖し、翌2016年、燃費データの不正が発覚して日産の34%出資を受け入れてルノー・日産アライアンスへ編入された。二度の不正がそのつど資本の受け入れ先を決め、北米と欧州から退く順序をつくった。
現況
現在の三菱自動車は、東南アジアとオセアニアで車を売っている。2026年3月期の売上高2兆8,965億円のうち自動車事業が2兆8,545億円と99%を占め、金融事業は420億円にとどまる。アウトランダーPHEV、トライトン、エクスパンダーを世界6拠点で生産し、タイ・インドネシア・フィリピン・ベトナムとオセアニアが海外販売の主軸をなす。2021年8月にはパジェロ製造の工場を閉鎖し、2023年12月にロシア、2024年2月に中国の車両生産を終えた。ただし営業利益は2024年3月期の1,910億円から2期で755億円へ落ち、純利益は100億円まで縮んでいる。生産地を絞り込んだことが、残した地域の需要変動をそのまま損益へ通す構造を作った。
競合
三菱自動車の現在地を決めているのは、国内の順位ではなく東南アジアでの位置である。海外の生産・販売会社は1980年のオーストラリア、1981年の米国、2012年の中国、2015年のインドネシアまで一貫して三菱商事との共同出資で設立されており、商社の販路がそのまま自社の販路になっている。2024年12月に日産・ホンダとの3社統合協議へ入ったが、統合比率で折り合わず2025年2月に打ち切られ、覚書も解約された。2026年5月の中長期計画は4年で約1兆円を成長投資に充て、フィリピン・ベトナム・日本を重点国に置いた。規模で並ぶ相手を得られなかったことが、商社とともに築いた販路の残る地域へ商品を寄せる選択を残した。

設立ストーリー 三菱重工からの分離とクライスラー提携の制約 (1960年〜)

三菱自動車の設立と不平等な合衆国流通契約

三菱重工業の自動車部門は1960年代にトヨタ・日産に乗用車販売で劣勢にあり、事業拡大には独立した経営体制が必要であるという判断が社内で共有されていた。一方、米国のクライスラー・コーポレーションは日本進出の足場を求めており、1969年に三菱重工業との間で合弁設立の合意に至る。1970年4月、三菱重工業の全額出資によって三菱自動車工業が設立され[1]、同年6月には三菱重工業から京都製作所の一部(現・京都工場)、名古屋自動車製作所(現・岡崎製作所)、水島自動車製作所(現・水島製作所)など計4製作所を譲り受けて営業を開始した。[2]1971年にはクライスラーが三菱自動車の株式15%を取得する資本提携が正式に成立し[3]、日米資本による自動車メーカーとして再出発する体制が整った。

  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1970年4月 三菱重工業の全額出資により三菱自動車工業を設立
    • [2]1970年6月 三菱重工業から京都製作所一部・名古屋自動車製作所・水島自動車製作所・他1製作所(計4製作所)を移管受け営業開始
    • [3]1971年 クライスラーが三菱自動車の株式15%を取得(資本提携成立)

しかし資本提携と同時に締結された『合衆国流通契約』の条件は、三菱自動車にとって構造的に不利だった。同契約のもとで北米市場では2ドア車限定かつクライスラーの独占販売という制約を受け、主力商品である4ドア小型車の米国市場への輸出は事実上封じられ、自社販売網の構築も認められないという『不平等条約』として働いた。当時の久保富夫社長は後に『非常に縛られるような提携はやめるべき』[引用元]と述懐しており、経営陣の間では契約の見直しが早期から課題として意識されていた。1981年の契約改定までの約10年間[4]、北米事業は構造的に制約され、提携先との力関係に経営が左右される構造が創業時点で胚胎した。

  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]合衆国流通契約は1981年に改定

1973年に社長へ就いた久保富夫は、分離直後の三菱自動車が抱えた不利を率直に語っている。工場はもともと航空機を造っていた設備の流用で、東京・名古屋・岡崎と事業所が分散していたため車種ごとの繁閑を調整できず、間接費と運搬費が余分にかかっていた[5]。高度成長期に十分な採用ができなかったことから平均年齢は34.5歳と高く、一人当たりの賃金は同業他社に比べて突出していた[6]。さらに分離に際して自動車部門にあった内部留保は三菱重工側に残されたため、利益の出ない状態でゼロから借金経営を始めざるをえなかった[7]。久保は、社員が三菱を知りすぎていて新しいことに挑むより無難に過ごす風土が染みついていると見て、年功序列を崩す人事から着手した[8]

  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [5]工場は航空機工場の流用で東京・名古屋・岡崎などに分散し、車種による繁閑を調整できず間接費・運搬費が多くかかっていた(久保富夫社長)
    • [6]高度成長期に十分成長せず若年層が少なく平均年齢34.5歳、1人当たり賃金が他の自動車メーカーに比べ極端に高かった
    • [7]重工からの分離に際し自動車部門にあった内部留保をみな重工に残したため、ゼロから出発して借金経営を続けた
    • [8]久保富夫社長は社員が三菱を知りすぎていると指摘し、無難主義を排して年功序列によらない人事に着手した
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1970年4月 三菱重工業の全額出資により三菱自動車工業を設立
    • [2]1970年6月 三菱重工業から京都製作所一部・名古屋自動車製作所・水島自動車製作所・他1製作所(計4製作所)を移管受け営業開始
    • [3]1971年 クライスラーが三菱自動車の株式15%を取得(資本提携成立)
    • [4]合衆国流通契約は1981年に改定
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [5]工場は航空機工場の流用で東京・名古屋・岡崎などに分散し、車種による繁閑を調整できず間接費・運搬費が多くかかっていた(久保富夫社長)
    • [6]高度成長期に十分成長せず若年層が少なく平均年齢34.5歳、1人当たり賃金が他の自動車メーカーに比べ極端に高かった
    • [7]重工からの分離に際し自動車部門にあった内部留保をみな重工に残したため、ゼロから出発して借金経営を続けた
    • [8]久保富夫社長は社員が三菱を知りすぎていると指摘し、無難主義を排して年功序列によらない人事に着手した

パジェロ発売と海外市場の独自開拓

1977年8月に名古屋自動車製作所岡崎工場を新設し[9]、1979年12月には京都製作所滋賀工場を新設する[10]ことで、乗用車とエンジンの量産体制を順次整えた。1980年10月には三菱商事と共同出資でミツビシ・モーターズ・オーストラリア・リミテッドを設立し[11]、1981年12月には同じく三菱商事との共同出資でミツビシ・モーター・セールス・オブ・アメリカ・インクを設立して[12]、米国市場への自社販売網の構築に着手した。1982年に発売したSUV『パジェロ』[13]はパリ・ダカールラリーでの輝かしい実績とともに海外市場での知名度を高め、三菱自動車にとって最も象徴的な商品としての地位を長年にわたって保ち、ブランドの顔としての役割を果たした。

  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [9]1977年8月 名古屋自動車製作所岡崎工場を新設
    • [10]1979年12月 京都製作所滋賀工場を新設
    • [11]1980年10月 三菱商事と共同出資でミツビシ・モーターズ・オーストラリア・リミテッドを設立
    • [12]1981年12月 三菱商事と共同出資でミツビシ・モーター・セールス・オブ・アメリカ・インクを設立
  • 有価証券報告書
    • [13]1982年 SUV「パジェロ」を発売

1985年10月にはクライスラーとの合弁会社ダイヤモンド・スター・モーターズ・コーポレーションを米国に設立し[14]、北米での現地生産に乗り出した。1985年にはクライスラーが三菱自動車の株式出資比率を20%に引き上げ[15]、両社の関係は一段と深まった。1988年12月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所の市場第一部に株式を上場し[16]、日本の主要自動車メーカーとしての地位を名実ともに得た。1995年7月にはダイヤモンド・スター・モーターズを『ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカ』へ商号変更し[17]、1997年8月にはタイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得して[18]、東南アジアを軸とした海外生産基盤づくりへと方針を定めた。

  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [14]1985年10月 クライスラーとの合弁会社ダイヤモンド・スター・モーターズ・コーポレーションを米国に設立
    • [16]1988年12月 東京・大阪・名古屋各証券取引所の市場第一部に株式上場
    • [17]1995年7月 ダイヤモンド・スター・モーターズを「ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカ」へ社名変更
    • [18]1997年8月 タイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得
  • 有価証券報告書
    • [15]1985年 クライスラーが三菱自動車への出資比率を15%から20%に引き上げ

海外での自立は、提携先の破綻が引き金となって進んだ。豪州では1971年からギャランの現地生産を続けていたが、1977年に投入したシグマの評判が良かったことを機に、1979年5月、三菱自動車と三菱商事がクライスラー・オーストラリアへ6分の1ずつ資本参加した[19]。同社は1979年度に設立以来初めての黒字と配当を発表し、現地では奇跡として受け止められた[20]。1980年4月末には屋台骨の揺らいだ米クライスラーから肩代わりを要請されて全株式を譲り受け、同年10月に豪州三菱自動車工業へ改称している[21]。一方で1981年の日米政府間交渉により乗用車の対米輸出は182万台から168万台へ削減され[22]、輸出に頼る体制そのものが行き詰まった。

  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
    • [19]1979年5月 三菱自工と三菱商事がクライスラー・オーストラリアに6分の1ずつ資本参加し役員と実務担当者を送り込んだ
    • [20]クライスラー・オーストラリアは1979年度決算で会社設立以来初の黒字を出し配当すると発表、全豪の新聞が「シグマの奇跡」と報じた
    • [21]1980年4月末 米クライスラーからの肩代わり要請を受け三菱自工と三菱商事が全株式を譲り受け、10月に「豪州三菱自動車工業」へ社名変更
  • 日本産業史 第3巻 機械・輸送機「自動車-国際化の幕開け」
    • [22]1981年 日米政府間交渉で乗用車の対米輸出台数を前年の182万台から168万台へ削減
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [9]1977年8月 名古屋自動車製作所岡崎工場を新設
    • [10]1979年12月 京都製作所滋賀工場を新設
    • [11]1980年10月 三菱商事と共同出資でミツビシ・モーターズ・オーストラリア・リミテッドを設立
    • [12]1981年12月 三菱商事と共同出資でミツビシ・モーター・セールス・オブ・アメリカ・インクを設立
    • [14]1985年10月 クライスラーとの合弁会社ダイヤモンド・スター・モーターズ・コーポレーションを米国に設立
    • [16]1988年12月 東京・大阪・名古屋各証券取引所の市場第一部に株式上場
    • [17]1995年7月 ダイヤモンド・スター・モーターズを「ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカ」へ社名変更
    • [18]1997年8月 タイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得
  • 有価証券報告書
    • [13]1982年 SUV「パジェロ」を発売
    • [15]1985年 クライスラーが三菱自動車への出資比率を15%から20%に引き上げ
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
    • [19]1979年5月 三菱自工と三菱商事がクライスラー・オーストラリアに6分の1ずつ資本参加し役員と実務担当者を送り込んだ
    • [20]クライスラー・オーストラリアは1979年度決算で会社設立以来初の黒字を出し配当すると発表、全豪の新聞が「シグマの奇跡」と報じた
    • [21]1980年4月末 米クライスラーからの肩代わり要請を受け三菱自工と三菱商事が全株式を譲り受け、10月に「豪州三菱自動車工業」へ社名変更
  • 日本産業史 第3巻 機械・輸送機「自動車-国際化の幕開け」
    • [22]1981年 日米政府間交渉で乗用車の対米輸出台数を前年の182万台から168万台へ削減

株式上場とRVブームの絶頂

クライスラーとの資本関係は、提携先の事情によって先に薄まった。1989年7月、クライスラーは設備資金の確保を理由に保有株7500万株を売却し、持株比率は21.8%から12.1%へ下がった[23]。市場の混乱を避けるため既存株主である金融機関25社が引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上がって株主構成は一般の上場企業並みになった[24]。舘豊夫会長は、経営面での干渉はすでになく実質的には対等な関係だったものが形の上でもそうなっただけだと説明している[25]。1988年12月の株式上場は公募増資による自己資本比率の改善をもたらし、閉ざされた非公開企業という意識から脱する契機にもなった[26]

  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [23]1989年7月 クライスラーが保有する7500万株を売却し持株比率は21.8%から12.1%へ低下(設備資金確保が理由と説明)
    • [24]売却株は既存株主の金融機関25社が買い増して引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上昇
    • [25]舘豊夫会長は経営面での干渉はなく実質的なイコール・パートナーシップだったものが形の上でもそうなったと説明
    • [26]1988年12月の上場時の公募増資で自己資本比率を改善、「上場によって一人前になった」と舘豊夫会長

1989年に社長へ就いた中村裕一のもとで、三菱自動車はRVブームの波に乗った。中村は1991年度に自社のRVが7割近く伸びたとし、翌年もさらに3割の伸びを見込んでいた[27]。ヒット車の連続で最も救われたのは販売会社で、1991年度の販社全体の経常利益は610億円とトヨタ系に次ぐ2位、売上高経常利益率は3%に達した[28]。1991年にはクライスラーの持分を買い取り、合弁で設立したダイヤモンド・スター・モーターズを完全子会社としている[29]。もっとも軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位にとどまり、中村自身も国際競争に生き残るには規模が足りないと認めていた[30]

  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [27]1991年度に三菱のRVは70%弱伸び、1992年もさらに30%の伸びを見込むと中村裕一社長
    • [28]1991年度の三菱系販売会社全体の経常利益610億円はトヨタ系に次ぐ第2位、売上高経常利益率3%
    • [29]1991年 クライスラーの全持ち株を買い取りダイヤモンド・スター・モーターズを100%子会社化
    • [30]1991年度の軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位で、規模が足りないと中村裕一社長

しかし売上高2兆5000億円に対する利益は三菱重工や新日本製鉄の2分の1から3分の1という薄さで[31]、規模の拡大が収益に結びつかない構造は残ったままだった。拡大最優先の号令は、新車投入を遅らせるような報告が社内で握り潰される空気を生み[32]、1996年に表面化した米国子会社でのセクハラ問題、1997年の総会屋利益供与事件と、絶頂の裏で法令順守の基盤が崩れていった[33]

  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [31]売上高約2兆5000億円に対し利益は三菱重工業や新日本製鉄の2分の1から3分の1の水準
  • 日経ビジネス 2000年10月2日号
    • [32]シェア拡大の号令のもとで新車投入を遅らせる報告が葬られ、モノ言わぬ体質が組織に蔓延した
    • [33]1996年に米国でセクシュアル・ハラスメント問題、1997年に総会屋利益供与事件を起こした
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [23]1989年7月 クライスラーが保有する7500万株を売却し持株比率は21.8%から12.1%へ低下(設備資金確保が理由と説明)
    • [24]売却株は既存株主の金融機関25社が買い増して引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上昇
    • [25]舘豊夫会長は経営面での干渉はなく実質的なイコール・パートナーシップだったものが形の上でもそうなったと説明
    • [26]1988年12月の上場時の公募増資で自己資本比率を改善、「上場によって一人前になった」と舘豊夫会長
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [27]1991年度に三菱のRVは70%弱伸び、1992年もさらに30%の伸びを見込むと中村裕一社長
    • [28]1991年度の三菱系販売会社全体の経常利益610億円はトヨタ系に次ぐ第2位、売上高経常利益率3%
    • [29]1991年 クライスラーの全持ち株を買い取りダイヤモンド・スター・モーターズを100%子会社化
    • [30]1991年度の軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位で、規模が足りないと中村裕一社長
    • [31]売上高約2兆5000億円に対し利益は三菱重工業や新日本製鉄の2分の1から3分の1の水準
  • 日経ビジネス 2000年10月2日号
    • [32]シェア拡大の号令のもとで新車投入を遅らせる報告が葬られ、モノ言わぬ体質が組織に蔓延した
    • [33]1996年に米国でセクシュアル・ハラスメント問題、1997年に総会屋利益供与事件を起こした

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三菱自動車の沿革1970〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1960〜1997年三菱重工からの分離とクライスラー提携の制約三菱自動車工業の設立とクライスラーとの資本提携

1970年4月、三菱重工業が乗用車で劣勢の自動車部門を分離し、全額出資で三菱自動車工業を設立した経営判断。翌1971年に米クライスラーが株式15%を取得して資本参加し、日米資本の完成車メーカーとして再出発した。派遣役員は1人で、実質は重工の子会社としての船出であった。

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★★★
三菱重工業の自動車部門を譲受け営業開始★★
クライスラーが株式取得
岡崎工場を新設
東洋工機で四輪車生産を開始(パジェロ製造)
三菱商事と海外販売で協業
SUV「パジェロ」を発売
クライスラーと合弁基本契約を解消★★
クライスラーと合弁で米国現地生産法人を設立
東京証券取引所第1部に株式上場
ダイヤモンド・スター・モーターズ全株式を取得
米国法人でセクハラ民事訴訟★★
総会屋利益供与事件と中村院政の終焉

木村雄宗社長が1年余りで会長へ退き、社長候補に挙がったことのなかった河添克彦が上席役員を越えて社長に就き、中村裕一会長の院政の打破と社風改革に着手した経営判断。

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★★★
河添克彦氏が社長に就任
1998〜2015年ダイムラー提携と二度のリコール隠しによる経営危機ボルボと資本提携・協業推進の基本合意★★
ダイムラークライスラーとの資本提携

2000年3月、フルライン戦略の破綻と巨額の有利子負債で自力再建の限界に達した三菱自動車工業が、独ダイムラークライスラーに株式34%を握らせる資本提携を選んだ経営判断。前年に手を組んだばかりのスウェーデン・ボルボを商用車パートナーへ追いやり、乗用車の命運をダイムラーに委ねた。だが提携の直後にリコール隠しが露呈し、二度目の発覚でダイムラーは追加支援を拒み、三菱グループの資本注入で辛うじて命脈をつないだ。

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★★★
ダイムラー主導のターンアラウンド——エクロートによる聖域なき構造改革

2000年のリコール隠しで信頼を失った三菱自動車は、筆頭株主となった独ダイムラークライスラーからロルフ・エクロート氏を再建の指揮官として迎え入れた。2001年に着手した再建計画『ターンアラウンド』のもと、品質管理の刷新、工場閉鎖と人員削減、部品協力会の解散、三菱グループとの取引見直しまで踏み込む聖域なき構造改革を進めた経営判断。

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★★★
三菱ふそうを売却
リコール隠しが発覚(2回目)
ダイムラー撤退後の三菱グループ主導による自主再建

2004年4月に筆頭株主ダイムラークライスラーが増資不参加と支援打ち切りを表明したことを受け、三菱自動車は同年5月21日、岡崎工場の閉鎖と7600人の人員削減を柱とする自主再建計画を発表した。三菱重工業・三菱商事・東京三菱銀行の主要3社を中心に優先株増資で資金を確保し、外資に委ねてきた再建を国内資本の手に取り戻した経営判断。

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★★★
益子修ダイムラークライスラーと提携解消
益子修プジョー・シトロエンと合弁ピーシーエムエー・ルスをロシアに設立
益子修三菱商事と共同で広汽三菱汽車を設立
相川哲郎三菱商事と共同でインドネシア生産合弁を設立
相川哲郎米国生産からの撤退とイリノイ工場の生産終了

2015年7月、三菱自動車が米国内で唯一の組立拠点であるイリノイ州の工場について、2015年11月末をもって生産を終了し、米国での車両生産から撤退する方針を発表した経営判断。相川哲郎社長のもとで進めた『選択と集中』の一環であり、稼働率が5割台にとどまる過剰設備を一掃するものであった。

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★★★
2016〜2026年日産アライアンス参画と日産・ホンダとの3社統合協議相川哲郎燃費データ不正の発覚と日産傘下入り

2016年4月、日産と共同開発した軽自動車の燃費データ不正が発覚した三菱自動車が、益子修会長兼CEOの判断で日産による34%出資を受け入れ、ルノー・日産アライアンスに編入された経営判断。自力での信頼回復と資金確保を断念し、会見の翌日にカルロス・ゴーン会長へ支援を求めたことが日産傘下入りの発端であった。

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★★★
加藤隆雄全方位の拡大から東南アジア集中へ——欧州縮小・パジェロ生産終了を伴うコロナ危機下の構造改革

2020年7月27日、三菱自動車が2022年度までの新中期経営計画『Small but Beautiful』を発表し、欧州での新車開発を凍結して事実上撤退へ向かう一方、得意とする東南アジアへ経営資源を集中する方針を打ち出した経営判断。岐阜県のパジェロ製造閉鎖と主力車パジェロの生産終了を伴い、加藤隆雄CEOが主導した。

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★★★
加藤隆雄最終赤字に転落★★
加藤隆雄車両生産事業から撤退★★
加藤隆雄日産・ホンダ・三菱自動車の経営統合を発表
出典・参考
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
  • 有価証券報告書
  • 日本産業史 第3巻 機械・輸送機「自動車-国際化の幕開け」
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
  • 日経ビジネス 2000年10月2日号

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